続・くさかんむりは六画

つらつらと記すモノなり

時代は変わる

2016-03-21 20:52:50 | 音楽
"BABYMETAL - KARATE (OFFICIAL)" を YouTube で見る


空手も変わったな(笑)
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新作カードゲーム案固まる!

2016-03-14 15:34:36 | ボドゲ
しばらく放っておいたボドゲ作りですが、にゃんとなく進めていましたよ~

前に考案した肉球船団をベースに、前回プレイした「ザ・ゲーム」で得た発想を取り入れた『協力ゲーム』ですよん

今夜あたり、無地カードに色々書いてテストプレイ用セットを作ってみようと思います♪
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映画感想文・酔拳(昔の)

2016-03-13 23:01:54 | 映画
きちんと頭からお尻までは見たことなかったのですね。見終えて分かったわ。

かなーり昔の映画だからJCも若いしヤンチャくさいし、カンフーアクションはワイヤーアクション多用時代のと較べると地味だし、人物の感情表現的なBGMが大袈裟すぎてひいちゃう感じもある・・・

けんども、古き良き時代のカンフーアクションコメディみたいな空気感、好きだわ~(* ̄∇ ̄*)
酔拳の師匠役のオヂサマとか、ヤラレ役の出っ歯君や小デブちゃん、情けない師範代なんかも良い味だしてますわ☆

ちょっと不思議だった点が2つ

ウォンフェイフォン(JC)の叔母様と従妹さんはストーリー上必要だったのかしらん?もしかしてカメオ的な扱いだったのかな?
ちなみに、あの叔母様が「蛇鶴八拳」に出てくる鶴拳のお師匠さんに似てる気がしたのは気のせいかのぅ?  


劇中でウォンフェイフォン(JC)の活躍シーンで流れる音楽、「ワンチャイシリーズ」の主題歌と同じメロディーだよね?
もしかしてあの曲自体、昔からウォンフェイフォン専用メロディーなのか?それとも「酔拳」で楽曲の評判が良かったから「ワンチャイ」でも使われたのか?
詳しい人がいたら教えて欲しいもんですな
※チラリとエラムを見るワッチ(。-∀-)

いわゆる洋画と違って、エンディングがさらっとしてるトコなんかは日本の落とし咄に似てる・・・かな・・・(自信無し)
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映画感想文 シックスセンス

2016-03-12 23:42:04 | 映画
恥ずかしながら今さらながら、初めて見ましたよ

ネタバレ状態の初見でも充分面白かった!
吹替えで見たのでオスメント君さんが上手いのか声優さんが上手いのか、ワッチには判断しかねるけんども、表情とか涙目ウルウル感とかは凄いと思ったですよ

ストーリーについては、よくこんなサゲ考えたよね~
「ビレッジ」は映画館で見たとき、シックスセンスの方が評判良くてイマイチ評価が高くなかったのが理由分からなかったけど、今なら分かるわ!
シックスセンスの方が数段面白いし、おしまいの方で母子が車中で泣きながら抱擁するシーンなんかワッチも泣けてきただすよ

評判になった映画にはそれなりにワケがありますね、勉強になりやんした☆
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年々忘れてゆくから、刻めるだけ刻もう

2016-03-11 21:53:58 | 岩手ネタ
HCG161 花は咲く 臼澤みさき (2016)160308 vL HD



3月11日、仕事。同僚と二人
昼過ぎに地震。直後にAちゃんから電話。その後は夜中まで電話つながらず。メールは何時ころにつながったんだろ?もう思い出せないな。あの頃はガラケーで電池もスマホよりは保った気がする。

同僚を家に帰す。念のため通常の営業時間まで店にいるけど停電で仕事はできず。
斜め向かいの紳士服店のガラスが半壊。すぐ近くの消防署の職員さんが窓ガラスで通行人に二次被害がないように処置するあいだ、歩道の通行人の迂回指示の手伝いをする。
一段落して帰宅。国道4号線と107号線の大きな交差点以外は信号がつかなかった。何となく運転手たちが空気を読み合いながら譲ったり走ったりして自分の知る範囲では交通事故はなかった。

帰宅。反射式ストーブつける。ポリタンクの灯油にはまだ余裕があるので一安心。もちろん家の電気はつかない。水道は止まらなかった気がする。プロパンガスは翌日以降使えたように覚えてる。北上市内のなかでも比較的インフラ被害の小さい区域だった。

当時のさらに数年前に展示会で何の気なく買った「手回しのライト&ラジオ」をはじめて使う。ラジオでは山田町や大船渡市で火災がおきているらしいという情報と、とにかくみんなガンバレ、というような内容だった気がする。津波被害や原発事故のことは当日はよく分からなかった。

同じアパートの人が車でカーナビのワンセグTVでニュースを見ていて泣いていたのを思い出す。全国的な大きなニュースになっていることなんてそのときは良く分かってなかった。

夜に母親と電話がつながったり、友人たちとメールや電話でやりとりできて、あちこちで大きく揺れたことを知った。あの日は余震が続くし、変に興奮してなかなか寝られなかった。

内陸の自分でもこんな感じだったのだから、沿岸の被災地の人たちは当時どんな気持ちだっただろう?当時を振り返ってもところどころ思い出せなかったり、そのときの感情がよみがえらない人もいた。もしかしたら思い出さないことで心のバランスを保っているのかもしれない。

今、震災から5年経った。
「もう被災者じゃない」とか「いつまで助ければいいんだ」というようなことを言う人も出てきた。これは震災1年後くらいからすでにいたような気もする。

考えや立場は人それぞれ。自分と異なる考えの人たちをむやみに批判したり非難したりするつもりはないし、権利もない。

ただ、あの夜の、内容がきちんと蘇らない特別編集ラジオ番組のことを思い出すと、自分はやれる範囲のことだけでも続けてゆきたいと考える。

東日本大震災だけが天災じゃないし、戦争被害・コミュニティーの暴力・家庭内の暴力、いろんなところに被害に遭っている人が数多くいる。

そのことを心の中でちょっとだけでも思い続けて生きてゆくのが、あの地震を体験して生き延びた自分の「宿題」のような気がする。
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