チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「ラーメン。つけ麺。モカ、イエメン」

2008年04月22日 01時12分57秒 | chiuso着ぐるみ割り人形を噛む
ライトアップしてない国会議事堂は、もの寂しい夜景である。ときに、
さみしい、といえば、競泳の日本選手権である。
美少女スイマーとして知られた平泳ぎの野瀬瞳嬢が決勝に残るのが精一杯、
という成績に終わったからではない。全体の内容からして、五輪では
北島選手の銀か銅のみ、という結果に終わる気がしたからである。まぁ、
メダルの色など金がいいに決まってるのであるが、おさむいといえば、
この前の前の日曜に「N響アワー」で放送された
チョン・ミョンフンとN響による「ブル7」の身も蓋もない演奏である。ちなみに、
さみしい脳である私はチョン・ミョンフンと蜷川幸雄の顔の区別がつかない。が、
さらにさみしい、といえば、この前の日曜(4月20日)にテレ朝で放送された
「大胆MAP」という番組である。
「お笑い芸人が偉人の子孫に直撃取材する」という趣旨である。
そんな番組の最後を飾ったのは「ジョン・万次郎」の曾孫だった。そう、
タカアンドトシのトシが、なんと、4月初めに亡くなった故中濱博医師を
名古屋の自宅に訪ねたのである。もちろん、収録もロケも生放送でないのだが、
画面では「中濱博さんは4月○日にお亡くなりになりました」の
「一言も」書かれてなかった。故人に対する礼もへったくれもない。さすがは、
反日媚中の朝日系列である。大胆というか、ふてぶてしいというか、
道徳心や誠意のかけらもないのである。とまぁ、
さみしいtv番組ばかり見たような感じであるが、
「新日曜美術館」はひとつ収穫があった。
「モディリアーニ」の回だったが、ゲストは岸恵子女史だった。
同女史の美術観が真っ当だということを知ったのである。
イケ面モディの描く顔はお面のようだが、同女史は
大衆受けする画風が持ち味だったために生前から大金持ちになったルノワールやモネに
シンパシーを覚えないようなニュアンスの意見を述べてた。
彫刻の道を死の病で閉ざされて絵に転向せざるをえなかったモディッリャーニや、
父親が誰だかも知らされずアル中になることでやっと死を回避できたユトリロにこそ、
真の芸術を感じてるのである。そんな「真性」を持たないピカソも
彼らを軽蔑しながらも実は脅威を感じてたのである。さて、
日本郵船のタンカーがイェメン沖で不審船から発砲されたという。これが
東洋郵船の船だったら故横井英樹ががめつく賠償金をせしめたかもしれない。
イェメンはかつてエチオピア産のモカとその豆を輸入したイェメン産のモカの
集散地だった。モカは酸味が強いコーヒーが好きな私の愛飲豆のひとつである。
コーヒーが好きないっぽうで、私は「かんすい」が嫌いなので、
ラーメン(つけ麺)はほとんど食べることがない。それはどうでも、
日本郵船のタンカーが航行不能になってたなら、
「ラーメン。つけ麺。モカ、イェメン」というように、
狩野曳航されなければならなかったところである。ときに、
「(邦題)くるみ割り人形」の第12の2つめは「アラビアの踊り」であるが、
その「コーヒー」はこのイェメンのモカのことである。
**♪ソーーー・ーーーー・>ミーーー│
  <ソーーー・ーーーー・>ミーーー│
  <ソーーー・>ファ<ソ>ファ<ソ>ファ・>ミーーー│
   ーーーー・ーーーー・ーーーー**♪
この8分の3拍子の「舞曲」の速度は、「comodo(コーモド)」と
指定されてるのであるが、コーモドとは「くつろいで」というほどの
意味である。ところが、チャイコフスキーはメトロノーム数値では
「8分音符=144」としてるのである。ここでも、
チャイコフスキーの「モタモタ嫌い」が如実に表れてるのである。私も
この速度で充分に「くつろいで」る感があると思うのであるが、
道路渋滞でもしてるかのようなノロさで演奏させる「指揮者」がほとんどである。
4分の3拍子ではないのである。実に嘆かわしいことである。ともあれ、
この「アラビアの踊り(コーヒー)」は次の
「中国の踊り(茶)」と対照をなしてるのである。
「アラビアの踊り」はヴィオーラとチェロが伴奏を刻み、
「中国の踊り」はファゴット(とコントラバス)が伴奏を刻む、
のである。ところで、
チャイコフスキーは「3つ」のバレエ音楽を残したが、
「白鳥湖」「(邦題)眠れる森の美女」には
ポーランドの踊りである「ポロネーズ」や「マズールカ」が
それぞれ1曲ずつ登場するのであるが、
「(邦題)くるみ割り人形」ではお呼びがかからない、のである。
「ねむり」の終曲が「マズールカ」であるのに対して、
「くるみ」の終曲は「ヴァルス」なのである。
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「スリスリの寝ず見考」

2008年01月02日 23時31分40秒 | chiuso着ぐるみ割り人形を噛む
クリスマス、といえば12月25日であるから、
もう過ぎてしまったこと、ではある。が、少なくとも、
本能寺の変以前は欧州の暦はユリウス暦だったのであるから、
「あくまでも暦の上、のこと」であるが、
1月「7」日が彼らのクリスマスである。本筋は
旧暦信奉者がクリスマスを
12月12日にすればいいだけのことではあるのだが。ともあれ、
有馬記念でスッカラカンになってしまった私は、
カトリック圏オーストリアの小学校教諭兼教会オルガニストの
フランツ・クサーファー・グルーバーが作曲した「聖夜」を、
その英語詞版で正月、初詣の際に歌ってるのである。
♪さぁーーいせん、なぁーーい。ほぉーーうれ、なぁーーい♪

ところで、
1787年生まれのこのグルーバーや、
1991年生まれのモーツァルトの四男、
1766年生まれのジュスマイアーなど、
18世紀後半のオーストリアで流行ってた名なのかもしれないが、
「Franz Xaver」という名は、つまりは
「Francisco Xavier」
(フランスィスコ・ハビエル(シャビエル))の
ドイツ語版である。オーストリアにおける
イエズス会の力を示すものかもしれない。一説には、
「イエズス会=フリーメイスン」
という話もあるし、モーツァルトが
フリーメイスンだったのは事実であり、倅に
ザビエルの名を附けても不思議でない。

ちなみに、
安土桃山から江戸時代初期にかけて、
火薬を握ってたのはイエズス会である。
火薬欲しさに彼らの布教を許可した信長である。
信長の叡山焼討ちや対一向宗戦争は、
フロイスらにとっては異教破壊活動だった。
両者の利害は一致してたのだが、
信長がイエズス会によって本能寺で吹き飛ばされたのは、
信長の同会裏切り行為ととられた政策転換である
(お世話になったマフィアを取り締まろうとした
ケネディ兄弟とよく似てる)。が、
その前年の「スペイン王フェリペ2世の
オランダ統治権否認令布告」=「事実上の独立宣言」
が伏線になってたのである。オランダに敵わないことを、
その独立戦争によって旧教国は思い知らされてたからある。

それはさておき、
「教師この夜」が誕生したエピソードでは、
貧しい教会のオルガンが「ネズミ」に食われて
鳴らなくなってしまったから、
ギターでも伴奏できる賛美歌を、
という要請でできあがった、とされてる。これが
中村泰士だったら、
♪ギターぁーーのぉーーー、酒場通りにはぁーーー♪
という曲調になってたことであろう。細川某は
夏に炎天が続いた昨年の紅白を
なにかの理由で出場辞退してたようである。

それはどうでも、
スリが多くでる大きな神社などはもちろん、
私は出かける暇も銭もないので、もっぱら
夜更かしして録画物を観ることになった。これを
我々エセ哺乳類研究家は「寝ず見」と呼んでるのである。
結果、「2008年ウィーン・フィル/
ニュー・イヤー・コンサート」も録画して観た。
指揮してたのは、仏人のジョルジュ・プレートルだった。
「プレートル(Pretre)」の前のほうのeには
アクサン・スィルコンフレックスが附いてるから、
きっと昔は「プレストル」だったんだろう、と思ったら、
(あ、そうだ、英語のプリーストだ)
とめずらしく気がついた。仔細は知らないが、
「pretre(プレートル・聖職者)」という名には
似つかわしくない容姿である。一部で
ハマコーに似てるという説もあるらしいが、
昔のギャング映画に出てきた悪役みたな顔である。

ときに、
今年は子年である。ミッキーとミニーを擁する
オリエンタル・ランドはまた増収でウハウハだろうが、
野球少年だった私の幼少期のアイドルは、
ミッキー・マントルだった。1952乃至68年の
NYヤンキーズのチュー堅手である。
ディマッジョやメイズのような蠅叩き打法ではなく、
真にバットを振る形の打撃フォームが好きだった。
ユニフォーム・ナンバーは「7」である。

さて、
ネズミといえば、「soulier(スリエ・靴)」で
「souris(スリ・二十日鼠)」の王を退治した
スリスリのクラーラちゃんが1幕で舞うすバレエ
「カス・ヌワゼット」である。これについてはすでに、
このブログの
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/8ba2ff064284b46f45a5baabac817fbd
で触れてるが、「ネズミ軍とくるみ割り王子の合戦」は
第「7」曲である。ところで、
中世欧州ではネズミは悪魔の象徴だったらしい。
顔は悪魔みたいだったが、ハンス・フォンクが
ドレースデン国立歌劇場管を振った「くるみ割り人形」全曲
の演奏はじつにセンスがいい。第7曲以外でも、
ホルンのブシェが「キウーソ猫を噛む」ような、
怪しい音を醸し出す。

今年から青歯マウスを使うことにした。
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「樅の木は八卦良い/くるみ割り人形のクリスマス・トゥリー」

2007年11月15日 23時56分14秒 | chiuso着ぐるみ割り人形を噛む

チャイコフスキー くるみ割り人形


昨今、なにかとまた話題の若乃花であるが、その
好敵手といえば栃錦である。その栃錦が連続優勝して
横綱に昇進したのが、昭和29年の10月である。
昭和29年10月21日、「東京に戻ってまいりました」
というコピーを掲げて大丸東京店は開店した。江戸時代中期には
京都の呉服屋の支店として大伝馬町で営業してたのだが、
明治末に撤退してからはおもに地元関西で商ってたのである。
それからまた半世紀、先日、東京店が
「東京新店」として八重洲北口に移転して開店したが、
店名を「ヨース店」としなかったのは、きわめて残念である。
さて、今日は暖かかったが、11月も半ば(七五三)になると、
年の瀬感が満ちてくる。六本木のけやき坂も
青色LEDに照らされた。ところで、
肌寒くなると恋しくなるのがチャイコフスキーのバレエ
「くるみ割り人形」である。旧大丸百貨店東京店が開店した昭和29年、
山本周五郎の「樅の木は残った」が日経新聞で連載開始されたが、
「樅の木は北国の風雪に強い木で,江戸では暖かすぎて良く育たない」
というのは認識不足である。モミは寒すぎては育たないのである。
いっぽう、クリスマス・トゥリー、といえば、モミ、
という固定観念ができあがってるはずなのに、
「くるみ割り人形」では、その第8曲が
「冬の松林」とされてる誤謬を、ただ一人、
慶應義塾大学の平林教授が初めて指摘し、
チャイコフスキー研究の専門家らの目を覚まさせた。ただし、
バレエ界には未だ「松」がまかりとおってる現状である。
「樅は樅の上に松を接がず、樅の下に松を接がずとイェーリ(ель)」
このように、認識の「ゆきち」がいがあったのである。
私も別途タンネン(Tannen)に調べてみたが、
樹木の専門家によれば、ヨーロッパでは
モミ(Tanne)の木は北緯50°以北では自生しない、
のだそうである。反対に、以南の、たとえば
シュヴァーツヴァルトには生えてるのである。ゆえに、
もし仮に「くるみ割り人形」の舞台が、
ベルリーン、ハンブルィ、ブレーメン、
ドレースデン、エアフルトあたりだとして、
ズィルバーハオス判事の家に飾られてる
クリスマス・トゥリーがモミだったら、
たいそうな移送費がかかってることになる。どれだけ
「デピス収入」があったとしても、
そんな余計な労力は払わないと思われる。が、
「くるみ割り人形」の「モトネタ」は、
E・T・A・ホフマンの「ハシバミ割り物語」である。
その物語の舞台は北緯49°の「ニュルンベルク」なのである。
それなら、ツリーがモミであってなんら不思議はない。
この側面からも、平林氏の指摘は裏づけられる。ちなみに、
モミが自生しない北緯50°以北のドイツのご家庭の
クリスマス・トゥリーは何なのか、といえば、その
「タネ(Tanne)アカシ」は
「トウヒ(ドイツ・マツ)」なのである。ちなみに、
私の頭皮は悲しいかなヅラに覆われてるのである。
それはどうでも、モミがツリーに適してるのは、
その枝が上向きに反ってて飾りが落ちにくい、
という即物的な理由もある。しょせん、
トウヒは「代用品」にすぎないのである。ただ、
トウヒの葉はクチクラ層(私は口臭ソウ)によって、つまり、
蝋=ワックスが多く含まれるゆえ、
シバレる地域にも強いのである。ときに、
ドイツ語のモミはTanne(複数形はTannen)であり、
家はhaus(複数形はhaeuser)であるゆえ、
「Tannhaeuser(タンホイザー)」とは
ホーム<ホーマー<ホーメスト
「モミの木ハウジング」とでも訳したらいいのである。
冗談はさておき、タンホイザーは吟遊詩人だそうである。
詩、といえば、(邦題)「ある愛の詩」という映画があった。
「ペイトン・プレイス物語」のライアン・オニール、
「ゲッタウェイ」のアリ・マグローが主演。
フランシス・レイが音楽(盗作問題はたしかは金で解決された)。
レイといえば、レイ・ミランドがオニールの富豪の父役だった。
元祖「ダイアル・ドMを廻せ」である。また、現在では
この嫌いな星にやってきて、ただ缶コーヒーだけには
ハマってる宇宙人になりさがったトミー・リー・ジョウンズが、
ハーヴァードの学生という端役で出てたことである。同人は
実際にバーヴァード出のインテリであるが、
エセ地球環境問題提唱者がそのときのルームメイトだったらしい。
それはともかく、映画中、オニールがクリスマス・トゥリー売りの
バイトで得たツリーは、ノーウェイ・スプルースというトウヒである。
ちなみに、vnの表板にはドイツ・マツが使われてるのである。
ストラッドもしかりである。いっぽう、モミは
木の内側が他の木と違って白いので清らか感があるのである。
神事に使われる理由である。
*♪ドー・<レー・<ミー│>レー・ーー・ーー│
  レー・ミー・<ファー│>ミー・ー、……*♪
「3度上がって2度下がる」という「パッション動機」が
樅の森に積もった雪の銀色の世界(←ズィルバーハオス)に
清らかで荘厳な響きをしみこませるのである。
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「くるみ割り人形のゲゲゲのゲノム」

2006年02月19日 23時29分24秒 | chiuso着ぐるみ割り人形を噛む
かつて、大映映画の社長をしてた人物は「ラッパ」と呼ばれてた。なにも、
しゃべり口調がリズムを刻んでて語尾に韻を踏んでたわけではない。
それはどうでも、この数日の永田町の話題は、
前島密がインフラを敷いた通信手段とは異なる方法で
ヒソカに配されたとされる「3000万円振り込めメイル」である。
民主党のなんとかいう議員は、「敵」が多い人物だそうである。かつて、
サンバでないほうのマツケン元議員を「扇おばさまと○×したんだろう!」
というネタで挑発し、水掛け論を誘発したくらいの目立ちたがりである。
それとは別に、ある方面からの恨みをかってるらしく、
追い落としの機会を狙われてても不思議はない。
同議員がすぐに飛びつくような、いかにも真実そうな「ガセネタ」を、
「発信元」がバレないように「ロンダリング」した経路で掴ませれば、
鬼の首を取ったような行動に出るはずである。
ホリエモンと某党幹事長の関係がいろいろトリ沙汰されてる昨今、
その政治生命を絶つような攻撃をさせ、窮地に追い込んだと思わせ、が、
それがまったくのガセと判明して逆に同議員のほうの政治生命を絶つ、
という古式に則った絵が描かれててもなんの不思議もない。
米国産牛肉を切らせて背骨を断つ、の極意である。
某党幹事長は元農水大臣である。
私は髪ノウスイ症である。それはどうでも、
さんざんに株トチョウを混乱させたライヴドアであるが、
バレエの「くるみ割り人形」における「ト長」は、
「特別な意味」を持ってると私は考えるのである。
「五度圏円観覧車」を想像すれば解かるとおり、
「ト長(ゲー・ドゥア)」は、
曲緒の「変ロ長」と両幕を橋渡しする「ホ長」という「対極調」の
「中間」の調である。
♪G(ゲー)のためなぁら、両方も中ぁ~洲ぅ~~~♪
1)#2「(子どもらの)行進曲」
2)#3「(子どもらの)ギャロップ」
3))#9「(子どもらの)スキャットによるワルツ」
4)))#12-d「ロシアの踊り(トレパーク)」
5)))#14「パ・ドゥ・ドゥー」諸曲
1幕では1場でも2場でも「子どもら」が主役になってる箇所である。
おなじく「中間」でも、「ト長」と対極をなすのは「変ニ長」である。
1場#6の後半でニ長の「ポルカ」が変容した「子守歌」が、
(魔笛によって)最初に打ち出されるときの調性である。いっぽう、
2場の「雪片のワルツ」における少年合唱の「ト長」スキャットは、
「アイルランドの子守歌、もしくは、メリーさんの羊」である。
いっぽう、2幕では「ト長」は「子どもら」には使われない。
「子どもら」は「いない」世界だからである。代わって、
「トレパーク」という「ロシアの踊り」で使われる。
土着性のニオイがプンプンするような曲である。
「『胡桃割り人形』論」(三嶺書房刊/平林正司著)では、著者は
この曲の粗野な性格を嫌ってるようであるが、それはともかく、
メンデルスゾーンの「vn協」第3楽章の律動を引いてる、
と指摘してる。すなわち、
<<ユダヤ人のメンデルスゾーンを参照しながら、
  チャイコフスキーはロシア的舞曲を作ったのだ!>>
と。が、とはモーセ、キリスト教はユダヤ教から生まれたものであり、
イエス自身がユダヤ人である。むしろ、注目すべきは、
「クリスマス」という催しが、異教の冬至の行事風習を採りいれたもの、
であり、ユダヤ教では祝わないものである点である。また、
ミューズィカル「屋根の上のフィドル弾き」で知られたように、
ロシアにはドイツほどではないにしろユダヤ人が多かったのである。
コサックを父方に、フランス革命で流れてきたフランス貴族を母方に、
という同じく流浪の民の混合であるチャイコフスキーの出自、そして、
ウクライナの貴族に嫁いだ妹(しかも、作曲中に死亡)、
という環境、それに、師であるルービンシテイン兄弟が
ユダヤ人だった、などの状況を考えると、むしろ、
クラーラ嬢が「お友だち」である「子どもら」を「失った」第2幕では、
当然の調配置かもしれない。いずれにしても、
「トレパーク」の「トレ」という語に「三位」をなぞらえてる、のである。

#14「パ・ドゥ・ドゥー」諸曲の「ト長」は圧巻である。
「G煽情のアーリア」である、
♪ド>シ>ラ>ソ>ファ>ミ>レ>ド♪
は、降臨の儀式の調べである。
大人まで成長して子を産む、という生物としての使命を果たせなかった
クラーラ嬢に、人間の本来の姿を見せてる場面である。
中間部、オーボエが哀しく吹く節は、
♪【ド>シ>ラ、<ミ>レ>ド】♪
チャイコフスキーは10歳のとき、中下流貴族が進む
「帝立法律学校」に入学して寄宿したのであるが、
母との別れに強い心的傷害を受けたのである。そのころに
母に充てた手紙をすべて妹が所持してたのである。それを、
チャイコフスキーは1879年末に、妹の嫁ぎ先であるウクライナの
カメーンカは万年であれ、で見て、「眠れぬ夜を過ごした」のである。
この直後に、「2番交響曲」(ウクライナ民謡「鶴は千年であれ」使用)
を改定せざるをえない事情が生じた。その主章の
主主題をまったく書き換えたのであるが、それは、
♪【ドドド>シ>ラ、<ミミミ>レ>ド】♪
であった。そして、父が「85歳」で死ぬ。
チャイコフスキーはその「知らせ」をローマで受ける。が、
やっと2箇月後に畏れイリヤーのペテルブルク鬼子母神に参るのみである。

花嫁が来賓に配る「コンフェット(複数形=コンフェッティ)」は、
「アーモンドを砂糖(コンフ)で」まぶした菓子である。それが、
「コク(卵の殻)リューシュ」もしくは
「オルジャ(アーモンドのシロップ)と結合する。
「ハシバミ」は属は異なっても「アーモンド」に近い木の実である。
クラーラ嬢の本来の名マリー(ドイツ名)はマリアのことである。
「アーモンドの木」は聖母マリアの象徴である。
「ハシバミの木」は「シンデレラ」の「優しく賢く美しい実母」の象徴である。
このように、バレエ「くるみ(ハシバミ)割り人形」は、
同じく「卵状」「木の実状」である「近いもの」を再結合させる祭である。
♪来た子ぉ~の、キィ~タロォ~ウゥ、ちょっとみなぁれぇばぁ~~~、
H5N1白状しそうな、渡り鳥っ♪
鳥ーノ五輪開催中、ゲゲゲのキタロウ、ゲゲゲのゲノム、である。
「あの世」にいる「母」(ホ長)、
「死んだばかり」の「妹」(ト長)、
「この世」にまだいる「自分」(変ロ長)、
という「三角形」で構成される「三位一体」。それは、
「幸せだった」、そして「それが打ち砕かれた」、
「二度と戻らない」、「子ども時代」への「憧憬」「郷愁」である。

>やすのぶさん、
「くるみ」最後のほうで忙しくなって、書き忘れてたことがあり、
「白鳥湖」のネタはケイバでの「瓢湖」だけになってしまいました。
あしからずご了承ください。それから、
コメント、ありがとうございます。
いま、拝見しましたので、次回、レスさせていただきます。
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「ラッパ吹達は3度ファンファーレを鳴らす?」

2006年02月16日 02時06分09秒 | chiuso着ぐるみ割り人形を噛む
>やすのぶさん、
コメント、ありがとうございます

<少子化問題と、ある種の子供には
 絶大なる不幸が訪れるようになってしまいました>
▲離婚というのも、ある種の子どもに大いなる不幸をもたらすもの、
ですね。そして、再婚ともなれば継父母とのやっかいな問題も生じる。
まぁ、夫婦喧嘩は犬もミッシェル・クワンの事態ほどに、
予定調和で済んでるうちがハナですね。

<ト書きでは、ファンファーレが鳴って3人登場します。
 老伯爵と彼の妻および彼の娘。娘は単数。La fille>
▲ご指摘、ありがとうございます。おっしゃるとおりですね。
そのようなコント仕立てになってたことを忘れてました。
ドーチて見落としてしまったんでしょう。やはり、
外国語のひとつもできないといけませんね。

<『眠り』のパドゥシスには、同列の6人が登場するので、
 ここでもパドゥシスと銘打っている以上、
  あまりに奇抜なものも考えられないとは思います>
▲で、森田本の「台本訳」やスコアのト書きを見てみると、どこにも
「6人」とか「パ・ドゥ・スィス」とか書かれてないんですね。
<パドゥシスと銘打って>あるのは、コンテンツの#19の箇所と、
#19の扉ページの「#19」の下の括弧書き、だけですね。
……あるいは……
#19はやはり「パ・ドゥ・スィス」で、やすのぶさんが触れられた、
(ブロード版では、繰り返しの場所違いにより5回鳴るように
解釈可能ですが、もしそのようにしたら、音楽の流れは不自然です)
が気になります。ですが、「ヤフー時代」での
そこのご説明を私は忘れてしまったので、
(*)お手数ですが、いま一度、こちらでご披露くだされば幸甚です。

<さすがチャイコフスキー。和音の性格に合わせた使い方はぴか一ですね。
 四六主和音→繋留→属和音・・・・これ最強!!>
▲「くるみ」#14「アダージョ」の主主題
♪ド>シ>ラ>ソ>ファ>ミ>レ>ド♪
を「予告」した#7終いの、♪(ド<レ<♯レ<ミ)<
ド>【シ】>【ラ】│>ソ>ファ│>【ミ】>『レ』│>ド♪
における、
「四六主和音→属9(第3音省略)→属7(第5音省略)→主和音」
という和声も強烈です(属音が持続バスで、最後の主和音で移動)。
この「節」のうち、【】の音は非和声音で、
第5音がない属7には、『レ』が後打ちされて充たされる、
という「仕組み」です。涙があふれてしまう箇所です。

<一度ピアノを叩いて確認してください。
 「属七」を介して2つの主和音を叩いたとき、
  長のときは長、短のときは短であるべきで、交差は非常に不快です。
   ピカルディーは曲尾にのみ許されるその不快さを逆手に取った用法です>
▲「短→長」だと、オワズ(oise)ケをそれまで食らってて、
かならずや最後にご褒美をクレルモン(clermont)と思ってたのが
実現されたみたいですし、むしろ、
「短→長」のほうがタンチョウツルっと移行できて、
私の脳にはまったく不快には感じないのです。が、一般的には、
やすのぶさんがおっしゃるとおりですね。トキに、
Y染色体はほとんど交差しませんが、X染色体の半分弱は容易に交差します。
これを我々エセ遺伝の東研究屋のあいだでは、
「岡田可愛と半分弱のX攻撃」と呼んでます。サインはV(属和音)です。
ナポレオンはアミアンの和約の成果で終身統領に収まったわけですが、
聴くヒトを不快にするほど音をはずしがちな鈴木アミ案なピカルディのほうは、
曲尾でしか存在しえない、のですね。ご教示、ありがとうございます。

<ちなみに短調の第4度音はレですが、『悲愴』はレで始まりますね>
▲チャイコフスキーの「短調の節における『第【6】音』ファ開始」は、
forzaのf、古典力学のf(=ma,m:質量;a;加速度)、
という「シール(強いる)」を「貼った」ものだと思ってました。
なるほど、『悲愴』はレで始まるのですね。ご教示、ありがとうございます。
ジュリー・アンドルーズに言わせれば、レイは「陽光」。日照りつづきで、
レイに始まりレイに終わってれば、「怒りの武道交響曲」となったはずですね。

<で、ナポリの六ですね>
▲(**)恐縮ですが、そこのところ、もう少しつまびらかにご教示ください。

<ここで強烈に音楽を変えているのは、観衆にそのことを知らしめるため
 ですね。だから観衆はヘ短調の音楽を期待するのです>
▲なるほど。ご教示、ありがとうございます。

<観衆にピカルディーを期待するような要素はありません。
 ピカルディーは最後にチャイコフスキーが強要するのです。ここでは単に、
  予想外れのぬるま湯。それをチャイコフスキーは狙ったのでしょう>
▲繰り返し、ご教示、ありがとうございます。

<このことはまた検討していかなければなりませんね>
▲このブログでの「くるみ・シリーズ」もひと段落つきましたので、
せっかく、やすのぶさんが書き込んでくださってるので、
晩年ものチクルスを一時中断して、「白鳥湖・シリーズ」に
いたそうと思います。次回、「得意」の「ジョソウ」から、
始めさせていただきます。ただ、お商売のほうが
これから3月上旬ほどまでの間、ちょっと忙しくなりますので、
来週月曜日(前日のケイバのG1競走の結果)以外は、
私の書き込みは週一くらい(時間があいたとき……不定期)
の間隔になってしまうと思います。とりあえずは、
恐縮ですが、(*)と(**)、よろしくお願いいたします。
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