チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「筑波山は火山ではない/平成と貞観」

2014年03月11日 18時17分21秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
東日本大震災から3年経った今日は、各地・各方面で
さまざまなイヴァントや特集が組まれてた。
当時官房長官だった故小渕恵三が
「平成」と掲げてからすでに四半世紀以上が過ぎた。
この年号は「慶應」が採用されたときにも
候補のひとつとなってたという。
「地平天成(地たいらかに天なる)」という意味であり、
「書経」から採られたのだが、その
当該箇所自体が偽書ということである。
乱が起きた「平治」以来、「平」がつく年号は
忌避されてきたにもかかわらず、勇敢にも
830年ぶりにタブーを破ったのである。

平成になるとすぐに、「バブル」がはじけた。
オウムのテロ事件が起きた。
米国で同時多発テロが起きた。
世界的な金融危機が生じた。
韓国は国家経済破綻をきたし
IMF(資金は日本が出してるが経営は米国が握ってる)に頼り、
サムスン・ヒュンデと映画/TV韓流産業の殖産政策で
外資(米国)のカネヅルとなり、
日本は細川・村山などの売国政治家に引き続き、
米国の手先の劇場型政治家が首相となって、
金融市場を米国に開放させられた。さらに、
民主党鳩山・菅といった極悪売国奴らによって経済は
ますます悪化した。

気象面では、
猛暑がつづくようになった。
1933年に山形市が記録して以来
74年間保たれてきた最高気温が、
平成19年に抜かれ、さらには、
昨年の平成25年に再び更新された。そのいっぽうで、
春夏の集中豪雨が当たり前のようになった。
台風被害も大きくなった。
冬には豪雪が多くなった。
阪神淡路大震災が起きた。
新潟中越で大地震が重なった。
長野でも大地震が起きた。
能登でも大地震が生じた。
そして、三陸沖の大地震および津波が
東日本を襲った。平成になってまもなく、
雲仙普賢岳で大噴火が起きた。
三宅島でも噴火が続き、有珠山も噴火した。
3年前には霧島も噴火して平成新山ができた。
小笠原では西之島のあたりに新島ができてくっついた。
浅間山・阿蘇山・桜島はしょっちゅう噴火してるが、
富士山は噴火してない。が。

現行暦換算の627年乃至649年の
「貞観」年間には、富士山は大噴火したのである。
その5年後には、
陸奥国東方沖海底を震源とする巨大地震が発生した。
同時代には阿蘇山・鳥海山・開聞岳も噴火し、
出羽山城・播磨・相模武蔵・出雲・近畿一帯でも大規模地震が起こった。
洛中では疫病が流行し、応天門が放火され、
疫病・天災被災者慰霊および封じ祈願の
祇園祭のもとが始められた。

「大化」以来、断続継続交えて215年間、
日本独自の年号を採ってきた朝廷だったが、
西暦およそ859年に突如として、2世紀以上前に
中国唐が使った「貞観」を元号としたのである。これは、
「易経」の中の一節、
「天地之道貞観者也
(天地の道は貞にしてしめすものなり)」
から採られたとのことである。
「貞」とは貝占いで出た目出度い目、つまり、天意、正道、
「永久不変の安定」を意味する。ちなみに、
そのまんまの意味を名前としてる有名人がいる。
「王貞治(ワン・ツェンツィー)」である。その王選手の
日本プロ野球1スィーズン最多本塁打の記録も
平成25年にバレンティンによって破られた。が、それはともあれ、
清和・陽成両天皇の御代の足かけ23年、
貞観年間の現実は虚しかった。

百人一首13番(百人秀歌第12番)、陽成院御歌、
[つくばねの 峰よりおつる みなの川。恋ぞつもりて 淵となりぬる]
「(拙大意)筑波山の山頂から流れ落ちてくる男女ノ川であることよ。
タニシが生息するその川底の泥が下流にいくにしたがって積もってくように、
あなた(=釣殿宮綏子内親王)に対する私の恋心がね、どんどん募ってって、
川魚の鯉でも容易に抜け出すことができない
分厚い泥の川淵にはまったみたいになってしまったことですよ」
(万葉集の詠み人知らず歌(巻14-3392)、
「筑波嶺の 岩もとどろに 落つる水。世にもたゆらに 吾が思はなくに]
を本歌とした本歌取り。
次帝光孝天皇皇女の釣殿宮に宛てた歌なので川ネタにしたエスプリを利かせてる。
筑波山の頂は双子山になってて片方を男体山、もう一方を女体山と呼ぶ。
筑波山は火山ではなく、隆起でできた山。
縄文時代は麓まで海で、防波堤という意味合いで
「築坡(つきば)」と呼ばれてた。
その筑波山の男女にかけた男女川=ミナの川
→ミナはタニシの別称。鯉釣りの餌として使ってた。
泥(ひぢ。こひぢ)→恋路とかけてる。)
陽成院は貞観大地震の年にお生まれになった。
諱を「貞」明(さだあきら)といわれた。
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「天平10年(738年)の怪/故豊島采女(こ・としまのうねめ)という謎の歌人と長屋王の変」

2014年01月16日 00時56分43秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
昨日、宮中歌会始で天皇陛下は
皇太子妃の母方の江頭家(2:50エガチャンの親戚でもある)が
水銀を垂れ流したチッソ害による水俣を詠まれた。
[慰霊碑の 先に広がる 水俣の 海青くして 静かなりけり]

昨年末に、
落ちこぼれ若者の心情のダイベン者といった芸風のカリスマで
全裸で死んでたイケメン・ヤク中歌手(私はけっこう好きだが)や
"教授"などと呼ばれ呼ばせ悦に入ってる
反日左翼ながら金儲けだけはしっかりやってる
"作曲家"(私はかなり嫌いだが)などと同性関係があったり、
なるほど・ザ・チョコレイトよりもM男を苛め抜いてその褒美としてプレイの最後に
聖水を飲ませるのが好きな元アナ・タレント女史のM奴隷だったことで知られる人物が
異母兄弟同士不仲で有名だった大手版元から独立して成功した出版社から、
トンでもない新書が発売された。そのタイトルからして異様だが、内容たるや、
驚きももの木21世紀、である。
一般人以下にみうけられがちな誤認、
学者とは思えない無知、
美容整形依存症族と見紛うばかりの日本人離れした曲解・虚偽・陥穽・悪意。
<歴代八人一〇代の女帝が存在する。
にもかかわらず(男系固執派)が「皇室の危機」といいながら女性天皇を否定するのは、
明治以来の皇室典範に底流する単なる男尊女卑思想によるものではないか>
だと。
誰も女性天皇がいらっしゃったことを否定などしてない。ただ、
女性天皇は当座しのぎ措置である。
すべて未亡人の皇后もしくは皇太子妃または独身である。
自身の後続者に女性皇族を考えてた女性天皇は一人もいない。
この著者は学者だというのに
女系天皇(そんなものはありもしないが)と女性天皇の違いも区別しないらしい。
こんなトンデモ本を買って鵜呑みにしてしまう
オツムの足りないのがウジャウジャ出てきてしまったら、また、
園遊会でこんな本を陛下にケンジョウするような不届き者がでてきてしまったら、
いったいどう責任をとるのだろう。

かつて、
天武天皇とその后だった持統天皇は、二人の子の系統を
代々天皇につけていくことを夢見た。が、
抗争を繰り広げてるうちに聖武天皇で男系が途絶えてしまったのである。
そのときに当座しのぎ措置で皇太子となった聖武の娘が孝謙天皇であり
(cf;「春の苑、紅にほふ。桃の花、下照る道に、出で立つをとめ(大伴家持)/モモの語源と桃太郎」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/ca1b1f3715d89b03feaec22ed2a484e2 )、
淳仁天皇のワンポイントを経て重祚し、称徳天皇となった。そのとき、
道鏡が中国人みたいに皇位簒奪を図ったのである。そして、
その悪巧みを阻止した功労者が和気清麻呂なのであり、現在、
皇居大手門近くの気象庁前に銅像が建てられてその功績を称えられてる。で、
称徳天皇は後継者を置かないまま(道鏡との関係はともかく)生涯独身のまま崩御した。
皇統を汚さんとしたこの女性天皇に対し、
周囲は病の手当をさせず放置するという仕打ちをしたという。その死後に、
政争の蚊帳の外だった天智天皇の孫白壁王が62歳で光仁天皇として即位したのである。

その光仁天皇の父が、
[采女の、袖吹きかへす。明日香風、都を遠み、いたずらに吹く]
(持統帝時に飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷都したのだが、その旧都の
寂れぶりを懐古した歌である)
でも知られる"万葉歌人"志貴皇子である。同皇子は天智天皇の子ながら、
すでに天武持統系となってた皇位には無縁だった。
采女(うねめ)とは、地方豪族の容姿端麗な女子で、
天皇皇后の身の回りを仕切る女官のことである。ちなみに、
ウネメという呼称は「うなゐめ(unawime→unaime)」の二重母音aiがeに詰まったものである。
だから、万葉集でも「うねめ」としたのでは字足らずになるので
「うないめ」と読んだほうが自然である。ともあれ、
「うなゐ」とは「うなじ」の位置で髪をザンバラにすることを「うなう」と言った。
その連体形「うなゐ」に女(め)が接続したものである。うない髪は通常は
幼い女子の髪型であるが、天皇皇后の側近であるゆえ、
髪を長くしてまとめて危険物を隠したりできないように
そうした髪型にしてたのである。

万葉集には「采女」が詠み人とされてるものは少ない。はっきりしてるのは、
駿河采女と豊島采女の各2首である。が、
豊島采女の歌はともに"死後"別人によって紹介された形をとってるのが
異様である。

(万葉集巻06-1026)
[百敷(ももしき)の 大宮人は、今日もかも 暇(いとま)を無みと 里に出でざらむ]
(拙大意)「たくさんの石や木でできた宮中に勤める、殿上人(上級貴族)は、
今日もやっぱり、仕事が忙しくて暇がないから、
自宅に帰ろうと宮中から出ないようですね(里=自宅)」
(同-1027)
[橘の 本(もと)に道踏む。八衢(やちまた)に 物をぞ思ふ。人に知らえず]
(拙大意)「橘の木のもとで足踏みしてるみたいなことですよ。
橘の幹が枝分かれしてるように道がいくつも分岐してるその場所で、
どちらの道に進む決断もできずにね思い悩んでるっていうことなんです。
立ち話し(橘氏)はおろか誰にも相談できずにね」

1026番は、
[右一首右大臣(=橘諸兄)傳云 故豊嶋采女歌]
天平10年(西暦およそ738)に、
橘諸兄が自宅の宴席で故人豊島采女作として披露した歌であり、
1027番は、
[右一首右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也]
高橋安麻呂がやはり故豊島采女が詠った歌だと紹介してる体である。

この2首、ともに「故豊嶋采女」の作というだけでなく、
天平10年(西暦およそ738)という共通点があるのである。なぜなら、
高橋安麻呂当人の「続日本紀」における既述は、
大宰大弐に任じられた(赴任はしてないと推定されてる)
天平10年(西暦およそ738)が最後だからである。
この高橋安麻呂は、
阿倍帯麻呂(あの仲麻呂の実弟)一味が
天平7年に起こした4人殺害事件の"裁判官"の一人(右中弁)だった。が、
その【裁判を放置するという職務怠慢】によって
被害者遺族から提訴されて処罰されたのである。

ともあれ、
橘諸兄と高橋安麻呂は「故豊嶋采女作」という体で
互いの立場を応答してるのである。
高橋安麻呂は橘諸兄に相談したいんだが、と問い、
橘諸兄は殿上人としての仕事で家にも帰れないくらい忙しくて時間とれへんで悪いね、と返した。

天平10年(西暦およそ738)という年はまた、
その9年前に起きた「長屋王の変」にも関係してる。
血筋がいい長屋王を疎ましく思ってた聖武天皇と藤原4兄妹は
策謀を巡らした。
中臣宮処東人(なかとみのみやところのあずまびと)に、
「長屋王は密かに左道(=悪事)を学びて国家を傾けんと欲す」
と誣告させた。追い詰められた長屋王は自害して果てたのである。
その9年後の天平10年(西暦およそ738)、
右兵庫頭となってた中臣宮処東人は
長屋王の臣であった大伴子虫(左兵庫少属)と、
【政務の間に囲碁に興じるという職務怠慢】を犯してた。そのさなか、
かねて敵討ちを狙ってた大伴子虫は長屋王の話題を持ちだし、
罵倒して抜刀し、中臣宮処東人を斬り殺したのである。

この中臣宮処東人は、その"呼称"からも判るように、
讃岐国山田郡宮処(現在の香川県高松市前田(東および西)町)を領地とする
中臣氏である。中臣氏ということはつまりは
中臣→藤原となった鎌足の子孫藤原4兄妹と縁戚である。で、
その宮処という地はその名のとおり、宮中に関係する土地である。
長屋王を計略で亡き者にした藤原4兄妹が
天平9年に天然痘などで相次いで死んだ。長屋王の祟りを畏れ、
聖武天皇が音頭を取って建立した「東大寺」の領地でもあった。

いっぽう、
上記の万葉集の2首の作者とされてる采女は、
豊島采女という名からその出身地が「豊島」であると推定されてる。が、
どこだかは判然とはしてない。私見では、
現在の香川県豊島(てしま)諸島という符牒だったと考える。そして、
上記万葉集の"故豊島采女作"の2首は、
高橋安麻呂と橘諸兄の"長屋王の変への関わり度"、つまり、
安麻呂は立場を決めかね(結局は加担した?)、諸兄は多忙をたてに関わらなかった、
という立場を表してるのだ、と。
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「春の苑、紅にほふ。桃の花、下照る道に、出で立つをとめ(大伴家持)/モモの語源と桃太郎」

2013年03月10日 17時46分06秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す

春の苑 紅にほふ。桃の花 下照る道に 出で立つをとめ 大伴家持


窓の外は中国原産の黄砂やPM2.5、それから、
戦後になって無思慮に植えられたスギの花粉などで黄色く濁ってるが
(黄砂がひどく飛んでくる、と「予報」してたくせに、
掌を返すように、これは黄砂ではなく「煙霧」だと懸命に打ち消す姿は、
まるで1050ヘクトパスカル級の高圧がどこかの国からかかってるようである)、
桃の花が咲く季節になった。私は果物では梨、葡萄、そして、
桃、が好きである。我が国で
「モ」という音が重ねられた「モモ」は、
中国西北部黄河上流の高山地帯が原産地なのだそうである。
中国にはまた、
「桃娘(タオニャン)」という性玩具女性が存在したという。
女の子を人身売買して奴隷として、
蜂蜜と桃だけを食事として与えつづけて
糖尿病にしたのである。そうして
飼い主のジジイはその甘い小水を飲むことで
不老を得れると考えられてた。
回春の道具としてあらゆる方法で使われ、
使い物にならなくなると最後は
その肉も食ったのだという。
これは作り話ではなく事実なのだと、かつて、
名門の出の中国人が教えてくれた。なにしろ、
その家で行われてたことだから、と。
その中国人は礼儀もわきまえた立派な人物だったが、
自分ら中国人は残忍でろくでもない人種だとも言ってた。
尖閣は日本が不法に奪い取ったとがなり立てるのも
むべなるかなである。

「モ」という訓がつくものに、
「喪」がある。
古代の日本では、死は穢れであった。だから、
死者の身内を日常から隔離してその穢れが薄まり、
「ほとぼりがさめる」のを待った。そうして、
邪気は祓われ、「喪があける」のである。いっぽう、
古代中国で果物の桃には、
邪気を祓い、不老長寿をもたらす植物、
という認識があった。だから、
「モ」をダブらせて「モモ」なのである。また、
海藻を表す「藻」は、健康食品である。
長寿の象徴とされた。そこからさらに、
「附加」「増加」「膨張」の意味にもなる。
係助詞「も」は付加、追加を表す。
「茂(も)」は繁る。「母」は子を産む。
「裳(も)」は腰から下に着用する「附加的」衣裳である。
「腿(もも)」は足の膨らんだ部位である。
「百(もも)」は100ほどのたくさんのものである。そして、
「盛(も)る」は6.02*10^23もの莫大な数である(※)。

万葉集に収まってる家持の歌で有名なものに、
[巻19-4139]がある。
[天平勝寳二年三月一日之暮眺矚春苑桃李花作二首]
(天平勝宝2年(*)の3月1日の夕方に、家持が
春苑の桃李の花を眺望して作った2首)
[春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立嫺嬬]
(はるのその、くれなゐにほふ。
もものはな、したでるみちに いでたつをとめ)
(*)天平勝宝2年は西暦およそ750年。
家持は越前守として赴任してる時期である。その前年に、
"皇太子"阿倍内親王(あべのひめみこ)が、
父の聖武帝から譲位されて即位してる。
孝謙女帝である。孝謙天皇は皇太子時代の
天平14年(西暦およそ742年)の5月5日に、
元正上皇の御前で五節舞を披露している。
五節舞(ごせちのまい)は新嘗祭や大嘗祭に舞われる、
ということになってるし、
「五節」とは雅楽の五つの節のことらしいが、このときは
「五節句」の一である「端午の節句」に舞われたのである。
ともあれ、
家持が歌った3月朔日は上巳の節句(桃の節句)の前々日である。
こういったことをふまえると、歌の大意はこうなる。ちなみに、
「シタデル道」といったって、
ケベック・スィティの要塞が現れるわけではないし、
衛兵がフランス語で交替するわけでもない。
(拙大意)
「春の庭園が一面紅色に染まってることだなぁ。
桃の花の色が木の下まで赤く照り映えてるが、その道には、
聖武天皇が元正上皇のために五節舞を当時の阿倍内親王さまに
舞わせたときの天女のような上品な御姿がまたここにも
お出ましになったと錯覚してしまうような
まことにすばらしい感動的な光景であることよ」

このおべんちゃらが功を奏したか、翌年、
越前守家持は少納言として京に呼び戻された。
この歌のためだとしたら、家持の猟官運動は大成功。
ご褒美人事である。ときに、
黍団子がご褒美なのは、

♪ソー・ー<ラ│>ソソ・>ミー│<ソソ・>ミ>ド│<レー・ーー│
>ドド・<レレ│<ミミ・>レー│<きび・<だん│>ごー・ーー♪

フライング・ゲット┐( ∵ )┌! 金太郎ならぬ、「桃太郎」である。
「皆さんは、鬼のことは嫌いかもしれませんが、
黍団子をやるから、
桃太郎のことは嫌いにならないでくださいっ!」
いい齢をしても長い髪にしてる性根の女性でなければ嫌いではないが、
若い女性でもショートヘアの女性が私は好きである。現在、
(フジTVの)月9はショートヘアがよく似合ってる剛力彩芽女史が主演の
「ビブリア古書堂の事件手帖」である。
全11話の予定らしい。明日が第9話で
「チェブラーシカ」の話らしい。ロシアものが出てしまうのだが、せめて、
最終話が「どん底」あたりであってほしい。さすれば、
(ペンネーム)マキシム・ゴーリキー・アヤメ
などにぇというオヤジ・ギャグができあがるのである。ともあれ、
この番組のスポンサーのひとつはコスメ会社の
メナードである。現在、この月9で流されてる同社のTVCMは、
フカきょんが出演して、
♪き~れいぃ~のみ~かた。フェイシャル・サロン、月二回、メナード♪
と高音域に苦しみながらも、そのCMソングも歌ってもいる。
この最初の箇所、
♪エっステにいきましょう。エっステで笑いましょう♪
は、童謡「桃太郎」の終い部分、
♪ドド・>ソー│>ミミ・<ララ│>ソソ・>ミ>レ│>ドー・ー●♪
に酷似してる。
♪ド●・●>ソ│>ミー・<ラー│>ソ>ファ・>ミ>レ│<ミー・ー●│
<ラ●・●>ミ│>ドー・<ラー│>ソ>ファ・>ミ>レ│>ドー・ー●│♪

黍団子のご褒美で桃太郎の家来となるのは、
犬・猿・雉。つまり、戌・申・酉である。これは、
方位としては西とその両隣である。「古事記」には、
イザナギが黄泉の国から逃げ帰るとき、
「黄泉比良坂(よもつひらさか)」を駆け下りてきた場面で、
桃の木から実をもぎ取ってそれを投げつけて
"醜女"を追い払ったのである。つまり、
「鬼退治」は「西へ向かう」のである。
「桃太郎一行」は「黄泉の国へ向かう」ことなのであり、
「邪気=鬼=黄泉の国のシコメ」なのである。
ブサイクな私はフカきょんや伊勢谷友介に組み敷かれてる、
ショートヘアがクールな長澤まさみ女史もいいけど、勘違い女や
性根の腐りきった醜女に馬乗りになられてその
ふとモモに顔を挟まれて御成敗されたい、という
屈折したえむおじじいである。
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「枕詞『あしひきの』/大津皇子生誕1350年」

2013年02月24日 23時44分04秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す

枕詞 あしひきの 大津皇子生誕1350年


今年2013年は、
天武天皇の第3皇子、
大津皇子(おおつのみこ、西暦およそ663-同686)の
生誕1350年にあたる年である(誕生日は不詳)。
父帝天武崩御後突如、謀叛の罪をきせられて
死を賜った(自殺するように命じられた)。
大津皇子の母は、のちの持統天皇の実姉である。
持統女帝は、天武天皇の第2皇子である
草壁皇子(くさかべのみこ、西暦およそ662-同689)を
産んでるのである。
天武天皇には兄天智天皇と額田王をめぐっての
一悶着があったが、この
草壁と大津にも、石川郎女をめぐって何かあったようである。
石川郎女は石川内命婦(いしかはのうちみゃうぶ)のことであり、
のちに大伴安麻呂(おおとものやすまろ)の妻となり、
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を産んだ。
義理の息子が大伴旅人である。

【万葉集巻02 0107-0110】
0107=大津皇子贈石川郎女御歌一首
[足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二]
(あしひきの やまのしづくに いもまつと われたちぬれぬ やまのしづくに)
「(拙大意)大津皇子が石川郎女に贈った御歌一首
『疋』という字の下の部分(足首から先)のような形をした山の
木の葉の雫に、あなたを待っていると私はずぶ濡れになってしまったことですよ。
山の木の葉の雫にね」
(「立ち」は「stand」の意味ではなく、連なる動詞の「強意」を表す)
枕詞「あしひきの」の原義に関する私の推測である。
「山」を簡易的に描くと「への字」のようになる。それはまた、
足首から先の部分を横から見た形である。そして、
「疋」という語はまた、中国で用いられた長さの単位に基づくらしい。
それが日本では絹織物「2反」を表す語として使われた。
大津皇子の時代のことは、
PM2.5の健康被害と江頭2:50の芸の毒々しさと
水俣チッソの水銀毒の程度の差がいまいち解らない
拙脳なる私には知るよしもないが、
反物「2反分」ということから、スーツ的な服を表した語だったかもしれない。
「山之四付二」という言葉をそっくり最後に繰り返すその
「四附二」という万葉仮名がただ音を充ててるだけではないと推測できる。
「へ」という文字のような形がわずかに横にずれて重なった形は、
男女の足先が絡み合ってるさま、つまり、性交を意味するのである。つまり、
「あしひきの」が「足を引きずる」くらい歩いて疲れる山、などというのは
見当違いであるといえる。
「あしひきの」という枕詞の「原義」は文字どおり「枕」ことばなのである。

0108=石川郎女奉和(こたへたてまつる)歌一首
[吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎]
(あをまつと きみがぬれけむ あしひきの やまのしづくに ならましものを)
「(拙大意)わたくしを待って、あなたさまのお召し物が水に濡れてしまった
『疋』という字の下の部分(足首から先)のような形をした山の木の葉の雫に
なれてたらどれだけよかったことでしょう」

つまり、「山」というのは比喩で実際は山で逢瀬の約束をしていたわけではなく、
どこかで密会することになってたものの、結局、女性のほうは行かなかった、
ということなのである。

0109=大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首
[大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之]
(おほぶねの つもりがうらに のらむとは まさしにしりて わがふたりねし)
「(拙大意)津とは大船が碇泊する港のことであるが、
住吉津(すみのえのつ)に本拠を置く住吉社神主津守氏の
津守連通(つもりのむらじとほる)の占いに出るだろうとは
必ずわかってたから、私たち二人はネタのだ」
(「婚」=「性交」。「竊(窃)婚」=不義密通)

0110=日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首 女郎字曰大名兒也
[大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八]
(おほなこを をちかたのへに かるかやの つかのあひだも われわすれめや)
「(拙大意)おほなこを、遠くはなれた野原で刈る茅を束ねたものの
そのわずかな隙間ほども私は忘れることがあるだろうか、いや、ないことだ」
(日並皇子=草壁皇子。女郎字曰大名兒也=この女性の通称は「おほなこ」である)

石川郎女=オホナコが草壁皇子の思い人、あるいはさらに愛人だった、
という説明のためにことさら附記されてるものと思われる。いずれにしても、
束ねた茅の隙間ほども忘れたことはない……
それほどオホナコのことが好きですきでたまらなかったということは判る。つまり、
モテ男、優秀なミスターAwesome(オミゴト青年)大津皇子は政治能力面ばかりでなく、
草壁皇子の「男」としての尊厳も傷つけてた、
ということなのである。それが命取りとなった。
歴史は夜作られる?
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「古事記編纂1300年、土御門帝と定家/百人一首の数学と魔方陣cipher(その7)」

2012年11月04日 23時12分17秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
和銅5年(西暦およそ712年)に、
「古事記」が編纂されたらしい。今年はそれから
1300年にあたる。その中に、
イザナキとイザナミによる「国産み」譚が描かれてる。
この2神は「大八島」を誕生させた。

1)淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)
2)伊予之二名島(いよのふたなのしま)
3)隠伎之三子島(おきのみつごのしま)
4)筑紫島(つくしのしま)
5)伊伎島(いきのしま)
6)津島(つしま)
7)佐度島(さどのしま)
8)大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)

1)乃至8)の順である。そして、この
1)淡道之穂之狭別島が、現在の
淡路島であるという。つまり、
イザナギとイザナミの第一子は淡路島だったのである。

ワンピースとNARUTOの区別がつかない
拙脳なる私は、素直なたちなので、
この記載を信じてしまう。
大和朝廷の発祥は淡路島で、
上記の順に従えてったのだと。

さて、
定家は「百人一首」に自身の歌を
097番に入れた。いっぽう、天皇を「8」名撰んだ。
そのうち、定家と同時代の後鳥羽院と順徳院はそれぞれ、
099番、100番である。
承久の乱の咎で後鳥羽院は隠岐=3)、
順徳院は佐渡島=7)、
咎無しながら自ら流罪を望んだ土御門院は2)、
定家の歌は1)、
である。数字を小さいほうから順に並べれば、
1237。
1237年はおよそ嘉禎3年にあたる。この年、
藤原家隆が死んだ。そして、百人一首の
098番は家隆である。
家隆の娘のひとりは土御門院に仕えてた。また、
1237年に定家は
歌学書「俊頼髄脳」を写した。
源俊頼(西暦およそ1055-1129)が伝えた
和歌についての覚書である。この俊頼は、
「百人秀歌」と「百人一首」とで同一人物で
採られてる歌が異なる唯一の歌人である。

なお、
「古今著聞集」の巻19、草木第29段662話は、こうである。
承元4年(西暦およそ1210年)正月の早朝に、
冷泉中将定家が内裏の南庭の左近の桜の枝を従者に折らせて
服に隠して持ち帰って家の庭に接ぎ木した。が、
蔵人らに一部始終見られてて、その話は広まり、
土御門天皇の耳にも入った。が、
帝は女房の建春門院伯耆にこう言った。
「わかってることを知らせてやろう。歌を詠むから代筆してくれ」
そこで、こう詠んで、
"くれなゐの薄様(くれないのうすよう=女房が使用する薄紅色の薄い紙)"
に女性の伯耆の文字で書かせて、さも伯耆が定家のもとに届けた体で送った。
[なき名ぞと、後にとがむな。八重桜。うつさむ宿は、かくれしもせじ]
(拙大意)無実であるなどとあとになって申し立てないでください。
    八重桜を植え替えるような先の家は隠しようもないのですから。
それに対して定家は土御門帝の寛大さと心遣いに対してこう返答したという。
[暮ると明くと、君につかふる、九重の、やへさく花の、陰をしぞ思ふ]
(拙大意)暮れても明けても帝にお仕えする藤原北家の近衛の端くれの
    冷泉家の私めでございますが、
    宮中(九重=宮中、と近衛をかけてる)の花びらが重なって咲く
    左近の桜のようにすてきなあなたの(あえて伯耆に言ってる体)の
    傍らに侍らせていただけるのもすべて
    あなたのおかげと心底感謝しております。

そんな心優しき、しかも承久の乱には無罪にもかかわらず
父(後鳥羽)と弟(順徳)が引き起こした乱に責任を感じて
自ら罰を申し出た土御門帝とももう「逢はじ」という定家は晩年、
「百人秀歌」そして「百人一首」を編んだのである。
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