それにしても、梶井は日本近代文学史の中でかなり高名である。その理由は、当然ながら作品自体の魅力に加え、夭折したことにあろう。
だが、梶井は当時の二大潮流(プロレタリアと新感覚派)のいずれにも属さない特異な俊英であった。それを死後に文壇が見いだしたという内輪からの高い評価が見過ごせないようだ。
「対症療法的な芸術ではなく、生活への芸術を求めている」と梶井は語ったという。
唯一の商業誌への掲載作品である『のんきな患者』。タイトルとは裏腹に、のんきなのは母親も含んだ患者以外の市井の人々である。滑稽さの中に(患者との落差に)かえって悲しみが滲みでてしまう作品だ。
結核という病ゆえに「生活への芸術」が閉ざされたことは、梶井にとっては不運以外のなにものでもない。もちろん後年のわれわれ読者にとっても同様だ。
しかしながら、生き延びていたらいかなる梶井ワールドが産み出されたろうと夢想することにもつながる。まさしく、のんきな患者よろしくであるのだが、、。
「ひとつ増えふたつ増えては核をなし送り込まるる(療養所)サナトリウムかな(新作)」
かつての国民病であった結核。父も入院治療をしていたことを思い出した。母とお見舞いに行った。京都警察病院松尾分院、、今はもう無いようだ。
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