チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「Blue Moon...月がとっても青いから/こちらニール・アームストロング探偵社」

2012年09月01日 21時55分33秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
今日、2012年9月1日は、トンジョの初代学長だった
新渡戸稲造の生誕150年にあたる日である。
トンジョは杉並区の善福寺にあるが、
その地名の由来ははっきりしてないらしい。
港区麻布の麻布山善福寺と関係があるとかないとかだが、
その善福寺は、現在、有栖川宮記念公園となってる
盛岡藩南部家の中屋敷の敷地とはすぐ近くである。
盛岡藩士の子として最幕末期の文久2年に
新渡戸稲造(西暦およそ1862-1933)は生まれた。
同人は札幌農学校の第弐期生とのことである。
同校の開設初年だけにやってきたクラーク博士とは
すれ違いである。が、
「ボイズ、ビー・ナンブシャス」
の精神で(とはいえ、しょせんキリスト教徒であるが)、
"Bushido"を執筆した。
JFKも読んだらしい。

先月25日に、
クリント・イーストウッドと同い年で、
JFKが打ち立てたとされてるアポロ計画のアポロ11号から
1969年7月21日に月面に降り立った
Neil Armstrong(ニール・アームストロング、1930-2012)が死んだ。
"That's one small step for man, one giant leap for mankind."
「(拙大意)人類にとってこの小さな一歩が、ものすごく大きな飛躍となるだろう」
(無冠詞、つまり不可算名詞のmanとmankindは「人類」という同義で、
言語的センスに乏しかったアームストロングの拙い同語忌避策である)
という言葉を残した。アポロ計画によるこの小さな第一歩が
ウサイン・ボルトの世界記録を生んだかどうかは、
ボブ・ヘイズとマディ・ヘイズの区別がつかず、
カール・ウェザーズとマイク・タイスンの顔を判別できない
拙脳なる私には分からないが、
アームストロング船長の死に際して家族が出した声明の最後は
こうくくられた。
"...and the next time you walk outside on a clear night
and see the moon smiling down at you,
think of Neil Armstrong and give him a wink."
「(拙大意)そして、今度澄んだ夜空の日に外を歩く機会があったら、
あなたに微笑みかけてる月を見あげて、
ニール・アームストロングを偲んでウィンクしてあげてください」

晴れた月夜に散歩も一興ではあるが、
ほのかな灯りの月夜も粋なものである。
歌謡歌手菅原都々子(1927-)女史のヒット曲に、
♪●ソ(つ)・ソ(き)ソ(が)│<ラー(とっ)・<ミ(て)ミ(も)│
>レ(あ)>ド(お)・>ラ(い)ラ(か)│>ソ(ら)ー・ーー│
●>ミ(とぉ)・ーミ(ま)│<ソ(わ)ソ(り)・ソ(し)>ド(て)│
<レ(か)ー・ー<ミ(え)│>レ(ろぅ)ー・ーー♪
というものがある。
この場合の「青い」というのは、「青」の原義である
「あわ」(=淡い→あおい)であると考えれる。つまり、
月がとっても淡い(=ほの暗い)から、
男女が腕を組んで歩いても見とがめられにくい。
こんな絶好の機会を逃す手はない。
遠回りできるぞ。
という意味である。
昭和30年という時代である。ちなみに、
英語の"blue"の語源は、"light""bright"を表すラテン語の
"flavus(フラーヴス=黄色、金色、ブロンド、亜麻色)"が語源である。
これが「空色」そして「水色」から「青色」に転化されてったと
思案される。

ところで、
昨日8月31日は満月だった。同月はまた2日も満月だった。
同じ月に満月が2度あったことになる。その
2度めの満月を"blue moon"と言ってる。が、
これは無知が誤りを広めて一般に認知され、
まかりとおってしまった"好例"である。本来は、
米国メイン州の農暦において、
冬至から春分までの約3か月の間に4度の満月が生じるとき、
その3度めの満月を「ブルー・ムーン」と言ったのである。
キリスト教徒にとってもっとも大事なイヴェントは、
「復活祭」である。そして、「降誕」である。
冬至と降誕が結びつけられ、
春分と復活が結びつけられた。だから、
復活祭は春分のあとの最初の満月以降の日曜、
と決められてる。だから、
この間に「キリスト教の3」を破る「4度の満月」があっては
都合が悪いのである。キリスト教にとって
「数字の3」がどれほど重要かは、このブログでも以前に触れた。
(cf;「3というキリスト教の奇妙な数字とLady Gaga」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/e44e23858aa6a9171b903731bfe6440f)
その余計な満月を「ないこと」にするために、
「ブルー・ムーン」と呼ぶ方便を採ったのである。
冬至直後の満月とその次の満月は意味づけがなされてて、
春分前の満月も四旬節の満月なので重要である。だから、
その前に生じる余分な満月を「ブルー・ムーン」として
色あせさせたのである。だから、
本来のブルー・ムーンは空が曇ったほうがいいのである。
中国人は蒼井そら女史が異様に好きである。それはともかく、
メイン州の農暦(Maine Farmer's Almanac)は、
理想化(簡易化)された実際の地球の軌道とは異なる
計算によるものなので、
メイン州の農暦でも実際の天体の運行による計算でも
"blue moon"だったのは、20世紀では、
1905年2月19日、1981年2月18日だけだった。
21世紀には一度もない。メイン州の農暦のみを満たすのは、
21世紀では2008年2月21日だった。次回は、
2019年2月19日である。2月19日は、
コペルニクスの誕生日である。
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「MONA LISAの二重あご(Double Chin/Papada)/The Painting I Saw Many Years Ago」

2012年06月27日 18時37分13秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
昨夜のBS日テレの「ぶらぶら美術・博物館」
(出演=山田五郎、おぎやはぎ、相沢紗世女史)
では、横浜そごう内にある「そごう美術館」で開催されてる
「京都・細見美術館展 Part2 琳派・若冲と雅の世界」展を
巡ってた。かつては、池袋西武、同東武、新宿伊勢丹、同三越など、
百貨店内に美術館がある、なんて普通だったが、今では
数少なくなった。日本橋高島屋は専用の美術館はないが
8階の催事場で美術展をよく開いてる。それはともあれ、
若冲81歳のときの「鶏図押絵貼屏風」が番組の最後のほうで
紹介されてた。若冲といえば鶏であるが、
鶏にかぎらず、七面鳥、うさぎなどには、
「肉垂(ニクスイ)」「頸袋(ケイタイ)」と呼ばれるものが顎というか喉に垂れてる。
威嚇、エネルギー源貯蔵、体温調節など、
動物によってその役割・機能は異なるようである。
ラテン語のpapoという語は食べるという意味である。とくに、
小麦粉を溶いて練ったものを食することを表す。つまり、
pasteは同源である。ちなみに、
嚥下するとき、甲状腺が上下するのに伴って、
喉仏も上下する。太ってると、顎の下全体が上下する。そこから、
papoから派生したスペイン語のpapada(パパーダ)には、
「肉垂」、そして、「二重顎」という意味がある。

5年前の今日、2007年6月27日、
英国のトウニ・ブレア首相が、総選挙で勝ったものの大幅に
労働党の議席数を減らした責任をとって辞任した。翌日、
党内のライヴァルであったゴードン・ブラウンが首相に就任した。
同人は二重顎である。ときに、
1574年の6月27日に死んだGiorgio Vasari(ジョルジョ・ヴァザーリ、1511-1574)は
自著の中で、当時フォンテヌブロ宮殿にあったレオナルド・ダ・ヴィンチの遺作肖像画を
フランチェスコ・デル・ジョコンドの夫人であると記述してる。現在、パリのルヴルにある
"Mona Lisa"のことである。初めて現物を観たのは、もうずいぶん昔、
高校1年の1学期に大混雑の中、上野でである。で、そのときの感想は、
♪ソ>♯ファ│<ラ>ソ、・ソ>♯ファ・・<ラ>ソ・ー>ミ>ド│>ラ>ソ・ーー・・ー●♪
モナリザの手先が鳥の足先の巨大化みたいな形で大きすぎることと、
二重顎の醜悪な写実の妖しい効果の異様さだった。

一説に、歯並びや噛み合わせが悪いと二重顎になりやすいという。
その真偽はともかく、
特段に太ってなくても二重顎の人はざらにいるのである。といっても、
ふくよかな人に二重顎が多いこともまた確かである。
「デブ」という語は明治時代以降に一般に使われるようになったが、
その語源は特定できてないということである。ただし、
江戸時代以前に、
朶(たぶ=垂れ)→タブタブ→デブデブ
という頸袋状の形態を表すオノマトペが存在してるので、おそらくは、
この擬態語が由来だろうと私は推測してる。
いっぽう、
二重顎のことを英語ではそのまんま
"Double Chin(ダブル・チン)"と言う。その
"外来語"から、ダブル・チン→ダブチン→デブチン→デブ
となったと主張するむきもある。が、
私のようなオヤジギャガーが取って付けた語呂合わせみたいで信憑性に乏しい。
ちなみに、
モナリザを初めて観た頃はスリムだったのだが、
現在は一丁前なメタボオヤジである私は、
中年になるにつれて徐々ニー・デブになってった。
ジョニー・デプみたいなイケメンオヤジならよかったのだが。それにしても、
同人のどこがそれほどいいのか、
桐タンスときりたんぽをときとして聞き分けれない
拙脳なる私には理解に苦しむ。ともあれ、
そんなデブな私がへたに
ジャック・座ろうとするとトラウザーのケツの縫い目の糸が
バリバリパリっとぶちきれてしまう。
醜く生まれついた者には苦労が絶えない。
キリスト教もオウム真理教もチベット仏教も信じない私に下された原罪過去未来、
カモメが飛んだギルティである。
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「武士道と云ふはガクアジサイの萼がなすことと見つけたり(百花全書派Hydro筆)」

2012年06月21日 17時57分35秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ

アジサイ


梅雨、らしい。天気予報は競馬予想より当たらないから、
本当にそうなのかは判らない。ともあれ、
この時期、食中毒をきたしやすいので、
当たらないにこしたことはない。ところで、
先日まで私は文字焼きを細々と生活の糧にしてきた。が、
その才能がないので、さっさと作業がはかどらず、
ほとんどが夜中から徹夜になってしまった。そんなとき、
早朝のTV番組のきれいなお天気お姉さんのコーナーを見るのが
わびしい私のささやかな楽しみだった。最近では、
TBSの「朝ズバッ!」だった。そのお天気お姉さん、セントフォース所属の
美馬怜子女史の見た目がきれいだからなのだが、それよりも、
同女史の語中のガ行鼻濁音が耳に心地好かったからである。
同女史自身は神奈川県出身らしいが、
「美馬(みま)」という名字は四国の美馬市に多い。
同女史の先祖もおそらくそこだろう。
ユダヤ系渡来人といわれる秦氏の拠点のひとつである。
今年はJRAによる近代競馬150年の年であるが、
明治時代には美馬一族が競馬史に名を残してる。ともあれ、
現在20代という年頃なら東京とその周辺育ちでも
非鼻濁音で話すのが普通になってるというのに、
同女史はきれいな鼻濁音なのである。
アナウンス専門学校かなにかで訓練したような感じではない。
それにひきかえ、
祖父が画家だったことから国立新美術館の
「大エルミタージュ美術館展」のPRソングを歌う杏女史のサビ部分の
♪あーいガー、あなたーにーー♪
という格助詞「ガ」を非鼻濁音で粗野にがなられるのには、
アイガー北壁に耳ごと叩きつけられるような恐怖を覚える。
杏女史はアナ・スイ女史と仲良しらしいが、一昨年閉店した
六本木ヒルズのANNA SUIがあった場所の前には、
毛利庭園がある。その人工池には、
そこからほど近い、現在は麻布消防署や中国大使館になってる、
江戸時代には旗本松平(佐金吾)定朝の屋敷があったのだが、
そこで隠居後に同人が改良した花菖蒲や、
アジサイが6月には咲く。そして、そこにはテレ朝がある。
3年前までは「やじうまプラス」で、当時はセントフォース所属だった
甲斐まり恵女史がお天気お姉さんをやってたが、
同女史はきれいな顔に心地好い声、そして何よりも
九州出身でこの年頃なのに語中のガ行を鼻濁音で発音するので、
目にも耳にも心地よくてそれを見てた。甲斐という名字は
宮崎・大分・熊本各県に多い。もともとは菊池氏なので
九州が地元であるが、山梨の甲斐に由来する名字である。

アジサイという花の語源は何であるか? が、
テレ朝の大下容子アナと元競泳選手の萩原智子女史と
歌謡歌手の山崎まさよしの顔を瞬時に判別できない
拙脳なる私は、アジサイの絞り咲きのようには、知恵を
絞るということができない。ときに、ズィーボルト、いわゆる
シーボルトは文政年間に最初の来日をして長崎に滞在して
医塾を開くことを特別に許された。結局、
一時帰国の際に御禁制の積荷がバレ、いわゆるシーボルト事件で
国外退去処分となって離日したが、
プラント・ハンターでもあったシーボルトは、
事実婚してた楠本滝の面影を
西洋にはない(とシーボルトは思ってた)花、アジサイに見立てて、
お滝さん→オタキサン→オタクサ、と呼んでたらしい。
お滝との間にできた一粒種の娘は、ちょうど
アジサイが咲きはじめる時期に生まれた。
長崎の商家の娘だった滝は、
医者でもあったシーボルトに診察してもらったのがきっかけで
恋仲になったらしい。当初、シーボルトが居留してた出島へは、
「傾城之外女入事(ケイセイノホカオンナイルコト)」が禁じられてたので、
傾城(=遊女)の名「其扇」という方便を使って出島内の
シーボルト宅で暮らしてたのである。ちなみに、
シーボルトとお滝の娘はのちに事実上日本初の女医となった。
医師試験の当初は女性の受験資格がなかったので、
未公認ではある。ともあれ、
東京でも産婆として開業し、最終的には東京に腰を落ち着けた。
そして開業の地も幾度か変えた住居も、
現在の飯倉片町交差点の周辺にこだわってたようなのである。
それは謎とされてるが、私の推測では、
昔、伊勢神宮の穀物倉があったために飯倉となった地名に
自分の名前イネ(稲)を重ねて大切にしてたのだと思われる。

一般に花と思われてるものは萼(ガク)であるが、ともかくも、
アジサイの花は、植わってる土壌の酸性度が高いと、
その土壌に含まれてるAlイオンが溶けだして、
それをアジサイが吸いあげる。そして、
ガクやハナの中のアントシアニンが反応してその
イロが変わって青みが増すのである。そんなことは
あるまいと思うかもしれないが、本当らしい。だから、
アルカリ土壌のヨーロッパでは、アジサイといえば、
ピンクのお色(Euro)なのである。いずれにせよ、
セイヨウアジサイは、日本原産のガクアジサイを改良したものである。
東京周辺でアジサイの名所といえば、鎌倉のいわゆるあじさい寺、
明月院である。四半世紀前、当時の住職は宝くじにはまって
寺の敷地を根抵当に借金して返せなくなって、逃亡して、
これがもうしおどきともCOどきとも観念して、
千葉のホテルで練炭による一酸化炭素中毒自殺した。
袈裟の色も褪せたのであるが、アジサイも
土壌のphやAlイオンによる変化だけでなく、
経日による変色という要素もあるのである。

さて、アジサイの語源である。
一般に説明されてるところによれば、
【集(アツむ)+真藍(サ・アイ)】で【アヅサアイ】→【アヅサイ】→【アヂサイ】
ということである。
♪藍が~あなた~に~~♪
中国語的並べかた・発想ではあるが、
【小さいガクの粒が「滝さん」というよりは「たくさん」集まったもの】
という視点は、正しそうである。たとえば、
一般に「梓」とよばれるカバノキ科の木は、
松ぼっくりを蒲型あるいは矛型にしたような
多数の鱗片状の果実もどきをつける。
このさまはまさしく「アジサイのハナが密集したさま」と同じであり、
「あづさ」というように「アヅ」という語が含まれてる。いっぽう、
ヒトの味覚は舌や軟口蓋にある味蕾が末梢となってるが、その味蕾は
多数の乳頭に付いてるのである。この乳頭を顕微鏡で覗けば、
アジサイのハナや梓の果実モドキの「密なさま」とよく似てる。
乳頭が多数アヅってるから、そこが
「アヂ」を感じる出先機関なのである。
キヨスミサワアジサイとピンクフレッシュの交配園芸種に、
「未来」と名づけられたアジサイがあり、
開花後の変色のさまが楽しめるものらしい。また、
魚の鯵が「群れ」をなして泳いでるさまも、
「アヅってる感」が著しい。で、
アヅ→アヂ→アジなのだろう。

日本の在来種であるガクアジサイは群咲する外側は
ガクが肥大化したものでその中心には中性花があるが、
群咲の中心部で群れをなしてる小さいほうは両性花で、結実する。が、
品種改良されたアジサイはこの"小さい花"のほうをなくして、
一般に花びらと思われてるが実は肥大化したガクだけを
残したものにしてるものが多い。
私の母はしかしガクアジサのほうが好きで、かつて
我が家が週末を過ごす場所だった横浜の家の庭には、
ガクアジサイを多く植えてた。ともあれ、
ガクアジサイは結実には無関係な肥大化したガクの花びらもどきで
昆虫をひきつけ、そのどさくさで
こじんまりした本当の花の受粉を媒介させるのである。
梅雨時期の開花というニッチな道を選んだガクアジサイは、
香りで昆虫を引き寄せれないぶん、一部の花のガクを発達させ、
当て馬的役割を与えた。そして、
なんとも涙ぐましいことに、この当て馬の肥大化したガクは、
中心部のこじんまりとした両性花らがめでたく受粉を完了すると、
昆虫の目に付くように上向きだった肥大化した花もどきの姿を
ガクっと下向きにして裏返り、枕を並べて討ち死にして
その役目を終えるのである。
これはとりもなおさず「武士」である。

昭和62年(1987年)年の第48回菊花賞(京都競馬場芝3000m)は、
TVで観たものも含めて私が観た競馬でもっとも美しい
ゴウル風景だったことである。
脚部不安で不本意ながらダービーを回避したサクラスターオー号が
皐月賞優勝後6か月ぶりにぶっつけ本番で出走してきたことである。
18頭立てながら18番のダービー馬メリーナイス号が、当時存在してた
「単枠指定」制度によって、8枠が単頭枠だったので、
5、6、7枠がそれぞれ3頭枠になってたことである。そして、
最後のコーナーにさしかかったとき、5枠の2頭、
10番サニースワロー号(ダービー2着馬)と11番レオテンザン号が
5枠の色である黄色い帽子を被ったイケメン
大西直弘騎手(のちにダービー・ジョッキー)と、
武豊騎手(この年デビューも、JRA史上最高となる騎手)を背に、
先頭に並んだことである。が、ずっと中段にいた
サクラスターオー号がじりじりと伸びてきたことである。
先頭の2頭と同じ5枠の09番なことゆえ、
鞍上の東(アヅま)信二騎手は黄色い帽子なことである。
脚部不安の真打ちが無事に先頭に追いついた瞬間、
露払いの2頭は役目を終えて静かに下がってったのである。
感動のスィーンである。涙なくしては思い起こせないことである。
「菊の季節に桜が満開!」という杉本アナの名調子に讃えられた
サクラスターオー号(9番人気)は先頭でゴウル。皐月賞でも同馬の2着だった
ゴールドシチー号が外から差し込んで2着。それに、
ユーワジェームス号とメグロアサヒ号が追い込んでそれぞれ3着、4着。ちなみに、
ユーワジェームス号は一口馬主のクラブ馬で、AV創世期の巨乳お色気女優
菊島里子(別名=杉本未央)女史もその一口馬主だったことである。
水先案内役の2頭はそれぞれ5着(サニースワロー号)、6着(レオテンザン号)。
1番人気メリーナイス号は9着、人気馬マティリアル号は13着だったことである。
昭和59年(1984年)、グレイド制導入によってG3と格付けされた
3月の弥生賞を勝ってシンボリルドルフ号はそのあと三冠馬になった。
その弥生賞が昭和62年にG2に格上げされたこの年、その優勝馬
サクラスターオー号は菊花賞馬にならなければならなかったことである。
万が一のときのために選ばれた2人の騎手は、見事にその
御用を果たし、ともにのちにダービー・ジョッキーとなったことである。
このレイスの1か月半後の有馬記念では、スタート直後に
メリーナイス号の騎手が落馬し、サクラスターオー号は脚部不安が現実となり、
故障発生競走中止、数十日後に死亡。マティリアル号も2年後に
2年半ぶりの勝利の直後に故障発生で数十日後に死亡。
尾花栗毛の美馬ゴールドシチー号も引退後に乗馬馬となる訓練先の
宮崎競馬場で放牧中に自ら埒に激突して骨折、安楽死処分。
この世代の有力馬の中ではダービー馬メリーナイス号だけが
種牡馬となることができて、当時の年齢表記法である
数え26歳という競走馬としては長寿だったが、
ろくな産駒を残せなかった。つまり、
「弱いダービー馬」、「不出来な世代」なのである。がしかし、
だからこそ、サクラスターオー号の命懸けの3000mは
じつに感動的な菊花賞だったことであり、
淀の京都競馬場の枯れ芝に西日によって馬と騎手が映し出された
長い影が実際の馬を引いてるような、
我が国の150年の近代競馬史上、おそらく、
もっとも美しいレイスだったことである。
弱いながらも、不出来ながらも、だからこそ、
懸命に実直に、家のため、主のために最善を尽くす。
その姿に日本人は心打たれるのである。

[海行かば、水漬く屍。山行かば、草生す屍。
大君の、辺にこそ死なめ。
かへり見はせじ(長閑には死なじ)]

万葉集にはアジサイを詠んだ歌は2首が採られてる。まず、

【巻04-0773】
[事不問 木尚味狭藍 諸茅等之 練乃村戸二 所詐来]
(言問わぬ、木すらあぢさゐ。諸弟(もろと)らが、練りの村戸(むらと)に、あざむかえけり)
「(拙大意)言葉を発しない木であるアジサイでさえ色が変化するというのに、まして、
言葉を話せる橘諸兄めの……しゃくにさわるから諸弟めと呼ぶことにするが……一族の
練り混ぜた腎臓や心臓のような気が知れぬ手練手管のようなあなたの言葉には
まんまと弄ばれたことだなあ」

大歌人大伴家持の面目躍如たる技巧の粋を極めた歌である。
後世のスーパー・テクニシャン紀貫之などもとても敵わない。
のちに正妻となったとされてる従姉妹の大伴坂上大嬢に贈った歌である。
橘諸兄(たちばなのもろえ)の「兄」を「弟」と替え、
腎臓・心臓を意味する「むらと」に対して「もろと」と
オヤジギャグをかます(一説に、諸茅(もろち):変色する植物とされてる)。そして、
「木」には「気」を対比させ、「ムラ」咲きのアジサイと「ムラ」トをこれまたダジャレてるのである。
橘諸兄は家持よりはるかに年上で官職も上であるが、かなり親しかったらしい。その
兄弟たちは、弟に佐為王(橘佐為)……サイのおおきみ(たちばなのサイ)、
妹に牟漏女王(ムロのおおきみ)であり、それぞれに、
あじサイのサイ、ムラと・モロと・のムラ・モロとの語呂合わせになってるのである。ちなみに、
この歌の次に置かれてるのは、
[百千遍 戀跡云友 諸弟等之 練乃言羽者 吾波不信]
(ももちたび、こふといふとも、もろとらが、ねりのことばは、われはたのまじ)
である。この読み下しだけで拙大意は不要であろう。アジサイ関連のもう1首は、

【巻20-4448】
[安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都都思努波牟]
(あぢさゐの、八重咲く如く、八つ代にを、いませ我が背子、見つつ思はむ)
「(拙大意)アジサイが八重に咲くように、八千代にもいらっしゃってください、
我が親愛なる丹比国人(たじひのくにひと)殿よ。
これからもずっとあなたに目を掛け目を掛けして取り立てましょうぞ」

これは左大臣(という当時の最高の官職)橘諸兄が下役である右大弁の
丹比国人(持統朝の左大臣多治比嶋(たじひのしま)の五男中納言多治比広成の子)
の邸宅で催された宴で詠んだ歌である。この歌の2つ前には、
国人がナデシコに托して詠んだ諸兄への忠誠の誓いの歌がある。ちなみに、
家持はこの多治比(丹比)氏の丹比郎女と旅人との子だとされてる。
国人は諸兄の子橘奈良麻呂の乱に連座して伊豆に流された。つまり、
彼らは「反藤原」という強い繋がりを姻戚面でも政治面でも結んでたのである。
そして、反主流派弱小勢力となって細々となってくのである。
かつては大君の警護を司ってた大伴氏は、
対藤原勢力争いに敗れただけでなく、皮肉にも
平氏・源氏といった新たな武士勢力の台頭に
伴ってその役目を静かに終えてったのだった。

(本日のペンネイム=ウニ・イドロ)
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「世はすべてこともなし、らしい/ロバート・ブラウニング生誕200年&チャイコフスキー生誕172年」

2012年05月07日 00時34分57秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ
亀山郁夫大先生は偉大である。なのに、
愛すべき人物である。なぜか好き、なのである。また、
やらかしてくれたのである。大先生はかつて、NHKの番組で、
ショスタコーヴィチの「交響曲第5番」なるものの終楽章の
♪ソ<ド<レ<ミ♪は、ビゼー「カルメン」の中の「ハバネラ」で
カルメンが得意げに恋の自慢話をぶってるとき、
タバコ工場の作業仲間らが一斉に、
"Prends garde a toi!"
(プロン・ギャルド・ア・トゥワ!)
とツッコムのだが、それを引用してると仰せになった。そして、
"prends garde a toi!"というフランス語は
「信じるな!」という意味なので、
ショスタコーヴィチのソ連政府(スターリン)への意趣、そして、
ソ連人民への「ソ連政府を信じるな!」というメッセージが込められてる、
とのことであらせられた。ショスタコーヴィチって、いくらなんでも
それほどまでバカだっただろうか。フランス語の専門家も門外漢の誰も、
そんな意味に取る者などいない。なのに、さすがは、
「カラマーゾフの兄弟」の「新訳」でベストセラーを叩き出した
大先生だけのことはあるメイヤクである。
外国語のひとつも話せず、
東京外国語大学学長とガッツ石松の顔の区別がつかない私も含め、
フランス語を少しでもかじったことがある者でも、せいぜい、
「注意しろよ!」「気をつけるんだぞ!」「危ないぜ!」
「宿題したか?」「歯磨けよ!」「風呂入ったか?」「風邪引くなよ!」
「また来週!」「ババンババンバンバン!」
くらいにしか訳せない。それはともかくも、
亀山大先生はBSイレヴンで放送された
「宮崎美子のすずらん本屋堂」において、
「『くるみ割り人形』の他にチャイコフスキーはあと何がお好きですか?」
みたいなことを宮崎女史から問われ、pfトリオを挙げて、
「偉大なる芸術家の【生涯】」
と宣ったのである。すごい!
さすがはメイヤクの大家であらせられる。
"A la memoire d'un grand artiste"
(ア・ラ・メムワル・ダン・グロン・ダルティスト)
"a(=in)"、"la(=the)"、"memoire(=memory")、
"d'un=de un(=of a)"、"grand(=great)"、
"artiste(=artist)"
だから、鈴木紗理奈女史とはるな愛の声を聞き分けれない
拙脳なる私には、
「(拙大意)ひとりの偉大な芸術家をしのんで」
くらいにしか訳せない。なのに、
亀山大先生ときたら、なんと、
【memoire】を"生涯"とお訳しになられるのである。
"A la"はどこ行っちゃったの、アラ? などとアラ探しはしないが、
メモリーを生涯と訳すとは、さすがである。
こんな優れた頭脳をお持ちなかたは、古今東西めったにみない、
神に選ばれしおかたである。
(タイトルさえ覚えてないこんつらの輩に
チャイコフスキーのピアノ・トリオの何が解るのか、などと
思われたかたがいたら、バチアタリである。慎み給え)
チャイコフスキーの「ピアノ・トリオ」の第2楽章のテーマ部分……
♪ソー・【<ドー、・・>シー・>ラ<シ│<ドー、・<レー・・ーー・ーー】♪
……やはり、いわゆるニコライ・ルビンシテインに献呈された
「ピアノ協奏曲第2番」第1楽章の第1主題、
♪【ドー│>シ>ラ・<シー・・ーー・<ドー│<レー】・●●・・●●♪
を自己引用した旋律を……
我が家のズタズタインウェイ&サンザンズ製のピアノで弾いてみた。

英国ヴィクトリア期の詩人
Robert Browning(ロバート・ブラウニング、1812-1889)は、
今日から200年前の1812年5月7日に、ロンドンで生まれた。
命日は(1889年の)【12】月【12】日、という
ゾロメ野郎である。それはともかくも、
父親は銀行員でけっこうな給料をもらってたが、
奴隷廃止派だった。ので、
西インド諸島の蔗糖プランテイションに飛ばされ、そこで
奴隷らの反乱にあって這々の体で英国に逃げ帰った。
そんな理想主義の者にありがちな、
文学に造詣が深い男だったので、家には
多くの書籍があった。それが倅ロバートの教養のもととなった。
今年の芥川賞作家の田中慎弥同様に、
34歳まで親のスネカジリだった。
倅の詩集の出版に向けて父親が奔走するくらいだった。

30過ぎのプー太郎ロバートは、
Elizabeth Barrett(エリザベス・バレット、1806-1861)という
女流詩人の詩にぞっこんとなって、ファン・レターを出した。
詩というよりこの女性そのものに邪心があったのだろう。
エリザベスはブラウニング家など比べものにならないほどの
大金持ちの娘だった。皮肉にも、
ロバートの父親が嫌悪してきたジャマイカに蔗糖の大農園を持つ
"資本家"だったのである。が、エリザベスは
15歳のとき乗馬中に落馬して、クリストファー・リーヴほどではないにしろ
脊椎を損傷して不具合になり、おりからの産業革命による
ロンドン名物スモッグのために肺や気管支もデリケートになってしまう。
体の痛みから逃れるためにエリザベスは間寛平のように
アヘン・アヘンと阿片に頼った。そうして、
ヒッキーになってしまったのである。
生きるすべは詩作だけだった。そこに現れたのが、
親のスネかじりながらイケ面のロバートだった。
渡りに舟、哲也になんばしちょっと、である。が、
娘は誰の嫁にもやらん、みたいな父親のために、
ロバートとの文通愛は高い障壁に阻まれた。それでも、
ショウガイに阻まれた者の愛は強い。
エリザベスとロバートは手に手をたずさえて、
ピサ、そしてフィレンツェへとカケオチしたのである。
虚弱体質でもやることはやる。イタリアの空気がよかったのか、
二人はやがて一人息子のロバート・ジュニアを"授かる"。
エリザベスの死まで夫妻が15年間暮らしたフィレンツェの家は、
倅"ペン"が死んだ1923年以降はさまざまな人が住んだが、
Casa Guidiとして現在は記念館となってるらしい。

ロバート・ブラウニングといえば、
海老沢ではなく上田敏の"訳詩集"「海潮音」の中に収容された
「春の朝(はるのあした)」がもっとも知られてる。

"The year's at the spring,
And day's at the morn;
Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;
The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;
God's in His heaven...
All's right with the world!"

(平易な英語なので拙カタカナ発音は省く)

「(拙大意)一年のうちの春、
一日のうちの朝、
朝のうちの七時、
丘のふもとは真珠のような露が結び、
ひばりは空に舞い、
かたつむりは茨を這い、
神は天にまします。
この世はすべて主の思し召しどおり!」

(終いの一行は上田敏の訳では、
「世はすべてこともなし」)

軽自動車が人の群につっこんで殺傷するのも、
韓流に汚された新大久保に行きたくて
違法のやりくりを重ねて実現される
安価なバスで事故に遭って不本意に死ぬのも、
ありもしない強制連行強制労働の慰安婦博物館を
心ない朝鮮人が建てて嘘をばらまくのも、
二股プロポウズがバレて「女はカネヅルだ」イケイケすけこまし
塩谷瞬がしおらしくシュンとなってしまったのも、
電信柱が電線の地中化でなくなりつつあるのも、
郵便ポストがなかなか見つからないのも、
みんなキリスト教の神が描いたとおりの事象、
ということらしい。

"神"というものが仮に存在するとすればそれは、
自然の"乱雑さ"に抗する"営み"、つまり、
"生命体"が"生命=遺伝子"を"繋ぎ"、
未来いつかそれが"理想"の姿にたどり着く、あるいは、
"最初にあった"はずの"形"に再び巡り逢う、ための、
数え切れない個体の生死の繰り返しを
途絶えさせないためのもの、にすぎない。
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「耳だれ雨だれは初版の調べ(?...!)/ヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』出版から150年」

2012年04月03日 18時29分08秒 | 語彙の歴史観・ロック、ゴウゴウ

ユーゴー ? !


今日は暴風雨の日なんだそうである。が、
先週末とはまた別の煎餅焼きで缶詰状態なので、
外の様子が判らない。小林麻美女史の、
♪耳だれをふさぐ指をくぐり、
 好きとつぶやく雨だれの調べ♪
という歌謡曲を聴きながら仕事に精を出してる。
暴風で木々の葉が擦れ、その藤原の
摩擦熱でせっかく咲きかけた
中(・)黒川の桜の花が散ってしまうのかどうかは、
[うつりゆく、雲に嵐の、声すなり。散るか(。)まさかの、桜木の山]
という歌が小泉ヤクモノ「耳垂れ芳一」に出てきたかどうか言えず、
恵比寿駅西口の恵比寿像とつのだひろの違いを判別できない、
拙脳なる私には解るはずもない。

メリー・慈円の自作の「拾玉集」に、次のような歌がある。
[かねて知りぬ、あなしの風を、思ふより、心つくしの、波路なりとは]
いかなる状況で詠まれたものか知らないので拙大意は附さない。が、
「あなしの風」=戌亥(乾)の風、北北西の風、
冬に西日本で吹く強烈な季節風のこと、である。
「し」自体が「風」を表す語である。
「穴があくほどの強風」という意味ではないと思うが、
「魔が抜けてく穴がある方位が北北西」
と考えられてたかもしれない。冗談はともかく、
「喜怒哀楽の感動詞」と説明される「あな」という古語がある。
「強い」感情を表してるのである。また、
「あながちなり」という形容動詞があるが、これは
「強いる」「強引だ」というのが原義である。つまり、
「あな」という大和言葉には「強い」という意味がある。
この意味から「あなし」という名が
この風につけられたのではないかと、
私は推測してる。また、
「東風」を「こち」という。東からの風が
「こちら」からとすればそれと対比して、
「遠方」を意味する「あなた」から「あなし」と言った可能性もある。
アンドレア・アガシ夫人シュテフィ・グラフ女史とリチャード・ギアの顔が瞬時には
判別できない拙脳なる私の憶測にすぎない。
いずれにしても、
前大僧正慈円は英文学好きではなかっただろうし、
女優アン・ハサウェイ女史のファンでもなかっただろうから、「ハムレット」の
"I am but mad north-by north-west.
(北北西の風が吹くときのみ余は気がふれるのだぞよ)"
を引用したとも思えない。ちなみに、
今年の恵方は「壬」、おおよそ「北北西」である。ともあれ、
「あなし」が「西日本の風」であることを
"かねて知りぬる"周知のこととすれば、
「心つくし」=考えを尽くした(が答えが出ない)→気を揉む、
という古語の意味と併せて推量すると、
「心つくし」の「つくし」は「筑紫」と掛けてるというのは、
アナガチ私の思いスギナことでもないような気がする。で、
筑後、否、逐語の意味を繋げて意訳すれば、こうなる。
「あらかじめわかってた
戌亥の方角からの強風のことを予想するよりも、
筑紫の海がこれほど気を揉む航路であるとは
あれこれ考えをつくしても予想さえつかなかったことであるよ」
天台宗の開祖最澄のいにしえの
渡唐・帰唐のことを想って詠ったものなのかもしれない。

さて、
航海といえば、コロンバンのではなかったかもしれないが、
フランスパンの窃盗を後悔してもしきれなかったのが、
ジャン・ヴァルジャンである。出所してからも
ヴァルジャンはアルジャントリを恩人から盗む。もっとも、
その後の人生はやつもガンバルジャンというほど
前向きに生きることになる。今日、
2012年4月3日は、Victor Hugo(ヴィクトル・ユゴ)、1802-1885)の
"Les Miserables(レ・ミゼラブル)の第1弾が現行暦
1862年4月3日に発売されて150年めにあたる。当時、
ユゴは60歳だったが、共和派という政治思想と新作の内容のため、
ナポレオン3世の第二帝政下のパリにはいれなかった。で、
ベルギー経由で"Crown dependencies(英国王室属領)"に
トンズラしたのである。が、
新作の売れ行きがどうか「心つくし」たユゴは、パリの出版社に
手紙を送……(検閲されるから)れない……ので、
次のような符号で打診した。
「?」
すると、出版社はこう返信した。
「!」
これは「世界一短い手紙のやりとり」として
ギネスに登録されてるかどうかは知らない。が、
日本記録は、本多重次の
「一筆啓上。火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ。
始めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋とるな」、
追風参考、である!? 冗談はともかくも、
「?」は「売れ行きは?」という質問であり、
「!」は「売れ行き絶好調!」という返事である。ときに、
この「故事」を使った米映画があった。が、
拙脳なる私はそのタイトルをすっかり忘れてしまった。おそらく、
1960年代のC級青春映画の大スターだった
Troy Donahue(トロイ・ドナヒュー、1936-2001)が主演してたものだと思う。
邦題で「恋愛専科」あたりではなかっただろうか。
画中で、ナンパ(難破ではなく、男が女性に声をかけること)する際に、
ビーチの砂に
「?」
と書くのである。つまり、
「俺とデイトok?」
という意味である。が、
ナンパの成否ではなく、重要なのは、
「このユゴの逸話を知ってる」
というナンパする男とされる女性双方の、そして、脚本家の、
教養の高さ、だったのである。ところで、
日本の大学受験業界には、
「Z会」という添削通信講座があった。
東大合格者・京大合格者の数十パーセントもが利用してる、
というのが売りだった。そういう
難関大学に合格できれば将来は
ゼータくな暮らしが待ってる、
ということだったのかもしれない。ちなみに、
「z」が小ゼットだとするとそれを並字にすれば「Z」になる。

ともあれ、この
「?」や「!」などは、まだ写植だった頃の印刷・出版業界で
「約物(やくもの)」といって句読点や括弧などの記号を指した。
そのうちのいくつかは符牒が用いられ、
「?」は「耳だれ」、「!」は「雨だれ」、
と呼ばれてたのである。
「耳だれ」なんて慢性中耳炎みたいな名であるが、
「雨だれ」のほうは変に聞こえることもなく、むしろ
風情があると思われそうな言いかたである。
♪ミーー>ド・>ソーーー・・ーーーー・<ラーーー│
<シーーー・ーーーー・・ーーーー・<ドーーー│
<レーー<ミ・<ファーーー・・ーーーー・>ミーーー│
ミーーー・ーー>レー・・>ドーーー・(<レ)レ<ミ>レ>♯ド<レ<ミ<ファ♪
このショパンのピアノ曲は、
日産フェアレディZでもなければホンダ・プレリュードでもないが、
「耳垂れ」という愛称で呼ばれなくてよかった。
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