現在入手できる文庫4冊の27作品と解説、年表まで丹念に読む。全集ものの月報まで図書館で借りて来て精読した。
梶井基次郎は探求する人だった。小説とはやや距離を置く散文詩の作品を多く残した作家。
ある意味、詩人であるから事物を具に観察して感じるままに表現することは長けていよう。
ただ、その動機は、単なる興味や真理への到達ではない。宿痾がもたらす不安である。
ひとつ腑に落ちても新たな不安が立ち上がる。視点がさらに深みに分けいったり、近傍にずれて拡がっていく。それは探求。いやむしろ、探索がふさわしい。
決して明るくはないが、陰鬱な印象はない。病を抱きつつも能動的な探索の姿勢が、読者をして、そんな印象を消去せしめているのではあるまいか。(病に対する恨みつらみの表現がほとんど見られないことも手伝っているだろう。)
『檸檬』と同じくらい魅力的な作品もあった。例えば『ある心の風景』、『冬の日』など。『檸檬』は処女作であることや(明度が低い印象の作品が多い中で)レモンの色彩が際立つている。だから、他の作品が省みられないのだろう。
また、小説めいた作品でも、『Kの昇天』や『ある崖上の感情』などは、映像化したら面白そうだ。
ところで、梶井は斎藤茂吉を知っていただろうか。茂吉は20歳ほど年上だが同時代人である。梶井の事物へのアプローチからつい考えてしまう。そう、『実相観入』論である。より研ぎ澄まされた表現になったのではないかと素人は考えたりする。
だが、梶井には茂吉のような自然と自己の一体化をめざす意志はなかったようだと思い返す。「心境小説」を志向していたとの評論もある。(年表によっても俳句、短歌など短詩系への関心はさして、高くなかったようだ。)
(その2へつづく)
梶井基次郎は探求する人だった。小説とはやや距離を置く散文詩の作品を多く残した作家。
ある意味、詩人であるから事物を具に観察して感じるままに表現することは長けていよう。
ただ、その動機は、単なる興味や真理への到達ではない。宿痾がもたらす不安である。
ひとつ腑に落ちても新たな不安が立ち上がる。視点がさらに深みに分けいったり、近傍にずれて拡がっていく。それは探求。いやむしろ、探索がふさわしい。
決して明るくはないが、陰鬱な印象はない。病を抱きつつも能動的な探索の姿勢が、読者をして、そんな印象を消去せしめているのではあるまいか。(病に対する恨みつらみの表現がほとんど見られないことも手伝っているだろう。)
『檸檬』と同じくらい魅力的な作品もあった。例えば『ある心の風景』、『冬の日』など。『檸檬』は処女作であることや(明度が低い印象の作品が多い中で)レモンの色彩が際立つている。だから、他の作品が省みられないのだろう。
また、小説めいた作品でも、『Kの昇天』や『ある崖上の感情』などは、映像化したら面白そうだ。
ところで、梶井は斎藤茂吉を知っていただろうか。茂吉は20歳ほど年上だが同時代人である。梶井の事物へのアプローチからつい考えてしまう。そう、『実相観入』論である。より研ぎ澄まされた表現になったのではないかと素人は考えたりする。
だが、梶井には茂吉のような自然と自己の一体化をめざす意志はなかったようだと思い返す。「心境小説」を志向していたとの評論もある。(年表によっても俳句、短歌など短詩系への関心はさして、高くなかったようだ。)
(その2へつづく)
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