29日に元F1チャンピオンのミヒャエル・シューマッハーが
スキー中に転倒して岩に頭を叩きつけて
意識不明の重体が続いてるらしい。
1月3日に息を引き取って
「生没同日倶楽部」の殿堂入りをするつもりなのかもしれない。
滝川クリステル女史は、2020年五輪の東京招致プレゼンで、
「もし東京で5千万円を政治資金として借りて
政治資金収支報告書に記載しなかったら、
ほぼ確実に訴追されます」
とは言わなかったが、
「もし皆様が東京で何かを失くしたら、
それはほぼ確実に戻ってきます」
と言いはなった。"ほぼ確実に"とは盛った数字だが、
届け出られた遺失金のうちの3分の1の金額が
実際に落とし主に戻ってるらしい。
落語「芝浜」にみられるように、
唯一神などいなくても正直でまっとうに生きるのが
普通の日本人にはごくあたりまえのことである。
そんな日本人を悪者にして貶める民族が
近隣にも二、三あったりする。ともあれ、
2013年は我が国にとって、いわゆるアベノミクスで
円安輸出易増加、株価上昇と景気が回復した。そのいっぽうで、
物価(ブッカ)上昇が懸念されてる。
bucca(ブッカ)というラテン語は「頬」を表す。それが
bocca(ボッカ)に転じて、頬で挟まれた穴、つまり、
「口」を意味するようになった。
今年は、
14世紀イタリアの物書き、
Giovanni Boccaccio(ジョヴァンニ・ボッカッチョ、1313年-1375)の
生誕700年にあたる年でもあった。誕生日は不詳であるが、
6月もしくは7月だと推定されてるが、
福澤諭吉と昨年亡くなった18世中村勘三郎の顔を
瞬時には判別できない拙脳なる私は知る由もない。
そのボッカッチョが1348年から1351年にかけて書いたとされてるのが、
"Decameron(デカメロン)"
である。
decaは「10」であり、meronは古代ギリシャ語の
"Hemera(ヘーメラー)=ギリシャ神話の「昼の女神」→日→一日"
がもとの語である。併せて、
デカメロンとは「十日(物語)」というほどの意味である。
けっして「デカいメロン(melon)=巨乳物語」ではない。それはさておき、
1348年という年はペストが大流行した年だった。ために、
当時9万人だったフィレンツェの人口は3分の1の3万人に減ってしまった、
と言われてる。この物語は、
ペスト禍を避けるためにフィレンツェ郊外の館に避難した10人がそれぞれ、
1日1話を10日間にわたって語っていく
(計100話。ただし、それぞれの日に「前書き」と「結び」が置かれる)、
という体で書かれてる。
中学生のとき、
イタリアの奇人監督、
Pier Paolo Pasolini(ピエール・パーオロ・パゾリーニ、1922-1975)
が制作した"Il Decameron(イル・デカメロン)"が日本でも公開された。
米国の映画と違って、一般人みたいな風体の女性が
ヌードになってセックス・スィーンを演じてるのが、
当時性体験を知ったばかりの私にはインパクトが強かった。とくに、
映画の中の第2話に採られてた「マゼットと尼僧」は、
頭巾だけの裸体の尼僧がセックスしてる姿が妙に興奮した。
この話は原作では第3日の第1話で、
フィローストラトが語る話である。
ランポレッキオ村のマゼットという若者が、
若い尼僧ばかりで禁欲生活に日々
悶々としてる尼僧院の庭師として雇われる。
もちろん、尼僧たちとセックスがしたいためである。が、
若くて警戒されるのではないかと思い一計を案じる。
口が利けないという体で院長を安心させる。
そうしてマゼットはまんまと若い尼僧たちと
セックス三昧の生活を送ることができた。が、
マゼットとのエッチを知って自分もという尼僧が増える。
そうなると若いマゼットの絶倫さもおっつかない。
マゼットは院長に口が利けないのは尼僧とセックスするための
方便だったと告白した。ところが、
そんなマゼットを解雇してその醜聞を口外されては
尼僧院の名に傷がつくと懸念した。
口が利けなかった庭師が我々尼僧院の功徳と
神のご加護のおかげでしゃべれるようになったと繕い、
ちょうど管理人が死んで空いてたポストに据えて、
"お勤め"を半減させてやった。
その"お勤め"によって(カトリックは避妊は否認されてる)、
あってはいけない妊娠・出産がいくつか生じてしまった。が、
院内だけの内輪のことなので外に漏れることはなかった。
マゼットはそうして年取るまで尼僧院の
セックスやりたい放題の管理人として勤めあげ、
充分な貯蓄もしてめでたく故郷のランポレッキオ村に帰った。
"Nelle quali, come che esso assai monachin generasse,"
(ネッレ・クワーリ、コーメ・ケ・エッソ・アッサイ・モーナキン・ジェネラーッセ)
「(拙大意)ここで、彼はモナーキンをたくさん産ませた」
尼僧院長はイタリア語で"Madonna(マドンナ)"であるが、
修道女は"monaca(モーナカ)"である。
そのおなーかを孕ませて産まれるのは、
男児だったら"monachino(モナキーノ)"であり、
女児だったら"monachina(モナキーナ)"であるが、
それがassai(アッサイ=たくさん)なので、
男性形・女性形のそれぞれの複数形でなく男女とりまぜて、
語尾の性別をとっぱらって"monachin"と表されてる。
間もなーく(monarch)、新年になる。
monarch(支配する唯一の者=統治者)もmonkもmonaco公国も
mono-(単一の)という接頭辞がもととなった語である。
この接頭辞はまた、
men-(小さい。分離された)という接頭辞がおおもとである。
英語のmoonもそのmen-がもとであり、
月の運行が日や月など時間を測る「単位」とされたことによる。
ヴィーンのノイアースコンツァート(ニューイヤーコンサート)は近年、
ヨーハン2世の駄作だけでなく、ますます
ヨーセフの駄作を盛り込む風潮が強まってる。加えて、
ランナーやヘルメスベアガーなどの退屈な作品も毎年のように採りあげられる。
新年はさらに、
リヒャルト・シュトラウスもシュトラウス一家の仲間入り(※)である。
そのオペラ「カプリッチョ」の中の、いわゆる
"Mondscheinmusik(モントシャインムスィーク=月光の音楽)" が、
音楽センスのかけらもないバレンボイムによって振られるらしい。
曲自体は、シュトラウスの巧みなオーケストレイションによる効果も相まって
美しい。が、深い感動を呼び起こすというような類の曲ではない。
(その冒頭部分を、
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/strauss-r-mondscheinmusik
にアップしておきました)
スキー中に転倒して岩に頭を叩きつけて
意識不明の重体が続いてるらしい。
1月3日に息を引き取って
「生没同日倶楽部」の殿堂入りをするつもりなのかもしれない。
滝川クリステル女史は、2020年五輪の東京招致プレゼンで、
「もし東京で5千万円を政治資金として借りて
政治資金収支報告書に記載しなかったら、
ほぼ確実に訴追されます」
とは言わなかったが、
「もし皆様が東京で何かを失くしたら、
それはほぼ確実に戻ってきます」
と言いはなった。"ほぼ確実に"とは盛った数字だが、
届け出られた遺失金のうちの3分の1の金額が
実際に落とし主に戻ってるらしい。
落語「芝浜」にみられるように、
唯一神などいなくても正直でまっとうに生きるのが
普通の日本人にはごくあたりまえのことである。
そんな日本人を悪者にして貶める民族が
近隣にも二、三あったりする。ともあれ、
2013年は我が国にとって、いわゆるアベノミクスで
円安輸出易増加、株価上昇と景気が回復した。そのいっぽうで、
物価(ブッカ)上昇が懸念されてる。
bucca(ブッカ)というラテン語は「頬」を表す。それが
bocca(ボッカ)に転じて、頬で挟まれた穴、つまり、
「口」を意味するようになった。
今年は、
14世紀イタリアの物書き、
Giovanni Boccaccio(ジョヴァンニ・ボッカッチョ、1313年-1375)の
生誕700年にあたる年でもあった。誕生日は不詳であるが、
6月もしくは7月だと推定されてるが、
福澤諭吉と昨年亡くなった18世中村勘三郎の顔を
瞬時には判別できない拙脳なる私は知る由もない。
そのボッカッチョが1348年から1351年にかけて書いたとされてるのが、
"Decameron(デカメロン)"
である。
decaは「10」であり、meronは古代ギリシャ語の
"Hemera(ヘーメラー)=ギリシャ神話の「昼の女神」→日→一日"
がもとの語である。併せて、
デカメロンとは「十日(物語)」というほどの意味である。
けっして「デカいメロン(melon)=巨乳物語」ではない。それはさておき、
1348年という年はペストが大流行した年だった。ために、
当時9万人だったフィレンツェの人口は3分の1の3万人に減ってしまった、
と言われてる。この物語は、
ペスト禍を避けるためにフィレンツェ郊外の館に避難した10人がそれぞれ、
1日1話を10日間にわたって語っていく
(計100話。ただし、それぞれの日に「前書き」と「結び」が置かれる)、
という体で書かれてる。
中学生のとき、
イタリアの奇人監督、
Pier Paolo Pasolini(ピエール・パーオロ・パゾリーニ、1922-1975)
が制作した"Il Decameron(イル・デカメロン)"が日本でも公開された。
米国の映画と違って、一般人みたいな風体の女性が
ヌードになってセックス・スィーンを演じてるのが、
当時性体験を知ったばかりの私にはインパクトが強かった。とくに、
映画の中の第2話に採られてた「マゼットと尼僧」は、
頭巾だけの裸体の尼僧がセックスしてる姿が妙に興奮した。
この話は原作では第3日の第1話で、
フィローストラトが語る話である。
ランポレッキオ村のマゼットという若者が、
若い尼僧ばかりで禁欲生活に日々
悶々としてる尼僧院の庭師として雇われる。
もちろん、尼僧たちとセックスがしたいためである。が、
若くて警戒されるのではないかと思い一計を案じる。
口が利けないという体で院長を安心させる。
そうしてマゼットはまんまと若い尼僧たちと
セックス三昧の生活を送ることができた。が、
マゼットとのエッチを知って自分もという尼僧が増える。
そうなると若いマゼットの絶倫さもおっつかない。
マゼットは院長に口が利けないのは尼僧とセックスするための
方便だったと告白した。ところが、
そんなマゼットを解雇してその醜聞を口外されては
尼僧院の名に傷がつくと懸念した。
口が利けなかった庭師が我々尼僧院の功徳と
神のご加護のおかげでしゃべれるようになったと繕い、
ちょうど管理人が死んで空いてたポストに据えて、
"お勤め"を半減させてやった。
その"お勤め"によって(カトリックは避妊は否認されてる)、
あってはいけない妊娠・出産がいくつか生じてしまった。が、
院内だけの内輪のことなので外に漏れることはなかった。
マゼットはそうして年取るまで尼僧院の
セックスやりたい放題の管理人として勤めあげ、
充分な貯蓄もしてめでたく故郷のランポレッキオ村に帰った。
"Nelle quali, come che esso assai monachin generasse,"
(ネッレ・クワーリ、コーメ・ケ・エッソ・アッサイ・モーナキン・ジェネラーッセ)
「(拙大意)ここで、彼はモナーキンをたくさん産ませた」
尼僧院長はイタリア語で"Madonna(マドンナ)"であるが、
修道女は"monaca(モーナカ)"である。
そのおなーかを孕ませて産まれるのは、
男児だったら"monachino(モナキーノ)"であり、
女児だったら"monachina(モナキーナ)"であるが、
それがassai(アッサイ=たくさん)なので、
男性形・女性形のそれぞれの複数形でなく男女とりまぜて、
語尾の性別をとっぱらって"monachin"と表されてる。
間もなーく(monarch)、新年になる。
monarch(支配する唯一の者=統治者)もmonkもmonaco公国も
mono-(単一の)という接頭辞がもととなった語である。
この接頭辞はまた、
men-(小さい。分離された)という接頭辞がおおもとである。
英語のmoonもそのmen-がもとであり、
月の運行が日や月など時間を測る「単位」とされたことによる。
ヴィーンのノイアースコンツァート(ニューイヤーコンサート)は近年、
ヨーハン2世の駄作だけでなく、ますます
ヨーセフの駄作を盛り込む風潮が強まってる。加えて、
ランナーやヘルメスベアガーなどの退屈な作品も毎年のように採りあげられる。
新年はさらに、
リヒャルト・シュトラウスもシュトラウス一家の仲間入り(※)である。
そのオペラ「カプリッチョ」の中の、いわゆる
"Mondscheinmusik(モントシャインムスィーク=月光の音楽)" が、
音楽センスのかけらもないバレンボイムによって振られるらしい。
曲自体は、シュトラウスの巧みなオーケストレイションによる効果も相まって
美しい。が、深い感動を呼び起こすというような類の曲ではない。
(その冒頭部分を、
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/strauss-r-mondscheinmusik
にアップしておきました)