岩瀧山 往生院六萬寺のブログ

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民児協ひがしおおさか・広報誌35号「寺社シリーズ」へ寄稿

2014年11月13日 | 往生院六萬寺 縁起
東大阪市・民生委員・児童委員協議会連合会の広報誌
平成26年11月1日発行・第35号にお寺の紹介を寄稿させて頂きました。





 岩瀧山往生院六萬寺は、東大阪南東部、生駒山系の山麓に位置し、背後には修験道の開祖・役小角(えんのおずぬ)行者も滝行修行したとされる岩滝が多数点在してすることから「岩瀧山」との山号、六万寺町の町名の由来として、その昔にあった「六萬寺」の寺号を称しています。
 六世紀に建てられたとされている桜井寺の荒廃後、奈良時代において聖武天皇勅願・行基菩薩開基として創建されたのが六萬寺であり、その六萬寺の荒廃後、平安時代に念仏聖である安助上人が寺院を再建して、「往生院」となります。この地は、「四天王寺の西門から真東にあり、極楽浄土の東門に当院が当たる」ということから、極楽往生を念ずるにふさわしい場所であると考えられ、夕陽を見て、極楽往生を願う、「日想観」(じっそうかん)を修する場所として、多くの僧侶・信者がこの地を訪れて栄え、念仏が絶えることがなかったと伝わります。特に春秋彼岸の中日(春分の日・秋分の日)には、真西となる四天王寺の西門へ向けて真っ直ぐに陽が沈みます。
 その後、南北朝時代、後醍醐天皇に仕えた楠木正成公、その嫡男・正行(まさつら)公と縁の深くあった往生院は戦乱に巻き込まれることになります。特に幼少期において往生院にて武芸・学芸に励んでいた正行公は、足利尊氏が南朝方の討伐を目指して奈良吉野へと進軍する中、往生院に本陣を構え、その一軍である高師直(こうのもろなお)軍と四條縄手の合戦において激しい戦いを繰り広げ、戦死します。
正行公の胴塚がお墓として現在も境内において祀られています。
 四條縄手の合戦において、往生院も戦火に焼かれることとなり、その後、何度も荒廃と復興を繰り返す中で、江戸時代には関白・鷹司信房(たかつかさ・のぶふさ)公により本堂の再建が果たされます。
 しかし、明治時代の四條畷神社創立の際に、その候補地としての選定を逃れるべくに、往生院は根底から破壊されてしまうことになります。
 太平洋戦争後、川口立誡和尚(昭和六十一年示寂)、川口哲秀和尚(現住職)により本格的な再興、伽藍整備・墓苑整備がなされ、現在では、単立寺院として正法興隆、仏法護持、衆生済度の聖業の取り組みがなされています。
 境内には、昔の農耕具を供養するために建てられた「民具供養館」もあり、昔の道具、先人の智恵を学んでもらえるようにと整備しており、これまでに保育園・小学校・中学校と多くの社会見学も受け入れ、開館以来、延べ十万人以上の来館者を既に迎えています。現在、見学には事前予約が必要で、団体のみの受け付けとなっております。事前に必ずお問い合わせ下さい。
 その他、年間の行事や諸法要・供養など、更に色々と詳しいことにつきましては、公式ホームページをご参照下さいませ。アドレス「 http://oujyouin.com/ 」を入力か、「往生院 東大阪」で検索して下さい。

※楠木正行公の御墓所へのお参りはできるだけ事前にご連絡下さい。事前のご連絡のない場合、事情によってはご案内できないこともございますのでどうかご容赦下さいませ。

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