チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「デカメロン第3日第1話のモンモンとした尼僧たち/ジョヴァンニ・ボッカッチョ生誕700年」

2013年12月31日 21時28分52秒 | 事実は小説より日記なりや?
29日に元F1チャンピオンのミヒャエル・シューマッハーが
スキー中に転倒して岩に頭を叩きつけて
意識不明の重体が続いてるらしい。
1月3日に息を引き取って
「生没同日倶楽部」の殿堂入りをするつもりなのかもしれない。

滝川クリステル女史は、2020年五輪の東京招致プレゼンで、
「もし東京で5千万円を政治資金として借りて
政治資金収支報告書に記載しなかったら、
ほぼ確実に訴追されます」
とは言わなかったが、
「もし皆様が東京で何かを失くしたら、
それはほぼ確実に戻ってきます」
と言いはなった。"ほぼ確実に"とは盛った数字だが、
届け出られた遺失金のうちの3分の1の金額が
実際に落とし主に戻ってるらしい。
落語「芝浜」にみられるように、
唯一神などいなくても正直でまっとうに生きるのが
普通の日本人にはごくあたりまえのことである。
そんな日本人を悪者にして貶める民族が
近隣にも二、三あったりする。ともあれ、
2013年は我が国にとって、いわゆるアベノミクスで
円安輸出易増加、株価上昇と景気が回復した。そのいっぽうで、
物価(ブッカ)上昇が懸念されてる。
bucca(ブッカ)というラテン語は「頬」を表す。それが
bocca(ボッカ)に転じて、頬で挟まれた穴、つまり、
「口」を意味するようになった。

今年は、
14世紀イタリアの物書き、
Giovanni Boccaccio(ジョヴァンニ・ボッカッチョ、1313年-1375)の
生誕700年にあたる年でもあった。誕生日は不詳であるが、
6月もしくは7月だと推定されてるが、
福澤諭吉と昨年亡くなった18世中村勘三郎の顔を
瞬時には判別できない拙脳なる私は知る由もない。
そのボッカッチョが1348年から1351年にかけて書いたとされてるのが、
"Decameron(デカメロン)"
である。
decaは「10」であり、meronは古代ギリシャ語の
"Hemera(ヘーメラー)=ギリシャ神話の「昼の女神」→日→一日"
がもとの語である。併せて、
デカメロンとは「十日(物語)」というほどの意味である。
けっして「デカいメロン(melon)=巨乳物語」ではない。それはさておき、
1348年という年はペストが大流行した年だった。ために、
当時9万人だったフィレンツェの人口は3分の1の3万人に減ってしまった、
と言われてる。この物語は、
ペスト禍を避けるためにフィレンツェ郊外の館に避難した10人がそれぞれ、
1日1話を10日間にわたって語っていく
(計100話。ただし、それぞれの日に「前書き」と「結び」が置かれる)、
という体で書かれてる。

中学生のとき、
イタリアの奇人監督、
Pier Paolo Pasolini(ピエール・パーオロ・パゾリーニ、1922-1975)
が制作した"Il Decameron(イル・デカメロン)"が日本でも公開された。
米国の映画と違って、一般人みたいな風体の女性が
ヌードになってセックス・スィーンを演じてるのが、
当時性体験を知ったばかりの私にはインパクトが強かった。とくに、
映画の中の第2話に採られてた「マゼットと尼僧」は、
頭巾だけの裸体の尼僧がセックスしてる姿が妙に興奮した。

この話は原作では第3日の第1話で、
フィローストラトが語る話である。
ランポレッキオ村のマゼットという若者が、
若い尼僧ばかりで禁欲生活に日々
悶々としてる尼僧院の庭師として雇われる。
もちろん、尼僧たちとセックスがしたいためである。が、
若くて警戒されるのではないかと思い一計を案じる。
口が利けないという体で院長を安心させる。
そうしてマゼットはまんまと若い尼僧たちと
セックス三昧の生活を送ることができた。が、
マゼットとのエッチを知って自分もという尼僧が増える。
そうなると若いマゼットの絶倫さもおっつかない。
マゼットは院長に口が利けないのは尼僧とセックスするための
方便だったと告白した。ところが、
そんなマゼットを解雇してその醜聞を口外されては
尼僧院の名に傷がつくと懸念した。
口が利けなかった庭師が我々尼僧院の功徳と
神のご加護のおかげでしゃべれるようになったと繕い、
ちょうど管理人が死んで空いてたポストに据えて、
"お勤め"を半減させてやった。
その"お勤め"によって(カトリックは避妊は否認されてる)、
あってはいけない妊娠・出産がいくつか生じてしまった。が、
院内だけの内輪のことなので外に漏れることはなかった。
マゼットはそうして年取るまで尼僧院の
セックスやりたい放題の管理人として勤めあげ、
充分な貯蓄もしてめでたく故郷のランポレッキオ村に帰った。

"Nelle quali, come che esso assai monachin generasse,"
(ネッレ・クワーリ、コーメ・ケ・エッソ・アッサイ・モーナキン・ジェネラーッセ)
「(拙大意)ここで、彼はモナーキンをたくさん産ませた」

尼僧院長はイタリア語で"Madonna(マドンナ)"であるが、
修道女は"monaca(モーナカ)"である。
そのおなーかを孕ませて産まれるのは、
男児だったら"monachino(モナキーノ)"であり、
女児だったら"monachina(モナキーナ)"であるが、
それがassai(アッサイ=たくさん)なので、
男性形・女性形のそれぞれの複数形でなく男女とりまぜて、
語尾の性別をとっぱらって"monachin"と表されてる。

間もなーく(monarch)、新年になる。
monarch(支配する唯一の者=統治者)もmonkもmonaco公国も
mono-(単一の)という接頭辞がもととなった語である。
この接頭辞はまた、
men-(小さい。分離された)という接頭辞がおおもとである。
英語のmoonもそのmen-がもとであり、
月の運行が日や月など時間を測る「単位」とされたことによる。
ヴィーンのノイアースコンツァート(ニューイヤーコンサート)は近年、
ヨーハン2世の駄作だけでなく、ますます
ヨーセフの駄作を盛り込む風潮が強まってる。加えて、
ランナーやヘルメスベアガーなどの退屈な作品も毎年のように採りあげられる。
新年はさらに、
リヒャルト・シュトラウスもシュトラウス一家の仲間入り(※)である。
そのオペラ「カプリッチョ」の中の、いわゆる
"Mondscheinmusik(モントシャインムスィーク=月光の音楽)" が、
音楽センスのかけらもないバレンボイムによって振られるらしい。
曲自体は、シュトラウスの巧みなオーケストレイションによる効果も相まって
美しい。が、深い感動を呼び起こすというような類の曲ではない。
(その冒頭部分を、
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/strauss-r-mondscheinmusik
にアップしておきました)
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「虚栄の市と土瓶蒸しの季節/ウィリアム・メイクピース・サッカリー没後150年」

2013年12月24日 18時18分58秒 | 事実は小説より日記なりや?
この10年はあまりオペラは観にいかなくなったが、それでも
初台の東京オペラ・シティに出向いたおりには、たいてい、
旭鮨総本店で食事をとる。頭髪と稼ぎが薄いわりに、
そういったスノッビーの生活を送ってる私である。
ともあれ、そこで注文するコースの中に、
フグの土瓶蒸しが出てきたりする。だから、
松茸がさほど好きでない(味はともかく、あの臭いが不得意で)
私にとっては、土瓶蒸しは秋よりむしろ冬のものである。

本日は、現在の日本ではほとんど読まれないが、
ノヴェリストとなるべくして生まれたような名前の英国の小説家、
William Makepeace Thackeray
(ウィリアム・メイクピース・サッカリー、1811-1863)
の没後150年にあたる日である。
同人が日本で読まれないのは、その代表作、
"The Vanity Fair(ザ・ヴァニティ・フェア=虚栄の市)"
でさえ、反日貶日左翼岩波書店の読みづらいこと極まりない
文庫からしか和訳本が出てなかったこともあるかもしれない。
もうひとつに、
19世紀英国の社会や文化・風俗など、
現在の日本人が興味を持つはずもないことがある。
10世紀(平安期)の日本の貴族なら、
[スノッブれど、色に出でにけり。我が恋は、物や思ふと、人の問ふまで]
と、多少は関心を寄せたかもしれないが。
スペイン・ポルトガル、オランダ、フランス、ロシアなどを抑えて、
世界を支配したアングロサクソンの思想・風俗などを知覚するのに
もっとも近くにあるのが小説なのに、
それを読まないなどというのはもったいない話である。

世の中には1万発の銃弾を恵んでくだせぇ、
と言っといて、いざもらったら、
アニー、そんな要請トゥンしてないッソヨ、などと
恩知らずを通り越してふてぶてしい民族が現に存在してるらしい。
誇れるものなどなにもないくせに、虚勢だけは張るのだという。
乞食でも物を恵んでもらったら、
「ありがとうごぜぇます」
と頭をさげて礼を言う。
乞食にも劣る性根の、改善の余地がない醜いクズなんだそうである。

さて、
"The Vanity Fair(ザ・ヴァニティ・フェア=虚栄の市)"は、
全67章から成る長編である。このタイトルは、
John Bunyan(ジョン・バニヤン、1628-1688)の宗教的寓話、
"The Pilgrim's Progress"
(ザ・ピルグリム'ズ・プログレス=巡礼者の進歩。邦題=転路歴程)
に出てくる同名の町の名、
"The City of Vanity(ザ・スィティ・オヴ・ヴァニティ=虚栄の町)"
から採られた。
"City of Destruction(破壊の町)"のChristianという男が、
"The City of Vanity"を経て、
"The Celestial City(天国)"へと、
出世魚のごとくプログレスしてくお噺である。

サッカリーの小説は、上流階層への風刺だとされてる。それはともあれ、
Amelia Sedley(アミーリア・セドリ)嬢
Rebecca Sharp(レベッカ・シャープ)嬢
Rawdon Crawley(ロドン・クロリ)
William Dobbin(ウィリアム・ドビン)
という4人の女男を中心に展開されてる。

アミーリアは父親が成功した商人(稼業が「競取り」というわけではない)の
中産階級の娘、レベッカ(愛称はベッキー)は下層階級の娘である。
そんな二人が同じミス・ピンカートン'ズ・アカデミ(良妻養育寄宿女学校)
を終えるところから物語は始まる。
死んだ父親が絵の教師だったのと、母親がフランス人の踊り子だったことから
フランス語ができるベッキーは、それを生徒に教えるという交換条件で
その女学校に入れてもらえた、という設定である。そして、
その出自にふさわしいように、野心と上昇志向が強い、
金と権力を持つ男を踏み台にしてのし上がろうとする、
現在でもそこらへんにウジャウジャ湧いて出てくるタイプの女性である。いっぽう、
アミーリアは人格優れ、誰からも好かれる世間知らずのプチ・ブル娘である。が、
ドビンがいついかなるときも助けてやってることに
まったく気づかないドアホウ女でもある。

サッカリーが優れてたのは、
そうした対照的な女性像を作り上げながらも、
完全なステレオタイプの人格としなかったことである。
人間はただ善悪だけで分けれるものでもない。
清濁併せ持つことはいうまでもなく、もっと複合したものである。
アミーリアを終始慕いつづける男性にドビンという人物を充てた。
dobbinとは「農耕馬」を意味する語である。つまり、
人の言うがままに働き続ける労働家畜のように、
他者のために献身することを生きがいとする、
モテない男である。作者サッカリーや私のような
ブサイク野郎の分身である。が、

全67章のこの小説の終わり近くの第66章、
"Amantium Irae(アマンティウム・イーレ=思いあう者たちの諍い)"で、
ドビンは慕いつづけてきたアミーリアに対してこう言う。

"No, you are not worthy of the love which I have devoted to you.
I knew all along that the prize I had set my life on was not worth the winning;
that I was a fool, with fond fancies, too, bartering away my all of truth and ardour against your little feeble remnant of love.
I will bargain no more: I withdraw.
I find no fault with you.
You are very good-natured, and have done your best,
but you couldn't...you couldn't reach up to the height of the attachment which I bore you,
and which a loftier soul than yours might have been proud to share.
Good-bye, Amelia!
I have watched your struggle.
Let it end.
We are both weary of it."

(カタカナ発音は省略)
「(拙大意)いいえ、あなたを献身的に愛してきたけれど、そんな価値はなかった。
はじめから解ってたんですよ。私が人生を賭けたご褒美が手にするだけの価値もないということも、
妄信的な恋心で私の誠意のすべてとあなたのほんのわずかばかりの愛情の残飯を交換しようとしてた私が愚か者だというこ
とも。
もう二度とあなたに関わりません。手を引きます。
(でも)あなたを非難するつもりは毛頭ありません。
あなたは優しい人です。(いつでも)できうるかぎりのことはしてくれました。
でも、あなたに違ってた……違ってたんです。
あなたに抱いてました。あなたが私の理想の愛情の高みにまで昇ってくれてそれを共にすることを誇れる人だという期待を。
(でもそれは)あなたよりも高邁な精神の人にしかできないことだったんです。
さようなら、アミーリア!
あなたの人生をいままで私は見つめてきました。
(でも)お終いにしましょう。
お互いにもううんざりなんですから。

とはいえ、
結局、ドビンはアミーリアを伴侶とするのである。対して、
頭髪も稼ぎも薄く容姿醜悪なのに性根はvanity(虚栄心)の塊のような
スノビッシュな私にはエスツェットはもちろんのこと、
気にかけてくれる情け深い星humanityの姉さん明子のような女性もいない。
今年のクリスマス・イヴも、
[あしひきの遊女の金の引き出しも残高なしにひとり寝かもね]
独り寝の足先冷えて露の夜半読書にうつつ今サカリーなり、
という侘びしい時を過ごすのである。
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「記憶のホタテマン(紋切り遊びとマドレーヌ)/プルースト『失われた時を求めて』第1部出版から100年」

2013年11月14日 23時25分38秒 | 事実は小説より日記なりや?
本日は、フランスの作家、
Marcel Proust(マルセル・プルスト、1871-1922)の
代表的長編、
"A la recherche du temps perdu
(ア・ラ・ルシェルシュ・デュ・トン・ペルデュ)
(邦題「失われた時を求めて」"の第1篇
"Du Cote de Chez Swann Ⅰ
(デュ・コート・ドゥ・シェ・スワンヌ・プレミエ)
(邦題)「スワン家のほうへ」の第1部
"Combray(コンブレ)"が
自費出版されて100年の日にあたる。
その第1章終わり近くで、
少年期に夏を過ごした、パリから西南約100kmの町
コンブレでの光景がたちまち脳裏に現れる。ちなみに、
私の少年期は半ズボンにハイソックス、白のタートルネック・セーターに
紺ブレを着てた。
耳鼻科に通ってたときに持ち歩いてた
メンデルスゾーンの「スコットランド交響曲」の
全音のポケットスコアの表紙の匂いで当時の記憶が蘇る。
それはともあれ、「失われた時を求めて」の
書き手の記憶を呼び覚ましたものは、
petite(プチット) madeleine(マドレヌ)である。が、
何かにプチッとキレたわけではない。ところで私は、
稼ぎと頭髪は少ないが、やることはいっぱいあって
夜中もマドロメヌのである。

"Et tout d'un coup le souvenir m'est apparu."
(エ・トゥ・ダン・ク・ル・スヴニア・メ・タパリュ。)
「(拙大意)すると、突然、記憶が蘇った」

"ma tante Leonie m'offrait apres l'avoir trempe
dans son infusion de the ou de tilleul."
(マ・トント・レオニ・モフレ・アプレ・ラヴワル・トロンペ・
ドン・ソン・アンフュズィオン・ドゥ・テ・ウ・ドゥ・ティヨル。)
「(拙大意)レオニおばさまがご自分のカップの紅茶とか
西洋菩提樹葉茶とかに浸してから手渡してくれた(マドレーヌ)」
である。カトリックの世界ではマドレーヌ=ホタテ貝は、
キリストの12使徒の一、聖ヤコブのお印で、フランスでは
"coquille Saint-Jacques(コキ・サン=ジャキ=聖ジャック貝)"である。

日本では武田系源氏の佐竹氏の家紋
「五本骨扇に月丸」の扇を開いた要部分が
ホタテ貝の貝殻に似てるので、
ホタテ貝のことを「秋田貝」とも呼ぶ。
(佐竹氏は関ヶ原で家康に楯突いたので
常陸から出羽久保田(現、秋田)に国替えされた)
私の家は父方が諏訪氏、母方の男系が武田源氏であるが、
私が産まれてからもまだ存命だった父方の祖母は
武士の孫だったので行儀にうるさかった。
幼い私が朝、パンをミルクにひたして食すると、
「行儀が悪い」
と注意された。ガキの頃から宵っ張りだった私は、
朝食が食道を通りにくいたちである。
中学以降は朝飯は食わない。ともあれ、
戦後に日本で大腸癌が増えたのは、私見では、
パン食習慣にあると思ってる。日本人が長年にわたって
粒状で米食(いわゆる、ご飯)を続けてきたのは、
日本人の経験的知恵によるもので、それが
消化時間を長くさせて血糖値上昇を
おだやかに上げることになるからである。だから、
「よく噛む」ことも大事である。どこぞの民族のように、
最初から食器の中でゴチャ混ぜにして匙で食らうのではなく、
口中調味によって味の塩梅を自然と調節するのである。さらに、
右手で箸を使い、左手では椀を持つ。
そうすることで姿勢よく食えるのである。

それはさておき、
プルーストによる第1章の結びはこう書かれてる。

"Et comme dans ce jeu ou les Japonais s'amusent a tremper dans un bol de porcelaine rempli d'eau de petits morceaux de papier jusque-la indistincts qui, a peine y sont-ils plonges s'etirent, se contournent, se colorent, se differencient, deviennent des fleurs, des maisons, des personnages consistants et reconnaissables, de meme maintenant toutes les fleurs de notre jardin et celles du parc de M. Swann, et les nympheas de la Vivonne, et les bonnes gens du village et leurs petits logis et l'eglise et tout Combray et ses environs, tout cela qui prend forme et solidite, est sorti, ville et jardins, de ma tasse de the."
(エ・コム・ドン・ス・ジュ・ウ・レ・ジャポネ・サミュゾン・ア・トロンペ・ドン・ザン・ボル・ドゥ・ポルスレヌ・ロンピ・ドゥー・ドゥ・プチ・モルソ・ドゥ・パピエ・ジュスク=ラ・アンディスタン・キ、ア・ペヌ・イ・・ソンチル・プロンジェ・セチロン、ス・コントゥルノン、ス・コロロン、ス・ディフェロンシオン、ドゥヴィエノン・デ・フロー、デ・メゾン、デ・ペルソナジュ・コンシストン・エ・ルコネサブル、ドゥ・メーム・マンドゥノン・トゥト・レ・フロー・ドゥ・ノトル・ジャルダン・エ・セル・デュ・パルク・ドゥ・ムシュ・スワヌ、エ・レ・ナンフィア・ドゥ・ラ・ヴィヴォヌ、エ・レ・ボヌ・ジョン・デュ・ヴィラジュ・エ・ロー・プチ・ロジ・エ・レグリズ・エ・トゥ・コンブレ・エ・セ・ゾンヴィロン、トゥ・スラ・キ・プロン・フォルム・エ・ソリディテ、エ・ソルティ、ヴィル・エ・ジャルダン、ドゥ・マ・タス・ドゥ・テ。)
「(拙大意)日本人がやってる遊びにこんなのがある……水でいっぱいになったガラス鉢にちっちゃい紙切れをいくつか浸す。すると、何だか判らなかったそれぞれの紙が水を吸ってたちまちに広がり、生き物のように動きまわり、色がついたように見えてきて、同じような紙切れだったそれぞれが他とは違ってくる。やがて草花や建造物や文字といった、それが何であるかはっきり判る形となるのだが……それと同じように、我が家の庭やスワンさんの屋敷の敷地の花という花、ヴィヴォンヌの川の睡蓮、善良な村人たちとそのみすぼらしい住まい、教会、そうしたコンブレの町と周囲のすべてが完全な形となって、建物から土地に至るまでが私が口にした一
杯の紅茶から抽出されたのである」

パリ万博かなんかで垣間見たのだろう。
プルーストはその「日本人の遊び」を生半可に認識してて
きちんとは把握してなかったとみえる。
これは、江戸時代、家紋の型を作るのに、
その細かい意匠をいちいち書いて型を取ってたら
きりがないから、あらかじめ「型」を作っといて、
それを使って衣装に染め抜いたのであるが、
その工程でも、家紋の対称性(すべてではないが)を利用して
紙を折ってから切れば作業の手間は半減するという
その職人の仕事がプチ芸術みたいになったのを
近所の子供たちに簡単なもの教えて遊びにしたもので、
「紋切り遊び」といわれてたものである。だから、
プルーストは書いてないが、まず最初に千代紙を折って、
そこにハサミを入れてあるのである。

知能が優れた者が残した古典文学(とくに小説)とは、そのように、
自分と異なる時代や世界の文化、知恵、できごと、人々、
などを知ることができる便覧である。だから私は、
自分が身をもって見知ることができる現在の
他人が書いた小説にはほとんど興味がない。
ゲイは美的感覚・感受性に秀でてることが多い。
プルーストは同性愛者だったらしいが、
女性器の暗喩でもあるマドレーヌ(それも、ひたした=濡れた)によって
まだ性を知らなかった少年期を鮮やかに蘇らせた、
ということにもなにやら意味がありそうである。私は、
ホタテ貝のあの腐敗臭に似たニオイとか、いわゆる磯の臭いに
淫靡で下卑たものを想起する。

(プルーストが相当に好きだったという
ベートーヴェン「弦楽四重奏曲第15番」(イ短調、作品132)
終楽章(第5楽章)部分(原曲は第4楽章からアタッカであるが)
(Allegro appassionato→Presto、3/4拍子、無調号→3♯)
を2台のピアノにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/beethoven-string-quartet-15
にアップしました)

ちなみに、
このベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第15番」(イ短調、作品132)
終楽章の主要主題後半の動機、
♪【ミー・ー>シ<レ・>ド│>ラ】♪
は、「エリーゼのために」の主要主題の
♪ミ>♯レ│<ミ>♯レ・<【ミ、>シ・<レ>ド│>ラー・ー】♪
への固執の表象である。
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「コミュニスムとカミュニスム...サルトルでもわかるカミュ(其の参)/アルベール・カミュ生誕100年」

2013年11月07日 18時18分23秒 | 事実は小説より日記なりや?
本日は、小説家の
Albert Camus(アルベル・カミュ、1913-1960)の
生誕100年にあたる日である。
いわゆる知的階層の出であるサルトルとは違って、
カミュは文盲一家のような生まれである。
この色男(カミュ)と醜男(サルトル)の二人は当初は意気投合したが、
インテリ・バカに特徴的な、左翼"嗜好"に傾くという典型のサルトルが
マルクス主義に染まったことで決別した。
1952年にはいわゆる「カミュ、サルトル論争」が戦わされる。
何が齟齬ってたかといえば、サルトルが
自己流実存主義思想と共産主義思想をごっちゃにして
へっちゃらヅラをしてたからいけないのである。
ヒトにとって生きる意味、なんて「ない」のである。それにまた
「実存は本質に先立つ(これ、まったくの間違った認識)」などという
くだらないことを提起したのがサルトルである。が、
このようなのに「知性」を感じて崇拝してしまうのが続出して
ある種のブームとなった。これがまた、
どこぞのノーベル賞欲しがり屋のような"作家"のファンがいっぱい生まれる、
というだけで済んでたらそれはそれで微笑ましい光景だったのだが、
その思想を書き物の世界だけに留めず、
哲学、政治、といった範囲にまで及ばそうというのだから厄介者である。
ヒトはいつか死ぬのだからその限りある生で何をなすべきなのか?
と、自己の存在意義とは? などと無駄なことを思いめぐらす。
同じ電車の同じ車両に乗ってて、しかも隣どうしであっても、
カーヴでスピードの出し過ぎでマンションに衝突して車両がペチャンコになっても、
片や死に、もう一方は生きてる、といった不条理は、
サルトル大先生の実存主義のみならず、いかなる思想・哲学でも
説明できないのである。
どこかで大きな災害が起こると、被災者のことを考えろ、
などと正義漢ぶったきれいごとをほざくのが大手を振る。
そんなに見ず知らずの被災者がかわいそうというなら、
自分の家を明け渡して住まわせればいい。
「王子とトム・キャンティ」のようにその立場を入れ替えたらどうだ。あるいは、
ありとあらゆる有り金・財産を寄附したらいい。だが、
そうした人物がいたという話はひとたりとも聞いたことはない。
偽善者どもめ。
日本でもサルトルに憧れたのは、いわゆる戦後のそうした知的文化人どもである。
サルトルの実存主義なるものの「反社会性」「自由」「権利」嗜好が、こうした類にウケた。
日本を貶める方向だけに熱心なウソツキジデス史観の連中である。いっぽう、
インテリを鼻にかけるそうした輩は、カミュのような、
知的階級とは無縁の世界から成り上がった"ブルジョワ"流行作家には
冷たい視線さえ送りはしない。
いくら考えても不毛なことをイマジンしてれるヒマジンが
サルトルだったのであり、無用の長物だった、
というだけのことである。少なくとも
サルトルとカミュのいずれかだったら、後者のほうがはるかに真理に近い。

カミュの小説でヒットしたものに
"La Peste(ラ・ペスト=天然痘)"
がある。フランス領時代のアルジェリアのワラン市がペストに汚染され、
封鎖される。そして、市民はペスト撲滅に向けて立ち上がり、
患者が一人もオランようになるまでの話である。その中に、
カミュお得意の不条理がちりばめられてる。
この小説からわりと引用されてるのが、以下の一節である。

"Le mal qui est dans le monde vient presque toujours de l'ignorance,
et la bonne volonte peut faire autant de degats que la mechancete,
si elle n'est pas eclairee."
(ル・マル・キ・エ・ドン・ル・モンド・ヴィヤン・プレスク・トゥジュル・リニョロンス、
エ・ラ・ボヌ・ヴォロンテ・プ・フェル・オトン・ドゥ・デガ・ク・ラ・メションステ、
スィ・エル・ネ・パ・ゼクレレ。)
「(拙大意)この世に存在する悪はほとんどの場合が無知に由来し、
善意は、それが見識に裏打ちされたものでなければ、
悪意と同じだけの害をおよぼすこともありうるのだ」

フランス語peste(ペスト)はラテン語のpestis(ペスティス)が語源である。
pestis←打ち負かす(圧勝する)←(postis(支柱、杭、竿)で)一撃をくらわす
圧勝するということは、勝者の力がおしなべて及ぶことを意味する
→押し広げられる→流行→疫病→疫病の王者天然痘→害虫、厄介者
 ↓
pasta=(小麦粉を)押し広げて練ったもの→パン生地、麺

不条理とはたとえば、金があれば命が助かりなければ助からないこともあるが、
かといって金持ちにだけ雨が降って庶民には降らない、ということもないし、
降雨の境界にいる場合は金でその位置を交換することもできるし、
それがかえって徒となることもあれば、そもそも交換できないこともある。
つまりは、
ヒトぞれぞれが自分の思いどおりならないことがあれば、
それらはすべてが不条理なのであって、
それが本来の不条理なのである。だから、
小難しいことをいちいちとらえて
不条理だの何だのと御託を並べてもまったく意味のないことである。
「死ぬ者貧乏」
という言葉以上に不条理を語っても無意味である。とはいえ、
そういう私も不条理な目に遭うよりは、
アンジェリーナ・ジョウリ女史から下腹部をギュウギュウと顔面に押しつけられて
タトゥーの文字を左右逆版に転写されるほうがよほどいい。
"quod me nutrit, me destruit"
(クオド・メ・ヌートリト、メ・デーストルイト)
「私を育むものが私を壊す。
(拙大意)"今日の友は明日の敵"」
巷の対人関係でもっとも危険なのは、
優しい言葉をかけてくれる人や親身になって話をきいてくれる人、
それ以上に、実際に親切にしてくれてる人である、
ということに多くの人は気づかない。いずれにしても、
頭髪同様に他人との関係性も薄い、何事も
右から左へと聞き流してしまう拙脳なる私には、
条理も不条理も御不浄痢もまったく縁のない話ではある。
私はツベルクリンよりはバスクリンのほうが好きだが、
カミュはペストというよりはチュベルキュロズという感じである。
交通事故で自爆しなくても、死はそう遠くはなかったはずである。
小説も芸術の端くれなのだとしたら、
世間一般常識的な凡人が書いた物では、
何のありがたみもない。
芸術家が長寿をまっとうしてどうなる
(そもそも長寿をまっとうするのは芸術家ではないが)。
常識的な人生を送ることができず破天荒で短命だったから、
残した物に光るものがあれば、そこに意味があるんじゃないか。
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「数字1へのこだわり(短編小説『競馬』)/織田作之助生誕100年」

2013年10月26日 23時41分42秒 | 事実は小説より日記なりや?
昨今は夜更かしする者は多くなったが、私は
ガキの頃から宵っ張りだった。だから、
小学生のときには金曜の夜は
宇津井健主演の「ザ・ガードマン」を21時半から観たあと
そのまま22時半からは大阪の朝日放送が制作してた
「蝶々・雄二の夫婦善哉(めおとぜんざい)」
という番組も観てた。その番組の最後にミヤコ蝶々女史が、
武者小路実篤が小皿に茄子や胡瓜を描いて記した
「仲良きことは美しき哉」という言葉をもじった
「夫婦なかよきことは善きこと哉」と言って番組を締めてた。

餅もしくは白玉入りアンコ汁のこと、あるいはその一部を「善哉」という。
それは、今年、60年ぶりの遷宮を行った出雲では、
神在月(かみありづき)の神在祭(じんざいさい)に出される
神在餅(じんざいもち)から「じんざい」→「ぜんざい」になった、
という説がある。いっぽうで、
サンスクリットの"sadhu(サドゥフ、苦行者)"を
中国ではその苦行の結果の功徳の意味ととって
「善」と捉えた。そのことから、修行を達成したことへの
「すばらしい!」という表現を
「善哉(シャン・ツァイ)!」とした。いっぽう、
一説に一休さんが餅入りの汁粉を初めて食ったとき、
「慌てない、あわてない。一休み、ひとやすみ」
とはつぶやかず、上記の意味をモジって
「善哉!」
と叫んだということから、そうしたスイーツを
「ぜんざい」というようになった、というものがある。

包丁一本、晒に巻いて……たかどうかは、
海原千里万里の上沼恵美子女史とアジアンの馬場園梓女史の声を
聞き分けれない拙脳なる私は知らないが、明治16年、
大阪ミナミの法善寺の境内に人形浄瑠璃の太夫だった
竹本琴太夫(木文字重兵衛)が「福」という甘味店を開いた。
阪急阪神ホウルディングズが経営母体ではないが、そこでは
一人前の善哉をさも量が多いように思わせる効果を狙って
二つの椀に分けて出した。そしてそれを、
「めおと」と称したという。が、
この商法が大阪人にはウケて店は繁盛し、店名も
「夫婦善哉」になったのだそうである。

本日、2013年10月26日は、
「夫婦善哉」で知られる作家、
織田作之助(おだ・さくのすけ、1913-1947年)の
生誕100年にあたる日だった。
「夫婦善哉」はその「善哉屋」から採ったタイトルである。ちなみに、
主人公夫婦は人形浄瑠璃に凝る。また、
奥さんの名は蝶々ではないが、蝶子である。
蝶子は芸者あがりで結婚後も"カフェー"を経営した。
織田作之助の実際の妻は宮田一枝という、
作之助が通ってた三高の近くのカフェーで女給をしてた女性である。
作之助も当時としては長身(172cm)でイケメンの類だったが、
一枝夫人も美系だった。まさしく、
「美男美女」の夫婦善哉! だったのである。昭和14年に結婚するが、
一枝夫人は昭和19年に子宮癌で死んでしまう。が、
モテモテ男で女なしにはいれない作之助は2年後に、
宝塚の病院の娘、つまり上流階級の家に生まれた声楽家の
笹田和子と再婚をする。が、
天王寺の下層階級出の作之助は笹田家の家風に合わず、
離婚されてしまう。それでも、
イケメンの作之助はホレられる女には事欠かずだった。が、
10代から患ってた結核が悪化して、
昭和22年が明けてすぐに死んでしまったのである。

死の前年、作之助は相次いで作品を発表した。その中のひとつ、
「競馬」は舞台が京都競馬場と小倉競馬場である。主人公の男寺田は、
三高・京都帝大を出て母校の中学の歴史教師をしてた。
ブサイクな男である。それが、カフェーの女給で美人の
「一代(かずよ)」を細君に娶ることができた。が、
乳癌を患ってしまう。切除手術をしたが、すでに
子宮に転移してた。いわゆる手遅れである。
その間、妻宛に速達葉書が送られてきた。そこには、
「明日午前十一時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い」
と書かれてた。寺田の脳裡に嫉妬心が沸きあがったが、
それはそのままで時は過ぎ、妻は死んだ。その2年後、
中学教師はとっくにクビになってた寺田は、
アルバイトの美術雑誌編集者からその編集長となってた。
原稿受け渡しの場所を作家から淀の競馬場(京都競馬場のこと)と
指定された寺田は、馬券購入に付き合わされた。
ビギナーズ・ラックで当たり、そこから競馬にのめり込むようになった。
そうして、寺田は妻の名「一代」から、
1番の馬の単勝ばかりを張ってたのである。実際、
作之助もかように小説のネタにするほど
「一枝」夫人を偏愛してたのである。

明日、府中の競馬場(東京競馬場)で行われる
秋の天皇賞の優勝表彰プレゼンターは、
"作家"の伊集院静が予定されてる。その"代表作"は、
「乳房」だそうである。妻が乳癌になる話らしい。
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