[Who started this stupendous idea to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon?]
昨年の12月、例の"tchaikovsky-research.net"の
"Forum"に、米・テクサス州のシャーマン交響楽団の第2クラリネット奏者、
という人物から、"Symphony No. 6 Bass Clarinet"
というトピックが投稿された。第1楽章第160小節後半の、
「ファゴット」による"pppppp"での
♪・・h(la)_a(so)・_fis(mi)_d(do)♪(それぞれにフェルマータ)
を、バス・クラリネットに替えて演奏することについて、である。
バス・クラリネットを使うなどという愚の骨頂は、
議論の余地なく、許されないことに決まってる。
チャイコフスキーはこの箇所をファゴットの独奏で書いてるのであるから、
後世の浅知恵者が弄した姑息に関して、本来、
チャイコフスキーには関係ない事案である。が、
ほとんどの愚かな指揮者がバス・クラリネットで代用させることが、
真のチャイコフスキー理解を妨げてる、という
由々しき問題であるので、捨て置けない。
英語ができない私であるからして、
その英文の投稿の大意をひょっとしら
曲解してるかもしれないが、掻い摘んでみれば、
以下のとおりである。
「提示部終いのクラリネットの独奏は、
最後の4もしくは5つの音符が、
A管クラリネットの音域より低いためか、
ファゴットに受け継がれて終わる。
バス・クラリネットのほうがファゴットよりも
はるかに低い音量を出せる、という発想から
そうされたものだろう。それに、おそらく、
クラリネットとファゴットの音色の違いよりも、
クラリネットとバス・クラリネットとの音色の違いのほうが少ない、
という理由もあったのではないかと思う。
この慣習がどこで始まったのか、
これがチャイコフスキー自身の措置だったのか、また、
チュイコフスキーは他の作品(例えば、くるみ割り人形)では
バス・クラリネットのパートを書きいれてるのに、
なぜ、第6交響曲では 使用しなかったのか、知りたい。
いちおう、私は自分なりの推論を立ててる。
チャイコフスキーの頃はバス・クラリネットが(オペラやバレエの)
オーケストラ・ピットでは一般的だったが、
交響曲ではそうではなかった。したがって、多分、
交響楽団にはバス・クラリネットは備えられてないので、
チャイコフスキーは交響曲にバス・クラリネットを加えるべきではない、
と考えたのではなかろうか、と。いっぽうで、
チャイコフスキーのマンフレッド交響曲には、
はっきりとバス・クラリネットのパートが書かれてる、
ということを、最近、人と話してるときに気づいた。
マンフレッドは大変に長大な作品だが、ともあれ、
チャイコフスキーの他の番号附き交響曲とは違って、
通常の編成よりはるかに管の編成は多い。
バス・クラリネットもそれに含まれる。が、
たいして活躍の場があるわけではない。とまあ、
このバス・クラリネットかファゴットかという問題について、
私には本当のところはわからない。単に、
仮説を立てたにすぎない。そこで、私は知りたい。
チャイコフスキー研究の専門家の方々が、
このことについてどうお考えなのか。
どなたか、真相をご存じか」
実に悲痛な叫びである。それはともかく、まず、
チャイコフスキーがおそらく好きで、こんな疑問を呈するのに、
"the last 4 or 5 notes"と書いてる。
♪la_so_mido♪という4つの音を不確かにしか覚えてない、
という不思議さ、である。また、プロの演奏家であるのに、
「マンフレッド交響曲」を「交響曲」と捉えてる点である。が、
それが国内外に一般的なプロの演奏家の
平均的な認識、認知度、であるから、しかたない。問題は、
彼の最後のセンテンスに対する「専門家」の冷たさ、である。
この「フォウラム」には、世界のチャイコフスキー研究の権威が
何人も見て、参加もしてる、というのに、その中の
誰ひとりとして彼の悲痛な質問に答えてあげないのである。
そして、わずかに反応したかたも、質問者の疑問には
本質的なことでないことに話題をすげかえてしまった。
そこで、おバカなチャイコフスキー・マニアである私が、
Kamomeno Iwaoというエイリアスで、
「悲愴交響曲」の"Programme"を示してあげようと、
このように投稿してみた。
I do not know who had first performed or had directed to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon. It is certain that a bass clarinet can better handle the "each-fermated" pppppp four notes than a bassoon especially in the compass. However, I do not think it is good idea. It sounds something comfortable or warm, while it attaches to ff-stroke of tristan chord(c-g-a-es). It is strange. The compass of those four notes is almost the same as that in the beginning a bassoon plays with pp. Then, please imagine a bass clarinet play at the introduction. Does not it sound strange? It is important that it is hard to play, I think. Motif in the introduction substantially in E minor, that is, motif of main theme in B minor, quotes the tune on which Beethoven by himself titled in French "La grande sonate pathetique". Moreover, those origin is opening motif of Bach's Mathew Passion in E minor, "e-----^fis^g_fis-----^gis^a_gis"_fis_e ("la-----^ti^do_ti" "ti-----^ ♯do^re_♯do").
The 6th Symphony and the 3rd Piano Concerto are the last orchestral works of Tchaikovsky's. And both, after the accompaniment of the strings, a bassoon begins to play each motif. This is the same way at the beginning of Mozart's "Requiem". Therefore, I suppose it as follows. Tchaikovsky composed this symphony as "Pathetique=the Passion", that is, "Requiem".
(英訳ソフトを使って英文に直す前のもとの日本語)
誰が最初にこれらの4つの音符をファゴットでなくバス・クラリネットで演奏する、あるいは演奏させるという愚行を犯したのか私は知りません。確かに、バス・クラリネットのほうがファゴットより(とくにこの音域では)「4つの音符すべてにフェルマータがかけられた」箇所を「pppppp」で演奏しやすいでしょう。しかし、その安易な代用を私は愚かな猿知恵だと思います。
バス・クラリネットがその箇所を吹けば「いくらか心地よく、暖かく」聴こえるかもしれません。しかし、4つの音符の最後の音が「ff」で始まる展開部の「トリスタン和音(ハ-ト-イ-変ホ)」に間髪入れずに繋げられてるのです。バス・クラリネットなどにしたら変でしょう?
これらの4つの音符の音域は、序奏部でファゴットが「pp」で奏しはじめる音域とほぼ同じですね。想像してみてください。序奏部のファゴットの箇所もバス・クラリネットが吹くのを。奇妙奇天烈ではありませんか? それとまったく同じことなのですよ、これらの4つの音符をバク・クラリネットに吹かせることなど。この箇所のファゴットの「pppppp」は吹くのが困難であればあるほど、つらければつらいほど、意義があるのですから。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の序奏の実質ホ短調の動機、すなわち、主部の主主題のロ短調の動機は、ベートーヴェンが自分で「大悲愴ソナタ」とフランス語で名づけたピアノ・ソナタの動機を引用したもので、タイトルの「悲愴」もこれに倣ったものです。しかし、このベートーヴェンの動機も、大バッハの「マタイ・パッション(受難曲)」の冒頭のホ短調の動機が元ネタです。
交響曲第6番(悲愴)とピアノ協奏曲第3番は、チャイコフスキーの最後の管弦楽作品です。そして、そのいずれもが弦の伴奏に乗ってファゴットが旋律を吹き始めます。しかし、この始めかたはモーツァルトの「レクィエム」そのものなのです。ですから、私はこのように推定しています。チャイコフスキーはこの交響曲を「悲愴な=パテティク=パッション=ギリシア語のパトス」という意図で作曲したのだと。つまり、この交響曲はチャイコフスキー自身の「レクィエム」なのです。
これだけアマチュアの私が示唆を与えてあげてるというのに、
質問者からも他の誰からも、まったく反応がなかった。
チャイコフスキーの音楽が好き、というわりには、
情けないというか、揃いもそろって
張り合いのない方々である。もっとも、
競馬番組キャスターの柳沼淳子女史と
E.H.エリックの次女女史(現在の夫の姓は柳沼)の
顔の区別もできない愚脳な私の戯言ゆえ、
1ミリほどさえ顧みられなくても無理はない。
昨年の12月、例の"tchaikovsky-research.net"の
"Forum"に、米・テクサス州のシャーマン交響楽団の第2クラリネット奏者、
という人物から、"Symphony No. 6 Bass Clarinet"
というトピックが投稿された。第1楽章第160小節後半の、
「ファゴット」による"pppppp"での
♪・・h(la)_a(so)・_fis(mi)_d(do)♪(それぞれにフェルマータ)
を、バス・クラリネットに替えて演奏することについて、である。
バス・クラリネットを使うなどという愚の骨頂は、
議論の余地なく、許されないことに決まってる。
チャイコフスキーはこの箇所をファゴットの独奏で書いてるのであるから、
後世の浅知恵者が弄した姑息に関して、本来、
チャイコフスキーには関係ない事案である。が、
ほとんどの愚かな指揮者がバス・クラリネットで代用させることが、
真のチャイコフスキー理解を妨げてる、という
由々しき問題であるので、捨て置けない。
英語ができない私であるからして、
その英文の投稿の大意をひょっとしら
曲解してるかもしれないが、掻い摘んでみれば、
以下のとおりである。
「提示部終いのクラリネットの独奏は、
最後の4もしくは5つの音符が、
A管クラリネットの音域より低いためか、
ファゴットに受け継がれて終わる。
バス・クラリネットのほうがファゴットよりも
はるかに低い音量を出せる、という発想から
そうされたものだろう。それに、おそらく、
クラリネットとファゴットの音色の違いよりも、
クラリネットとバス・クラリネットとの音色の違いのほうが少ない、
という理由もあったのではないかと思う。
この慣習がどこで始まったのか、
これがチャイコフスキー自身の措置だったのか、また、
チュイコフスキーは他の作品(例えば、くるみ割り人形)では
バス・クラリネットのパートを書きいれてるのに、
なぜ、第6交響曲では 使用しなかったのか、知りたい。
いちおう、私は自分なりの推論を立ててる。
チャイコフスキーの頃はバス・クラリネットが(オペラやバレエの)
オーケストラ・ピットでは一般的だったが、
交響曲ではそうではなかった。したがって、多分、
交響楽団にはバス・クラリネットは備えられてないので、
チャイコフスキーは交響曲にバス・クラリネットを加えるべきではない、
と考えたのではなかろうか、と。いっぽうで、
チャイコフスキーのマンフレッド交響曲には、
はっきりとバス・クラリネットのパートが書かれてる、
ということを、最近、人と話してるときに気づいた。
マンフレッドは大変に長大な作品だが、ともあれ、
チャイコフスキーの他の番号附き交響曲とは違って、
通常の編成よりはるかに管の編成は多い。
バス・クラリネットもそれに含まれる。が、
たいして活躍の場があるわけではない。とまあ、
このバス・クラリネットかファゴットかという問題について、
私には本当のところはわからない。単に、
仮説を立てたにすぎない。そこで、私は知りたい。
チャイコフスキー研究の専門家の方々が、
このことについてどうお考えなのか。
どなたか、真相をご存じか」
実に悲痛な叫びである。それはともかく、まず、
チャイコフスキーがおそらく好きで、こんな疑問を呈するのに、
"the last 4 or 5 notes"と書いてる。
♪la_so_mido♪という4つの音を不確かにしか覚えてない、
という不思議さ、である。また、プロの演奏家であるのに、
「マンフレッド交響曲」を「交響曲」と捉えてる点である。が、
それが国内外に一般的なプロの演奏家の
平均的な認識、認知度、であるから、しかたない。問題は、
彼の最後のセンテンスに対する「専門家」の冷たさ、である。
この「フォウラム」には、世界のチャイコフスキー研究の権威が
何人も見て、参加もしてる、というのに、その中の
誰ひとりとして彼の悲痛な質問に答えてあげないのである。
そして、わずかに反応したかたも、質問者の疑問には
本質的なことでないことに話題をすげかえてしまった。
そこで、おバカなチャイコフスキー・マニアである私が、
Kamomeno Iwaoというエイリアスで、
「悲愴交響曲」の"Programme"を示してあげようと、
このように投稿してみた。
I do not know who had first performed or had directed to play those notes with a bass clarinet instead of a bassoon. It is certain that a bass clarinet can better handle the "each-fermated" pppppp four notes than a bassoon especially in the compass. However, I do not think it is good idea. It sounds something comfortable or warm, while it attaches to ff-stroke of tristan chord(c-g-a-es). It is strange. The compass of those four notes is almost the same as that in the beginning a bassoon plays with pp. Then, please imagine a bass clarinet play at the introduction. Does not it sound strange? It is important that it is hard to play, I think. Motif in the introduction substantially in E minor, that is, motif of main theme in B minor, quotes the tune on which Beethoven by himself titled in French "La grande sonate pathetique". Moreover, those origin is opening motif of Bach's Mathew Passion in E minor, "e-----^fis^g_fis-----^gis^a_gis"_fis_e ("la-----^ti^do_ti" "ti-----^ ♯do^re_♯do").
The 6th Symphony and the 3rd Piano Concerto are the last orchestral works of Tchaikovsky's. And both, after the accompaniment of the strings, a bassoon begins to play each motif. This is the same way at the beginning of Mozart's "Requiem". Therefore, I suppose it as follows. Tchaikovsky composed this symphony as "Pathetique=the Passion", that is, "Requiem".
(英訳ソフトを使って英文に直す前のもとの日本語)
誰が最初にこれらの4つの音符をファゴットでなくバス・クラリネットで演奏する、あるいは演奏させるという愚行を犯したのか私は知りません。確かに、バス・クラリネットのほうがファゴットより(とくにこの音域では)「4つの音符すべてにフェルマータがかけられた」箇所を「pppppp」で演奏しやすいでしょう。しかし、その安易な代用を私は愚かな猿知恵だと思います。
バス・クラリネットがその箇所を吹けば「いくらか心地よく、暖かく」聴こえるかもしれません。しかし、4つの音符の最後の音が「ff」で始まる展開部の「トリスタン和音(ハ-ト-イ-変ホ)」に間髪入れずに繋げられてるのです。バス・クラリネットなどにしたら変でしょう?
これらの4つの音符の音域は、序奏部でファゴットが「pp」で奏しはじめる音域とほぼ同じですね。想像してみてください。序奏部のファゴットの箇所もバス・クラリネットが吹くのを。奇妙奇天烈ではありませんか? それとまったく同じことなのですよ、これらの4つの音符をバク・クラリネットに吹かせることなど。この箇所のファゴットの「pppppp」は吹くのが困難であればあるほど、つらければつらいほど、意義があるのですから。
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」の序奏の実質ホ短調の動機、すなわち、主部の主主題のロ短調の動機は、ベートーヴェンが自分で「大悲愴ソナタ」とフランス語で名づけたピアノ・ソナタの動機を引用したもので、タイトルの「悲愴」もこれに倣ったものです。しかし、このベートーヴェンの動機も、大バッハの「マタイ・パッション(受難曲)」の冒頭のホ短調の動機が元ネタです。
交響曲第6番(悲愴)とピアノ協奏曲第3番は、チャイコフスキーの最後の管弦楽作品です。そして、そのいずれもが弦の伴奏に乗ってファゴットが旋律を吹き始めます。しかし、この始めかたはモーツァルトの「レクィエム」そのものなのです。ですから、私はこのように推定しています。チャイコフスキーはこの交響曲を「悲愴な=パテティク=パッション=ギリシア語のパトス」という意図で作曲したのだと。つまり、この交響曲はチャイコフスキー自身の「レクィエム」なのです。
これだけアマチュアの私が示唆を与えてあげてるというのに、
質問者からも他の誰からも、まったく反応がなかった。
チャイコフスキーの音楽が好き、というわりには、
情けないというか、揃いもそろって
張り合いのない方々である。もっとも、
競馬番組キャスターの柳沼淳子女史と
E.H.エリックの次女女史(現在の夫の姓は柳沼)の
顔の区別もできない愚脳な私の戯言ゆえ、
1ミリほどさえ顧みられなくても無理はない。