チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「松井須磨子『カチューシャの唄』/トルストイ原作『復活』芸術座帝劇公演から100年」

2014年03月26日 20時13分59秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ

松井須磨子 中山晋平 カチューシャの唄


本日は、ギヨチヌ、いわゆる
ギロチンがフランスその他の国々死刑器具に使われる端緒となる提案をした医師、
Joseph Ignace Guillotin(ジョゼフ・イニャス・ギヨタン、1738-1814)の
没後200年にあたる日である。
ギヨタンは開発や設計、製作に関わったわけではないが、
革命によって設けられた憲法制定までの暫定国民議会の議員という
公職にあってそういった提案をした人物だったため、
その名で呼ばれるようになってしまったということである。

ときに、信州の
更埴市(現・千曲市)は
林檎や梨の花はまだだがそろそろ、
杏の花が咲く季節となった。旧更埴市は
その一部が江戸時代には
真田家松代藩領だったことから、藩の殖産事業のひとつだった
杏の木が現在ではその開花が観光の目玉となってる。

明治末から数年間を島村抱月の看板舞台女優として名をはせた
松井須磨子(本名=小林正子、1886-1919)は、
松代藩士の娘として松代藩領内で生まれた。ちなみに、
須磨子という芸名は叔母の娘(=須磨子の姪)の名から採ったらしい。
結婚生活が不向きだった須磨子はその短い生涯に
結婚離婚を繰り返し、東京に出た。そして、最近はコピペ論文問題の
渦中者である小保方女史の学位論文無審査で話題の
早稲田大学の坪内逍遙主宰の演劇研究所に入所する。
そこで島村抱月と"同志"となって周囲の顰蹙を買い、
抱月とともに「芸術座(現在のとは別)」を創設した。その
第3回公演がレフ・トルストイ原作・アンリ・バタイユ脚色・島村抱月訳の
「復活」(ヴァスクリスェーニエ)だった。

ギヨタンとギュータンをときとして聞き分けれず、
サンソンとシャンソンも聞き間違えることが少なくない拙脳なる私には、
そんなアイディアなど浮かぶはずもないが、抱月は
そこで歌舞伎役者市川香中車ではなく
女優に劇中歌を歌わせるという試みをした。そして、
その商業的な目論みがまんまと当たったのである。
♪カチューシャかわいや。わかれのつらさ♪
と帝国劇場で大正3年(1914年)3月26日に
須磨子が歌った「カチューシャの唄」は、
スペイン風邪に負けないくらいな大流行となったらしい。ちなみに、
カチューシャとはエカチェリーナの愛称のひとつである。この小説のカチューシャは
ドストエフスキーの「罪と罰」のソーニャと同じく
売春婦である。サーネイムはМаслова(マースラヴァ)である。
масло(マースラ)とは「香油」のことであり、
イエスに香油を注いだマグダラのマリアに擬してるのである。

♪ソー│<ドー・ー<レ・・<ミー、<ソ<ラ│
>ソー・ーー・・>ミー、>ド<レ│
<ミー・ー>ド・・>ラー・<レー│
>ソー・ーー・・ーー♪

抱月の書生をしてた中山晋平(1887-1952)が作曲した。
24年後の第二次世界大戦直前に作られたソ連の流行歌
「カチューシャ」(♪ラーー<シ<ドー>ラー<ドド>シ>ラ<シー>ミー♪)
とはまったくの別物である。また、
37年後の1951年に松代出身の坂口淳が作詞した
「バンビ」(子鹿のバンビは可愛いな)は
平岡照章が作曲した童謡であるが、
この中山晋平の曲の節に似てしまってる。中山晋平は、
須磨子の故郷松代から北東に20kmほどに位置する
現在の中野市に生まれた。ちなみに、
明治・大正・戦前昭和期の童謡作家には、
草川信・海沼実(作曲)、坂口淳・山上武夫(作詞)
といった松代出身者だけでなく、
この中山晋平や高野辰之(ともに現中野市)、浅原六朗(池田町)
といった松代からほど近い地区の出身者が驚くほど多い。

ちなみに、
中山晋平と高野辰之の故郷の信州中野は、
平安末期から根をおろしてた中野氏を戦国時代に
現在の須坂から進出して滅ぼした高梨氏が一帯を領した。
その一族は越後上杉氏に仕え、上杉家の転封に従って
米沢に移り、明治維新によってその一族の一部が
山形県でももう少し北の村山に流れた。そしてさらに、
北海道開拓で成功の機会を窺い上川町に移り住んだのが
女子スキー・ジャンプのワールド・カップ総合優勝者にして
日本体育大学体育学部への飛び入学入試にもジャンプした
高梨沙羅嬢の家である。と、
日本の氏族の時代とともに移りゆく姿の一部を
おさらいしてみた。ともあれ、
100年前は須磨子の歌が流行ったが、
現在はスマホが万人に普及してる。消費税引き上げとともに
小中学生には21時以降は親に引き上げさせて使わせない
(解禁は朝の何時ならいいんだ?)、
などという不毛なことをするらしい刈谷市などのような
浅知恵自治体がでてくる次第である。そんなことより、
貶日国家の悪行をきちんと伝える教育をしろ。

(中山晋平作曲の「カチューシャの唄」をオーケストレイションしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/nakayama-s-katyusha-no-uta
にアップしました)
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「唱歌『夏は来ぬ』/小山作之助生誕150年」

2014年01月19日 23時24分28秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ

夏は来ぬ 小山作之助生誕150年


先週から東京でも寒い日が続いてる。私は
デブでハゲながら寒さが苦手なこともあって
冬よりも夏が好きである。だから、
大江戸探検隊でも副隊長の私は、
冬場はあまり外を歩くことはしないように
隊長に要請してる。その隊長は幕臣の子孫で、
先祖は大番組に配されてた。その
大番組の屋敷があったのが現在の千代田区
番町(一番から六番まで)である。戦後、
戦前の「一中→一高→東京帝大」を継承した、
「番町小→麹町中学→日比谷高→東大」
というルートが日本のエリート・コース、という時期があった。
ちなみに、都立ながら日比谷高は、
新年度に2年の担任教師が各自自分の旗を校庭に立てて、
生徒が好きな担任の旗のもとに集まってクラスを決める、
いわゆる「旗立て方式」という、
生徒が担任を選ぶ高校として知られてた。実際は、
人気のない教師の旗には、担任など誰でもいいという生徒が移って
全クラスがだいたい同じくらいの生徒数になるような
"配慮"が自主的にされてた。それが知れ渡り、
越境入学的に日比谷高に入ろうとする者が増えたこともあって、
「学校群制度」が敷かれて同校の人気が下がり、
東大合格者数も急激に低下して、
灘や開成や武蔵ラ・サールといった私立校からの東大入学者が増加した。
現在はまた日比谷高のレヴェルは上がってるようである。反対に、
武蔵やラ・サールは、聖光学院、渋谷教育学園幕張(共学)、
女子の東大進学増加による桜陰、女子学院など、
他の私立受験新興進学校に人気が分散し凋落した。いずれにせよ、
故ネルソン・マンデラの目がなぜ細い(瞼が分厚い)のか
説明できない拙脳なる私などが入学できない
レヴェルの高偏差値校であることに変わりはない。

ともあれ、
「番町小学校」の校歌の作者としても一部では知られてるのが、
今日、生誕150年の日にあたる、
明治政府の文部省で唱歌の作曲・選定に深く関わった
小山作之助(こやま・さくのすけ、文久3年12月11日-昭和2年6月27日)
である。ちなみに、
昨年を同人の生誕150年としてる記事もネットで見受けられるが、
旧暦の年=現行暦の年
だと誤認してるむきの所業である。
文久3年12月11日は現行暦換算では1864年1月19日なのである。

同人は現在の上越市潟町で生まれた。公的には
"作者不詳"ということになってる唱歌
「海」(松原遠く、消ゆるところ)でその故郷の海を詠ったらしい。
♪ド<レ・<ミー・ミー│<ソソ・>レー・ーー│
>ド<レ・<ミー・<ファー│>ミミ・>レー・ーー♪
クラ音と唱歌・童謡で育った私の、好きな唱歌のひとつである。が、
それ以上に好きな唱歌が、同人が作曲して、
歌人佐佐木弘綱の倅の佐佐木信綱に詞を書かせた(*)のが、
「夏は来ぬ」である。

♪ソー・>ミ<ファ・・<ソー・ーソ│<ラ<ド・>ソ<レ・・>ド>ラ・>ソー│
<ラー・<ド>ラ・・>ソー・ーソ│<ラ>レ・レ<ソ・・>ミ>ド・<レー│
>ドー・<ミー・・<ソー・ーソ│<ラ>ソ・<ラ<ド・・>ソー・ー、ソ│
<ドー・ー<ミ・・>レー・レー│>ドー・ーー・・●●・●●♪

明治33年(1900年)6月に、
「新選国民唱歌」(第二集)(小山作之助編)の中の
一曲(ハ調四拍子)として発表された。
その翌年には別の版元から出され、
「夏」という題名で、歌詞は"無名子"による
別のもの(**)があてられたという。おそらくは
小山自身が作詞したのだあろう。が、さらにまた
タイトルも「夏は来ぬ」、詞も佐佐木信綱のものに戻された。

(*)
[1)うの花の にほふ垣根に 時鳥(ほととぎす) 早もきなきて 忍音(しのびね)もらす 夏はきぬ
2)さみだれの そそぐ山田に 賎(しづ)の女(め)が 裳裾(もすそ)ぬらして 玉苗ううる 夏はきぬ
3)立ばなの かほる軒ばの 窓近く 蛍とびかひ 怠(おこたり)いさむる 夏はきぬ
4)棟(あふち)ちる 川べの宿の 門(かど)遠く 水鶏(くひな)声して 夕月すずしき 夏はきぬ
5)夏はきぬ 蛍とびかひ 水鶏なき 卯木(うつぎ)花さき 早苗うゑわたす 夏はきぬ]

のちに、
2番の「賤の女(しづのめ)」が「早乙女(さおとめ)」に、
5番の(冒頭の)「夏はきぬ」が「さつきやみ(五月闇)」(=五月雨の頃の暗い夜)に、
同番の「卯木花さき」が「卯の花さきて」に、
それぞれ変更された。

1番の「うの花」は「ウツギの花」、
「忍音」は「特許許可局の許可を得てその年初めて鳴くホトトギスの声」、
2番の「山田」は「山あいの傾斜地を切り開いた田(棚田)」、
「賤の女」は「江戸時代に士農工商外の身分だった者の子孫の女性」、
「裳」は「着物」、「玉苗(たまなえ)」は「早苗」、
3番の「立ばな」は「橘(柑子)」、「いさむる(終止形=いさむ)」は「注意を促す」、
4番の「棟(あふち)」は「栴檀(センダン)(白檀ではない)」
(端午の節句の日に魔除け邪気払いや健康成長を祈って
香料や薬草を錦の袋に詰めて作る薬玉(くすだま)にその実も入れた)、
「水鶏」は「ヒクイナ」、
の意味である。
3番の「窓近く」に4番の「門遠く」が対比されてる。

1番から5番まで、「五七五七七」+「夏はきぬ(五)」というパターンを貫いてる
(曲が先にできてたのだから当然だが)。
1番は「橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ」
「春の苑 紅匂ふ。桃の花 下照る道に 出でたつ乙女」
という万葉集の大伴家持の歌、そうした古歌などを本歌とした
「山里は 卯の花垣の ひまをあらみ 忍び音もらす 時鳥かな」
という江戸時代後期の国学者加納諸平の歌、などを下敷きにしてる。
「にほふ」はもともとは「丹(に)覆ふ」(niohofu→nihofu)で、
赤い花の色が反射して一面を覆ったさまを表した。のちには
白い花(この歌のウツギのように)が一面に咲いてるだけのさまも意味するようになった。
ちなみに、ウツギは幹が中空だから「空木(ウツギ)」という名が附いた。
2番は「君がため 山田の沢に ゑぐ(=オモダカ)摘むと 雪消の水に 裳の裾濡れぬ」
という、やはり万葉集の作者不詳の歌と、それを本歌とした
「五月雨に 裳裾濡らして 植うる田を 君が千歳の みまくさにせむ」
という「栄花物語第19巻・御裳着(おんもぎ)」の中の歌を引いてる。
3番は中国の「晋書・車胤伝」の「蛍雪の功」、つまり、
「蛍の光、窓の雪」を夏だけヴァージョンにアレンジしたものである。
小さな昆虫の蛍でさえ頑張って生きてるんだから、
怠けないで勉学に励みなさいよ、ということである。
4番は「叩くとて 宿の妻戸を 開けたれば 人もこずえの 水鶏なりけり」
という拾遺和歌集の作者不詳歌を引いてる。また、
1番のホトトギスと合わせて
「玉に貫く 棟を家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離(か)れず来むかも」
という万葉集の大伴書持(ふみもち。家持の弟)の歌の言葉を引いてる。
5番はそれまでのまとめ的な歌詞となってる。

いっぽう、「夏」としての歌詞は、

(**)
[01)あたらしく ほりたる池に 水ためて 金魚はなさん。夏こそ今よ いざ来れ。
02)手をうてば 群くる鯉を 数へつつ 橋を渡らん。夏こそ今よ いざ来れ。
03)おとどひが 作りあひたる 築山に 苔をはやさん。夏こそ今よ いざ来れ。
04)葉桜の 若葉すずしき 下蔭(したかげ)に 釣床(つりとこ)つらん。夏こそ今よ いざ来れ。
05)そよ風の ふきくる夕べ ぶらんこに のりて遊ばん。夏こそ今よ いざ来れ。
06)紫に 菖蒲花さく 公園を そぞろあるかん。夏こそ今よ いざ来れ。
07)蓮の葉の 丸く浮べる 田の水に 目高(めだか)すくはん。夏こそ今よ いざ来れ。
08)ここかしこ 蜻蛉おひつつ 疲るれば 草にねころぶ。夏こそ今よ いざ来れ。
09)夜に入れば 手に手に笹を 持ちいでて ほたる狩せん。夏こそ今よ いざ来れ。
10)凉しくも 出でくる月を 松に見て 唱歌うたはん。夏こそ今よ いざ来れ。
11)とく起きて 咲き初めたる 朝顔の 花をかぞへん。夏こそ今よ いざ来れ。
12)玉よりも 清く光りの 朝露を ふみ心地よき。夏こそ今よ いざ来れ。
13)朝毎に 父を助けて 庭はきて 草に水やる。夏こそ今よ いざ来れ。
14)学校の 休みにならば 父上と 山のぼりせん。夏こそ今よ いざ来れ。
15)登山する 富士のふもとに わらぢをも はき習ふべき。夏こそ今よ いざ来れ。
16)谷がけの 瀧に打たれて 心まで 清く洗はん。夏こそ今よ いざ来れ。
17)あら波の 寄せ来る磯に 潮あびて からだ鍛はん。夏こそ今よ いざ来れ。
18)海原に 盥うかべて 海士の子と 遊びくらさん。夏こそ今よ いざ来れ。
19)うちつれて ボートすすめて 海国の 男児ならはん。夏こそ今よ いざ来れ。
20)学校の 休みのひまに 国のため 身を固むべき。夏こそ今よ いざ来れ。

と、お世辞にも感嘆してみせれない出来の詞である。いずれにしても、
「夏は来ぬ」
は発表後からたちまちその節が評判の歌となったらしい。
佐佐木信綱は著名な万葉集・新古今和歌集研究者となったが
この作詞当時はまだ若輩だった。で、
その"不出来"さ加減に自身も自信喪失となってしまったらしい。が、
結局は信綱の詞のほうに戻されて、明治の唱歌の名曲として残ったのである。
後世、コーセーではないがカネボウの
「夏は絹」などというしようもないオヤジギャグ的コピーの石鹸CMが作られたほどである。

(小山作之助オリジナルの「夏は来ぬ」に続けて私が アレンジしたもの
……ともにスキャットのアカペラ4声混成合唱……を
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/koyama-s-kamomeno-iwao-natsu
にアップしました)
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「ヤッショマカショとチャッキリチャッキリきゃあるが啼くから雨づらよとリンゴの関係」

2013年12月19日 23時44分58秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ
東京都知事はinnocent(イノセ・ント)ではなかったようである。が、
5000万円はシークレット・ブーツと瞼の美容整形代と化粧代に必要だった、
というわけではないらしい。
同人は飯山生まれの信州人である。が、
幼少時に父が死に、父親からの愛情が欠如した人格が形成された。
信州大時代は左翼の活動家だったそうである。
真っ赤だったにちがいない。愛煙家らしいので
肺とどこかは真っ黒なことだろう。それはともあれ、
毎年12月になると信州上田の知り合いから
リンゴが届く。梨・桃・葡萄ほどではないにしろ、
林檎は好きである。
今日木曜19時から日テレで
「あのニュースで得する人損する人2時間スペシャル」
を放送してた。その中で、
日本一の長寿県である長野県のその長寿の秘密が
「リンゴ食」にあるという主張をしてた。たしかに、
"An apple a day keeps the doctors away."
という諺が英国にもあるように、
一日一個の林檎は医者いらず、なのかもしれない。
ニュートンもびっくりである。が、
スティーヴ・ジョブズのようにリンゴだけしか食わないと
壮年を過ぎたくらいで膵臓癌になるかもしれない。
アンジェリーナ・ジョウリ女史の下腹部に彫られた
ラテン語のタトゥーの諺のように、
養うものがまた破滅させもする、
のかもしれない。体にいいものはまた毒にもなるのである。
物事は万事、バランスが肝要である。
多種のものをバランスよく腹八分目に摂る、
のが無難な方策というものである。

いっぽう、
昨日水曜の19時からテレ朝で
「蘇る! 昭和の歌謡曲売上ベスト101」
を放送してた。その中で、
故美空ひばり女史の
「リンゴ追分」が流されてた。
大酒飲みでヘヴィ・スモウカーでインチキ療法に騙されてもやはり
壮年過ぎに死ぬかもしれない。

「リンゴ追分」は米山正夫(よねやま・まさお、1912-1985)が
昭和27年(1952年)に"作曲"した。
(cf;「森の水車のコトコトcotton/米山正夫生誕100年」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/336f3042f3bac4ab2045f388a8cba6c9 )
歌の冒頭の♪リンゴの花びらが♪には、
【ソ<ラ<ド<レ<ソ>ミ>レ<ミ】
という節があてられてる。が、これは
♪目出度愛でたの♪
という「花笠音頭」の節そのものなのである。
米山さんから雲は出ず、花笠が出てしまった。
染料や油が採れた紅花は、江戸時代に最上川周辺で栽培され、
尾花沢に集積された。その尾花沢で大正8年(1919年)、
灌漑用水池とするために徳良湖に堤を築いた際、
作業に加わった地元住民が歌った土搗き唄が
「花笠音頭」になったとされてる。

また、
この「花笠音頭」にインスパイアされたのが、音楽評論家で民謡研究者でもあった
町田佳聲(まちだ・かしょう、1888-1981)である。作詞者北原白秋の推しで、
昭和2年(1927年)に静岡電気鉄道が
静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地の宣伝歌として"作曲"したのが、
「ちゃっきり節」である。出だしの
♪唄はちゃっきり節♪
の箇所がそのまんんま【ソ<ラ<ド<レ<ソ>ミ>レ<ミ】である。
「チャッキリ」とは「茶切り」という意味らしいが、
チャッキリというよりはチャッカリいただき、といった感じである。

【ソ<ラ<ド<レ<ソ>ミ>レ<ミ】
という節まわしは、
紅花(山形県)→茶・蜜柑(静岡県)→林檎(青森県)
というルートを辿った。
最上(もがみ)の紅花が、
日本最上(さいじょう=3776m)の高さを誇る「富士(山麓の静岡)」となり、
「リンゴのふじ(藤崎町)」になったとさ。
津軽出身の太宰治は「富嶽百景」でこう書いた。
富士には月見草がよく似合ふ。
立ち食い蕎麦では月見がよく食われるらしい。
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「『サインはV』と内幸町と残心/岩谷時子女史の死にあたって」

2013年10月30日 15時43分48秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ
去る10月25日に、
宝塚の職員だったことから故越路吹雪女史のマネージャーとなり、
訳詞・作詞家ともなった
岩谷時子(いわたに・ときこ、1916-2013)女史が97歳で死んだ。
その2日後の27日には、
米国の"ロック"歌手
Lou Reed(ルー・リード、1942-2013)が71歳で死んだ。
同い年ながら片や27歳で不審死した
ジミ・ヘンドリクスに比するとルー・リードはロック・ミューズィシャンにしてはだいぶ
地味で、70代まで永らえて老体を晒してしまった。が、ことによると、
Two-Reedという二枚舌を使って
歌手と一般人の使い分け人生を送ってたのかもしれない。ともあれ、
若死にしたこともあって伝説的になってるヘンドリクスは、
当時のロック・ミューズィシャンのご多分に漏れず
アメリカ国歌を弾きながらVサインをする、といった
反体制をアピールした。

というように、
日本では「ピース・サイン」とも呼ばれてたVサインは、
1960年代米国でヴィエトナム戦争反対という
"平和"を掲げる"進歩的文化人"らによって用いられてた。
米国のヴィエトナム撤退以降は、その時代時代の若者の
記念写真の定番ポウズとなった。ちなみに、
世代によってVサインを出す位置や出しかたに大きく違いがあるらしい。
それらはともかくも、
元来のVサインは、15世紀フランスでの英仏百年戦争における1415年の、
Bataille d'Azincourt(バタイユ・ダザンクル=アザンクールの戦い)において
始められた、とする説が有力らしい。
英国軍は3倍弱の兵力を誇る仏軍に圧勝した。
その勝因は英国軍が誇る長弓隊にあったという。
ひとたび仏軍の俘虜となればもう二度と弓が引けぬように
矢筈をつまむ二本の指を切り落とされた。だから、
その人差し指と中指をことさらに誇示して仏軍を嘲り挑発したのである。
その二本の指が形成する形がVictoryの頭文字Vであることから、
「勝利」または「勝利宣言」としても一般に使われるようになったのである。

岩谷時子女史のヒットした歌詞は数々あるが、私が
小学生時代にTVドラマ化されてその主題歌となった
「サインはV」のものが印象深い。
♪ヴィー・アイ・スィー・ティー・オウ・アー・ワイ、サインはヴィー!♪
おそらく、昭和30年代までの日本の歌謡界の歌は、
完璧に「時代物」である。が、
現在の日本を形成するもととなった高度経済成長期である
昭和40年代には、流行歌もまた現在のJ-Popと大差ないものになった。
そのさきがけが歌詞でいえば岩谷女史だったのである。
五七調の時代がかった歌詞から、
現実に使ってる話ことばに替えたのである。とはいえ、
庶民はそうした斬新なものについていけず、
レコード会社の思惑どおりのミリオンセラーねらいの商業主義的な芸風を心得た
阿久悠や松本隆が一旦レトロなものにアナクロさせる。そのいっぽうで、
歌謡歌手をめざす中で岩谷女史の歌詞に感化された者らが、
フォウク・ソング時代、GS時代を経て、
いわゆるシンガー・ソングライターとなってくのである。
かように岩谷女史の歌詞は
斬新だったといえる。若い頃は私は弓道もやってたが、
残心などと悠長なことは実際の戦闘ではいってれない。
いくさや死にまで美や美学を持ち込むのは
日本人以外の民族ではありえないかもしれない。

昨今のどこぞの経費削減第一主義ホテルと違って信用第一な帝国ホテルは、
ニュー・オオタニ、キャピトル東急とともにビジネス・ランチによく利用してた。
その帝国ホテルで岩谷女史をたまに見かけた。東電の裏だったからではなく、
東宝(東京宝塚)村の隣なので定宿にしてたのだろう。
東京宝塚劇場の所在地は現在の住居表示で千代田区有楽町なのだが、すぐ隣の
帝国ホテルは千代田区内幸町である。
内幸町という町名の由来は、幸町の中でも幸橋の内側という程度の意味である。
そもそもの幸町の名の由来は、
徳川将軍は菩提寺である芝・増上寺への参詣の折、この
幸橋門を通ってのだが、その通りを
「御幸通り」と呼ぶようになったことに由来する。
戦闘時の敵軍挑発の意味で用いられてたVサインが、
戦争という最終決着手段によって紛争が解決されて
平和をもたらす、あるいは、戦争という手段を採らずに
解決しろ、という意思を表すようになり、
他愛もない記念写真を撮る際のお気平和な象徴となった。
「サインはV」を作詞した岩谷女史にふさわしい仕事場だったのだろう。

(岩谷時子女史が路吹雪女史のために
日本語詞を書いたことで日本語の歌詞で日本では知られてる
「愛の賛歌(Hymne a l'amour)」をオケにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/monnot-kamomeno-iwao-hymne
にアップしてあります。また、
岩谷女史が晩年に本田美奈子女史のためにやはり日本語詞を書いた
「アメージング・グレース(Amazing Grace)を、二枚舌木管の
オーボエ、イングリッシュ・ホルン、ファゴット各2管、計6管で
スコットランド・バグパイプふうにアレンジしたものを
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/amazing-grace-6-double-reed
にアップしました)
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「愛の讃歌(エディット・ピアフ没後50年→ジャン・コクトー没後50年)」

2013年10月11日 18時41分33秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ

愛の讃歌 エディット・ピアフ没後50年


昨日は、
"La vie en rose(ラ・ヴィ・オン・ロズ=(邦題)ばら色の人生)"
で知られるフランスのシャンソン歌手、
Edith Piaf(エヂト・ピヤフ、1915-1963)、
いわゆるエディット・ピアフ女史が肝臓癌で
香水で有名なグラース近郊のプラスカスィエの別荘において
47歳の生涯を終えてから50年にあたる日だった。そして、
ピアフが死んだ翌朝にその訃報を聞いて
それはあまりにザンコクトいうものだ、
いや、私はジャン・コクトーというものだ、
とは言わなかったが、すでに、
虚血性心疾患のために肺水腫を引き起こして衰弱してたコクトーは、
"Ah, la Piaf est morte!"
(ア、ラ・ピヤフ・エ・モルト!)
「(拙大意)ああ、あのピアフが死んでしまったのか!」
と嘆いてベッドに横たわり、そのまま死んでしまったのである。
コクトーは芸術家としては取るに足らないレヴェルの人物だが、
俳優のジャン・マレーを愛人としてずっと囲ってたゲイである。
ピアフ女史とは馬があった。
ピアフ女史はイタリア移民の母が17歳のときに産んだ子だった。
父親は売春宿の倅で、ルイ・アルフォンス・ガションという大道芸人だった。
モチネタが「ガチョーン!」だったか「ガショーン!」だったかは、
ピアフ女史の声とカラヤンの声を聞き分けれない拙脳なる私には定かでない。
ピアフ女史は父の実家、つまりノルマンディの売春宿に預けられ、
両親の愛情を受けることなく育った。

13歳で家出してパリの街頭で歌って小銭を稼いだ。
これがピアフ女史の歌手人世の始まりだった。やがて、
男とできて自分の母親と同じくらいの年で娘を出産した。が、
その娘はわずか2歳で死んでしまう。
キャバレーで歌う職を得て、さらに、
ナイトクラブの経営者ルイ・ルプレに見いだされる。
142cmしかないピアフ女史の体躯からルプレは
"La Mome Piaf(ラ・モム・ピヤフ=ちっちゃい娘スズメちゃん)"
と呼び、そのピアフが芸名となった。
子供ほどの小柄な体ながら命をかけたように絶唱する芸風が
当初はドンビキされたものの、次第に人気を博すようになり、
アメリカで爆発的に売れたのだった。もちろん、
音楽教育はおろか一般教育も受けてない。が、
理論を学んでなくてもピアフ女史の歌唱は絶妙だった。
ジュゼッペ・ヴェルディ同様、その音楽には
ハマカーンの浜谷健司にネタを言わせるまでもなく、
「下衆の極み」であり、品のかけらもないが、
それでもなお聴く者を感動させる。
イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴル、ジルベル・ベコ、ジョルジュ・ムスタキなども、
ピアフ女史に傾倒し、師事した。

いっぽうで、
ピアフ女史結婚離婚を繰り返し、いい仲だったボクサーを航空事故で亡くし、
自らも2度の交通事故に遭い、酒とアヘンとモルヒネに溺れる生活を送った。
そうした自堕落な生活から肝臓を患った。
ピアフ女史が死んだとき、そうした生きざまや
秘密結社のシンパだったことを忌み嫌ったパリのカトリック教会は、
ミサを執りおこなうことを拒絶した。にもかかわらず、
葬儀の日にはパリの市民はその葬儀に殺到し、
公共交通機関が止まってしまったのである。

妻子あるボクサーと睦まじくなってたピアフ女史が
手を切ることを想定して書いた(が、実際に相手は事故死してしまう)詞に、
女流シャンソン作家Marguerite Monnot(マルグリト・モノ、1903~1961)女史が
曲をつけた、
"Hymne a l'amour(イムヌ・ア・ラムル=愛に対する讃歌、(邦題=愛の讃歌)"
は涙なくしては聴けない。まず、
作曲者のモノ女史は虫垂炎をこじらせて腹膜炎をきたして58歳で死んだ。
1948年夏にピアフ女史と知り合って男女の仲になった
Marcel Cerdan、マルセル・セルドン、1916-1949)、いわゆるマルセル・セルダンは、
その9月に米国ニュー・ジャーズィ州で行われたトウニ・ゼイルとの
WBA世界ミドル級タイトルマッチに勝ってチャンピオンとなった。が、
翌年6月に米国デトロイトで行われた防衛戦でジェイク・ラモッタに負けてしまった。
試合中に左肩を負傷したために雪辱戦を望み、相手も受け入れた。同年10月、
当初は船で渡米する予定だったが、折しも、
不倫相手のピアフもNYでツアー中だった。ピアフはセルダンに早く来てほしいとねだった。
ためにセルダンは10月27日、エール・フランス機でNYに向かった。が、その機は
大西洋上で墜落してしまったのである。
ポルトガル領アソーレス諸島のサン・ミゲル島の山中につっこみ、
乗員と48人の乗客が全員死亡した。ちなみに、その便には
30歳のヴァイオリニストのGinette Neveu(ジネト・ヌヴ、1919-1949)と
その愛器ストラディヴァリも乗ってた。
セルダンを迎えにマレーネ・ディートリヒ女史とラガーディア空港で待ち構えてた
ピアフ女史のもとに届けられた知らせは、「堕つ」だった。
自らのおねだりが愛する男を死なせてしまったのである。

"Si tu meurs, que tu sois loin de moi,
(スィ・チュ・ムル、ク・チュ・スワ・ルワン・ドゥ・ムワ、
「(拙大意)仮にあなたが死んだとしても、あなたが私から遠く離れてしまっても、」
Peu m'importe si tu m'aimes,
(プ・マンポルト・スィ・チュ・メム)
「(拙大意)私にはどうってことない、あなたが私のことを愛してくれてるなら」
Car moi je mourai aussi
(キャル・ムワ・ジュ・ムレ・オスィ
「(拙大意)だって私も死ぬんだから」

しかしピアフ女史は死ななかった。
ディートリヒ女史が歌うなと制止したにもかかわらず、
ピアフ女史は1か月半前にNYで初めて歌ったこの歌を
さらに歌い続けたのである。
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