隅田川の業平橋からほど近くの東京スカイツリーは
5月22日に開業するらしい。その1か月ほど前、
根津美術館が毎年恒例にしてる「KORIN展」は、
今週末の土曜から開催される。が、
同美術館の「燕子花図屏風」に加え、今年はメトが所蔵する
「八橋図屏風」も並べられるという。これは、
昨年にそうされる予定だったのが、
東日本大震災で今年に延期になったものらしい
この「延期」「先延ばし」「後日」みたいな意味を表す古語に、
「ゆり」というものがある。漢字では
「後」と当てることもある。
「~より」という、現在では「比較」を示すことが主となってるが、
本来は「起点」を指す助詞「~ゆり(~ゆ)」の元が
「後(ゆり)」である。
[万葉集巻8-1503](紀豊河)
[吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不欲云二似]
(わぎもこの、いへのかきつの、さゆりはな。
ゆりといへるは、いなといふににる)
「(拙大意)あの子んちの屋敷の中には
百合の花が咲いてることだなあ。
でも、そんな百合のようにかわいいあの子に
『ゆり(また今度ね)』つまり『今はだめ』と
言われちゃうような気がする。とほほほほ」
この歌に出てくる「垣内(かきつ)」とは垣根の内側、つまり、
敷地の囲いの中、という意味である。仮に、
「かきつはた」なんて言葉があったとしたらそれは、
「誰それの敷地内の畑」ということになる。が、
そんな言葉はない。ところが、
「垣内田(かきつた、かきつだ)」とか
「垣内の麻(かきつのあさ)」「垣内麻(かきつあさ)」とかは
実在した。なぜ、女子陸上短距離選手や女子トライアスロン・アスリートは
寸胴なのかうまく説明できない拙脳な私は
平安時代の住宅事情にも詳しくないが、たとえば、
河口付近で幾重にも川が分岐したり合流したりする土地では、
住居を確保するために敷地の周りを囲って石垣でも積み、
浸水を防いだはずである。するとそのあたりには、
湿地好きな植物が自生するようになる。
いわゆる麻と総称されてるものの中の苧とか、
ユリ目アヤメ科のカキツバタなんかである。そして、
カキツバタという植物の花の花びらの一枚は、
ちょうど何かを囲ったような形であり、その
端(ハタ)には一筋の白い旗(ハタ)のような班がたなびいてる。
もっとも、
カキツバタの語源は偉い学者先生によれば、
"書付花(かきつけはな)"が"変化"して"かきつばた"になった、
のだという。たしかに、以下の如く、
カキツバタの花びらを擦りつけて色づけする習慣はあった。ただし、
相関関係は因果関係を含意しない、ことを忘れてはならない。
[万葉集巻7-1361](詠み人知らず)
[墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛]
(すみのゑの、あささわおのの、かきつはた。
ころもにすりつけ、きむひしらずも)
「(拙大意)住吉の小野の浅沢池の端一面に咲きほこってる
カキツバタなことだなあ。
この花びらを擦りつけてペインティングを施した衣を重ね合わせた
晴れ着姿で薬草狩に出れるようになるのは
いつのことなんだろうか。まだまだなことだなあ」
[万葉集巻17-3921](大伴家持)
[加吉都播多 衣尓須里都気 麻須良雄乃 服曽比猟須流 月者伎尓家里]
(かきつはた、ころもにすりつけ、
ますらをの、きそひかりする、つきはきにけり)
「(拙大意)カキツバタの花びらを擦りつけて
ペインティングを施した色目の重ね着をした晴れ着に身を固め、
一人前の男として薬草狩りに繰り出す日がやってきたことだなあ」
「着襲狩(きそひがり)」は、陰暦5月5日の端午の節句の日に行われた
成人式のようなものである。ここにも「端」という字が当てられてる。
カキツバタもアヤメも(ハナ)ショウブも似たようなものである。だから、
「男」、しかものちの武家のような役割を担ってた大伴氏の男子は、
「菖蒲」が「尚武」「勝負」に通じることから、
こうした行事を行ってたのだと私は推測する。とすると、
陰暦の5月5日という時期を考えると、やはり,
カキツバタもハナショウブもへったくれもなく、どちらでもOK、みたいな
ごっちゃまぜでよかったのではないかと思う。ともあれ、
この端午の節句は現在では鯉幟(こいのぼり)というような、やはり、
「幟(はた)」という形でも続いてるのである。
さて、
偉い先生のご高説である。
書付(かきつく)という言葉に「擦り付ける」という意味は
直接はない。つまり、「書く」とは「欠く」、
「削り取って記す」=「刻み込む」という方法である。いっぽう、
「擦(刷)る」のは「摩擦」や「圧力」で染料・顔料・インク類を
「付着させる」という方法である。また、
書き付け花(カキツケバナ)→カキツバタ、と音変化する、だろうか?
中島みゆき女史と椎名林檎女史の下卑た声が聞き分けれない
拙脳なる私には不可解な推論である。というより、
[カキツバタの花びらを衣に擦って色をつける風習があった]
からといって、
[カキツバタという名の由来がカキツケバナから転じたものである]
などという因果関係が証明されたわけではない、のである。
ところで、
尾形光琳(西暦およそ1658-1716)は、
京都の呉服屋の倅として生まれた。
いいオッサンになってから江戸に出た。のちに、
光琳を敬愛するようになる姫路城主の倅酒井抱一と同祖の、
当時は前橋城主だった雅楽頭酒井家がパトロンとなった。
晩年はまた京都に戻ってる。その
光琳が描いた屏風絵の「燕子花図屏風」「八橋図屏風」は、
ともに「伊勢物語」第9段の話が下敷きとなってる。
[むかし、男ありけり。
その男、身を*えうなきもの*に思ひなして、
(京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに)
とて往きけり。
もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。
道知れる人もなくてまどひいきけり。
三河の国八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、、
橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。
その沢のほとりの木のかげにおり居て、**餉(かれいひ)**食ひけり。
その沢に燕子花いとおもしろく咲きたり。
それを見てある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を句のかみに据ゑて旅の心をよめ」
といひければよめる。
『唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ』
とよめりければ、みな人餉のうへに涙おしてほとびにけり]
簡易な古文なので地の文に拙大意は施さず、いくつか註を附す。
*えうなきもの=用なし人、役立たず
**餉(かれいひ)=米を炊いて乾燥させた携帯食
「(歌の拙大意)十二単の表衣は
着てはまた翌日着るというようにしてると、
だんだんとやわらかくなって馴染んでくるが、
その『褄(つま=端)』がほつれてボロボロになってしまうように、
都には長年連れ添って慣れ親しみ、しかしながら
私のことで心配をかけて身も心も弱りきった
妻(つま)がいたことを思い出すことであるよ。
衣はほつれを張りはり修繕してまた着ることができるが、いっぽう、
はるばるとここまでやって来てしまった私は、
もうもとの体には戻ることができない妻のことを思うだけの、
戻ることができないこの旅が現実であるということしか感じれないことだ。
嗚呼、光琳君再来!」
そうして業平はポロポロと涙をこぼし、
サトウのごはんを自分の涙で濡らして電子レンジにかけて
あったかごはんにして食ったのである。
山西惇と岸部シローの声と口の利きかたの区別がつかない
拙脳なる私は当然の如く史実は知らないが、
この物語では業平は公務でも女のことでも都でへまをやらかし、
投獄される代わりに東国への旅路を余儀なくされた。そして、
現在の知立(池鯉鮒=知利布=ちりふ→ちりう→ちりゅう→知立)、
三河国八橋にやってきた。業平はここで、
「おいらもいっちょう八つの橋を一筆書きで渡れるかどうか試してみるか」
などとは言わなかったようだが、某人の要求に応えて上記のような
「超絶技巧」に裏打ちされた歌をひねり出した。
【縁語(えんご)】=唐衣、着、馴、褄、張る(衣に関する語)
【序詞(じょことば)】=唐衣着つつ→馴れ
【枕詞(まくらことば)】=唐衣→着る
【掛詞(かけことば)】=馴・慣、妻・褄、遥々・張る張る、来ぬ・衣
【折句(をりく)】=【か】らころも
【き】つつなれにし
【つ】ましあれは
【は】るはるきぬる
【た】ひをしそおもふ
業平ほどの良家出身イケメン男に、さらにこれほどの
テクを繰り出されたら、女性はひとたまりもあるまい。ともあれ、
業平がこの八橋に滞在してるとき、
都から同人を追いかけてきた女性がここで追いつき、
同人に拒否られて自害したという"伝説"があるらしい。
その女性は"杜若姫"とされ、小野篁の娘、
ということになってるようである。が、
篁に女子なんていただろうか?
スクリャービンとノンスタイル井上の顔のブサイク顔の違いがときとして判らなくなる
拙脳なる私には何ともいえない。ともかくも、
業平はホントにモテモテ男だったらしい。いっぽう、
私も自分がモテオヤジだといつも吹聴してキャバクラで遊ん、でる。もちろん、
大法螺である。そんな私を題材として、
「ニセ物語」が成立してもおかしくないほどである。
ふかしをとこ、ありけり……。