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すぐに浮かんできたのは、昨日観た「ポー川のひかり」
観客の層もなんとなく違っていた。
両隣に位置した人、二人とも席に着くと本を読み始めていたし、友達と見る映画より、一人で見に来てる人が目立つ。
それと、映画が終わると同時にすっきりしない後味、これは余韻といえばそうともいえる。
フランス映画の「夏時間の庭」にもそういうすっきりしないものが残った。
ハッピーエンドに慣れ親しんでいるためか、すっきりしない映画が気になる。
最近はまさに消耗品としての映画?が多い。
娯楽に哲学は要らない。
監督が渾身の力を注いで作る映画を約2時間弱あまりで理解するのは無理だ。
余韻が残って当然である。
ボローニャ大学の図書館の宝とされる膨大な数の古文書が床に太い釘で打ち付けられている、磔刑場面からのスタートである。
書物だけで生きてきた主人公が、反旗を翻し、立ち向かったのは書物である。
そして彼を救ったのは、無垢で教養もなく純朴な人びととの交流であり、大いなる自然であったように思える。
膨大な書物を読み、教養ある哲学教授と見なされてる彼と謙虚な一警察署長との取調べの中にとても心に残る言葉がある。
紙を相手に生きるより一杯のコーヒーを友人と共に飲む方が喜びに満ちていると。
しかし、この映画での心に残る一言を究極のテーマにはしたくない。
そう私が思うのは、紙だけを相手にしてきた哲学者ではないからだと思う。
監督のエルマンノ・オルミはこの作品を、長編最後の作品にすると語っている。
79歳という年齢での作品である。
遺言とするからには我々に対する絶大なるメッセージを意識した作品であろう。
自由の身となった教授は、皆が自分を待っているポー川べりの棲家に戻らなかった。
我々凡人は書物の中に現実を重ねて共感という喜びを見出すと共に光りを感じる。
哲学教授は、人びととの交流に書物の知を重ね、知識が彼の魂に沿う動きをしたことを初めて体感する。
そこで自分の生き方の再生を見つけたのではないかと私は思う。
教授がさいごに返る所はポー川ではなかったが、ポー川は彼に大きな光りを与えた。
オルミ監督が、眠りを覚ますほどの何かを伝えたい、それを私は今、模索しようとしている。
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