「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料
岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料
「 焼香の意義について 」
現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。
昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。
特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の御本尊へのお参りやお墓へのお参り、お仏壇での供養においても、焼香(線香)、または灯明のお供えがその主なものとなっています。
では、実際に「焼香」の供養とは何か、と聞かれても、あまり理解している方も少ないのではないかと思い、今回、私見も交えながら、いくつかその由来について考えてみたいと思います。
一、場と自分の清め
おおよそ、世間一般、仏教一般としての「焼香」の用例としては、まず「清め」ということのためとなります。どうして焼香で清めとするのかということは、仏教の始まりとなるお釈迦様の時代に、その由来が遡ることになります。
お釈迦様の時代のインドは、当然に日本よりか南に位置しているところ(緯度的に主に活動された王舎城付近は台湾のあたりとなりますでしょうか)にありますから、気候は高温多湿であり、そのような中での生活では、様々な「臭い」もある程度、きつくあったことが想像できます。
そのような中、説法会においては、大勢の人が集まって、お釈迦様の説法を聴くことになります。当然に、人もひしめき合い、色々な「臭い」が更にきつくなるわけです。わざわざ精舎からお出まし頂いて、尊い法をお説き下さるお釈迦様には大変に失礼なことになると考えるわけです。
そこで、その場のきつい「臭い」を和らげて、心地よい香りにて、お迎えし、説法を有り難く頂戴するということで、良い香りを焚き、その場を「清める」ものとして、ある意味で、尊い、高貴な方を迎える作法、習慣として「焼香」が始まったと言えるのであります。
そして、良い香りは、人の心を落ち着かせるという、ある種のアロマテラピー的な効果もあります。普段の煩雑な生活の中で、乱れてある心を落ち着かせて、有り難く尊い教えを頂く前に、煩悩を鎮める「心の清め」としても大切なことになったと考えることができます。
以上のように、神聖となる場の清めと、清らかで尊い教えを頂くための自分の清めとして、「焼香」が習慣化していく中で、定着した供養になったのだと思われるのであります。
また、やがては、香を焚き始めるだけで、お釈迦様がそれを神通力にてお知りになられて、お迎えも来ない早々の内にお出かけになられるようになります。そのことから、焼香すると、お釈迦様にご来迎頂けるということで、如来をお迎えする、現代では、如来の教えである仏法をお迎えするというために、法要の際、読経の前にて、まず焼香を行うということになったのだと考えられます。
ですから、通夜や葬儀、法事においては、まず導師は、三拝しての焼香から作法に入ることになるのでもあります。
二、香食(こうじき)
次に、香食のために行う場合を挙げることができます。
香食とは、そのままで、「香を食べる」ということですが、誰が食べるためかと言うと、亡くなられた方の、次の世界へと生まれるまでの間の存在となります。
人は、亡くなって、肉体の機能を失うと、次の輪廻、次の生まれへと向かう意識が肉体から離れることになります(しばらくは肉体に留まることもあります)。
それは、微細な輪廻を繋ぐ意識となりますが、その意識は普段の意識、肉体に左右されるような意識とは異なっており、死と次の生を繋ぐ意識と考えると良いかとは思います。少し、私たちの概念としてある魂、霊魂とは違うのですが、まあ、似たようなものではあります。
そして、その微細な輪廻を繋ぐ意識も、実は身体を持ちます。意成身、意生身と言われるものです。その身体も7日ごとに死を迎えるとされる不安定なものですが、肉体のように目に見えるものではなく、ある種、影のようなもので、普通、私たちが捉えられるようなものではありません。それは私たちが霊、幽霊と言っているものとは、やや異なるのではありますが、おおよそ似ているとは思います。
その意成身、意生身の状態において食べれるものが、霞(かすみ)、烟(けむり)、香となるのであります。その中で、やはり美味しいものが、良い香木を燃やしての香りである「焼香」となるのであります。
意成身、意生身は、非常に不安定な存在です。その意識も大抵の場合は混乱、混濁して不安定なものとなります。この意識下において、しっかりとその先への悟り、成仏へと向かう仏道が照らされてある功徳、智慧が、今世、過去世で集積されてあるならば、自ずと次の仏道、極楽などの浄土へと安定して向かうものとなりますが、そうでなければ、やはり、不安定な状態としての中有(ちゅうう)、中陰(ちゅういん)となるのであります。
この中有・中陰の状態は、どんなに長くても49日間が最長となります。早ければ、死後すぐにでも次の往生へと向かう場合も、もちろんあります。この中有・中陰においての意成身、意生身の意識・心を安定させて、次の往生へと向けて、落ち着いて向かって頂くために、その餞として召し上がってもらうために行うのが、特に逮夜・通夜での焼香となるのであります。
もちろん、実際に歩いたり、走ったりして、次の世界、浄土へと行くわけではありませんが、お腹が減っては、集中もできず、やる気も、元気も無くなるのは、私たち生身の人間も、意成身、意生身も同じことであります。元気に次へと向かって行って頂くために、そして、清めの時と同じように、アロマテラピー的に心を落ち着けて、これから通夜、葬儀と仏の教えを聴いて、仏弟子となりて、仏道をしっかり歩めていけるように調えて頂くためにも、香を薫じるということになるのであります。通夜・葬儀における「焼香」の意義は、場の清め、自分の清めと共に、香食の意味合いも大切になるということであります。
近年、一般の方は、葬儀会館の備え付けの抹香で焼香することがほとんどとなっていますが、会館によっては、大量に消費するため、安価であったり、化学配合の多い抹香を使用している場合もあることは否めません。
故人への香食、餞別のためとして、個々人で、良い香りのする香木を持参して、焼香するのも良いのではないかと存じます。ある方は、故人が大変に愛でていた木の皮を、焼香にてお供えしたということも。きっと、さぞかし故人は喜ばれたのではないかと存じます。
このように焼香には、香食としてのお供えのあり方があるということも知って頂ければと思います。
三、雲程(うんてい)
さて、次に、焼香における大切な意味合いとして、「雲程」という考え方もあります。
雲程とは、空の一番高いところにある、青く清らかな雲、青雲を「悟り」と例えて、そこへと至る雲の道のりという言葉となります。
雲は、霞、烟と同じようなものとなります。つまり、亡くなった方を悟り、浄土へと送り、導く雲のお供えということであります。立ち上る焼香の烟が、瞬く間に悟り、浄土へと至る雲となるようにとして、清らかな真心の気持ちにてお供えするわけです。
葬儀の際における秉炬(ひんこ)佛事の前に、「山頭念誦(さんとうねんじゅ)」を読みますが、その最後の一節には、「茶、三奠(てん)を傾(かたむ)け、香、一炉に熱※(た)いて、雲程に送り奉りて、聖衆(せいしゅ)を和南(わなん)す」とあります。(※ 熱は、草かんむりがつく)
お茶を三点献じて、香を焚く、というのは、亡くなった方へ惜別の真心を表す場合と、お迎えの聖衆、つまり、来迎の如来、菩薩方へと献じるという場合の二通りが考えられますが、そのあとに「雲程に送り奉りて」とあるように、雲程へと送られる故人を送るのは、導師、喪家、会葬者となるため、亡くなった方へと向けて、お茶と香をお供えするというのが正解となるのではないかと考えます。
ちなみに、お茶を三杯献じるというのは、相手に真心の誠意を示すという意味があり、その昔に、近江・長浜で鷹狩をしていた豊臣秀吉が、休憩の際に寄った寺にて、お茶を所望した際、後の石田三成となる小姓が、一杯目に大きな茶碗にぬるま湯の茶を、二杯目には、ややそれよりも小さな茶碗に少し熱い湯の茶を、そして三杯目には、更に小さな茶碗に熱い湯の茶を出し、そのことに感心した秀吉が、その小姓を召し抱えたというエピソードがあります。石田三成はおそらく、この三杯のことを仏教の故事で学んでいたのであろうと思われるのであります。
そして、香の烟に乗って、雲程(悟り・浄土)へと至れるようにとして、「香、一炉に熱いて」は、私たちが真心、誠意にて故人を送り出すための焼香と考えることができるわけであります。
ここで、最後の「和南(わなん)す」とは、如来・菩薩方を、恭(うやうや)しく称名(念仏)して、敬礼(きょうらい)する、という意味となります。つまり、故人の悟り・浄土への導きを深くお願い申し上げるということであります。
この場面を考えると、つまり、ご来迎で、故人をお迎えに来て下さった如来、菩薩方のお姿が想像できるわけです。ご来迎で乗って来られるのは、もちろん、「雲」となります。つまり、「香、一炉に熱いて、雲程に送り奉りて」とは、故人を浄土へと送り出す「雲」を、まさに私たちの焼香の烟にてお作り申し上げて、故人を送り出すということを示すわけでもあります。
以上のように、「焼香」にはおおよそ三つの大きな意義があると考えることができるのであります。今後の焼香の際の参考になさって頂ければと存じます。合掌
岩瀧山 往生院六萬寺 令和5年8月・お盆施餓鬼法要 配布資料
「 焼香の意義について 」
現代における仏教の供養、祭祀儀礼において、実際に自らの行為として行うものとなると、その一番の代表として、「焼香」を挙げることができます。
昔は、共に読経をしたり、お遍路のような講巡り、写経の納経等、後生や故人・先祖への追善のためとして、実際に、様々な仏事、供養、功徳に取り組むことが多くあったものの、今では、そのほとんどが成されることが少なくなりつつあり、焼香(線香)のお供えが、主となって残っているのが現実的なあり方となっています。
特に、葬儀においては、喪家、会葬者共に実際に、自らの行為として具体的に行う主な供養も、焼香となっている次第であります。また、寺院の御本尊へのお参りやお墓へのお参り、お仏壇での供養においても、焼香(線香)、または灯明のお供えがその主なものとなっています。
では、実際に「焼香」の供養とは何か、と聞かれても、あまり理解している方も少ないのではないかと思い、今回、私見も交えながら、いくつかその由来について考えてみたいと思います。
一、場と自分の清め
おおよそ、世間一般、仏教一般としての「焼香」の用例としては、まず「清め」ということのためとなります。どうして焼香で清めとするのかということは、仏教の始まりとなるお釈迦様の時代に、その由来が遡ることになります。
お釈迦様の時代のインドは、当然に日本よりか南に位置しているところ(緯度的に主に活動された王舎城付近は台湾のあたりとなりますでしょうか)にありますから、気候は高温多湿であり、そのような中での生活では、様々な「臭い」もある程度、きつくあったことが想像できます。
そのような中、説法会においては、大勢の人が集まって、お釈迦様の説法を聴くことになります。当然に、人もひしめき合い、色々な「臭い」が更にきつくなるわけです。わざわざ精舎からお出まし頂いて、尊い法をお説き下さるお釈迦様には大変に失礼なことになると考えるわけです。
そこで、その場のきつい「臭い」を和らげて、心地よい香りにて、お迎えし、説法を有り難く頂戴するということで、良い香りを焚き、その場を「清める」ものとして、ある意味で、尊い、高貴な方を迎える作法、習慣として「焼香」が始まったと言えるのであります。
そして、良い香りは、人の心を落ち着かせるという、ある種のアロマテラピー的な効果もあります。普段の煩雑な生活の中で、乱れてある心を落ち着かせて、有り難く尊い教えを頂く前に、煩悩を鎮める「心の清め」としても大切なことになったと考えることができます。
以上のように、神聖となる場の清めと、清らかで尊い教えを頂くための自分の清めとして、「焼香」が習慣化していく中で、定着した供養になったのだと思われるのであります。
また、やがては、香を焚き始めるだけで、お釈迦様がそれを神通力にてお知りになられて、お迎えも来ない早々の内にお出かけになられるようになります。そのことから、焼香すると、お釈迦様にご来迎頂けるということで、如来をお迎えする、現代では、如来の教えである仏法をお迎えするというために、法要の際、読経の前にて、まず焼香を行うということになったのだと考えられます。
ですから、通夜や葬儀、法事においては、まず導師は、三拝しての焼香から作法に入ることになるのでもあります。
二、香食(こうじき)
次に、香食のために行う場合を挙げることができます。
香食とは、そのままで、「香を食べる」ということですが、誰が食べるためかと言うと、亡くなられた方の、次の世界へと生まれるまでの間の存在となります。
人は、亡くなって、肉体の機能を失うと、次の輪廻、次の生まれへと向かう意識が肉体から離れることになります(しばらくは肉体に留まることもあります)。
それは、微細な輪廻を繋ぐ意識となりますが、その意識は普段の意識、肉体に左右されるような意識とは異なっており、死と次の生を繋ぐ意識と考えると良いかとは思います。少し、私たちの概念としてある魂、霊魂とは違うのですが、まあ、似たようなものではあります。
そして、その微細な輪廻を繋ぐ意識も、実は身体を持ちます。意成身、意生身と言われるものです。その身体も7日ごとに死を迎えるとされる不安定なものですが、肉体のように目に見えるものではなく、ある種、影のようなもので、普通、私たちが捉えられるようなものではありません。それは私たちが霊、幽霊と言っているものとは、やや異なるのではありますが、おおよそ似ているとは思います。
その意成身、意生身の状態において食べれるものが、霞(かすみ)、烟(けむり)、香となるのであります。その中で、やはり美味しいものが、良い香木を燃やしての香りである「焼香」となるのであります。
意成身、意生身は、非常に不安定な存在です。その意識も大抵の場合は混乱、混濁して不安定なものとなります。この意識下において、しっかりとその先への悟り、成仏へと向かう仏道が照らされてある功徳、智慧が、今世、過去世で集積されてあるならば、自ずと次の仏道、極楽などの浄土へと安定して向かうものとなりますが、そうでなければ、やはり、不安定な状態としての中有(ちゅうう)、中陰(ちゅういん)となるのであります。
この中有・中陰の状態は、どんなに長くても49日間が最長となります。早ければ、死後すぐにでも次の往生へと向かう場合も、もちろんあります。この中有・中陰においての意成身、意生身の意識・心を安定させて、次の往生へと向けて、落ち着いて向かって頂くために、その餞として召し上がってもらうために行うのが、特に逮夜・通夜での焼香となるのであります。
もちろん、実際に歩いたり、走ったりして、次の世界、浄土へと行くわけではありませんが、お腹が減っては、集中もできず、やる気も、元気も無くなるのは、私たち生身の人間も、意成身、意生身も同じことであります。元気に次へと向かって行って頂くために、そして、清めの時と同じように、アロマテラピー的に心を落ち着けて、これから通夜、葬儀と仏の教えを聴いて、仏弟子となりて、仏道をしっかり歩めていけるように調えて頂くためにも、香を薫じるということになるのであります。通夜・葬儀における「焼香」の意義は、場の清め、自分の清めと共に、香食の意味合いも大切になるということであります。
近年、一般の方は、葬儀会館の備え付けの抹香で焼香することがほとんどとなっていますが、会館によっては、大量に消費するため、安価であったり、化学配合の多い抹香を使用している場合もあることは否めません。
故人への香食、餞別のためとして、個々人で、良い香りのする香木を持参して、焼香するのも良いのではないかと存じます。ある方は、故人が大変に愛でていた木の皮を、焼香にてお供えしたということも。きっと、さぞかし故人は喜ばれたのではないかと存じます。
このように焼香には、香食としてのお供えのあり方があるということも知って頂ければと思います。
三、雲程(うんてい)
さて、次に、焼香における大切な意味合いとして、「雲程」という考え方もあります。
雲程とは、空の一番高いところにある、青く清らかな雲、青雲を「悟り」と例えて、そこへと至る雲の道のりという言葉となります。
雲は、霞、烟と同じようなものとなります。つまり、亡くなった方を悟り、浄土へと送り、導く雲のお供えということであります。立ち上る焼香の烟が、瞬く間に悟り、浄土へと至る雲となるようにとして、清らかな真心の気持ちにてお供えするわけです。
葬儀の際における秉炬(ひんこ)佛事の前に、「山頭念誦(さんとうねんじゅ)」を読みますが、その最後の一節には、「茶、三奠(てん)を傾(かたむ)け、香、一炉に熱※(た)いて、雲程に送り奉りて、聖衆(せいしゅ)を和南(わなん)す」とあります。(※ 熱は、草かんむりがつく)
お茶を三点献じて、香を焚く、というのは、亡くなった方へ惜別の真心を表す場合と、お迎えの聖衆、つまり、来迎の如来、菩薩方へと献じるという場合の二通りが考えられますが、そのあとに「雲程に送り奉りて」とあるように、雲程へと送られる故人を送るのは、導師、喪家、会葬者となるため、亡くなった方へと向けて、お茶と香をお供えするというのが正解となるのではないかと考えます。
ちなみに、お茶を三杯献じるというのは、相手に真心の誠意を示すという意味があり、その昔に、近江・長浜で鷹狩をしていた豊臣秀吉が、休憩の際に寄った寺にて、お茶を所望した際、後の石田三成となる小姓が、一杯目に大きな茶碗にぬるま湯の茶を、二杯目には、ややそれよりも小さな茶碗に少し熱い湯の茶を、そして三杯目には、更に小さな茶碗に熱い湯の茶を出し、そのことに感心した秀吉が、その小姓を召し抱えたというエピソードがあります。石田三成はおそらく、この三杯のことを仏教の故事で学んでいたのであろうと思われるのであります。
そして、香の烟に乗って、雲程(悟り・浄土)へと至れるようにとして、「香、一炉に熱いて」は、私たちが真心、誠意にて故人を送り出すための焼香と考えることができるわけであります。
ここで、最後の「和南(わなん)す」とは、如来・菩薩方を、恭(うやうや)しく称名(念仏)して、敬礼(きょうらい)する、という意味となります。つまり、故人の悟り・浄土への導きを深くお願い申し上げるということであります。
この場面を考えると、つまり、ご来迎で、故人をお迎えに来て下さった如来、菩薩方のお姿が想像できるわけです。ご来迎で乗って来られるのは、もちろん、「雲」となります。つまり、「香、一炉に熱いて、雲程に送り奉りて」とは、故人を浄土へと送り出す「雲」を、まさに私たちの焼香の烟にてお作り申し上げて、故人を送り出すということを示すわけでもあります。
以上のように、「焼香」にはおおよそ三つの大きな意義があると考えることができるのであります。今後の焼香の際の参考になさって頂ければと存じます。合掌