運命のひと 伊藤初代(2)
カフェ・エランのマダム
大塚源蔵一家の上京によって上京した初代は、子守として働いた。口入れ屋がいて、医者、弁護士、旅館、料理屋……子守を必要とする子がいると、そこに雇われ、その子が大きくなると、次の家の子守をしたという。
そうしたなかで、山田ますと知り合った。
山田ますは、岐阜市加納の出身で、郷里に姉がいた。1887(明治20)年生まれであるから、初代より19歳年上、ということになる。
吉原で娼妓をしていたが、初代と出合ったころは、すでに自由の身になっていたらしい。美貌で知られ、平出実もその美貌に惹かれて身請けしたのであろう。
しかし、心のやさしい、親切で義侠心にとむ気質のひとだった。
康成らと知り合った1919(大正8)年、初代は数え14歳であった。
カフェ・エランが繁盛したのは、この初代を目当てにした学生たちが多かったのも理由の一つであるが、マダムの山田ますの美貌に惹かれて訪れる年長の学生たちもいた。
平出実が出奔したあと、店には男手がなかった。また小学校にもろくろく行っていなかった山田ますは、帳付けに不安をもっていた。このため、二階に住み込んで、帳付けを見てくれる学生をもとめていた。
このとき、百瀬二郎から紹介されたのが、のちに「『南方の火』のころ」(東峰書房、1977・6・5)を書く椿八郎である。
椿は信州松本の生まれで、慶應義塾大学の医学部予科の学生であった。
椿によると、店はカフェとは名ばかり、むしろミルクホールのような感じで、テーブルが4、5脚とカウンターがあるばかり、簡素な雰囲気であったという。マダムと千代のほか、もう一人、20歳前後の女給がいた。
店ははじめ平出修の関係から文士がよく出入りし、「エラン」の名も、与謝野鉄幹がフランス語の「飛躍」という語からつけてくれたのだという。(与謝野晶子が名づけた、という証言もある。)
ところが一高3年生の川端たち4人グループが出入りしていたころ、彼らとは別に、マダムの山田ますを目当てに、毎晩やってくる東大法科3年生の客があった。福田澄男というひとで、卒業したら台湾銀行に就職することが決まっていた。
やがて福田の卒業のときがきて、ますは7歳年下の福田と結婚して台湾までついて行くことに決めた。しかし千代こと伊藤初代のことが気がかりである。
幸い郷里の岐阜で、姉が浄土宗の寺に嫁いでいて、夫婦のあいだに子がなかったところから、初代を養女にするということで、岐阜の寺にあずけたのだった。寺の名を西方寺(さいほうじ)という。
初代が岐阜の寺にいたのは、そういうわけであるが、康成は東大2年の夏休暇の終わり、上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜で途中下車してこの寺に初代を訪ね、自分にも親しく口をきいてくれたところから、初代に対する恋情が燃え上がり、東京に帰ってからの結婚宣言となったのである。
康成が1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて書いた「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)、「南方の火」(『新思潮』1923・7・20)、「非常」(『文藝春秋』1924・12・1)、「暴力団の一夜(のち改題されて「霰」)」(『太陽』1927・5・1)、など初代との愛を描いた作品は、康成自身、モデルの名を明かし、「これら4編に書いた通り」と証言しているように(「独影自命」2ノ6、2ノ7)、作中に登場する初代が多く「みち子」と呼ばれているので、ふつう「みち子もの」(時には「ちよ物」)と呼ばれている。命名者は、伊藤初代をはじめて広く世に知らしめた川嶋至である。
「みち子もの」は、「掌(たなごころ)の小説」にも少なからずある。
これらの作品には、康成の一途に思いこんだ恋情と、それがあっけなく裏切られた経緯、その後長く尾をひく恋情が、フィクションをほとんど交えず、描かれている。
カフェ・エランのマダム
大塚源蔵一家の上京によって上京した初代は、子守として働いた。口入れ屋がいて、医者、弁護士、旅館、料理屋……子守を必要とする子がいると、そこに雇われ、その子が大きくなると、次の家の子守をしたという。
そうしたなかで、山田ますと知り合った。
山田ますは、岐阜市加納の出身で、郷里に姉がいた。1887(明治20)年生まれであるから、初代より19歳年上、ということになる。
吉原で娼妓をしていたが、初代と出合ったころは、すでに自由の身になっていたらしい。美貌で知られ、平出実もその美貌に惹かれて身請けしたのであろう。
しかし、心のやさしい、親切で義侠心にとむ気質のひとだった。
康成らと知り合った1919(大正8)年、初代は数え14歳であった。
カフェ・エランが繁盛したのは、この初代を目当てにした学生たちが多かったのも理由の一つであるが、マダムの山田ますの美貌に惹かれて訪れる年長の学生たちもいた。
平出実が出奔したあと、店には男手がなかった。また小学校にもろくろく行っていなかった山田ますは、帳付けに不安をもっていた。このため、二階に住み込んで、帳付けを見てくれる学生をもとめていた。
このとき、百瀬二郎から紹介されたのが、のちに「『南方の火』のころ」(東峰書房、1977・6・5)を書く椿八郎である。
椿は信州松本の生まれで、慶應義塾大学の医学部予科の学生であった。
椿によると、店はカフェとは名ばかり、むしろミルクホールのような感じで、テーブルが4、5脚とカウンターがあるばかり、簡素な雰囲気であったという。マダムと千代のほか、もう一人、20歳前後の女給がいた。
店ははじめ平出修の関係から文士がよく出入りし、「エラン」の名も、与謝野鉄幹がフランス語の「飛躍」という語からつけてくれたのだという。(与謝野晶子が名づけた、という証言もある。)
ところが一高3年生の川端たち4人グループが出入りしていたころ、彼らとは別に、マダムの山田ますを目当てに、毎晩やってくる東大法科3年生の客があった。福田澄男というひとで、卒業したら台湾銀行に就職することが決まっていた。
やがて福田の卒業のときがきて、ますは7歳年下の福田と結婚して台湾までついて行くことに決めた。しかし千代こと伊藤初代のことが気がかりである。
幸い郷里の岐阜で、姉が浄土宗の寺に嫁いでいて、夫婦のあいだに子がなかったところから、初代を養女にするということで、岐阜の寺にあずけたのだった。寺の名を西方寺(さいほうじ)という。
初代が岐阜の寺にいたのは、そういうわけであるが、康成は東大2年の夏休暇の終わり、上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜で途中下車してこの寺に初代を訪ね、自分にも親しく口をきいてくれたところから、初代に対する恋情が燃え上がり、東京に帰ってからの結婚宣言となったのである。
康成が1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて書いた「篝火(かがりび)」(『新小説』1924・3・1)、「南方の火」(『新思潮』1923・7・20)、「非常」(『文藝春秋』1924・12・1)、「暴力団の一夜(のち改題されて「霰」)」(『太陽』1927・5・1)、など初代との愛を描いた作品は、康成自身、モデルの名を明かし、「これら4編に書いた通り」と証言しているように(「独影自命」2ノ6、2ノ7)、作中に登場する初代が多く「みち子」と呼ばれているので、ふつう「みち子もの」(時には「ちよ物」)と呼ばれている。命名者は、伊藤初代をはじめて広く世に知らしめた川嶋至である。
「みち子もの」は、「掌(たなごころ)の小説」にも少なからずある。
これらの作品には、康成の一途に思いこんだ恋情と、それがあっけなく裏切られた経緯、その後長く尾をひく恋情が、フィクションをほとんど交えず、描かれている。
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