チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「俳句(hike)は杜甫(徒歩)が起源?」

2005年08月19日 17時28分03秒 | サウンドオヴ最前列(カブリ付の下顎
8月19日はゲオルゲ・エネスクのお誕生日だそうである。
エネスクの作品に、フルとpfのための「カンタービレとプレスト」
というのがある。この「プレスト部」は、
チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」の2楽章クリソツなので、
その演奏はコンセルト・ヘボゥの首席の「美人フルーティスト」
エミリー・「バイロン」女史のがもっともいいはずである。さて、
ルーマニアには何とかスクという名が多いように感じる。
ロシアやポーランドの何とかスキィと同類らしい。
ローラ・ボベスクとかニコラエ・チャウシェスクとか、
ヨネスク師匠が晩ご飯どきに突撃してっても何も食べものがないので腹がスクとか。
まぁ、それはどうでも、ルーマニアの家庭では、酢漬けキャベツを食って、
腕白でもいいスクスク育ってほしい、といったところなのであろうか。
ときに、ヨネスク師匠といえば野球である。が、この師匠、
「しゃもじ」を持って民家に突撃してそのまま夕飯まで居着く島わりには、
広島カープでなく東京ジャイアンツのファンらしい。そして、さらには
なんと大リーグのファンでもあるらしい。昨スィーズン、86年ぶりの
ワールド・チャンピオンになったのはレッドソックス。ボストンが本拠地である。
カツラ米助というよりはツタの絡まるivyリーグである。ところで、最近、
テレ東が昼間に米国の「トゥルー・コーリング」という、主人公が
モーグ外の殺人事件をタイムターナー能力で回避させてしまうドラマをやってる。
その主役は、サラ・ミシェル・ゲラーがスプーンばかりか百合の絵皿まで曲げてしまう
「ババババ・バフィー/恋するドラキュラの悲しい十字架」
というオカルト寛平がチュウシンのドラマに14歳から19歳のころまで出てた
エリーザ・ヂューシクである。ボストン出身だが、アルバニア系が入ってるらしい。
そういえば、アルバニア人だったらしいマザー・テレサの本名も
アグネス・ゴンジャ・ボワジュ、とuが末尾であった。アルバニアの大統領も、
岸朝子でない人が発音したって「モイシウでございます」なのである。
ちなみに、アルプスの語源もラテン語のアルブス(白い)だったが、
アルバニアの語源も国土が「白い」石灰岩が堆積してできた土地だからだそうである。
さて、8月19日はそのゴロから「ハイクの日」なのだそうである。
俳句はもちろん、和歌の上の句575と下の句77を分けて、
みんなで滑稽な内容を歌い合った「連歌」がその起こりである。
ではなぜ、その元は57577という5音と7音からのみ構成されてるのであろうか。
それに漢詩ては、中国の絶句や律詩が五言と七言だからであろうと私は思う。それが
はなはだ見当違いだったら科挙に落第したくらい杜甫甫である。それはともかく、
杜甫は中年を過ぎてから家族を引き連れて放浪の旅に出たのだそうであるが、
その過程で見聞きしたことを詩日記にしたのを我々エセ漢詩委員会は、
「杜甫見聞録」と呼んでるのである。いっぽう、
李白は杜甫とは比べるべくもないほどもっともっと各地を旅したのだそうである。
徒歩で、かどうかは知らない。
さて、夏の俳句といえば、夏目漱石先生である。
……叩かれて・昼の蚊を吐く・木魚かな……
僧籍に身を置いた経歴もないのに、よくぞお経のチンプン漢文さと
蚊があわてふためいて出てく滑稽さを対比させたものである。もう一句、
……化学とは・花火を造る・術(すべ)ならん……
「化学とは」という第一句に始まる俳句を詠んだとおり、漱石は
花火が炎初句反応のなせるわざであることを知ってたのである。弟子に、
……天災は・忘れたころに・やってくる……
という俳句で知られる高知出身の実践物理学者の寺田寅彦がいたのであるが、
その寺田が漱石に化学をcoachしたのであろうか。ちなみに、
絵画とvnが好きだったという寺田の学位論文は、
「尺八の音響学的研究」である。また、寺田はエッセイストとしても名を残してる。
「神田を散歩して」というエッセイがわりと有名である。このタイトルを
我々エセ・エセイスト協会では「カンダンテ・カンダービレ」と訳してるのである。
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「一(ein)石(stein)ニ長」

2005年06月24日 16時48分10秒 | サウンドオヴ最前列(カブリ付の下顎
今年は1905年の特殊相対性理論発表から100周年である。
この理論は、「相対性原理」と「光速度不変原理」というふたつの原理
の上に成り立ってるそうである。私のようなザル脳でもわかる言葉でいえば、前者は
「絶対静止空間は存在しない」ということであり、後者は
「光速は誰にとってももっとも速いものでありその速度は変わらない」
ということらしい。私がガキのころは血をみるのが好きで、
カール・乱闘シュタイナーなんて、よその学校の生徒さんらと殴り
アイシタイんです「特殊早退生理論」というものを振りかざし、
午前の授業だけでトンズラしてたものである。私ひとりでは弱っちいので
キタネェとなじられようが仲間を大勢引き連れての統率直線運動である。
というのはオヤジギャグのためのフィクションである。ともあれ、
遠方より来たる亦たのもしからずや等速直線運動する物体の
1)時間の進み具合は遅くなる
2)進行方向の長さは縮まる
3)(相対的)質量は増える
のが特殊相対性理論なのだそうである。ところで、相対性理論といえば、
アインシュタインが来日して講演をしたとき、誰かが
「アイタイセイ(愛体勢理論)」と誤読したのが耳から耳に伝わって、
「カーマスートラ」聴講希望者が殺到したとか、しなかったとか。いずれにしても、
E=mc^2
という公式をよく目にする。敵がこっちに等速でまっすぐ向かってくれば、
光速で逃げれば助かるのである。それはともかく、
「光速度不変の原理」により、「c」はただの「定数」である。
「幸楽」の「c」なら「定食」である。それはさておき、
ブッタいと物体が衝突した場合のエナジーかずき沙也は「質量にのみ」依存する、
のである。よって、ブゥデェなやつほどそのエネルギーは大きい。
ズウタイのデカい豚や猪が豚足直線運動で猪突猛進してくれば、
衝突の被害は大きくなる。これを我々エセ科学研究斑では、
「エネル事故」と呼んでる。さて、
モーツァル神の「独vn、独ヴィオラとオケ用協交(変ホ長)」では、
「独ヴィオラのみ」が通常の調弦より半段上げの露出に増感されてるのである。
したがって、当然ながら、
「独ヴィオラ」パートの記譜は半音下げた「ニ長」になってる。
5度調弦が高いvnにくらべてヴィオラの音色はくぐもってるのである。
しかしながら、半音高く弦を張る、ということは、弦の張力が増すことである。
音色は(わずかであろうが)目立つものになるであろう。そして、
「独ヴィオラ」が「変ホ長」の音楽を「ニ長」の運指で弾けるとしたら、
きっと「きちんと変ホ長」で奏してる「独vn、オケ」とは「温度差」が生じる、
はずである。これがモーツァル神が意図した一石二鳥のスコルダトゥーラである。
アルバートにせよイタコならぬイトコのアルフレートにせよ、
モーツァル神の信者ならそう感じたであろう。
私はJRA教の信者である。毎週末のお祈りとお布施はかかさない。
あさって26日はIRAではなくJRAの「宝塚記念」である。
牡羊座の松永騎手と渡辺騎手、山羊座の幸騎手あたりから買ってみようと、
今現在は思ってる。トウシヨウナイト号にもちょっと注意してる。
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「エレクトラ・コンプレックス」

2005年06月03日 16時38分02秒 | サウンドオヴ最前列(カブリ付の下顎
人妻との4日間の愛の末、静かに身をひいたのが、「マディスン郡の橋」での
不倫ト・イーストウッドである。いっぽう、情夫に手を借りて亭主のドタマを
斧で叩き割らずともいずれは殺めたか喉を杜若かしたであろうのが、
フルタイム雌虎である。そして、あまりにも哀れすぎる父を
アワレムノンしたのが長女のエレクトラである。心理学の世界で
「エレクトラ・コンプレックス」と名づけられたものは、これがモトネタである。
「マディスン」から10年後にイーストウッド翁がやはり監督・主演した
「百万ドル娘」のマギー司子が持つコンプレックスも、それに近い。さて、
リヒャルト・シュトラオスの歌劇「エレクトラ」の舞台は殺風景なものが多いが、
ボブ・殺風が出てる映画はそんなことはないようである。
♪見ぃ上ぁ~~げてぇゴラン~~~~~♪ 美酒肉いっぱいの宴的豪華さである。
西側に黄色いものを置くと開運に恵まれる、という一言をDr.コバッチュは忘れない。
さて、主演のジェニファー・ガーナー嬢といえば、いまや押しもおされぬ
アクションものの第一人者であるが、同女の「殺陣」は、
「鞍馬ー(amber)」というよりはむしろ、
「鋭利アス」な刃物で舞う「床運動」といったおもむきである。
女主人公と対戦する「サップ」も、最初は威勢がいいが「次第にしなびてく」
という持ち前の芸風を通すのである。いっぽう、ゴラン・ヴィシュニクの
娘の役名が「アビー」というのは「ER」をも網羅ティアニーしてルカと思ってしまう。
それはさておき、「エレクトラ」の語源はギリシア語の「琥珀」にあたる語、
なんだそうであるが、私の食生活といえば「エレェ、食ットラ!」である。
昔むかしのギリシアの幼稚園児の間では、たわいない遊びが流行ってたそうである。
琥珀の下敷きあるいは黒鍵で紅白のヴィルヘルム絹布を巻いたオツムを擦ると、
その下敷きは静電気を帯びる。下敷きをオツムからそおっと離そうとすると、
髪のあるヒトなら、毛が立つ。さらに、その下敷きを
机の上からやや離したところで保持すると、消しゴムの消しカスまで集まってくる。
それならば、金銀財宝も集まってくるかもしれない。というのは、
欲をかきすぎた話である。これを、机上のクーロンというのである。が、
ふと何気なく見過ごしてしまうこんな現象からあることをひらめいた、
敏・感なおと・っつぁん弁理士が米国にはいたのである。
それが、コピー機を発明したチェスター・フロイド・カールスンである。
メルツェデスのチューニング屋さんではない。
帯電)感光体を「+」に帯電させとく。
感光)「珈琲(コピ)」をこぼした原稿を感光体とセットして……これを、
   コピー機業界では大同ドリンコの「感光琲」と呼んで、ない……光を照射する。
   すると、珈琲がこぼれたとこは「+」の帯電が残るが、
   白いとこは光が反射するので静電気が消えてしまう……これを、
   電荷の宝刀を抜く、と言わない……。
現像)感光体に残ってる「+」の電荷に「-」の電荷を帯びた炭素粉をふりかけ、
   呪文をトナーえる。すると、珈琲をこぼした部分だけに炭素粉が吸いつく。
転写)感光体を高電圧をかけたコピー用紙に転写し、
定着)加熱すると、炭素粉が溶け、炭素粉が紙に染み込む。
米村そこに目線をテンジロウ大先生によれば、以上がコピー機の仕組み、
なんだそうである。が、そんなことにさえチンプンカンプンな私には、
機械がみな、米村ゼンジドウだとありがたい。
さて、クーロンの法則によれば、静止した電荷q1、q2があるとき、
その電荷の間には、静電気力が働く。その力は、
・ふたつの電気量それぞれに比例し、
・ふたつの電荷間の距離の2乗に反比例する、
のである。いっぽう、私の「腹一杯食ウ論」の法則によれば、
BMI(ボディ・増ス・インデックス=肥満度)は、
・肥満体の質量(=体重)に比例し、
・オツムのテッペンとアンヨのウラ間の距離(=身長)の2乗に反比例する、
のである。すなわち、「肥満度」とは、肥満に傾く力(怠惰)、のことである。
宇宙に存在する4つの力を私は統一できないが、いずれにしても、
「怠惰に向かう力=乱雑さ」であることははっきりと断言できる。
ギリシアの哲学者ふうにいえば、万物は崩壊する、のである。が、
バンブーっつうのはなかなかに折れにくい丈夫なつくりをしてるのである。
いずれにしても、科学オンチな私には、浦安まで出ズニ、
なぜあんなにきれいに光るのか、家の中で観て知りたい、という
「エレクトリカル・パレード・コンプレックス」がある。
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「4神(シジン)のための物理学」

2005年05月16日 17時19分57秒 | サウンドオヴ最前列(カブリ付の下顎
「スペイス」・クラフトには、「4人の美女」
(クリスティーナ&ローラ両嬢、岩田さゆり嬢、栗山千明嬢)がいるそうである。他方、
「宇宙」という世界には、「4つの力」があるのだそうである。すなわち、
「電磁力」「弱い力」「強い力」「重力」である。いっぽう、
「くら音」という世界には、「4人の神さま」がおはす。
「ベート-フェン」「シューバート」「ブルックナー」「チィコーフスキィ」
である。彼らは「音神」であるが「独神」でもある。
さて、チャイコフスキーの作品番号「44」の「2番pf協」は、
1879年に(下書きが)作曲された(オーケストレイション完成は翌年)。
ジェイムズ・C・マクスウェルが死んだ年である。
「電気」と「磁気」を樹木希林女史といっしょに統一した男である。
「林檎殺人事件」の郷ひろみではない。肩こりに悩む倅の肩に乗せたリンゴに
横矢を射たおじいさんである。ちなみに、私の肩こりも、
ビッグバンよりピップエレキバンのほうが効くのである。
1879年はまた、アルバート・アインシュタインが生まれた年でもある。いっぽう、
その「100年後」の1979年、朝永振一郎が死んだ年、
グラショウ・サラム・ワインバーグという「3ボーズ・トリオ」が、
「電磁気力」と「弱い力」を「統一」したかどで、ノーベル物理学賞を受けたそうである。
中でも、ワインバーグは「おっぱまワイン」の醸造者としても知られて、はないが、
海軍に入隊してたときに覚えたクラリネットを吹くそうである。とホラを吹いてみる。
♪ぼくの大すきな、クラァ~リネット。パパからもらった、クラァ~リネット。
とっても大事にしてたのにぃ、こわれて出ない音があるぅ。
どうぅ~しようぅ~~、どうぅ~しよ。
オ・パ・キャマラド、パ・キャマラド、パ・オ・パ・オ・パッパッパッ、
オッツパマラァ~ド、追浜ラァ~ド、パ・オ・パ・オ・パ♪
現在も、「4つの力」すべてを統一しようという「努力」が続けられてるようである。
この「物理学」の「超統一理論」、
「セリー、ナズナ、
5行、ハコベラ、
ホトケノザ、
スズナ、スズシロ、
これぞ質草」
から5行だけ引用したものが、私の「くら音引用5行説」である。
東に青龍たる「ベト神」、南に朱雀たる「シュべ神」、
西に白虎たる「ブル神」、北に玄武たる「チャイ神」、を配すのである。
土用の期間を埋めるのは、黄色いモノがお好きだった「モツ神」である。
この「5神」のそれぞれの「最後の交響曲」を比べてみよう。

土用の「モツ神」の「ジュピター(モツ交の番号は無意味)」(ハ長):
主章シテ主題終い近く(ハ長)、
♪ドー>ソー<ドー>ソー|<【ドー>ソー>ミー>ドー】|>ソッ♪
「ベト神」の「第九(平方数)」(ニ短):
主章シテ主題は長化物が再呈示される(変ロ長)。
♪【ド|>ソーーー・ーーー、>ミ|>ドーー】、>ソ>ミーー、
 <ソ>ミ|>ドーーー・ーーー♪
「シュベ神」の「D944(旧9番=平方数)」(ハ長):
主章ワキ主題につづく(ト長)、
♪シー|<【ドーーー・ーー>ソッ|>ミッ>ドッ・ドッ】♪
(*終章ワキツレ主題が展開部で、
 ♪ソー|>ファ>ミ|ミ<『ファ|>ミ>レ|>ドー|<レ<ミ|ミー|>レ』♪
 というのは明らかに『歓喜に』の節である)
「ブル神」の「未完成交響楽(9番=平方数)」(ニ短):
主章シテ主題群の一(変ハ長=ロ長))、
♪【ドーーー|>ソー>ミー|>ドー】>ソー|>ミ
 <ソ<ミー>ッレ|レーーー|>♯ド……♪
「チャイ神」の「悲愴(6番:非平方数)」(ロ短):
諧謔章終い(ト長)、
♪ドッドッ○ドッ|○ドッ○>ソッ|>ドッ>ソッ>ドッ>ソッ|
 >ドーーー|ーーードドド|ドッ○○○♪

やはり、重力(於ペテルブルク死)と他の3+1力(於ヴィーン死)
を「統一」するのは難しいようである(gravity→grave)。が、
上記「5神ラスト交」はいずれも、♪【ド>ソ(>ミ)>ド】♪を
「弦」が擦りだすのである。これを、
「スーパーストリング・ティアリ(調紐理論)」と私は呼んでるのである。ときに、
サー・アイザック・ニュートンの「F=g(m1・m2)/r^2」は、
「2つの物体に働く力は、その2つの物体のそれぞれの質量の積に比例し、
その2つの物体間の距離の『二乗』に反比例する」
というのである。対して、アインシュタインの「E=mc^2」は、
「物体の質量は、その物体のエナジーに比例し、
光速の『二乗』に反比例する」
と輪切りにできるのである。いっぽう、「F=k(q1・q2)/r^2」は、
「2つの電荷に働く静電気力は、その2つの電荷のそれぞれの電気量の積に比例し、
その2つの電荷の距離の『二乗』に反比例する」
と説くのである。「重力」同様、「距離の『二乗』に反比例する」、のである。
また、以上から、「光速」と「距離」が「おんなじ」であることが導かれるのである。
「校則」が理不尽に厳しい学校は、教師と生徒の「距離」がかけはなれてるのと似てる。
それはともかく、上記から導かれる理屈を、
「ドゥ・クーロン家の電荷の宝刀」あるいは「机上のクーロンの法則」と、
我々ニセ科学者の世界では呼んでるのである。
いずれにしても、私は「スターダスト」の長谷部瞳嬢が好きである。
7月からのウルトラマン・マックスウェルである。
宇宙創世はじめの3分間以外にも活動できる機能附きキャラクターである。
3分間の賞味期限が切れたら、ただのガラクターである。
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「精選殖体」

2005年03月24日 17時32分00秒 | サウンドオヴ最前列(カブリ付の下顎
女装マニアの男はそこらへんにゾロゾロいるが、
男装マニアの女というヒトには誰しも一生のうちにジョルジュ・3度ほどしか
お目にかからないのではないだろうか。
ヒトの胎児は妊娠約6週くらいまで男も女なのである。
チャイコフスキーの作品番号第46番は「6つの二重螺旋唱曲」であるが、
ヒトは23ツイの染色体を備えてる。22ツイの常染色体と1ツイの性染色体である。
男はx染色体のアイカタにy染色体、が、女はx染色体のゾロメである。
男のy染色体に含まれるsry遺伝子が活性し、テストステロンを浴びせ、
腎臓から精巣を分化させ、子宮を作ることを阻害し、「男」を形成するのである。
それがsly遺伝子だと、一介の貧乏詩人を伯爵に替えてしまうところだが、
初のクローン羊の名が「ドリー」というのも皮肉な話である。
ところで、y染色体はx染色体の大きさの3割程度しかない。したがって、
含まれる遺伝子量もyはxよりはるかに少ない。しかも、y染色体中の遺伝子は、
「ただ単に『性別を男に変換する』というsry遺伝子が重要なだけで、
他にはたいした働きがないのばかり」というレッテルをはられてきたのである。そして、
未だに、専門家でもy染色体を軽視してるむきがいる、という驚異的な事実がある。
y染色体は、受精中に開催される「DNA交歓パーティ」に参加しないヒッキーである。
自分の中だけでDNA交換を行ってるオナニストなのである。
遺伝子は突然変異を起こしやすいものである。DNAの基本ユニットに
ヌクレ落チ度が生じでもしたら大変なことになる。y染色体はそういう事故に備えて、
自己修復の可能性を残すためにセルフサーヴィスでがまんしてるのである。
それはそうと、y染色体の多くが「上から読んでも下から呼んでも『雅子様』配列」
あるいは「鏡像配列」(パリンドロウム)になってるのである。
私は強迫観念症のひとつ「スペア症」で、大事なもの・気に入ったものはみな、
同じものを複数個所有してないと気がきでないのであるが、まさに、
この「鏡像配列」は「スペア・キー」である。ところが、この配列がまた
まことに組みかえを起こしやすいのである。
修復不能な事故の場合には、「覆水盆に帰らず」なのである。
不妊の多くの原因がそこにあるらしいというのが現在のおおかたの見解である。
音楽の才能は、おそらく胎児時の脳への「刺激具合」に深く関わってると考える。
元をただせばsry遺伝子の具合である。他の「芸術」に比して、
大作曲家の寿命は短い。傑作を生み出せる年齢も低い。
80、90で素晴らしい絵を残した画家はたんといるが、音楽は、たいていの場合、
せいぜい50代までである。そして、私が思うに、なんらかの理由で
子を残せない作曲家が、その補償行為として残したのが、「音楽」なのである。
「ベートーベン」「シューベルト」「ブルックナー」、そして、
「チャイコフスキー」を、青龍・白虎・朱雀・玄武たる「四神」ととらえてるのである。
子は残したが次の代で途絶えた「モーツァルト」を「土用の神」とあてはめる。
きちんとした子を残せれば、わざわざ音楽まで残さずともいいのである。
かといって、子持ちの作曲家の作品に価値がないというわけではない。
ヨーハン・シュトラオスもフェリックス・メンデルスゾーンも好きである。ただ、
上記「四神(+土用神)」は「特段」である、と思うのである。
ときに、詳細は省くが、性染色体も元はといえば常染色体である。
ごく簡単にいえば、y染色体がsry遺伝子を備えたために、性染色体になったのである。
したがって、いずれはそのsry遺伝子もその機能を失う運命なのである。そして、
それに替わる常染色体が「y染色体化」するかもしれないのである。
この染色体を大事に護ってきたのが、我が国の天皇家である。
なぜ、皇統は「男系男子」でなければならないか?
神武帝以来のy染色体を「綿々と繋いで」きたためである。
我が国の国民も、そのために多くの犠牲を払ってきたのである。
これはとても重要なことである。思想や政治ではない。科学なのである。
そんな国は、世界じゅうのどこを探しても、日本以外にはないのである。
まぁ、それが「どうでもいいこと」と考えるなら、それはそれでしかたのないことである。
米英に代表される白人はその「考え」を歓迎することだろう。
勉学にいそしまず・働かず・働く気もない人種が日本で増えてることに、
彼らは矯正した歯列を見せてニート笑ってることであろう。
日本・日本人を骨抜きにして財産を吸いあげること、それが彼らの大目標だったのだから。
太古、アフリカを追われ、お寒い北に逃げ、食糧不足に苦しんで
夕食の材料にも事欠いた彼らは、有色に対してリヴェンジを誓ったのである。
彼らは耐え難きをたえ、しのびがたきをしのんで「肌が白い」ことを「武器」にした。
そして、「体格」「容姿」に磨きをかけた。アラブから「知恵」「教養」を学んだ。
大航海時代を経て、産業革命、植民地時代となり、アフリカの黒人を奴隷にした。
「アイ・シャル・リターン」……誓いを成就させたのである。
かつてモンゴルに支配され、近代になっても日本に負けた白人ロシアを見て、
太古の我が身を振り返る。アフリカでいじめにあい虐待されたトラウマが、
彼らを猜疑心の強い策士に育てた。黄禍を心配した彼らは中国と日本が手を結ぶのを恐れ、
ハル・ノートを突きつけ、「死ぬか、恭順するか、戦うか」のいずれか、
と日本を追いつめ、「手を出さ」せ、民間人無差別空爆、原爆で屈服させた。
戦後、それでも足りず、反日感情を煽らせ、ハゲタカ外資が日本を食い物にしてるが、
だからこそ、彼らと「うまくやってく」ことが肝要なのである。
彼らの中の「異端児」が築き上げた「くら音」の魅力には抗しかねる。
それひとつとっても、たいした人種なのである。
昨今、急増してる国際結婚、おおいにけっこうである。いずれ、全世界は
民族差・人種差なんて限りなく透明に誓いブルー人類一色になってしまうのだから。
民族・人種に国境なんてなくなるのである。
「イマジン」大先生も草葉の陰で泣いて喜ぶことだろう。
我が国の出生率が低いことを嘆いてもむだである。
ピリリェーパが選んだのはじつは「人格」ではない、「容姿」である。
リーザが選んだのは「地位」や「人格」ではない、「容姿」である。
が、「肌色の差」が今度は「絶対的な貧富の差」となるだけである。
鎖国してられた平和な時代が懐かしい、としのぶ境地だけが、
余韻として残るばかりである。これを「わび」「幽玄」というのである。
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