チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキー『悲愴』の主題/先人、前作から引き継がれたもの」

2010年02月28日 17時50分01秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
JRAの角田晃一騎手が今日で引退し、調教師に転身した。
モンキー乗りの中でも最も尻をあげた姿勢の
騎乗フォームが特徴だった。が、
世紀が変わった2001年、馬齢の変更の年の東京優駿を勝った
ダービー・ジョッキーというのが、他の騎手との大きな差異である。
ダービーのみならず、春の天皇賞も勝った、
真のジョッキーのひとりでもある。ちなみに、
「幻の三冠馬」と言われたフジキセキ号の世代の
1995年のダービーは、枠連7-7というゾロメだった。
馬は草食動物であるが、シャチは肉食動物である。
引きずりおろされただけで喰われなかっただけ、
溺死したフロリダの女"調教師"はまだましだったかもしれない。
猿回し芸は"動物好き"なむきに人気がある。が、
猿が芸をするのは楽しくてやってるわけでも、
ヒトとの友好なコミュニケイションの一環としてやってるわけでもない。
恐怖を植えつけられエサを与えられる上下関係を強いられたから、
やってるだけなのである。猿回しの芸を覚えさせる前に、
非常に残忍で惨い馴致が行われる。
首根っこをつかみ顔を床に押さえつけ、
鳴きわめく猿を、これでもかこれでもかと威嚇し屈服させる。
家庭で犬を飼う行為も、程度の差こそあれ、
根本は同じである。犬は動物である。
エサがなくては生きられぬ。苦労してエサを探さなくても
"猫かわいがり"してくれるうえに御馳走を与えてくれる
"飼い主""御主人様"であるニンゲンサマには、
愛想のひとつもふりまいて尻尾を振ってやるよ、
というものである。
「私のワンちゃんは私の心がわかるのよぉ~~~」
いっぽう、道端で哀れさをよそおった姿を晒す
野良猫を「かわいぃ~~~」などと抱き上げ、
頬ずりする命知らずの勇猛なむきもある。ゴキブリと同じくらい
病原菌類や塵をくっつけてるのにもかかわらず。
Viola: I pity you.
Olivia: That's a degree to love.
(拙大意)ヴァイオウラ: お嬢様のお気持ちお察しいたします。
    オリヴィア: 気持ちを察するってほとんど恋心と同じものよね。
これを、
A pity is akin to love? or,
A pity is skinship(和製英語) to love?
「可哀そうだたぁ、惚れたってことよ」
と吾輩は猫である漱石先生は「三四郎」で脚色した。もっとも、
リヒャルト・シュトラウスの"Der Rosenkavalier(薔薇の騎士)"の
ホフマンスタールの台本による噺が、
シェイクスピアの"Twelfth Night"の筋と、
どこが違うのか判らない拙脳なる私には、
動物への支配欲求を発揮するむきの本能など
解るべくもないが。

ところで、Violaといえば、
チャイコフスキーの「交響曲第6番」=「悲愴交響曲」の第1楽章主部の主要主題は、
それぞれにディヴィズィされたViolaとVioloncelloの
弦楽4部によって提示される。
[アッレーグロ・ノン・トロッポ(四分音符=126)、4/4拍子、2♯(ロ短調)]
****♪<ラーァッ<シーィッ│<ドーーー・>シー●●・・●●●●
   ・<ラ<レ>ド>ラ│<ドーーー・>シー●●・・●●●●
   ・<ミ>レレッレッ│<ファ>ミミッミッ・>ラ>♯ソ♯ソッ♯ソッ・・<シ>ララッラッ
   ・>ミ>レレッレッ│<ファ>ミ>レッ>ドッ・>シッ<ドッ>シッ>ラッ・・>♯ソー●●♪
この主題の主要な動機、『3度昇って2度下がる』♪『ラ<シ<ド>シ』♪が、
ベートーヴェンが自らフランス語でタイトルを附けたop13のpfソナータ
「グランド・ソナト・パテティク」の主要動機を引いたもの、つまり、
それは遡れば大バッハの「マタイ・パッション」の冒頭の動機である、
というのが私の持論である。が、チャイコフスキーは、
ブラームスや山田耕作や中田喜直のような、
意図も引用の意思もなく、ただ「他作が自作として出力されてしまう」ような
レヴェルの作曲家とはわけが違う。
安っぽい繊維ではなく、複雑で精巧なテクスチュアが織りなす
音楽の最高峰なのである。マタイ・パッション=悲愴ソナータを
そのまま引くだけではない。自身の伝統織と結びつけ、
さらなる高みに達したのである。この
「悲愴交響曲」第1楽章の主要主題は、
フルート2管+クラリネット2管の木管四重奏によって確保される。
****♪●【ミッ<♯ファッ<♯ソッ・
   <ラーァッ<シーィッ│<ドーーー・>シー】●●・・●●●●・
   <ラ<レ>ド>ラ│<ドーーー・>シー●●・・●●●●・
   <ミ>レレッレッ│<ファ>ミミッミッ・<ラ>ドドッドッ・・ド>シシッシッ・
   <ソ>シシッシッ│シ>ララッラッ・<ファ>ミ>レッ>ドッ・・>シッ>ラッ>ソッ>ファッ♪
冒頭に「ミッ<♯ファッ<♯ソッ」弾頭が取りつけられてるのである。
なぜか?
チャイコフスキーの音楽作品は、実際のDNAを伝えれない補償としての
音楽のDNAだからである。
チャイコフスキーの「交響曲第4番」第1楽章の対主題は、クラリネット1管が吹く。
[モデラート・アッサイ、クワーズィ・アンダーンテ、9/8拍子、4♭(が、実質変イ短調)]
*****♪●●●【ミ<♯ファーー、<♯ソ<ラーー、<シ│
   <ドーー、>シ】>ラーーー、>♯ソ<ラーーー・
   ーーー、>ファ<ラーーーーーーー・
   ーーー、>ミ<ラーーーーーーー│
   >♭ラ>ソ>♭ソ>ファ>ミーーーーーーー・
   ーーーー♪
そして、この主題は次楽章、
[アンダンティーノ・イン・モード・ディ・カンツォーナ、2/4拍子、5♭(変ロ短調)]
で、チェロが主題を確保するとき、クラリネット2管がオクターヴ・ユニゾンで吹く
***♪【ミー・<♯ファー│<♯ソー・<ラ<シ│<ドー・>シー│ー】●・●●♪
オッブリガートにも転用される。さらに、
チャイコフスキーの「交響曲第5番」第1楽章の対主題は、
[アッレーグロ・コン・アーニマ(付点四分音符=104)、6/8拍子、1♯(が、実質ロ短調)]
***♪【ミーー・ーー、<♯ファ│<♯ソーー、<ラー<シ│<ドーー・>シーー】│>ミーー・ーーー♪
と提示される。
♪【ミ<♯ファ<♯ソ<ラ<シ<ド>シ】♪
というこの「交響曲第4番」と「交響曲第5番」との
「共有」については、2000年にYAHOO掲示板で私が指摘したのが
おそらく文章になった史上初めてのものだと思う。その後、
2005年に発行された音楽之友社の「作曲家・人と作品シリーズ」の
「チャイコフスキー」(伊藤恵子著)で、著者は
共産主義イデオロギーとは相容れないチャイコフスキーを冷視しつつも、
チャイコフスキーの頭脳に感嘆し、この件について言及してた。が、
2005年当時はまだ私が発表してなかったこの
♪【ミ<♯ファ<♯ソ<『ラ<シ<ド>シ』】♪
「交響曲第6番」との「共有」についてはなぜか触れてない。ともあれ、
「悲愴」の主題は、代々繋がれた看板を引き継いだ
集大成のDNAなのである。
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「チャイコフスキー『交響曲第6番』における高音域木管の不遇」

2009年07月09日 01時17分26秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
いまは食中毒にご用心な梅雨期、
真っ最中である。そんな時節柄、
美人バドミントン選手の潮田玲子女史が、いまや
飛ぶ鳥を落とす勢いな芸能事務所
セントフォースに入団したそうである。私はそれよりも
池田信太郎との仲がどうなのか、というような
艶聞が大好きなミーハーおやじなので、
ナトリウム中毒といってもいいくらいなほど、
毎夜中に"ポテトチップ"を腹いっぱい食ってる。
そういえば、私は生まれてこのかた
「足がつる」という経験をしたことがない。
"グラビアアイドル"原幹恵女史と篠原涼子女史の
顔の区別もままならない拙脳な私のことだから
鈍感なのか。いずれにせよ、
カリウム過多症ではないにしろ、なんらかの原因で
カリウムが充分に足りてるのだろう。だから、
ナトリウムが欲しくなるのだ、と、
酒飲みの言いわけのようなことを唱えて
ポテトをツマミに安赤ワインも飲み干すのである。かつて、
炭坑労働者の中には、山の穴を開けるダイナマイトの粉末を、
砂糖代わりになめてた者もいたと聞く。それはともかく、
私のような塩分三昧な生活を続けてれば、
鬼が出るか蛇がイモがでるか……。が、
幼い頃からの怠惰な食生活はなおることはない。
三つ子の魂、百までも。ちなみに、8代め坂東
三津五郎の魂は六十八歳までだった。女優、
池上希実子女史のおじいちゃんである。その
役者名の「三」と「五」に挟まれた4つの歯(上下各2)、
を持つフグの毒は、テトロドトキシン(tetorodotoxin)。
tetra=4, odon=歯, toxin=毒, である。

さて、チャイコフスキーの「交響曲第6番」(悲愴交響曲)で、
フグというよりは不遇をかこつのは、
高音域木管楽器である横笛のフルートである。
その姉妹楽器のピッコロと合わせれば、計
4オクターヴの音域を覆う。ちなみに、ピッコロは
フルートより1オクターヴ高い音が出るので、
オッタヴィーノ(オクターヴの意)とも呼ばれる。ともあれ、
「悲愴交響曲」において、フルートがソロを与えられるのは、
第1楽章の提示部における第2主題の2度提示の合間、
モデラート・モッソ(ニ長調)で、
****♪ソーーー・ー、<ラ<シ・・<ド、ド<レ・<ミ<ファ<ソ│
  <ラーーー・ー>ミ>ド>シ・・>ラーーー・ーー●●│
  <レーーー・ー、レ<ミ・・<ファ、ファ<ソ・<ラ<シ<ド│
  <レーーー・ー>シ>ソ>レ・・>シー●●・●●●●♪
という、たった「4」小節のみ、である。しかも、
そこにはファゴット1管のカノンのカラミがあるので、純粋な
ドク奏とはいえない。華麗な魅力を
振るうこともフルートもなく、逆に、
低音域の魅力を際立たされただけである。いっぽう、
フルートに次ぐ高音木管であるオーボエも、
「悲愴交響曲」においては、ほとんど
旋律部を与えられなかった。
「白鳥湖」では、あの超有名な
「白鳥の歌」の節を任されたオーボエ、
「眠れる森の美女」でもその上品な音質を
チャイコフスキーによって効果的に引き出されたオーボエ。
それが、この「悲愴交響曲」では、
徹底的に冷や飯を食わされるのである。もっぱら、
チャイコフスキーに固有の使用法である「トランペットとのユニゾン」、
あるいは、その他の楽器との「重ね合わせ」、
でしか出番を与えられてないのである。この、
「HRバッターをバッティング・ピッチャーとして雇った」ごとき
使いかたには、逆に、チャイコフスキーの一分の隙もない
研ぎ澄まされた感覚が気迫充分に押し寄せてくる、
という思いを抱かせられる。対照的に、
最晩年のチャイコフスキーが多用したクラリネットとファゴットそれぞれの
暗い音色、そして、その混合音色を、この
「悲愴交響曲」でチャイコフスキーは最大限に活かしきった。
クラリネット(モツレクではバセット・ホルン=やや低いクラリネット)、ファゴット、
トランペット、アルト・トロンボーン、といった管に
soloやsoliを吹かせてる「悲愴交響曲」は、
「レクィエム」そのものなのである。
「きらびやかな色」を排し、ダルな「混合色」で彩った、
「ドク特な音色の世界」にチャイコフスキーの美意識は到達し、
そして果てた、のである。そして、
「悲愴交響曲」に大きな影響を受けたのちの作曲家の誰も、
この「音彩の世界」だけは真似できなかった。
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「チャイコフスキー『悲愴交響曲』2箇所の"ffff"その2: 第3楽章」

2009年03月08日 18時09分57秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
[Two-"ffff" in Tchaikovsky's 6th symphony/The latter, and Schubert's Erlkoenig]

今年はデトロイト・タイガーズのタイ・カッブが
アメリカン・リーグの三冠王になって100年にあたる。
まだユニフォーム・ナンバーがなかった時代である。その
三冠のうち、本塁打はたったの9本。しかも、
すべてが「インサイド-ザ-パーク・ホウムラン」、つまり、
和製英語でいうところの「ランニング・ホームラン」である。
2年前のサン・フランスィスコウでのオールスター・ゲイムで
イチローは「ランニング・ホームラン」を打ったが、それは
MBL史上、オールスター・ゲイムではいまのところ
「唯一」の「ランニング・ホームラン」である。ときに、
1909年、デトロイトはア・リーグのチャンピオンにはなったものの、
ワールド・スィリーズではピッツバーグに負けてしまった。
パイリッツが勝った、ということは、100年後の今年は、
カリビアンな国がWBCを勝つ、ということ
だっちゅうのだろうか。ここ20年で増えた
カリビアンなメイジャー・リーガーの、あのセンスのない
打撃フォームが嫌いな私は、カリビアンな国以外だったら、
優勝するのは、「奇矯」に聞こえるかもしれないが、
たとえ「トラジ」な韓国でもいいとさえ思ってる。さて、
トラジックではダメ、パセティックだとブラヴォーと言った、
などと弟のウソで伝えられるチャイコフスキーの「悲愴交響曲」で、
"ffff"と指定された2箇所のうち、あとのほうは、
第3楽章第312小節乃至315小節である。そのうち、
前半の2小節の管弦楽配置は以下のとおりである。

(G dur=ト長調)
1) [ピッコロ・フルート2管・クラリネット2管・弦楽4部]:
 ***♪レ>ド・>ソ<ド・・<レ>ド・>♭ラ<ド│
   <レ>ド・>(N)ラ<ド゛・・<レ>ド・>♭ラ<ド♪
2) [1番オーボエ・1番トランペット]:
 ***♪ソー・<ドドド・・>♭ラー・<ドドド|
   >(N)ラー・<ドドド・・>♭ラー・<ドドド♪
3) [2番オーボエ・2番トランペット]:
 ***♪ミー・>ドドド・・<♭ミー・>ドドド|
   <レー・>ドドド・・<♭ミー・>ドドド♪
4) [1番ホルン・1番トロンボーン]:
 ***♪ソー・ーソ・・<♭ラー・ー♭ラ|
   <(N)ラー・ーラ・・>♭ラー・ー♭ラ♪
5) [2,4番ホルン・ティンパニ]:
 ***♪ド♪の通奏
6) [ファゴット2管・3番トロンボーン・チューバ・コントラバス]:
 ***♪ソー・ーソ・・>♯ファー・ー♯ファ|
   >(N)ファー・ーファ・・<♯ファー・ー♯ファ♪
7) [3番ホルン・2番トロンボーン]:
 ***♪ミー・ーミ・・>♭ミ(♯レ)ー・ー♭ミ(♯レ)|
   >(N)レー・ーレ・・<♭ミー・ー♭ミ♪

以上、大別して7つの小群に分けれるが、それらは、
(1) (2) (4) =(a)
(3) (7) =(b)
(5) =(c)
(6) =(d)
と4つの大群にまとめれる。つまり、
a): ♪ソー・ーー・・<♭ラー・ーー|<(N)ラー・ーー・・>♭ラー・ーー♪
b): ♪ミー・ーー・・>♭ミー・ーー|>レー・ーー・・<♭ミー・ーー♪
c): ♪ドー・ーー・・ーー・ーー|ーー・ーー・・ーー・ーー♪
d): ♪ソー・ーー・・>♯ファー・ーー|>(N)ファー・ーー・・<♯ファー・ーー♪
である。すなわち、
1小節めの1拍乃至2拍はト長調の主和音、
同小節めの3拍乃至4拍と2小節めの3拍乃至4拍は
変ロ長調=ト短調の増56の和音あるいは
変イ長調=の属7という借用和音、
2小節めの1拍乃至2拍はト長調の二の副7、
ということである。が、
この「4小節にわたるffff」の中で、
もっとも重要なのは、
大太鼓が1発打ち鳴らされる2小節め第1拍、つまり、
[ド(<)レ(<)ファ(<)ラ]という二の副7の箇所である。

ところで、このチャイコフスキーの「悲愴」の第3楽章は、
アッレーグロ・モルト・ヴィヴァーチェという速度標語とともに、
メトロノームによるテンポが記されてる。すなわち、
「四分音符=152」である。そして、4/4拍子。が、
(12/8)拍子と括弧書きもされてる。そして、
「3連符」によるタランテッラで始まるのである。いっぽう、
フランツ・ペーター・シューバート18歳のときのリート
「(邦題)魔王」は4/4拍子。そして、
速度標語はドイツ語で"Schnell"……速く、である。
シューバートは自筆譜にはこれだけしか
指定しなかったようだが、出版譜には
[Schnell(四分音符=152)]と、
メトロノーム速度が併記されてるのである。そして、
ト短調、ピアノの「3連符」で始まる。それに導かれた
歌は「語りべ(エヴァンジェリスト)」のナレイトに始まり、
「親父」「倅」「魔王」という「三者」が順に
「連歌を詠い合っ」て、最後にまた
「語り部(エヴァンジェリスト)」のナレイトで締めくくられる。
この「語り部」にに挟まれた主部は、あたかも
「父」と「子」と「精霊」という「三位一体」となって、
頻繁に転調をしならがら一つの歌を繋いでく、という
大文豪ゲーテの「不信心ぶり」のなせるわざである。
それはともかく、主部の最後は、
「倅」の悲痛な末期の叫びである。
"Mein Vater, mein Vater, jetzt fasst er mich an!
(マイン・ファーテル、マイン・ファーテル、イェッツト・ファスト・エール・ミッヒ・アン!)
「おとうさまぁ~~~、おとうさまぁ~、
 とうとうボクつかまっちゃったよぉ~!」
Erlkoenig hat mir ein Leids getan!"
(エールケーニヒ・ハット・ミール・アイン・ライツ・ゲタン!)
「魔王に殺されちゃうぅ~~~~!」
この「子の末期の叫び」の前半(Mein Vater ……)は
実質変ロ短調で、
**♪ミー|<ファー・ーー・・ファー・ーファ|
    ファ>ミ・ミー・・●●・ミー|
   <ファー・ーー・・ファー・ーファ|
   >ミー・ーー・・●●・●●♪
である。が、この変ロ短調のミ(ヘ=f)をソと置き換えて
ト短調に一転し、後半(Erlkoenig hat ……)は
**♪ソー・ーー・・<♯ソー・ー♯ソ|
 <ラー・ーー・・>ファー・ーファ|
 >ミー・ーー・・ーー・ミー|>ラー♪
となり、息を引き取るのである。ときに、
この最期の♪ミー|>ラー♪であるが、歌詞は
"ge-tan"……getanというドイツ語は、
動詞tunの過去分詞である。
英語のdoに対するdone、である。つまり、
「エールケーニヒ・ハット・ミール・アイン・ライツ・ゲタン!」というドイツ語の
「魔王はボクに危害を加えてしまった」なる直訳は、
「ボクは魔王に殺されちゃう」と意訳できるが、むしろ、
「魔王はボクに危害を加える=殺すという一線を越してしまった」
ということである。つまり、それは、
香油を塗った女の行為に対して、
【私の埋葬への備え】をしてるのだ、
と弟子たちに解説した「マシュー・パッション」における
イエスの言葉と重なるのである。
"Dass sie dies Wasser hat auf meinen Leib gegossen,
hat sie getan, dass man mich begraben wird."
(ダス・ズィー・ディーズ・ヴァッセル・ハット・アオフ・マイネン・ライプ・ゲゴッセン、
 ハット・ズィー・ゲタン、ダス・マン・ハット・ミッヒ・ベグラーベン・ヴィルト)
(拙大意)彼女が私の体にこの香油をヴァッサーと注いだのは、
    私が埋葬される準備をした、ということなのだ。
ここで、私は「本歌取り名人」のゲーテが、
getanという「行為を表す動詞の過去分詞」を共通として、
Leib(ライプ=体)→Leids(ライツ=危害)というダジャレを放った、
と考える。ちなみに、ドイツ語のgetanの意味は
基本的なものしか知らないが、英語のdoneには
「死ぬことになる」「命取りの」という
形容詞的な用法があることも意味深い。
「きっちり始末をつける」ことを"done business"と言うが、
対中国ビジネスで利権を得んとする、
♪訪中、ニーッポン、ハジさらしにまぁいぃてぇ~♪
嘘ツキの訪中時横丁の媚中派政治家らへのフシマツな献金のことは
ニシマツともニジマスとも言わないらしい。ともあれ、
歌曲「魔王」で「倅」の末期の叫び、
"Erlkoenig hat mir ein Leids getan!"が歌われる、
**♪ソー・ーー・・<♯ソー・ー♯ソ|<ラー・ーー・・>ファー・ーファ|
 >ミー・ーー・・ーー・ミー|>ラー♪
を思い起こすと、私はチャイコフスキーの「悲愴」の
第3楽章の"ffff"の箇所、
***♪ソー・ーソ・・<♭ラー・ー♭ラ|<(N)ラー・ーラ・・>♭ラー・ー♭ラ♪
を連想してしまうのである。もっとも、
クールポコの小野まじめと小川直也の顔、
最近の竹内結子女史と小柳ルミ子女史の顔、
田中正造といかりや長介の顔、などの区別もできない、
「キイハンター」と「紀伊半島」を聞き分けれずに
丹波や千葉市や川口市が和歌山にあると思いこんでたような、
高コレステロール・中トロ好き・低学歴な、拙脳なる私が感じることである。
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「チャイコフスキー『悲愴交響曲』2箇所の"ffff"その1: 第1楽章」

2009年02月13日 17時49分40秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
[Two-"ffff" in Tchaikovsky's 6th symphony/The former]

明日はサン・ヴァレンティーノの日である。カ顔がブサイクな男である私には、
千代子さんという名の女性に限定しなくても、
まったく縁がない。といっても、
なんとかしようと金で無駄な努力をしてきた時分もあった。
いろいろ貢いだり配慮しテルニもかかわらず、
その見返りは私のオツム同様に薄かった。が、
3年前からそんな虚しい努力をするのは止めた。以来、
義理にもチョコなどもらったことがない。で、
チョコを口にしなくなったおかげで、それでなくても
拙い脳がまわらなくなって、
武豊がシャべる口元と猫の口元の区別が
つかなくなってしまった。ところで、武豊がイメキャラの
三菱自動車アウトラウンダーは4輪駆動とばかり思ってたが、
ffの2輪駆動仕様もあるそうである。

チャイコフスキーの「悲愴交響曲」には"ffff"と指定された箇所が
ふたつある。ひとつは第1楽章第299小節であり、
いまひとつは第3楽章第312小節乃至315小節である。
総数1000小節あまり(第2楽章の反復をカウントしなくても)の中で、
たったこれだけ、という奥ゆかしさから、これらが
「特段」の扱いであることが窺える。
第1楽章第274小節、第2拍乃至第3拍で、減7の
「タタタータ」というモース符号の"f"を刻み、さらに次小節で、
「タタタ」という"s"を、そして、
「タ」、「タ」と"e"、"e"をたたみ込む。
"fsee(フスェー)"……ロシア語の"все(フスェー)"は、
「すべて」「皆」を表す複数代名詞である。
「すべての民は神の裁きを受ける」、のである。そして、
第277小節から「嘆息音型」
♪ミーーー<ファーー>ミ・ミ♪のゼクヴェンツが始まる。そして、
それより前から続けられてきた"fis(嬰ヘ)"の通奏低音とあいまって、
ロ短調が確保され、フルート3管と弦楽4部によるユニゾンの
下降音型が"fff"で奏される。が、これより後発の、しかも
"ff"の(ただし、絶対的音量を考慮した上での差付け指定)の
トロンボーンとチューバの「嘆息音型」(初回は全音下降)
♪ミーーー|<「シーーー・ーーー>ラ・・ラーーー・ーーーー」♪
♪ドーーー|<「「ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー」」♪
をカノるように、
♪ドーーー|>「シーーー・ーーーー・・>ラーーー・ーーーー」♪
♪ソーーー|>「「ファーーー・ーーーー・・>ミーーー・ーーーー」」♪
と降りてくのである。そして、
"largamente, forte possibile(ラルガメンテ、フォルテ・ポッスィービレ)"
と弦には指示がなされてる。が、この
"largamente"を「幅広く、ゆったりと」などと
「音楽辞典」の類の訳を鵜呑みに解して、
テンポを遅くする思慮に足りない指揮者というのが存在する。
この指示は「弦楽器の弓使い」について附されたものである。
「弓を先から元までいっぱいに使って、できるかぎり強い音で」
ということである。おんなじ節を吹くフルートには指定されてない、
ということからも容易に解ることであるのにもかかわらず。また、
それに輪を掛けて「のんびりトロトロぐずぐず」な演奏に
「ロシアの大地を感じ」て「ウットリしてしまうむきもあるので、
そういう人たちはそういう世界にいれば、
幸せなのかもしれない。もっとも、水嶋ヒロと名倉潤の
フェイスの区別もつかない拙脳な私が日々
感じることにすぎない。それはどうでも、
それまでユニゾンだった弦が、第297小節から
"sff"で和声を重ねる。
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ラーーー・ーーー>♯ソ・・♯ソーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)ファ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのラが減7の倚音になってるのである。次いで、
(ロ短調)トロンボーン&チューバが♪ファーーー・ーーー>ミ・・ミーーー・ーーーー♪、
弦が(通奏低音のコントラバスのミを除いて)[レ(<)♯ソ(<)シ]、つまり、
トロ&チューのファも含めた減7から属7に移行する。そして、
"ffff"からディミヌエンドしてく第299小節乃至第300小節、
を挟んで、クラリネット・ファゴット・ホルン・ティンパニ・チェロ・コントラバスが形成する
[ミ(<)♯ソ(<)シ]という属和音が打たれ減衰してく、のである。
そして、そのロ短調と共通する属和音が同主調の
ロ長調をお膳立てし、天国を表すかのような
「第2主題」が現れる、という運びになってるのである。さて、
あとまわしにした"ffff"の箇所であるが、そこでは、
オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルン・トロンボーン&チューバ・ティンパニ・弦楽5部、
が起用されてる。そして、
通奏低音のティンパニとコントラバスが「ロ短調(h moll)の「ミ(fis)」を、
トロンボーン&チューバが「♯ミ(eis)」を、それ以外の
管楽器と弦楽4部がそれぞれ[ド(<)ファ(<)ラ(d(<)g(<)h)]を、
打ち下ろすのである。ここで注目すべきは、
1. ファゴット1・ホルン2・ヴィオーラ・チェロが打つ「ファ(g)」、
2. ティンパニ・コントラバスが刻む「ミ(fis)」、
3. トロンボーン&チューバが吹く「♯レ(eis)」、
という、半音ずつ隣り合う「3つの音」である。とりわけ、
3つめの「♯レ(eis)」をチャイコフスキーは
「♭ミ(f)」とはしなかった。ここで、
"eis"とは何か、である。「嬰ホ」である。上記のごとく、
「本位ヘ」とは「異名同音」である。ときに、
"Requiem(レクウィーエム)"とはラテン語の"requies(レクウィーエス)"の対格で、
くだけていえば「安息を」である。さて、
"Requiem aeternam dona eis, Domine:
et lux perpetua luceat eis."
これは"Requiem"の入祭唱(Introitus/イントロイトゥス)である。
モツ・レクに限らず、レクィエムの歌詞はそのように始まる。
その2行の中に、[eis]という語が繰り返し出てくる。
この先頭の2行は終いで再び述べられるから、
[eis]はつごう4回出てくるのである。ラテン語の
三人称代名詞の複数与格、つまりくだいて言えば、
「彼らに」である。したがって、ここで、
バストロンボーンとチューバという低音のaceツートップを通じて、
チャイコフスキーは"Requiem"の「前口上」を吹かせた、
のだと私は考えてるのである。
「レクウィーエム(安息を)・エテルナム(永遠の)・
  ドナ(与え給え)・エイス(彼らに)、ドミネ(主よ)。
 エト(そして)・ルクス(光が)・ペルペトゥア(途切れることなき)・
  ルーチェアト(降り注がんことを)・エイス(彼らに)」(拙大意)
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「チャイコフスキー『悲愴交響曲』第1楽章の中のバッハとベートーヴェンとモーツァルト」

2009年02月08日 22時33分56秒 | 悲愴中毒(おreたちdニasはない
[Matthew Passion(Bach), Grande Sonate Pathetique(Beethoven) and Requiem(mozart) in Symphony No.6(Tchaikovsky)]

昨日は父の遺品をひっさげて母の家に行き、
泊まった。夜、母はテレ東の
「アド街」を懐かしそうに観てる。
「京橋」だからである。母の親友のひとりは
映画女優だった。で、映画人がよく集ってた
京橋の寿司屋に、母もよく行ってたらしい。
鶴田浩二や越路吹雪などといっしょに収まった写真が
4枚あったが、それももってきてあげてた。ところで、
日本は4枚のプレイトの上に乗っかってるゆえ、
大地震が多い。が、震源が浅い地震には、
中低層建造物の固有周期に近い周期の、つまり、
そういった建物が共振して倒壊する恐れが大きい、
地殻内を反射しながら遠方まで到達する性質の
Lg波と呼ばれる波が生じる場合がある。ときに、
L&Gの波会長が逮捕されたそうである。当日、私は
所用で護国寺方面に向って外苑東通りを走らせてたら、
牛込保健センターの交差点前で赤信号で止まった。すると、
その両脇にびっしりと報道陣がまだ張ってた。
ここが奴のヤサか、と思った。よく、
「どうしたら世の中がよくなるか」
と不毛なことを言うむきがいる。簡単である。
こういう輩が消えればいいのである。が、
現状はそう単純ではない、ということは
小学生にだってわかる。が、偽善家はそうでない。
人はなにで動くかといえば、ほとんどの場合が金である。
広告塔になった芸能人はもちろん、
ひっかかった”会員”も。「欲が張った」結果である。
スマイリーキクチのブログが誹謗中傷の書き込みで
炎上してたらしい。書きこんだ輩が
書類送検されたそうだが、
実名写真附きでは報道されないようである。私もかつて、
"fricca1115"という不届き者によって、
「ハッカーだ」「ウィルスメイルを送りつけられた」
など、事実無根の誹謗中傷を書き込まれたことがある。私は
ニッキもシナモンもハッカも嫌いだが、他にも被害者がいて、これは
「フリッ禍事件」と名づけられて、
司直の手が入らなかった事案としては、
結構有名らしい。当時私は、
yahoo掲示板しか見てなかったが、
この触法オバハンは、私に気づかれないように
私が見てない2ちゃんねるに書きこんでた、という
悪質度の高いものだった。
自分が知ってるとこで書かれたのならまだ、
「ワタシニデンワシテクダサイ。ドウゾ、ヨロシク」
と、スタイリー・クチキキとかいう芸名でも名乗って、
「微笑みの応じ」で対処することもできたかもしれない。
知らないとこで誹謗中傷を進行させるというのは、
このオバハンの卑怯さと性根の悪さを如実に表してる。が、
この触法オバハンも憐れな生き物だったが、
その虚言・無礼を攻撃した者までも、
私がハッカーだというその虚言だけは信じた、
という愚かで悪意に満ちた点でまた、
同じ穴の狢であり、憐むべき存在だった。ともあれ、
こんなのと同様なのが世の中にはウジャウジャ生息してる、
ということなのである。正直者がバカをみるのが
世の中であるのは、リービッヒの最小律を持ち出すまでもない。

♪菜のはぁ~~な、ばたけぇ~に、リービッヒ、薄れぇ~~~♪
父の家の自室の整理をしてたら、子供の頃によく聴いてた
「唱歌・童謡」のレコードが出てきた。
高野辰之が作った歌詞は一般に、”古き良き”日本の風景、
という感じで捉えられてる。その是非はともかく、
"ノスタルジー"という感情は人間のもっとも高等な感情のひとつである。
持ち合わせてない者が「教習」できるという類ものではない。
遠くにありて思う……のが、時であるか場所なのか……
時間と空間、そしてその関係は不思議な概念である。いずれにせよ、
生物は時間と空間をマタイで、あるいはk点越えをして、
ライフツィヒに到る生命を繋いでく本能を担わされてるのである。

***♪[ラーー・ー<シ<ド・・>[[シ]ーー・ー<♯ド<レ│>♯ド]]♪
このバッハの「マタイ・パッション」の緒曲の[3度上がって2度下がる]動機が、
ベートーヴェンが自らフランス語で命名したpfソナータの第1楽章の序奏の
****♪[ラーーーーーー・ーーーラ<シーー<ド・・ドーーーーーーー>・シーーー]●●●●│
  <[[レーーーーーー・ーーーレ<ミーー<ファ・・ファーーーーーーー>・ミーーー]]●●●●♪
という動機に引用された。上記のバッハの節は、
磯山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍刊……p139)によれば、
マレにみるヴィオールトゥオーゾだったかどうかは知らないが、
ルイ14世おかかえのヴィオーラ・ダ・ガンバ奏者
Marin Marais (1656-1728)の「ヴィオール曲集第1巻」中の
「ムッシュ・メリトンのトンボ(墓碑)」という「哀悼曲」から採ったそうである。
チャイコフスキーはそれらの「故事につけて」、
***♪[ラ<シ│<ドー・>・シー・・ーー]、<[シ<ド│<レー・>・ドー・・ーー]♪
と、「悲愴交響曲」の冒頭を構成した。
バッハのマタイは「ホ短調」=1♯である。ドイツ語で♯は「十字架」を表す
「クロイツ」であるから、バッハはこの調性を採ったらしい。いっぽう、
ベートーヴェンの「ハ短調」は3♭という「三位一体」かつ
「救済者christ」の頭文字cである。他方、
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の冒頭は2♯ながら、
実質「ホ短調」である。そして、
空虚5度という開始はベートーヴェンの第九の開始の引用であり、
弦の伴奏に乗ってファゴットが節を吹き始めるという開始は
モツ・レクの引用である。ちなみに、モツレクのその節、
***♪●●・{ラー・・ーー・>♯ソー│<ラー・<シー・・<ドー・ーー}♪
は、ベートーヴェンの「英雄交響曲」の第1楽章の「展開されない主題」、
***♪{ラー・・>♯ソー│<ラー・ー<シ・・<ドー}│>シー、<ミー・>♯レー│<ミー♪
および、第2楽章「葬送」行進曲の主要主題の動機、
****♪ミーーミ│ミーーーーーーー・{ラー->♯ソ<ラーー<シ│<ドーーーーーーーー}・
  >ラーーー●●●●│<ミーーーーーーー♪
と引用された。これはチャイコフスキーの「悲愴」には直接引かれてないが、
第1楽章第1主題提示部の推移期間の50小節めからvnが刻む、
実質嬰ハ短調、そして、実質嬰ト短調の
****♪ラララ・ラ<ド>♯ソ<ラ│>ミ<ファ>ミ>レ・>{ド>シ>ラ>♯ソ・・>ラー}♪
が、{逆順(in reverse order)}になってるのである。ときに、
この推移期間に入るときのブリッジには、
2管のホルンがオクターヴ・ユニゾンで****♪ソソ・ソーソー│>ミーーー・ーーーー♪と吹くが、
ベートーヴェンの「運命交響曲」第1楽章展開部冒頭の
クラリネット2管とホルン2管による完全ユニゾン
(そして4つめの音にはファゴット2管が重ねられる)の、
****♪ソー・ソーソー│>ミーーー・ーーーー│ーーーー・ーーーー│ーーーー・ーーーー(F)♪
を引いたものである。さて、話が逸れたが「マタイ」に戻すと、その
第4曲は「イエスの頭に香油をぶっかける女」の逸話である。
 布教活動中のイエスは、重い皮膚病患者の家を訪れ食事をした。
 病気=罪、という認識の社会である。とくに、
 皮膚病は蔑まれたという。そこに入ってくイエスは、
 いかにも新興宗教の教祖、というように、
 常人には奇異に映る。が、そこにまた、
 わけのわからない女がイエスに擦り寄ってきて、
 香油を頭に注いだのである。お笑い芸人の罰ではない。
 その香油は相当に高価なものだったらしい。
 周りの弟子たちは、その無駄使いをなじった。そんな
 高価なものは、売って貧乏人の施しにまわしたほうがよほど
 効果的である、と。が、イエスは、
 この女は「いいこと」をしたのだ。
 貧しい人にはお前らがいるが、私はもうすぐいなくなる。
 この女が私の体に香油を注いでくれたのは、
 【私の埋葬への備え】である。コウユうことなのだ、と諭した。
この部分が「マタイ受難曲」の第4曲eである。
【私の埋葬への備え】云々は、
[hat sie getan, dass man mich begraben wird
(ハット・ズィー・ゲタン、ダス・マン・ミッヒ・ベグラーベン・ヴィルト)]で、実質ニ短調、
****♪ソ・<レ<ミ│<ファー>ミー・●●
  >ミ>レ・>ドー>ラー・<♭シー>♯ソ<ラ│ラー>ミー♪
(c^g^a^b_a-a_g_f_d^es_cis^d-d_a)
という節回しで表されてる。この中の
"begraben(埋葬する)"という動詞にあてられてるのは、
♪ラー・<♭シー>♯ソ<ラ♪であり、これは
「十字架音型」であり、また、[♭シ]の箇所は
[ナーポリの6]の和音に裏打ちされてるのである。いっぽう、
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」第1楽章の展開部の
189小節第4拍から準備された和声の上に、
♪bー・ーー・・>aー・>gー│>faー・ーー・・esー・ーー│
 esー・ーー・・>dー・>cー│>cesー・ーー・・>bー・ーー♪
が吹奏される。これは、「第2主題」後半部分
♪ソー・>ファ>ミ│ミー・>レー・・<ファー・>ミ>レ│レー・>ドー♪
の変型ともみなせるが、
この最初の第189小節第4拍に用意されてるのは、
[g(<)b(<)es]という、
ニ短調におけるナーポリ6と同じ和音なのである。また、
オーボエ、ファゴット、トランペット各2=6管によって吹奏される上記の節は、
「マタイ・パッション」におけるイエスの言葉の
[-tan, dass man mich begraben]
の箇所の節回しとも、ほぼ合致するのである。これはまた、
ベートーヴェンの「第九」第1楽章第1主題提示部の中に出てくる。
第24小節乃至第27小節(ニ短調)、
***♪ファー・ーー│ーー・ー>ミ│>レ>ド・>♭シ>ラ│>♯ソ♪
  (b_a_g_f_es_d_cis)
この[es]の箇所も、ベートーヴェンが愛用した
[ナーポリの6]の和音の、非転回形が敷かれてるのである。さて、
チャイコフスキーは上記の「fff」の吹奏が終わると、
チェロとコントラバスに急速鎮静化させて、
3連符による切分な「嘆息音型」を下敷きに、
実質「ニ短調」をお膳立てし、
***♪ラー│ーー・ーー・・>ソー・ーー│<ラー・ーー・・<ドー・ーー│
  >シー・ーー・・>ラー・ーー│>ミー・ーー・・ーー・ーー♪
というロシア正教の聖歌
「主よ、埋葬されし汝の僕の魂に安らぎを与え給え」
をトロンボーンに吹かせるのである。バッハの「マタイ」と、
「埋葬」という共通のキーワードで繋げてるのである。続いて、
管群に呼応する弦楽3部による「嘆息音型」が
「3回」擦られ、展開部は収束に向かうのである。
チャイコフスキーは「悲愴交響曲」を古今の音楽の
集大成にしようとしたのだろう。このように、
奥深い配慮が鏤められてるのである。そして、
それが単なる高度なパズルというだけでなく、
大きな感動という共振を、
その固有振動数が合致する者に与えるのである。ゆえに、
私はチャイコフスキーの音楽に共振的なのである。
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