チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ごん狐の孤独/童話作家新美南吉誕生から100年」

2013年07月30日 00時01分12秒 | 事実は小説より日記なりや?
本日2013年7月30日から100年前、
新美南吉(にいみ・なんきち、1913-1943)は、
現在の愛知県半田市に、畳屋の次男として生まれた。
生後4か月で死んだ長男の名・正八(しょうはち)を、
ゴッホのように、そのまま引き継がされた。
4歳のときに母親が死に、父親は後妻を娶った。が、
離婚・再婚など実父と継母の間がゴタゴタしてたので、
実母方の祖母に引き取られ、その名字新見を名乗った。
母親不在で父親の愛情を受けないと、
道を踏み外す子供に成長することが多い。また、
道は踏み外さなくても、終生、
母を追い求める傾向がある。
当時の、家柄はあまりよくはないが勉強のできる子供の常として、
師範学校への進学をめざした。が、
体格検査で不合格となった。労咳になりやすい体だった。
尋常小学校の代用教員となったが、結局、
現在の東京外語大の英文科に進んだ。そして、
卒業後に貿易会社に勤めた。が、喀血して
郷里に戻った。病気のために長続きせず、
職を転々と替えた。そして、結核のために
29歳で衰弱死した。

同じく鈴木三重吉の「赤い鳥」掲載されたが、
不快な内容の「蜘蛛の糸」という"童話"を書いた
左翼思想作家芥川龍之介のように
故事や他作をネタにしたわけではないが、新見は
孤児を主人公に据えがちな芸風である。そして、
常に悲しい。
狐を主人公とする童話が新見の作品に多いのは、
古来、狐が被差別民や未知の技術を持つ異民族の象徴だったことを
継承してることに加え、その漢字に含まれる
「瓜」が孤と共通してることがあると推察される。

代表作である「ごん狐」では、
母親と二人暮らしだった百姓の兵十(ひょうじゅう)が
獲った鰻をイタズラ狐のごんがリリースしてしまう。が、
実はその鰻は死に瀕した兵十の母親が、
死ぬ前に食べたいと倅にせがんだものだったのである。
記憶が形成される前に実母と死に別れた新見には
執着が避けれない設定である。ともあれ、
そんな孝行をごんはフイしたのである。
葬列を見てそれを悟ったごんは、
罪滅ぼしに鰯売りの鰯を盗んで兵十の家に投げ入れた。
それでごんはいいことをしたと思ったのだが、
言うまでもなく浅知恵である。
兵十が鰯を盗んだと思われてしまったのである。
それでもまだごんは学習できない。今度は
ただちには被害が判らない栗や松茸を
兵十の家に置いてくのだった。いっぽう、
母親が死んでから急に栗や松茸が家に置かれるようになったのは、
「神様」の御慈悲だと思い始めた。で、
愚かなごんは
(俺が栗や松茸を置いてやってるのに、
俺には礼も言わないで何で神様に礼を言うんだ。
割に合わない)
とすねるのだった。が、
またしても恩着せがましく栗を持ってったところ、
「おっかあが食いてゃーでよと言ってた鰻を盗んだ狐だな。
覚悟するだぎゃー!」
と、ごんを銃殺したのだった。が、
よく見ると、栗は増えてたのである。
ごんは盗みにきたのではなく、いつも
置いてくれた張本人だった。それに気づいた兵十は、
「ごん、おみゃーだったがや。栗をくれてたのは」
と、虫の息のごんを抱き起こして訊いた。
ごんは目をつぶったまま頷き、息絶えたのだった。
兵十の手からごんを撃ち殺した火縄銃が床に落ちた。
その銃口からは青い煙が細く立ちのぼってるのだった。

罪の償いを"黙って"行うことがかえって
迷惑をかけたり、謝意が通じないことにつながった。逆に、
親切を仇と勘違いして安易に武器を使う愚を説いてる。が、
新見は教訓じみた書きかたはしてない。つまり、
「読む者にどうすべきだったかを考えさせる」
形になってるのである。
悪いことをしたなと思ったら、すみやかに謝る。
償いの形は行動だけでなく、説明も加えないと誤解を招く。
犯人だと思ってもよく吟味しなで即断すると冤罪を生むこともある。
等々。が、
孤独でひねくれ者になったごんには、
あのときこうだったらとか、
あそこではこうしてればとか、
と立ち戻って是正してみることなど、
現実問題としては机上の空論である。
幼児期から児童期の親からの躾や道徳教育が
すべてを決してしまうからである。

新見が死んだのは昭和18年の春である。
アッツ島玉砕のほんの少し前のことである。
29歳の命を憐れに思うむきもあるかと思うが、
労咳で召集されずに好きな童話や詩を作ってられた新見のほうが、
濃霧・雨・雪の寒さと飢えと圧倒的な戦力相手の戦地で
虫けらのように死んでった人たちより
はるかに幸せ者だったはずである。
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「ギャツビーの中のトリスタン和音/レオ様版『華麗なるギャツビー』公開にあたって(後篇)」

2013年06月21日 00時17分53秒 | 事実は小説より日記なりや?

フィッツジェラルド ギャツビー


(「青信号、独りで眺めれば破滅への蠱惑night/2013年版『華麗なるギャツビー』公開にあたって(前篇)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/a3d499789471d7307b6ea733caf1808f
から続きます)

デイズィーの夫トムは、自宅のイースト・エッグとマンハッタンの中間あたりの
車整備工場の経営者ジョージ・ウィルスンの女房マートルを愛人にしてる。
第7章では、ギャツビー、デイズィー、ニック、トム、ジョーダン
(原作自体がギャツビーだけサーネイムである。このことが、
他の4人の色持ち学友と違って「多崎つくる」の名前だけが
漢字でない村上春樹の設定に影響を及ぼしたのだろう)が
マンハッタンに2人、3人と分かれて2台の車で出かける。ちなみに、
この小説にはManhattanという単語は
一度たりとも出てこない。マンハッタンに行くという表現は、
"go to town"または"go up to New York"である。ともあれ、
行きはトムがギャツビーの黄色い新車を運転したいと言って、
ギャツビーとデイズィーはトムの青いクーペで出かけた。この
黄と青という補色を使ってフィッツジェラルドは
ギャツビーとトムの対立関係の輪郭を際立たせてる。このとき、
トム一行(&私ニックとジョーダン)はジョージの整備工場で給油した。
だから、マートルはその黄色い車がトムのものだと思った。
これが帰路の仕掛けになり、トムの未必の故意によって
ギャツビーの一巻の終わりにつながる、ということである。

結局5人はプラザ・ホテルに行ってスイート・ルームを取った。そこで、
ギャツビーの口癖である"old sport"をトムが俎上にあげた。

The room was large and stifling, and,
(拙大意)部屋は広かったが暑さで息詰まるようだった。それに、
though it was already four o'clock,
(拙大意)すでに(午後)4時をまわってたというのに、
opening the windows admitted only a gust of hot shrubbery from the Park.
(拙大意)窓を開けてもセントラル・パークの植え込みから立ちのぼる熱気が勢いよく入り込んでくるだけだった。
Daisy went to the mirror and stood with her back to us, fixing her hair.
(拙大意)デイズィーは鏡の前に向かって私たちに背を向けたまま乱れた髪を梳かしてた。
"It's a swell suite," whispered Jordan respectfully and every one laughed.
(拙大意)「さすが一流ホテルのスイート(ルーム)ですわ」とジョーダンがきまじめっぽく声をひそめて言うとその皮肉にみんな大笑いした。
"Open another window," commanded Daisy, without turning around.
(拙大意)「他の窓も開けてちょうだい」とデイズィーが鏡に向かったまま振り返りもせずに命令口調で言った。
"There aren't any more."
(拙大意)「これ以上窓はないよ」
"Well, we'd better telephone for an axe----"
(拙大意)「そう、じゃあ、フロントに電話して斧でも持ってきてもらったほうが……」
"The thing to do is to forget about the heat," said Tom impatiently.
(拙大意)「もう暑いあついっていうのはやめにしないか」とトムは苛立ちをあらわにした。
"You make it ten times worse by crabbing about it."
(拙大意)「お前がぶつぶつ言ってると暑さも10倍になるな」
He unrolled the bottle of whiskey from the towel and put it on the table.
(拙大意)彼(トム)は(タオルに巻いてた)ウィスキーのボトルをタオルから取ってテイブルの上に置いた。
"Why not let her alone, old sport?" remarked Gatsby.
(拙大意)「彼女(デイズィー)にかみつくのはやめようじゃないか、ねえ、ご兄弟」とギャツビーが意見がましく言った。
"You're the one that wanted to come to town."
(拙大意)「君(トム)が街に繰り出そうて言った張本人なんだから」
There was a moment of silence.
(拙大意)気まずい沈黙の時が流れた。
The telephone book slipped from its nail and splashed to the floor,
(拙大意)壁に紐掛けされてた電話帳が留め金からはずれてページが開いたまま床に落ちた。
whereupon Jordan whispered "Excuse me"
(拙大意)と同時にジョーダンが「ごめんあさーせ、(一流ホテルと言った)前言撤回」とまた声をひそめて言った。
--but this time no one laughed.
(拙大意)……が、今度はそんな皮肉に誰も笑えなかった。
"I'll pick it up," I offered.
(拙大意)「僕が拾うよ」と気まずい空気の中で私が口を開いた。すると、
"I've got it." Gatsby examined the parted string,
(拙大意)「いや、僕が」とギャツビーは切れた吊り紐をしげしげと観察した。そして、
muttered "Hum!" in an interested way, and tossed the book on a chair.
(拙大意)興味津々といった感じで「う~ん」とつぶやくと、椅子の上に電話帳を放りあげた。
"That's a great expression of yours, isn't it?" said Tom sharply.
(拙大意)「君はまたずいぶんと芝居がかった言い回しをするんだな?」とトムはとげとげしく言った。
"What is?"
(拙大意)「何のことかな?」
"All this 'old sport' business. Where'd you pick that up?"
(拙大意)「何かにつけてこんなふうに『ご兄弟』って言うだろ。そんな言葉、どこで身に着けたんだ?」
(電話帳をピック・アップしたギャツビーに、その言葉をどこの番号にかけてピック・アップしたのかと掛けて訊いてるのである)
"Now see here, Tom," said Daisy, turning around from the mirror,
(拙大意)「ねえ、ちょっと、トム」とデイズィーが鏡に向かってるままでなく今度はちゃんとこちらに振り返って割って入った。
"if you're going to make personal remarks I won't stay here a minute.
(拙大意)「そうやって他の人に難癖つけはじめるなら、私、もう帰るわよ。
Call up and order some ice for the mint julep."
(拙大意)それより、ミント・ジュレップ作るからフロントに電話して氷を持ってきてもらって」
As Tom took up the receiver the compressed heat exploded into sound and we were listening to the portentous chords of Mendelssohn's Wedding March from the ballroom below.
(拙大意)トムが電話の受話器を取ったとたん、部屋に充満してた熱気が一気に爆発したのかと思ったくらい大きな炸裂音がしたのだった。が、それは階下の宴会場から聞こえてくるメンデルスゾーンの結婚行進曲のただならぬ気配のものものしい和音だった。
"Imagine marrying anybody in this heat!" cried Jordan dismally.
(拙大意)「まさか、こんな暑い中で結婚式を挙げる人なんているの!?」とジョーダンがごめんだわという感じで声を張りあげた。
"Still--I was married in the middle of June," Daisy remembered,
(拙大意)「そう言うけど……私が結婚したのも6月の中旬だったわ」とデイズィーは思い返して言った。
"Louisville in June! Somebody fainted. Who was it fainted, Tom?"
(拙大意)「6月のルイヴィルよ! 倒れちゃった人がいたのよ。誰だったっけ倒れたの、ねえトム?」

まず、
村上春樹大先生は"old sport"の訳ができず、カタカナで
「オールド・スポート」と逃げてしまった。
"old"も"sport"もそれぞれ個々に、
「親しい者への呼びかけ」として
英国では使われたこともある。が、
軍役での勲章だけが誇れるギャツビーにとって、
英国軍の戦友同志が使ってそうな"old sport"が
親愛の情やGIジョウをこめた呼びかけだったのである。が、
単に親愛だけでなく敬意が込められてる。はずであるが、
さして親しくもないのにそう呼ばれたほうにとっては
おちょくられたと感じてしまうかもしれない。
それから、
"ジューン・ブライド"という"神話"に関しては、
「ジューン・ブライドの嘘とヴァーグナー結婚行進曲/F=ディースカウの死にあたって(4)」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/2d7b45034b3e1115f8dc99305da34f52 )
で触れたが、かように近世以降の現実は厳しいのである。ところで、
私が附けた大意も怪しいものだが、それにしても、
世に商品として出回ってる数々の英訳プロの翻訳本には
明らかな誤認・誤訳が多いことに驚かされる。
「華麗なるギャツビー[英語版ルビ訳付]講談社RUBY BOOKS」などは、
"the portentous chords of Mendelssohn's Wedding March"
(ザ・ポーテンタス・コーズ・オヴ・メンデルスゾーン'ズ・ウェディング・マーチ)
の"the portentous chords of ~"の箇所にご丁寧にも
「~のもったいぶった弦楽合奏」とまったく意味不明な
大間違いの註を附してるのである。同曲は
弦楽合奏ではなく木管も金管も活躍する管弦楽曲であり、
この箇所の"chord"は和音という意味である。まあ、
現在の庶民感覚から推量すると、生演奏ったって、
弦楽四重奏程度のもの程度にしか考えないのだろう。が、
第一次世界大戦で債権国となった米国のプラザ・ホテルなのである。
オケぐらい入れてたのである。だいいち、
"the compressed heat exploded into sound"
という表現からして弦楽合奏のレヴェルでないことは判るはずなのだが。
ともあれ、こんな低レヴェルなのが、
Amazonのカスタマー・レヴィューでは高評価点を得てるのだからお笑いである。ともあれ、
メンデルスゾーンの「結婚行進曲」のメロディのはじめの和音はいわゆる「トリスタン和音」なのだが、
(cf;「真夏日の夜の夢/メンデルスゾーン『結婚行進曲』のトリスタン和音」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/42aea5a038c1d4d7ed4630c4d1dfa27e )
音楽の専門教育を受けたことがないフィッツジェラルドがそれを
"portentous(=不吉なことが起きる予感がする、ものものしい……
チャイコフスキーの「弦楽セレナード」の冒頭をオー人事が正鵠を射た使いかたをしたのと似てる)"
という形容詞を使って表現してるところに、
この作家の的確な感受性と絶妙な表現力が見て取れるのである。

ロングアイランドへの帰りはギャツビー、トムがそれぞれ本来の自分の車に乗った。
黄色いギャツビーの車はデイズィーが運転してたが、
トムの車と思って近寄ったマートルを跳ね轢き逃げしてしまう。
下手人はギャツビーだと思い込んだ亭主のジョージは、
自宅プールへ泳ぎにいったギャツビーを射殺し、
自らも命を絶つ。このように、
死亡事故を起こしたのが"yellow car"であることにも、
フィッツジェラルドの「黄禍への懸念」が語られてる。ともあれ、
"豪邸のプールに横たわる射殺死体"
という場面は、後年、ウィリアム・ホウルデンを使って
ビリー・ワイルダーが「サンセット大通り」でいただいた。

終章である第9章では、
この小説の"名言"が登場する。
ギャツビーが財を成すのに関与したアブない職業のユダヤ人、
Meyer Wolfshiem(英語ふうにはマイアー・ウォルフシェム)……
1919年のMLB八百長ブラック・ソックス事件の首謀者で実在の
Arnold Rothstein(英語ふうにはアーノルド・ロウススタイン、1882-1928)
をモデルにしてる……へギャツビーの葬儀に出てくれるように
ニック(私)が頼みにいく場面である。
ニック対して、大卒であることを確かめたうえで、こう言う。

"Let us learn to show our friendship for a man when he is alive and not after he is dead," he suggested.
(拙大意)「友情を示すべきは相手が生きてるうちであって死んでからでは無意味だということを学ぼうじゃありませんか」と彼は欠席する意向だとはっきり断る代わりにそう言った。

特に日本の場合でなくとも、
タテマエはともかく葬儀は遺族や残った関係各人のためのものなので、
この言葉は一概にはあてはまらない。が、
死後に天国も地獄もない事実を思えば
きわめて理に適った話ではある。

プリンストンに通ってたほどの秀才フィッツジェラルドはまた、
絵画の教養と鋭い感性を持ち合わせてもいた。
中西部出身で東部に憧れてたニック(私)が、
ギャツビーが死んでもう東部熱が冷めてしまい、
東部を離れてまた故郷に戻ろうという心境になった
エンディングで語られる。

--even then it had always for me a quality of distortion.
(拙大意)……(東部が)いちばんと思ってた当時でさえ、私にはいつも東部が持つ何かしらの歪みを感じずにはいれなかった。
West Egg especially still figures in my more fantastic dreams.
(拙大意)ウェスト・エッグはとりわけ、いまだにそんな歪みよりもっと異様な夢の中の絵のように浮かびあがってくる。
I see it as a night scene by El Greco:
(拙大意)私にはそれがまるでエル・グレコの絵の夜景のように思えるのだ。
a hundred houses, at once conventional and grotesque,
(拙大意)陳腐なのにまた異形でもある何百という多くの家が、
crouching under a sullen, overhanging sky and a lustreless moon.
(拙大意)辛気臭い色で覆われた空と精彩を欠いた月の下に身をかがめてる、そんな光景である。

フィッツジェラルドはエル・グレコの絵の特徴を
的確に捉えて引用してるのである。また、
この作家の感性の鋭さは、第3章で描写されてる、

"A wafer of a moon was shining over Gatsby's house"
(拙大意)聖餅のような月がギャツビー邸の上に出ていた。

にも見て取れる。
終いはこう閉じられる。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us.
(拙大意)ギャツビーは青信号の灯を、夢が叶う未来の象徴だと思い込んでたのだった。だが未来とは実際には我々の眼前から年々どんどん残り少なくなっていくものである。
It eluded us then, but that's no matter
(拙大意)グリーン・ライト(青信号の灯)はあのとき(**第1章の終いを参照)は私たちの手をすり抜けてった。だが、どうってことない。
--tomorrow we will run faster, stretch out our arms farther
(拙大意)明日はもっと速く漕げるだろうし、もっと前まで腕を伸ばせるだろう。
. . . . And one fine morning----
(拙大意)……そして、いつかきっと(***)……
So we beat takeshi on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
(拙大意)そうして私たちは艪で水を掻きつづけるのだ。舟が潮の流れに逆らって、絶え間なく過去に向かって押し戻されようとも。
赤信号でもみんなで渡れば怖くない、と。

(**)
he stretched out his arms toward the dark water in a curious way,
and far as I was from him I could have sworn he was trembling.
Involuntarily I glanced seaward--and distinguished nothing except
a single green light, minute and far away,
that might have been the end of a dock.
When I looked once more for Gatsby he had vanished,
and I was alone again in the unquiet darkness.

ギャツビーのことを語ってたのに、終いには
話はweとかusとかになってるのである。
ここに、このギャツビーの悲しくも儚い物語を
私(ニック)の目を通して描いてたものと思わせてたものが実は、
ギャツビーの生きざまを鏡とした
「私」ニックの後半生を、そして、
アメリカの未来を見つめる預言の書だったということが
わかるのである。

(***)
この感動的な最後の箇所、村上春樹大先生は
"And one fine morning"を
「そうすればある晴れた朝に」
と臆面もなく"翻訳"なさってしまった。
「虚辞」「冗句」「常套句」という
お修辞の初歩もご存じないようである。
無知を売り物にして対価を得ることは、
詐欺師の所業と本質的に違うといえるだろうか。
洗練さを欠いた罰金ものの誤認・誤訳である。
"one fine day"とか"one fine morning"とか、
"some fine day"とか"some fine morning"とかの
"fine"というのは「晴れた」という意味ではなく、
まとめて「ある日」「ある朝」「いつか」
という意味の常套的な用法なのである。蝶々さんが、
♪Un bel di, vedremo …(ウン・ベル・ディ、ヴェドレーモ)♪
と歌う「ある"晴れた"日に」と誤訳されてる"bel"も同様である。
(un=a(one)、bel=fine、di=day、
vedremo=動詞vedere(=see)の単数一人称未来)
ただし、(蒸気船の)ひとすじの煙が
海の彼方に見えるはずよ、というのだから、
「長崎は今日も雨だった」では見えず、
晴れてなければ見えないとはいえる。
蝶々さんの非公式の夫の名はピンカラキョウダイでもピーカンでもなく、
Benjamin Franklin Pinkerton
(ベンジャミン・フランクリン・ピンカートン)であるからして、
お正月なんか独楽を回して遊んでだり
凧をあげてたりしてうっかりしてると、
雷が鳴るような日に帰ってきてしまうおそれもある。
長崎は年間降雨日数では実は平均的なのだが、対する
一回の降雨量の比がとびぬけて大きい土地柄なのである。で、
「雨が多い」というイメージが定着してるからか、
気象庁ではなく内山田洋とクールファイヴによって
「長崎は今日も雨だった」
という誤報が広く伝わって浸透してしまったのである。

ところで、
James Gatz(ジェイムズ・ギャッツ)というのが本名という体の
Jay Gatsby(ジェイ・ギャツビー)の名の意味について触れておく。
"gat(ギャット。複数形はgats)"とは「拳銃」のことである。つまり、
He was destined to be killed "by gats".
ということだったのである
(文法的にはbyでなくwithが正しいとしても)。
いっぽう、
daisyはいわゆるヒナギクである。
日中には花開くが、日が暮れると閉じることから、
"day's eye"を意味する古語から名付けられたという。
金持ちには振り向くが、一文無しには心を閉ざす、
といった意味合いがあるものと思われる。

さて、
肝腎のタイトルである。
"The Great Gatsby"
「ザ・グレイト・ギャツビー」である。この"グレイト"。まず、
初めに訳されて定着してる
"華麗なる"はないだろう。
ディカプリオの顔が巨大な子持ちガレイに見えてきてしまう。あるいは、
[木の蔭におりゐて餉食ひけり]
ディカプリオが業平ばりの扮装をして、
お湯をかけ戻したメシをかっ込んで、
かきつばたを折句に詠んでしまいそうである。といって、
「グレート」なんてカタカナに逃げるのもまたきたない。しかも、
"グレート・ギャツビー"だと、定冠詞theがないがしろにされてしまう。かつて、
(邦題=)「グレート・レース」という映画があったが、その原題は
"The Great Race"
であり、実際に1908にNYからパリまでで行われた自動車競走を題材にしてた。
歴史的なできごとや事件、建造物に対して、
"The Great なんとか"という表現をする。たとえば、
この小説の中の話題のひとつにもなってる第一次世界大戦は
"The Great War"
と表現されることがある。べつに
"華麗なな戦争"だったわけでも"立派な戦争"だったわけでもない。
「あの(名高い)大きな」戦争、という意味合いである。
「名を轟かせたギャツビー」「一世を風靡したギャツビー」「うわさのギャツビー」
「ウェスト・エッグ大邸宅殺人事件のギャツビー」「例のギャツビー」、
「あのギャツビー」
なのである。いずれにしても、
この小説には「色」が頻繁に出てくる。だから、
村上春樹大先生は"新訳"を出される際には、タイトルも一新して、
「色を持つジェイ・ギャツビーと、彼の巡礼の年。2oo6」
なんていうのにしたらよかったのにと思う。

ギャツビーのこの悲しい結末を転機として、
生き残った私(ニック)は東部に幻滅し、離NYする。
そのことがおそらくは、その数年後にウォール街を襲う
"The Great Depression"(大恐慌)による破滅から
私(ニック)を救うことになったのだろう、ということは、
並の知能があれば、
容易に推測されるはずである。奇しくも、私(ニック)にとって、
"The Great Depression"から自分を遠ざけてくれたギャツビーこそ、
"The Great Gatsby"といえるのだろう。
フィッツジェラルドが来るべき大恐慌を予想してそれを
念頭にタイトルを附けたということはないだろう。
彼自身も"ロウスト・ジェネレイション"などと言われるごとく、
米国内での価値観の喪失によって
パリその他ヨーロッパにいることが多かったので
大恐慌のあおりを直接には食らわずに済んだのだったとしても。
ともかくも、"The Great War"、"The Great Depression"という
歴史的できごとを、言葉を知らない御仁が、
そういった時代背景の小説を翻訳しても、はたして
真っ当な訳ができてるかどうか、非常に不安にならないだろうか。が、
嘘も"絶え間なく"言い張られつづければ、
本当のことは過去に押し流され、その虚偽のほうがあたかも
真実であるがごとく人心にも歴史にも刻まれてしまうのである。
ギャツビーの最期のように痛ましくせつない。
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「青信号、独りで眺めれば破滅への蠱惑night/2013年版『華麗なるギャツビー』公開にあたって(前篇)」

2013年06月20日 00時28分36秒 | 事実は小説より日記なりや?
★☆★☆●☆★☆★○

フィッツジェラルド ギャツビー


先週末あたりから、
レオナルド・ディカプリオ主演でリメイクされた
「(邦題=)華麗なるギャツビー」が日本で封切られたようである。
同名の映画は1974年にロバート・レッドフォード主演で作られてる。
そちらはフランスィス・コッポラが脚本を書いてる。ともかくも、原作は、
Francis Scott Key Fitzgerald
(フランスィス・スコット・キー・フィッツジェラルド、1896-1940
……この名から推測されるように、アメリカ国歌の作詞者の遠縁)が
1925年に出版した小説
"The Great Gatsby"
である。我が国では「華麗なるギャツビー」という題で
翻訳されてたが、フィッツジェラルドに執着心が強い村上春樹は
新訳を出したとき、「グレート・ギャツビー」とした。でもそれだと、
寺田農と尾木ママの顔の区別がつかない拙脳なる私には
グレート・なすび~に聞こえてしまう。それでなくとも、
グレート何とかなんていうのを聞くと、私の世代では
グレート草津とかグレート義太夫を想起してしまう
(ザ・グレート・カブキのほうが英文法に適ってる)。やはり、
"逃げない"で、日本語の訳をタイトルにもつけてほしいものである。

この小説はフィッツジェラルド本人の妻ゼルダへの思いも含めた
自伝的な作品である。それを、
中西部出身ながら裕福でイェイル出という設定の
Nick Carraway(ニック・キャラウェイ)の目を通して、
過去を振り返って語る体としてる。
ジェイ・ギャツビーことジェイムズ・ギャッツのせつなく痛ましい物語である。
ところが、
レッドフォードやディカプリオはともかく、
"the most beautiful girl in Alabama and Georgia"
というゼルダの役がミア・フェロウではどうかとも思ったが、
ケリー・マリガンはないだろう。とはいえ、
実際のゼルダはただの田舎もんのおブス顔の女性だったので、
現実に忠実なキャスティングということかもしれない。

以前付き合ってたが"身分の違い"でギャツビーが結婚できなかった
Daisy(デイズィー)は、ニックのイェイル大の同窓生だった
Tom Buchanan(トム・ビューキャナン)と結婚して、
NY郊外ロングアイランドの高級住宅地East Eggの豪邸に住んでる。
デイズィーはニックの遠縁の親戚でもあった。イェイル卒後、従軍した
第一次世界大戦が終わってニックは故郷に戻ったが、
証券マンになるべくNYに出てきた。East Eggと湾を挟んで向かいの
低級住宅街West Eggに家を借りたのである。ちなみに、
West Eggは文字どおりEast Eggとの対比だが、この
eggにはedge由来の動詞egg(扇動する。そそのかす)の意味を
兼ねさせてるのである。また、
Buchananという名はスコットランド出に多いサーネイムである。
樫の木で作られた礼拝堂を意味する。加えて、
Buch(バック)というニックネイムで呼ばれる男子はけっこういるが、
他のニックネイムと違って特定の名に対するものではない。
buchは古来は牡鹿や牡山羊を意味したが、
米口語ではDollarの意味としても使われる。
いわゆるインディアンが鹿の皮(buckskin)を
貨幣代わりにしてたことに由来するという。というように、
この小説におけるBuchananという名は、
「金」の象徴でもある。ちなみに、
リンカンの前任者の第15代合衆国大統領
James Buchanan(ジェイムズ・ビューキャナン)は
結婚しなかった唯一の大統領である。結婚して
Daisy FayからDaisy BuchananとなってしまったDaisyとは
もう結婚できないギャツビーの焦燥を催させる名である。

この小説の第1章で、
ニックはデイズィーの家にお呼ばれする。そこで、
夫のトムはこんなことを言い始める。

"Civilization's going to pieces," broke out Tom violently.
(拙大意)「西洋文明世界は崩壊しはじめてるんだ」とトムは急に声を荒げた。
"I've gotten to be a terrible pessimist about things.
(拙大意)「僕は*世の中のことに対して極端な悲観主義者になってしまったんだ。
(*)things=世の中(のこと)
Have you read 'The Rise of the Coloured Empires' by this man Goddard?"
(拙大意)『有色帝国の抬頭』っていうゴダードっていうのが書いた本は読んだか?」
"Why, no," I answered, rather surprised by his tone.
(拙大意)「何だそれ? いや」と私は答えた、というより彼の口ぶりに圧倒されていた。
"Well, it's a fine book, and everybody ought to read it.
(拙大意)「あ、いやな、ともかくいい本なんだ。みんなが読むべきなんだよ。
The idea is if we don't look out the white race will be--will be utterly submerged.
(拙大意)この本の見解はだな、つまり、白人がうっかりしてると……すっかりやられちまうってことなんだ。
It's all scientific stuff; it's been proved."
(拙大意)科学的根拠に基づいてるんだぜ……証明ずみさ」
"Tom's getting very profound," said Daisy with an expression of unthoughtful sadness.
(拙大意)「トムは最近学者さんみたいになっちゃってるのよ」とデイズィーは悲しくもないのに悲しそうな顔をして言った。
"He reads deep books with long words in them.
(拙大意)「だって、読む本っていったら長い単語がいっぱいの難しそうなのばっかりなんですもの。
What was that word we----"
(拙大意)ねえ、何ていう単語だったかしら、ほらあの……」
"Well, these books are all scientific," insisted Tom, glancing at her impatiently.
(拙大意)「ともかく、そういう類の本はみんな学術的なものだって言っただろ」とプチキレた目線をデイズィーに向けながらトムは言い張
った。
"This fellow has worked out the whole thing.
(拙大意)「この本の著者はあらゆる方面から結論を導き出したのさ。
It's up to us who are the dominant race to watch out or these other races will have control of things."
(拙大意)優位にある人種、つまり我々白人が目を光らせてないと、他の人種が世界を支配してしまうようになるってことさ」
"We've got to beat them down," whispered Daisy, winking ferociously toward the fervent sun.
(拙大意)「そう……我々はやつらを叩きのめさねばならぬのだ」とデイズィーは声をひそめて言った。そして、日没で灼熱色に輝く太陽に向かってオーバーにウィンクをしてみせるのだった。

rising sun←(=)→sunset
日本の旭日旗を逆に沈む日と見たててるのである。
対日警戒感というものが、当時(1920年代)の米国で
一部の知識階級に浸透してたという証左である。
この"架空"のGoddard(ガダード)という著者名は、
Madison Grant(マディスン・グラント、1865-1937)という
優生学と環境保護に基づいた人種差別主義の弁護士と、
Theodore Lothrop Stoddard(シーアドア・ロウスラップ・スタダード、1883-1950)
という優生学を信奉する歴史家・ジャーナリストの名を
くっつけたフィッツジェラルドの造語である。といっても、
Goddardというサーネイムはありふれた名で、
チャップリンの愛人だったこともあり
作家のレマルクと結婚したこともある
女優のいわゆるポーレット・ゴダードもこの母方のサーネイムを
父方ユダヤ隠しのための芸名としてる。

禁酒法時代の米国で闇販売で儲けて財を成したギャツビーは、
不滅の恋人デイズィーがイースト・エッグに住んでることを探り当て、
その対岸に豪奢な邸宅を構えたのである。そして、
夜になると自宅から対岸のビューキャナン邸の船着場の端に見える
"green light(グリーン・ライト)"を見つめるのだった。
それは船舶の航行のための青信号だったのだが、
ギャツビーの希望と夢を象徴してたのである。ちなみに、
"green light"とは青信号のことなので、いわゆる
"ゴーサイン"の意味としても比喩的に使われる。たとえば、
「殺しの指令が下った」というような意味にも用いられる。また、
この「グリーン」という灯はギャツビーに欠落してた
「富」を象徴してるのである。ビューキャナン大統領の後任となった
リンカンは南北戦争に勝つためにNYの金融界に融資を頼んだ。が、
南北に分かれて戦っててくれたほうが都合がいいハゲタカにとって、
どちらかにだけ加担などするはずもない。リンカンは
闇金も真っ青な高利をふっかけられ、結局、
政府発行の新紙幣を発行してしまった。これが
それまでの紙幣と区別するために裏側に緑のインクを使ったので、
"グリーンバック(greenback)"紙幣と呼ばれる。これは、
現在の米国紙幣にも名残がのこってる。そして、
"green"は"money"の符牒・俗語としても使われてるのである。
ちなみに、
この新券発行強行がリンカンの命取りだった。
"英国貴族の遺産相続にアメリカ人となってる一族の男が絡む"という喜劇
"Our American Cousin(邦題=われらがアメリカのいとこ。が、
これは誤訳で、4親等のいとこではなく5親等以上の親類)"
を観劇中にピストルで暗殺されることになるのである。
(後篇 http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/6457948677867dcc3d603cdeb2066bf5 につづきます)
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「音と色の共感覚を持つリスト・フェレンツと、彼の巡礼の年第1年スイス・アルプスへの共感」

2013年04月26日 00時05分25秒 | 事実は小説より日記なりや?
米国のTVドラマの脚本家以外に、私自身で見聞きできる
文化・知識や自分の想像力以上のものを
期待できないであろう現代作家の
小説を読もうとは思わない。そうはいっても、
生来のミーハーな性分ゆえに、ノーベル賞有力候補と
何度もマスコミが持ち上げる流行作家の新作発売に
徹夜で並んでる庶民の姿が報道されると、
我が低俗なる好奇心はおおいに刺激される。

村上春樹の新作、
「色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年」
が一般発売されて約2週間が経った。
ネットを見てみると、ネタバレを書いてくれてる人が
何人かいた。それらを読んだだけで
実際に本は手にしたこともないので、
トンチンカンなことを書くかもしれないが、
あらかじめ了承されたい。

主人公=多崎つくる(男)、は"色彩がない"のだそうだ。
同人の名古屋の公立高時の仲良し4人は、
赤松慶(あかまつ・けい)=アカ・男、
青海悦夫(おうみ・よしお)=アオ・男、
白根柚木(しらね・ゆずき)=シロ・女、
黒埜恵理(くろの・えり)=クロ・女、
という、それぞれに「色」を持ってるキャラだという。
警察が使う詐欺の種別を表す「赤、青、黒、白」という
符牒ではないようである。ちなみに、
多崎だけが"作"という名をことさらに
"ひらいて"る。

ともあれ、
この友人4人の"色キャラクター"は、米国の作家
Paul Auster(ポール・オースター、1947-)の「NY三部作」の一、
"Ghosts(邦題=幽霊たち、1986刊)"
のネタである、とネットで書いてるかたがいた。村上春樹はこの作家の
「オーギー・レンのクリスマス物語」を共同翻訳してるらしい。
いっぽう、村上春樹の後だしのほうは、
4人が青赤白黒ということであるから、
"風水"である。とすると、
多崎は本来"黄色"であるはずだった。
色の三原色と違って、"光の三原色(赤青緑)"では、
赤と緑を重ねると黄ができる。また、
赤青緑3つを合わせると一般には
"白色"になる、とされてるが、そのじつ
"無色"の光になるのである。小説の中では、
大学時代の多崎の知人となる
灰田文紹(はいだ・ふみあき)=男、の話の中に、
"緑川(みどりかわ)=男"という
ジャズピアニストが出てくるという。
黒埜女史は結婚してフィンランド暮らしという設定である。
フィンランドの国旗は雪を意味する白地に
湖を表す青のスカンディナヴィア十字である。だから、
クロへの土産を南「青」山の店に買いにいったのである。
青山というエリアも、関西圏出身の村上春樹には
異様に執着がある場所である。

ところで、
他の村上春樹作品と同様に、この新作でも
クラ音をフィーチャーしてるらしい。
フランツ・リスト(リスト・フェレンツ)のpf曲、
"Annees de pelerinage(アネ・ドゥ・ペルリナジュ=巡礼の年)"
第1年(全9曲)「スイス」の第8曲、
"Le mal du pays(ル・マル・デュ・ペイ=地域的な問題による不調
=ホームシック→郷愁)"(ホ短調)
である。「多崎」の出版が昨年だったら、
「グリム童話」初版第1巻が出てちょうど200年だったから、
グリム弟Willheim(ヴィルヘルム)にちなんでpilgrimならぬ
WillGrimm(ヴィルグリム)な年だったし、
一昨年だったらリスト生誕200年だったのだが。ともあれ、
リストといえば"黒衣"がトレイドマークであるが、この「郷愁」は
高校時にシロが弾いてて、大学時に多崎が灰田にタイトルを尋ねた曲である。
アルプスで死にたいという望郷の念にかられた音楽、
ということらしい。

[Lento(レント=物がグニャっとなるほど遅く)、4/4拍子、1♯(ホ短調)]
♪ラー・<ド<レ・・<ミー・ーー│>♯レー・<ミ>ド・・>ラー・ーー♪
ケルビーニの弦楽四重奏曲第4番(ホ長調)の第3楽章スケルツォ中間部の
強烈なユニゾン、
[Andantino con moto、3/4拍子、無調号(実質、ホ短調)]
♪ラ>♯ソ<ラ>ファ・>ミ<♯ソ<ラ<シ・<ド>【ラ<ド<レ│
<ミ>♯レ<ミ>ド・>ラ】<シ<ド<レ・<ミ<♯ファ<♯ソ<ラ♪
に内包されてる音型と「類似」ケルビーニしてるのである。
フランツ・リストは音ごとに色が見える"共感覚者"だったという。
凡人もいいところな非共感覚者の私には、ピアノの音は
黒鍵と白鍵の別しか判らない。そんな黒白だけの単調で、
中村晃子女史が歌った「虹色の湖」のような七色の光を放つこともない、
ピンクレディの「UFO」のような未確認飛行物体との遭遇もない、
銀色のはるかな道な鴻紋軌道のレイル跡の水たまりに月の光も映らない、
リストの「霊感ヤマカン第六感」が閃かなかった駄作である。

(この「ル・マル・デュ・ペイ(邦題=郷愁)」の冒頭18小節を、
25日に亡くなったバタヤンのように、キーを換えずにホ短調で
アカペラの混声合唱ヴォカリーズにアレンジしたものを、
http://twitsound.jp/musics/tsCzUsO6o
にアップしておきました)

Alps(アルプス)という語はラテン語の形容詞
albus(アルブス=白い)が語源である。だから、
シロは「ル・マル・デュ・ペイ」を好んで弾いてた、という仕掛けなのである。
というわけで、こうしたプロットはバイロンの二番煎じである。ともあれ、
これでまた、ジャズ好きなクラ音ファンという層の人々が好むレヴェルの
演奏者であるベルマンとかブレンデルといった、
音楽センスに欠けてたのに生前やたらもてはやされた"ピアニスト"がまた
"亡霊"のように蘇って、音楽のオの字も解らない
読者たちに聴かれることになるのだろう。

余談だが、
緑川がピアノの上に置いた袋の中身と推測される
"6本めの指"というネタであるが、村上春樹が
"新訳"を出した「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」の作者
J.D.サリンジャーは……真偽のほどは定かでないが……
右手指が"6本"の"多指症"だったと言われてる。ここに、
村上春樹のサリンジャーに対する異様なまでの執着が窺われる。

"現在"、多崎は36歳。リストが上記ピアノ曲を仕上げたのは
1836年のことである。ともあれ、多崎は38歳の
"木元沙羅(きもと・さら)=女"と交際してるようである。
沙羅双樹は常「緑」の木である。そして、その5枚の花弁は
銭の花の色のように清らかに「白い」。が、
花弁の"中心"にある雄しべは
「黄色」をしてるのである。つまり、
木元女史とめでたく"結婚"できれば、
多崎は本来の「黄」と合体できるが、
結ばれなければ死を迎えるかまたは
死んだも同然にただ無為に行きつづけるか、
ということなのだろう。

さて、
「多崎」というキャラ名であるが、
tazaki(多崎)の崎は「saki→sai」とイ音便化することもある。
彩の国・埼玉(サキタマ→サイタマ)のように。ここで、
「多彩(tasai)」にイ音便化の逆行を施せば、
tasai→tasaki(→tazaki)となる。リストの「巡礼の年」のタイトル他は
フランス語で記されてる。このことにあわせて
フランス語を持ちだして、文法的な正誤はともかくも、
tout(すべての) couleurs(色)を単純に繋げると、
tout couleurs(トゥクルフ→トゥクルァ→トゥクル→ツクル)となるのである。
本当はtoutes les couleurs(トゥテ・レ・クルァ)であるが。
また、
「多崎」を清音化してローマ字表記すると、
"tasaki"である。母音を省略すると、
"tsk(ティスク)"である。これは、英語のスラングで、
「舌打ち」を意味するのである。

多崎がアラフォーで出会った女性の名である
沙羅(サラ)は、西欧ではSarahであり、
月に代わってお仕置きはしないかもしれないが、
"女王"を意味する。クロが移住したフィンランドでは、
sarastus(サラストス)という名詞は「夜明け」を意味する。
Jukka-Pekka Saraste(ユッカ=ペッカ・サラステ)という
フィンランド人クラ音指揮者のSarasteというサーネイムも
それから派生した語である。ともあれ、
"木元"は前述したように"黄元"と解するのがこの小説の
"肝と"思われる。このようなものに
40歳以下の多くの読者が熱狂するのだから、
大衆小説もそれなりに世の役に立ってるのだろう。ただ、
そういう類のものは一歩間違えると
"洗脳"という段階に進んでしまう。
オウムに入信してテロ犯罪を犯した者どものように。

識字者なら特段の能力・技術も要らずに書くことができて、
詠む側も識字者でさえあれば安易に接することができる
小説というものも芸術作品のはしくれであるとしたら、
大衆受けする時点でその小説なる代物はすでに
商業主義の歯車でしかない。昨年の
民主党野田政権末期に日本の領土である尖閣諸島の件で
中国様を怒らせたことで、日本人作家の本が
中国様の書店から撤去されたことがあった。そのとき、
流行作家村上春樹はウソツキジデス反日史観新聞に、
自分の本の売れ行きが落ちるのではないか、なかんづく、
ノーベル文学賞受賞に影響が出るのではないか、
という懸念を包み隠すべく、
<文化交流に影響を及ぼす>
という偽善をタテマエにして、真っ当な愛国者をなじる
<領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」>
というタイトルの声明文を"特別寄稿"した。
背伸びした中学生レヴェルの、事実をはきちがえたお寒い内容である。
人口が飛び抜けて多い中国様のような国家は、このような
商業主義作家にとって最重要"ターゲット"なのである。
やだ、やだ。あー、やだ。
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「新潮文庫を読みあさった中学生の頃/高橋義孝生誕100年にあたって」

2013年03月27日 23時49分15秒 | 事実は小説より日記なりや?
今日、2013年3月27日は、
ドイツ文学者だった高橋義孝(1913-1995)の
生誕100年にあたる日である。
大相撲好きで、横綱審議委員長でもあった。
同人の著作はほとんど読んだことがないが、
その訳書にはずいぶんと接した。私は
小学校高学年から中学の3年間にかけて、
国内外を問わず小説・随筆・著作物を読みあさった。私は
図書を借りるのが嫌いなので、読む本は
必ず買う。だから、おもに文庫だった。とくに、
同じ作品が複数出てる場合には、
新潮文庫を選んだ。中学時分から
反日左翼の岩波書店が嫌いだったが、なにより、
旧仮名遣いは読みづらかったのである。ともかくも、
当時出てた新潮文庫はほとんど揃ってた。
その新潮文庫の、いわゆる"ドイツ文学"のいくつかが、
高橋義孝が翻訳したものだった。実際にはおそらく、
教え子にやらせて当人が翻訳したものではないだろうが。

「若きウエルテルの悩み」(ゲーテ)、「ファウスト」(同)、
「ヴェニスに死す」(マン)、「魔の山」(同)、
などである。また、
「みずうみ」(シュトルム)、「三色菫・溺死」(同)、
などは、この「みずうみ」というタイトルが、
私のベアトリーチェであるエスツェットが書いた
「『みずうみ』を読んで」という漫画感想文を
偶然目にして以来、心に深く刻まれた言葉だったので、
ことさら感慨深い小説となった。それはともあれ、
「精神分析入門」(フロイト)、
なんていう訳書もあった。そして、
「変身」(カフカ)、
という"ドイツ文学"もあった。
高橋義孝の誕生日は彼岸の次週であるが、
[暑さザムザも彼岸まで]
という諺もある。それはどうでも、
この小説が嫌いなのは、まず、
藤岡弘も「おい、おい、おい、おい!」
とツッコんでしまいそうな、
「虫に変身する」
という、幽玄のかけらもないオカルトだからである。

「(原題=)Die Verwandlung(ディ・フェラヴァンドルング)」
の書き出しは、こうである。

"Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Traumen erwachte,
fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheuren Ungeziefer verwandelt."
(アルス・グレゴア・ザムザ・アイネス・モアゲンス・アオス・ウンルーイゲン・トロイメン・エアヴァッハテ、
ファント・エア・ズィッヒ・イン・ザイネム・ベット・ツ・アイネム・ウンゲホイレン・ウンゲツィーファー・フェアヴァンデルト。)
<(新潮文庫の高橋義孝訳)
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、
 自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。>
<(出典は失念したがネットに載ってた訳)
 ある朝、グレゴール・ザムザは不安な夢から目覚めると、
 ベッドの中で自分が巨大な毒虫に変わっているのに気づいた。>
「(拙大意)グレゴア・ザムザは朝、胸騒ぎがする夢から目を醒ましたとき、
     フカフカなお布団の上でキモい害虫に変身してる自分を見てとった。」
・als=接続詞(al+so→also→als。接続詞が導く従文が主文と同時であることを示す)
・eines Morgens(ein Morgen(男性名詞)の2格。元来は所有・属格→副詞句)
・aus(3格支配の前置詞。英語のout of。~から)
・unruhigen(形容詞unruhigウンルーイッヒ=不穏な、の3格)
・Traumen(男性名詞Traumeトロイメ=夢、の3格)
・erwachte(動詞erwachenエアヴァッヘン=夢から目覚める、の単数3人称過去)
・fand(動詞findenフィンデン=ふと知覚する、の単数3人称過去)
・er(単数3人称代名詞=(ここでは)彼は)
・sich(再帰代名詞=(ここでは)自身を)
・in(3格支配の前置詞。英語でもin)
・seinem(所有代名詞seinの3格。英語のhis)
・Bett(中性名詞Bettの3格。ベット、寝台)
・zu(3格支配の前置詞。英語のto)
・einem(不定冠詞einの3格(ここでは中性名詞Ungezieferに被る)。英語のa,an)
・ungeheuren(形容詞ungeheurウンゲホイア=どでかい、醜悪なくらい巨大な、の3格)
・Ungeziefer(中性名詞Ungeziefer=有害動物or害虫、の3格)
・verwandelt(動詞verwandelnフェアヴァンデルン=入れ替わるor変身する、の単数3人称過去)

unがやたらに多い文章である。グロ専なのである。
この小説は「不条理」を描いてるんだそうである。
一般に「虫」と訳されてる"Ungeziefer(ウンゲツィーファー)"は、
「害虫」、さらにいえば「ゴキブリ」なのである。としたら、
「不条理」どころか「不浄痢」なのである。が、
そこまで"特定"してしまうと、
「可? 不可?」と問うまでもなく、
ドンビキされて読者が獲得できないので、
その"Ungeziefer(ウンゲツィーファー)"という語を採ったのである。
いずれにしても、
こんなものは純文学などではなく、色物なのである。
茶羽色の。
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