チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ/藤原定家生誕850年」

2012年11月02日 00時27分31秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ 藤原定家生誕850年


今年は、藤原定家(応保2年-仁治2年(およそ西暦1162-1241))の生誕850年にあたる。
(cf; 「俊成・定家父子と式子内親王の素数関係/百人一首の数学と魔方陣cipher(その6)」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/2f67acbb7065ca5dcee3e2549f176ef0)
定家は「百人秀歌」「百人一首」に自前の歌としては、
[こぬ人を、まつほの浦の、夕なぎに、焼くやもしほの、身もこがれつつ]
を撰んだ。
建保4年(西暦およそ1216年)閏6月9日の、
順徳天皇の内裏歌合で詠んだ歌で、
定家(数え)55歳のときのものである。
万葉集巻6-0938の笠金村の長歌
[名寸隅乃 船瀬従所見 淡路嶋 松帆乃浦尓 朝名藝尓 玉藻苅管
暮菜寸二 藻塩焼乍 海未通女 有跡者雖聞 見尓将去 餘四能無者
大夫之 情者梨荷 手弱女乃 念多和美手 俳徊 吾者衣戀流 船梶雄名三]
(なきすみの、ふなせゆみゆる、あはぢしま、まつほのうらに、あさなぎに、たまもかりつつ、
ゆふなぎに、もしほやきつつ、あまをとめ、ありとはきけど、みにゆかむ、よしのなければ、
ますらをの、こころはなしに、たわやめの、おもひたわみて、たもとほり、あれはぞこふる、ふねかぢをなみ)
を本歌としてる。笠金村(かさの・かなむら)は、
8世紀頭、聖武帝期に活躍した人物である。

「こぬ人をまつほのうら」……
「松帆の浦」=「現在の淡路島北端辺り」。
明石海峡大橋の近くである。
かつては船着き場で、
「潮を待って」たので、
「塩」「潮」と「(防風)松」「待つ」を二重に掛けてる
55歳歌名人のオヤジギャグである。
「夕凪」=「夕方の無風時」。
「や」=「間投助詞」。ここでは詠嘆を示す。

(拙大意)
逢瀬の約束に来ないあの人を待ってる私は、まるで、
朝の波が穏やかな時に海女が採った藻が夕方の無風時まで
ずっと浜に干されっぱなしにされてたようなものです。その藻も、
夕方に風が止んだ時分には、なんと火で焼かれてしまうのですね。
そうやって塩は精製されるのだそうですが、もう潮時として捨てられた
私の気持ちもあたかもそのように恋い焦がれ疲れはてて、 
体も焼かれて焦げやかれてこげして、心も
シオれしおれてしまうことです。それにしても、
なんであの人はこんなところで待ってるよう言わはったんやろ?
松田林の渚にはバルコニーも苫屋も、花も紅葉もあらしまへん。
えっ? 「淡路」だけにもう「逢はじ」やって?
いややわ。あの人ったら、ほんまに、いけずやわぁ。

定家は道長から5代めの子孫である。
熟年に達したその定家の技巧を極めた歌である。
テクニシャンの先人紀貫之の向こうを張ってネカマってて、
さらにいくつもの技巧を凝らしてるからといってヤスっぽくなく、
絶妙な詞の綾が織り成されてるのである。
暗誦しただけで涙で目頭が熱くなる、心打たれる歌である。
ちなみに、
政宗の対長政絶交以来不通だった浅野家の支流である赤穂浅野家から
瀬戸内海の塩製法の技術を採り入れた仙台伊達家が、
大量消費が見込める大都市江戸での塩販売戦争で赤穂を駆逐するために
うしろで糸を引いたのが「内匠頭刃傷事件」である。この
伊達・浅野両家が"和解"するには、阪神淡路大地震前年の
平成6年になるまで「待た」なければならなかった。
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「『東大寺の大仏』と『海ゆかば』、『聖武天皇』と『大伴家持』」

2012年08月15日 23時21分31秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
8月15日は、昭和20年に日本が
「ポツダム宣言を受諾したと発表した日」
である。私は直接「大東亜戦争」を知らない世代である。が、
子供の時分に大人から話はとくと聞いてる。だから、
♪せんそうがおわって、ボクらは生まれた♪
などというクソ歌謡曲など軽々に歌わない。
「審判のせいで」日本に勝てなかったと言いわけしたらしい
韓国女子ヴァリーボールのキム・ヨンギョンと
故郷には仕事がなくて密航して日本に来て
父が乳搾りという仕事にありついてた大阪生まれ大阪育ちの
在日帰還朝鮮人で、退任後には不正や国家反逆のかどで
逮捕・死刑が待ってるのが恒例になってる
近代国家テハンミングクの大統領として来日した際に
天皇陛下に頭を下げたことを同胞らに詰られたイ・ミョンバクの
顔の違いが判らないほど拙脳なる私は、
南方戦線の海からラヴェルノ「ダフニスとクロエ」第3部の「夜明け」を
想起してしまう。私は想像力に乏しいので、
クラシック音楽と何らかの風景が結びついてしまうのは
これともうひとつだけである。

大東亜戦争のとき、NHKのラジオ放送で大本営発表が読まれる前に流された
「海ゆかば」は、昭和12年に信時潔がNHKからの依嘱で作曲した歌である。
信時潔は当時、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の教授から退いてたが
講師だった。ときに、東京芸術大学といえばその音楽学部楽理科に、
テレビマンユニオン所属のタレントで"作家・エッセイスト"というふれこみの
華恵(旧Hanae)というのが在籍してる。
米国父と福島母(よくありがちながら離婚済)のハーフだそうだが、
ブログのプロフィールにはこう書かれてる。
<機を織るようにつなげていきたい日々のこと、本のこと、
 音楽のこと、出会った人びと>
鶴の恩返しのパクリながら、
日本国民の税金で助成されてる国立大を出てもおそらく、
音楽教師にもその他国民に恩返しをする職にも就かないだろう。
税金の無駄遣いである。ツイッターでこうつぶやいてたらしい。
<おじいちゃんの妹の息子さんって、
 私からしたら叔父さん?違うか。なんて言うんだ?>
ご立派な"作家"大先生である。ともあれ、
「海ゆかば」という曲も戦後の報道の刷り込みによって
南方戦線の海を想起させられる。

♪ソーーー│>ミーー・ーーーー・・>レーーー・<ーーラー│
>ソーーー・ーーー・・ーーーー、・<ラーー<シ│
<ドーーー・ーー>ソー・・<ミーーー・ミーーー│
>レーーー・ーーーー・・ーーーー、・レーーー│
<ミーー・ーーーー・・>レーーー・レーー>ド│
>ラーーー・ーーーー・・ーーーー、ラーーー│
<シーーー・ーー>ラー・・>ソー<レー・レーーー│
>ドーーー・ーーーー・・ーーーー、>ドーーー│
ドーーー・ーー<ファー・・ファーーー・<ラーーー│
>ソーーー・ーーーー、・・●●●●・ソーーー│
ソーーー・ーー<ラー・・>ソー>ミー・>レーー<ソ│
ソーーー・ーーーー、・・●●●●・ソーー<ミ│
ミーーー・ーーー・・>レー>ドー・ーー<レー│
>ドーーー・ーーーー・・ーーーー♪

詞は万葉集(巻18-4094)の長歌(大伴家持)から採られてる。
天平年間の疫病流行・天災によって、
聖武天皇は国分寺や東大寺の大仏建立を発案したが、
その大仏に塗る金の調達が案じられてた。そんな中、
天平21年(西暦およそ749年)に、
陸奥国で金が産出されたと報告されたのである。そして、
聖武天皇の「陸奥国より黄金出せる詔書」に対して、当時
越前守として任地にあった32歳の家持が詠ったのが
この「海ゆかば(を含む長歌)」である。
[賀陸奥國出金 詔書歌一首 并短歌]
(陸奥国(みちのくのくに)に金(こがね)を
出だす詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首、併せて短歌(3首))
という題詞にあるように、
聖武天皇の詔書を持ち上げつつ、いわば近衛隊としての
大伴氏(と佐伯氏)の忠誠を訴えた歌である。
長いので前後は省略するが、

[海行者 美都久屍 山行者 草牟須屍 大皇乃 敝尓許曽死米 可敝里見波勢自]
(海行かば、水漬く屍。山行かば、草生す屍。
大君の、辺にこそ死なめ、顧みはせじ)
「(拙大意)海での戦なら水漬しで醜く膨らんだ死体に、
山での戦なら草が生えるほどの野ざらし死体となっても、
大君(天皇)の方に向いて盾となって背後から斬られてこそ死にたい、(だから)
うしろから斬りかかられるのを怖がって敵のほうに振り向いたりはしないつもりだ」
ちなみに、
「続日本紀」の第13詔「陸奥国出金詔書」には、
[海行波 美豆久屍 山行波 草牟須屍 王乃 幣尓去曽死米 能杼尓波不死]
とあって、終いの句が
[能杼尓波不死(のどには死なじ)]
となってる。これは、
「(拙大意)天皇を護衛しそこねて自ら喉を切って死んだりはしないぞ」
あるいは、
「のど」は「のどか」「なだらか」の「n-d」で「傷がないこと」であり、
「(拙大意)体のどこにも傷を作らない身では死んだりしないぞ」
という意味である。

ここで話は逸れるが、
「こそ...め(已然形)+。。。じ」という「係り結び」のプリミティヴな形が窺われる。
「辺にこそ死なめ」の「死なめ」は、
「死ぬ」の未然形「死な」に意志を表す助動詞「む」の已然形が附いたものである。
「おおきみのほうを向いておおきみをおまもりして後ろから斬られ死にするつもり
"だからこそ"怖がって斬りかかってくる敵のほうに振り向いたりはしないぞ」
という"已然形"本来の役割が採られてるのである。

話を戻すと、
聖武天皇は母親が藤原不比等の娘であり、皇后も藤原不比等の娘である。
藤原氏によってがんじがらめにされた立場なのである。
金が産出されるやいなや改元して、命の危険から
娘(孝謙天皇、その後重祚、称徳天皇)に譲位して出家してしまう。
ここから家持の左遷、そして不遇時代が続く。
この間の実権は光明皇太后(聖武后)や不比等の孫仲麻呂が握り、
橘諸兄の子奈良麻呂の乱が起きる。が、
廃太子ののちに仲麻呂は淳仁天皇を立てたものの、
道鏡に惑わされた孝謙上皇と衝突し、恵美押勝と改名した仲麻呂は
光明皇太后の死でさらに対立が深まり、ついに反乱を起こして敗れ、
捕らえられて斬首された。仲麻呂(恵美押勝)と親しかった淳仁天皇は廃され、
淡路に配され(そして、殺され)た。孝謙上皇は重祚し、
称徳天皇としてさらに道鏡を寵愛した。が、
皇位継承を図った道鏡の企みは、宇佐に遣わされた
和気清麻呂によって偽託が判明し、阻まれた。ために、
清麻呂はヒステリックな称徳天皇によって
別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて大隅国に流された。
このとき、家持は"偶然にも"大宰少弐に左遷されてたのだが、
この道鏡の皇位簒奪計画を阻止したグループに家持がいたのかどうかは、
ウサイン・ボルトによるアポロの弓引きポウズと
伊東四朗の電線マンの振付の区別がつかない
拙脳なる私には知るよしもない。翌年、
称徳天皇が崩御すると道鏡は即失脚。ちなみに、
後継者争いで殺し合いを多く行った結果、称徳天皇の死をもって
天武系は断絶した。そして、
[石走る、垂水の上の、さわらびの、萌え出づる春に、なりにけるかも]
でのみ知られる、政争から外されてた天智天皇の第7皇子志貴皇子の
そのまた第6皇子だった中納言白壁王が「後任」とされた。
第49代光仁天皇である。55年ぶりに天智系が復活したのである。
ともあれ、道鏡の失脚と入れ替わるように、
20年以上ずっと従五位下どまりだった家持は
正五位上に昇叙する。そのまた翌年にすぐに従四位下。その後は、
従四位上、正四位下、正四位上、従三位、ととんとん拍子。
官職も中納言にまでのぼりつめる。

ところが、
やはり「近衛隊長」という家系の家持は、
東北方面の防衛を案じ、高齢ながら持節征東将軍に任じられ、ついに、
67歳で陸奥国に客死する。だがしかし、
死の直後、藤原種継暗殺の首謀者として官位を剥奪される。
子の永主(ながぬし)は隠岐に流罪となるが、
家持の遺骨は埋葬を許されず、やはり隠岐に流されたのである。
21年後の大同元年(西暦およそ806年)、死の床の桓武天皇によって
流罪の永主は許され、故家持も従三位に復位された。ともあれ、
そういう政治不安定な時代に
家持は大伴家の惣領として生きたのである。こんな
家持の生涯を考えれば、
「海ゆかば...」という詞が臨場感をもって思い返される。
国の内外の民の平穏と幸福を日々祈ってくださってる
天皇陛下と天皇家に対して、日本人が家持と同じ思いを抱くのが
自然だと思うのは果たして小日本右翼だろうか。
ごく真っ当な日本人である。
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「かきつばた(在原業平の折句)/根津美術館KORIN展2012」

2012年04月18日 18時53分16秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
隅田川の業平橋からほど近くの東京スカイツリーは
5月22日に開業するらしい。その1か月ほど前、
根津美術館が毎年恒例にしてる「KORIN展」は、
今週末の土曜から開催される。が、
同美術館の「燕子花図屏風」に加え、今年はメトが所蔵する
「八橋図屏風」も並べられるという。これは、
昨年にそうされる予定だったのが、
東日本大震災で今年に延期になったものらしい

この「延期」「先延ばし」「後日」みたいな意味を表す古語に、
「ゆり」というものがある。漢字では
「後」と当てることもある。
「~より」という、現在では「比較」を示すことが主となってるが、
本来は「起点」を指す助詞「~ゆり(~ゆ)」の元が
「後(ゆり)」である。

[万葉集巻8-1503](紀豊河)
[吾妹兒之 家乃垣内乃 佐由理花 由利登云者 不欲云二似]
(わぎもこの、いへのかきつの、さゆりはな。
ゆりといへるは、いなといふににる)
「(拙大意)あの子んちの屋敷の中には
百合の花が咲いてることだなあ。
でも、そんな百合のようにかわいいあの子に
『ゆり(また今度ね)』つまり『今はだめ』と
言われちゃうような気がする。とほほほほ」
この歌に出てくる「垣内(かきつ)」とは垣根の内側、つまり、
敷地の囲いの中、という意味である。仮に、
「かきつはた」なんて言葉があったとしたらそれは、
「誰それの敷地内の畑」ということになる。が、
そんな言葉はない。ところが、
「垣内田(かきつた、かきつだ)」とか
「垣内の麻(かきつのあさ)」「垣内麻(かきつあさ)」とかは
実在した。なぜ、女子陸上短距離選手や女子トライアスロン・アスリートは
寸胴なのかうまく説明できない拙脳な私は
平安時代の住宅事情にも詳しくないが、たとえば、
河口付近で幾重にも川が分岐したり合流したりする土地では、
住居を確保するために敷地の周りを囲って石垣でも積み、
浸水を防いだはずである。するとそのあたりには、
湿地好きな植物が自生するようになる。
いわゆる麻と総称されてるものの中の苧とか、
ユリ目アヤメ科のカキツバタなんかである。そして、
カキツバタという植物の花の花びらの一枚は、
ちょうど何かを囲ったような形であり、その
端(ハタ)には一筋の白い旗(ハタ)のような班がたなびいてる。

もっとも、
カキツバタの語源は偉い学者先生によれば、
"書付花(かきつけはな)"が"変化"して"かきつばた"になった、
のだという。たしかに、以下の如く、
カキツバタの花びらを擦りつけて色づけする習慣はあった。ただし、
相関関係は因果関係を含意しない、ことを忘れてはならない。

[万葉集巻7-1361](詠み人知らず)
[墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛]
(すみのゑの、あささわおのの、かきつはた。
ころもにすりつけ、きむひしらずも)
「(拙大意)住吉の小野の浅沢池の端一面に咲きほこってる
カキツバタなことだなあ。
この花びらを擦りつけてペインティングを施した衣を重ね合わせた
晴れ着姿で薬草狩に出れるようになるのは
いつのことなんだろうか。まだまだなことだなあ」

[万葉集巻17-3921](大伴家持)
[加吉都播多 衣尓須里都気 麻須良雄乃 服曽比猟須流 月者伎尓家里]
(かきつはた、ころもにすりつけ、
ますらをの、きそひかりする、つきはきにけり)
「(拙大意)カキツバタの花びらを擦りつけて
ペインティングを施した色目の重ね着をした晴れ着に身を固め、
一人前の男として薬草狩りに繰り出す日がやってきたことだなあ」

「着襲狩(きそひがり)」は、陰暦5月5日の端午の節句の日に行われた
成人式のようなものである。ここにも「端」という字が当てられてる。
カキツバタもアヤメも(ハナ)ショウブも似たようなものである。だから、
「男」、しかものちの武家のような役割を担ってた大伴氏の男子は、
「菖蒲」が「尚武」「勝負」に通じることから、
こうした行事を行ってたのだと私は推測する。とすると、
陰暦の5月5日という時期を考えると、やはり,
カキツバタもハナショウブもへったくれもなく、どちらでもOK、みたいな
ごっちゃまぜでよかったのではないかと思う。ともあれ、
この端午の節句は現在では鯉幟(こいのぼり)というような、やはり、
「幟(はた)」という形でも続いてるのである。
さて、
偉い先生のご高説である。
書付(かきつく)という言葉に「擦り付ける」という意味は
直接はない。つまり、「書く」とは「欠く」、
「削り取って記す」=「刻み込む」という方法である。いっぽう、
「擦(刷)る」のは「摩擦」や「圧力」で染料・顔料・インク類を
「付着させる」という方法である。また、
書き付け花(カキツケバナ)→カキツバタ、と音変化する、だろうか?
中島みゆき女史と椎名林檎女史の下卑た声が聞き分けれない
拙脳なる私には不可解な推論である。というより、
[カキツバタの花びらを衣に擦って色をつける風習があった]
からといって、
[カキツバタという名の由来がカキツケバナから転じたものである]
などという因果関係が証明されたわけではない、のである。

ところで、
尾形光琳(西暦およそ1658-1716)は、
京都の呉服屋の倅として生まれた。
いいオッサンになってから江戸に出た。のちに、
光琳を敬愛するようになる姫路城主の倅酒井抱一と同祖の、
当時は前橋城主だった雅楽頭酒井家がパトロンとなった。
晩年はまた京都に戻ってる。その
光琳が描いた屏風絵の「燕子花図屏風」「八橋図屏風」は、
ともに「伊勢物語」第9段の話が下敷きとなってる。

[むかし、男ありけり。
その男、身を*えうなきもの*に思ひなして、
(京にはあらじ。あづまの方に住むべき国もとめに)
とて往きけり。
もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。
道知れる人もなくてまどひいきけり。
三河の国八橋といふ所にいたりぬ。
そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、、
橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。
その沢のほとりの木のかげにおり居て、**餉(かれいひ)**食ひけり。
その沢に燕子花いとおもしろく咲きたり。
それを見てある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を句のかみに据ゑて旅の心をよめ」
といひければよめる。
 『唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ』
とよめりければ、みな人餉のうへに涙おしてほとびにけり]

簡易な古文なので地の文に拙大意は施さず、いくつか註を附す。
*えうなきもの=用なし人、役立たず
**餉(かれいひ)=米を炊いて乾燥させた携帯食

「(歌の拙大意)十二単の表衣は
着てはまた翌日着るというようにしてると、
だんだんとやわらかくなって馴染んでくるが、
その『褄(つま=端)』がほつれてボロボロになってしまうように、
都には長年連れ添って慣れ親しみ、しかしながら
私のことで心配をかけて身も心も弱りきった
妻(つま)がいたことを思い出すことであるよ。
衣はほつれを張りはり修繕してまた着ることができるが、いっぽう、
はるばるとここまでやって来てしまった私は、
もうもとの体には戻ることができない妻のことを思うだけの、
戻ることができないこの旅が現実であるということしか感じれないことだ。
嗚呼、光琳君再来!」

そうして業平はポロポロと涙をこぼし、
サトウのごはんを自分の涙で濡らして電子レンジにかけて
あったかごはんにして食ったのである。
山西惇と岸部シローの声と口の利きかたの区別がつかない
拙脳なる私は当然の如く史実は知らないが、
この物語では業平は公務でも女のことでも都でへまをやらかし、
投獄される代わりに東国への旅路を余儀なくされた。そして、
現在の知立(池鯉鮒=知利布=ちりふ→ちりう→ちりゅう→知立)、
三河国八橋にやってきた。業平はここで、
「おいらもいっちょう八つの橋を一筆書きで渡れるかどうか試してみるか」
などとは言わなかったようだが、某人の要求に応えて上記のような
「超絶技巧」に裏打ちされた歌をひねり出した。

【縁語(えんご)】=唐衣、着、馴、褄、張る(衣に関する語)
【序詞(じょことば)】=唐衣着つつ→馴れ
【枕詞(まくらことば)】=唐衣→着る
【掛詞(かけことば)】=馴・慣、妻・褄、遥々・張る張る、来ぬ・衣
【折句(をりく)】=【か】らころも
         【き】つつなれにし
         【つ】ましあれは
         【は】るはるきぬる
         【た】ひをしそおもふ

業平ほどの良家出身イケメン男に、さらにこれほどの
テクを繰り出されたら、女性はひとたまりもあるまい。ともあれ、
業平がこの八橋に滞在してるとき、
都から同人を追いかけてきた女性がここで追いつき、
同人に拒否られて自害したという"伝説"があるらしい。
その女性は"杜若姫"とされ、小野篁の娘、
ということになってるようである。が、
篁に女子なんていただろうか?
スクリャービンとノンスタイル井上の顔のブサイク顔の違いがときとして判らなくなる
拙脳なる私には何ともいえない。ともかくも、
業平はホントにモテモテ男だったらしい。いっぽう、
私も自分がモテオヤジだといつも吹聴してキャバクラで遊ん、でる。もちろん、
大法螺である。そんな私を題材として、
「ニセ物語」が成立してもおかしくないほどである。
ふかしをとこ、ありけり……。
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「古い雪印や。明治森永も遠く、なりにけり/中谷宇吉郎没後50年、土井利位没後170年」

2012年04月11日 18時36分17秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
今日の雨で東京のソメイヨシノは終わるらしい。昨日、
仕事で名古屋に行った"ついで"に、
京都に足を伸ばして一泊してきた。
半年ぶりの京都では、今回は東寺の桜をみた。
西行法師は
[願わくは、花のしたにて、春死なん。
そのきさらぎの、望月のころ]
と詠って、実際、河内で陰暦2月16日に死んだ。
この西行は生涯に二度、30代と最晩年に奥州を訪れた。
現在、大宮と宇都宮との中間に位置する
古河では、次のような歌を詠んだ。

[下野武蔵の境川に舟渡をしけるに霧深かりければ……
霧ふかき。古河のわたりの、わたし守。
岸の舟つき、おもひさだめよ]
表向きの大意は字面どおり、
「霧がなんと深いことであるよ(詠嘆の連体止め)。
古河のあたりの、渡し舟の船頭よ。
岸の船着きを、ばっちり決めてくれよ」
である。ただし、「思ひさだむ」という語は、通常は
「よくよく考えて決める」という意味であるが、
異性(男性が女性に対して)への思いにも当てはまる。
「この人こそが私の相手だ」「この女性と結婚しよう」と
伴侶を決めることである。この古河というのは、現在も
利根川と渡良瀬川と思川が合流する土地である。
思川(おもい(ひ)がわ(は))は、現在の小山市にある
(宗像→)胸形神社の祭神が
田心姫命(たぎりひめ、たごりひめ)であり、その
「田心」がひとつの文字「思」と読み替えられ、
「思川」となった。その「思い」を西行は
歌にひっかけて「思ひさだめ」としたのだろうが、
西行はなまくら坊主ではなかっただろうから、
なにか故事あるいは別件に結びつけてるのだろう。

万葉集に採られた東歌の2、3首にもこの
古河は詠われてる。次はそのうちのひとつである。
(巻14-3555)
[麻久良我乃 許我能和多利乃 可良加治乃 於登太可思母奈 宿莫敝兒由恵尓]
(まくらがの、こがのわたりの、からかじの、おとたかしもな、ねなへこゆゑに)
「(拙大意)古河の渡し舟の外国製の艪が国内製のより大きい音をたてるように、
     まだ添い寝もしてないあの娘との噂が
     大きくなって広まってしまったことだよ。とほほほほ」

この古河は室町時代には古河公方(足利氏)が本拠とし、
後北条氏の支配を経て江戸時代には譜代が入れ替わり立ち代り封じられた。
最後に古河を治めたのは、大老も輩出した土井氏である。
土井利位(どい・としつら、西暦およそ1789-1848)は、
あの水野忠邦の"政敵"として老中首座にまで昇った人物である。が、
この殿様は、雪(の結晶)の観察が大好きだった。そして、
その観察記録を「雪華図説」という絵図鑑にして著した。
天保3年、西暦およそ1832年、今から180年前のことである。
オランダから入ってきた顕微鏡を手に入れて雪の結晶を観察したらしいが、
現在では夏に猛暑のスポットとして知られる古河でも、
天保の頃には雪がけっこう降ったということである。

♪ミーーーーー│>レーーーーー│>ドーーー<レー│ミーーー●●│
<ソーーーーー│<ラーーーーー│>ファーー>ミー│>レーーー●●♪
チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」(1幕)第9曲は
「雪片のヴァルス」である。私がガキの頃、
母親が娯楽に雪の結晶の模様のレース編みをしてたことが
思い出される。それに食器などを置いた。ちなみに、
織機といえは豊田佐吉だが、
人口装置で雪の結晶を作ってみせたのは
中谷宇吉郎(なかや・うきちろう、1900~1962)である。
私がガキの頃にはこういった人物の伝記話や伝記本が
よく出まわってたものである。中谷博士の東京帝大での師は、
「甜菜は忘れた頃に収穫できる」と言ったかどうかは、
早稲田大学二部卒のインテリ女優吉永小百合と無学歴ながら
ロリヌードモデルから女優になった高橋恵子女史の声が
瞬時には聞き分けれず、バカ田大学にさえ入学できなかった
拙脳なる私は知らない。が、忘れた頃に思い出す赤塚不二男の
「天才バカボン」で、バカボンのパパが降ってる雪を指さして
「雨よ」と言った小ネタがあった。
漢字で「雪」が雨冠とカタカナの「ヨ」みたいだから、
というだけの他愛もないギャグである。ちなみに、
その「ヨ」もどきは、「彗」のことだという。
彗星の組成は「氷や塵」だからである。で、古く中国では
「彗星」はその軌道が「箒(ほうき)を手に持つ形」
と考えられてたらしい。、
♪オーデカーケでーすかーーー? レーレレーのレーーー♪
と箒がけに勤しむのである。冗談はともかく、
そのような連想から、「雪」という字には、
「(掃き)清める」→「そそぐ(すすぐ)」
という意味があるのである。

注ぐ、といえば、
渡良瀬川(つまり、利根川)は、
現在のように銚子方面に注いでたのではなく、
箒の先のようにいくつにも枝分かれして
いまの東京湾方面に流れてたのである。
これを現在の形にしたのが、徳川家康に始まる江戸幕府である。
その河川事業は「(利根川の)東遷」という。
♪スイスイ、スーダララッター、スラスラ、スイスイスイーーー♪
早稲田大卒のインテリ意地悪ばあさんコメディアン青島雪男は参院選の際に、
いっさい選挙運動をしないスタイルを採った。が、それでもトップ
当選を果たした。我が国の民度の低さを示す好例である。
都知事時代には都市博を山本高広の得意技"青島"に支えられた
「レインボーブリッジ封鎖」で阻止した。ちなみに、
バカボンのパパは、初耳の決まりごとに直面すると、
「国会で青島が決めたのか?」と問い、
自分勝手なルールを作った者に対しては、
「国会で青島雪男が決めたのだ! これでいいのだ!」
と褒め称えた。あ、
青島幸男だった。
こりゃまた、しっつれい、いたしましたっ!

日本じゅう、のみならず、世界にも拡散したソメイヨシノは、
その美しさを愛でられる。が、
ソメイヨシノは接木でしか育たない。だから、その美は
人工の美、と言えなくもない。
「世界にひとつだけの花」の対極で、
「世界じゅうにおんなじ花」、
「どれもこれもみんないっしょ」、
「ナンバーワンになりたくてもなれない、頭並びの」
「もともと特別でない、ありきたりのordinary one」な、
クロウン植物なのである。それだからこそ、
ソメイヨシノには日本人にしか解らない
「はかなさ」「むなしさ」「滅びの美」が備わってる。
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「ウメは埼玉か、サクラは真間かいな」

2012年03月30日 00時31分50秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
今年の日本の桜は寒さのせいで開花が遅い。
今年は東京では「入学式」にさえ
間に合わないのではないか、
などという茶化しも聞こえてくる。
私がガキの頃は、
「梅」といえば「卒業式」、
「桜」といえば「入学式」、
というイメージだった。が、
"地球の環境破壊"による
"温室効果ガス"の"増加"のせいで
"温暖化"したために、年々、
桜の開花時期が早まってる、
のだそうである。確かに、
大気中に占めるCO2の割合は、
産業革命以前に比して現在では
"2倍近く"も"増えてる"のである。そう言われると、
とんでもない増量のように聞こえるが、
大気全体の主な組成は、
N2(窒素)が約78.1%、O2(酸素)が約20.9%と、この二つだけで
99.0%を占めてるのである。次いで、
希ガスのAr(アルゴン)が約0.9%。この三つだけで
マングローブの生態系が壊されるとも思えない
99.9%を占めてしまってるのである。では、
CO2(二酸化炭素)はといえば、
[産業革命以前]0.028%(280ppm)
→[現在]0.038%(380ppm)
という按配である。さらにもっと少ない
メタンガスなど、屁みたいなものである。
そんな微少な気体が温暖化に影響すると、なぜ
期待できるのだろうか……と、
「蝋梅は梅ではない」と聞いて
あわてふためきうろたえてしまう
拙脳なる私は懐疑的になってしまう。

清少納言が記してるように、
「梅は濃きも薄きも紅梅」
かもしれないし、
湯島の白梅ももちろんいいのだが、
現在の埼玉県行田市には、
「さきたま古墳公園」や
「古代蓮の里」などでは、
桜の前に見事な「薄紅色」の梅が咲く。
ところで、
この行田市は江戸時代は「忍(おし)」と呼ばれてた土地て、
譜代・親藩に与えられた、幕府にとって重要拠点である。
近年では、「のぼうの城」という歴史小説の舞台として
その手のファンには有名になったところである。いっぽうで、
この行田にはもっと古くからは
「さきたま→さいたま」
という名があった。
明治政府によって県が置かれたとき、
親藩・譜代が多く治めてた地は、
県名と県庁所在地名を別物にされる、
という"仕置き"を受けた。それで、
川越・忍・岩槻など、バリバリの譜代で占められてた
武蔵野国の埼玉県になる地には譜代の城下町だった
「岩槻(実際には諸事情で浦和に)」に県庁が置かれ、
県名はただの「一郡名」にすぎなかった
「埼玉」とされたのである。それが、
浦和と与野と大宮を合併するにあたって、
「さいたま」という市名にする愚を犯したのである。

万葉集巻9-1744(高橋虫麻呂歌集)
【前玉之 小埼乃沼尓 鴨曽翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯】
(さきたまの、をさきのぬまに、かもぞはねきる。
おのがをに、ふりおけるしもを、はらふとにあらし)
「(拙大意)埼玉(=前玉、さきたま)の、小崎沼で、
    鴨がね羽から霧のようなものを散らしてることだよ。
     どうやら、自分の尾(小崎の「を」とかけてる)に降りた霜を、
     払ってるようだよ」

いっぽう、
千葉県は当初の諸県を統合するにあたって、
城下町ではなかった千葉に県庁を置いたので、
すんなり同名の県名となったのである。で、
千葉県のもっとも東京寄りにある市川には、
真間というところがある。そこらへんから
須和田・宮久保・東菅野といったあたりは、
東京の西にある鎌倉・逗子と並んで、明治以来、
作家や学者など、"文化人"が多く住む町である。
親の知り合いもいたので、ガキの頃には
よく連れられて行ったものだった。
高級住宅地の割りには道が狭くて入り組んでて
海に近い低い土地であるところは、
鎌倉と似てる。防波・防風の松がよく植わってた。
真間川沿いには現在では桜が植わってて、
目黒川の桜程度には花見が楽しめるスポットとなってる。

万葉集巻9-1808(高橋虫麻呂歌集、1807長歌への反歌)
【勝壮鹿之 真間之井見者 立平之 水[手邑]家武 手兒名之所念】
(かつしかの、ままのゐみれば、
たちならし、みづくましけむ、てこなしおもほゆ)
「(拙大意)葛飾の、真間の井戸を見ると、
     ここによく来て、水を汲んだであろう、
     手児奈のことをね思い起こすことだよ」

手児奈(てこな)は、
祭で山車や御輿を先導する舞である
「手古舞(てこまい)」と関係がある。手古舞は、
「てんてこまい」の語源でもある。
山車や御輿は「重い」。つまり、
重い動物である「象」である。それを動かすのは
難儀なことである。てんてこまい、である。ともあれ、
重いものを動かすには、
「梃(てこ)」が要る。だから、
山車や御輿を先導するのが
「手古舞」であり、舞うのは
手児奈なのである。
信じるか神事ないかは、ヒトそれぞれである。
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