チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「柳沢吉保没後300年/カミーユ・クローデル生誕150年」

2014年12月08日 14時28分49秒 | 歴史ーランド・邪図
今日は、フランスの彫刻家
Camille Claudel(キャミユ・クロデル、1864-1943)の
生誕150年の日にあたる。同女史は、
駐日フランス大使、駐米フランス大使の経歴を持つ外交官で作家の
Paul Claudel(ポル・クロデル、1868-1955)の実姉である。
Auguste Rodin(オギュスト・オドン、1840-1917)、いわゆるロダンの
弟子で男女の関係にもなった。が、
作品がロダンのモノマネと酷評され、
内縁の妻がいるロダンの子を身ごもり流産したりして、
神経を病んでった、とされてる。
結局は男と女の関係の苦悩を彫刻の題材にしたところに
キャミユの限界があった。
48歳で精神病院送りにされ、78歳で死ぬまでの30年余を
新高山に登ることもなく筑波山が晴れたまま病棟で過ごした。

本日はまた、
江戸時代の幕閣、
柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす、西暦およそ1658-1714)の
没後300年の日にもあたる。
私が尊敬する政治家の数少ないひとりである。
その名が示すとおり
(沢=山あいの小規模な川、があとに付く名字は甲斐・信濃を本拠にした武家に多い)、
柳沢家は甲斐源氏武田家の流れである。そして、
武田遺臣だった。それが、家光の子である綱吉の館林徳川家配下となり、
吉保が綱吉の小姓となったことで、大出生の目が開けた。
その綱吉が兄家綱に男子がなかったことで将軍となり、
政治手腕に長けた吉保にさらなるチャンスが訪れたのである。
親から継いだ家禄530石は幾多の加増を経て、ついには
大名となり、川越の地を与えられた。そして、
(跡継の吉里のときに大和郡山に移封となるが)
綱豊(のちの家宣)が綱吉の後継となって甲府から西の丸に入ると、
甲府(禄は15万石)という徳川将軍家にとって最重要拠点を預かることになる。
吉保が切れ者であることは、綱吉死後も
柳沢家が免職や減封など処罰されることがなかったことに現れてる。つまり、
悪いやつらに団扇をつっつかれるようなことを一切してなかったのである。
田沼意次でも職を免じられたあとには
蟄居や減転封を命じられた。

有能な政治家であった吉保はまた、風流人でもあった。
加賀前田家の下屋敷だった場所に下屋敷を与えられたが、それが
現在も都立庭園として残ってる六義園である。
六義(りくぎ)とは中国の詩の分類を和歌にもあてはめたものである。
吉保は北村季吟・湖春父子から和歌を学び庭園にもその趣を配した。

吉保が他の政治家と異なることは、
次の一件において明確である。
赤穂事件の前年に鳥取池田家藩主が跡継を甥にする旨を幕府に願い出てた。
それが許可されるであろう登城日に、藩主はレクチャーされてたとおりの礼を、
未だ許可の言葉を言われる前に口にしてしまい周囲の失笑をかった。
老中たちは「主人があれでも家臣がしっかりしてさえいれば家は安泰」
のようなことを言ったという。が、吉保はそれに加えて、
「主君が発明(利発英明)すぎるよりはましだ」というようなことを言ったという。
言い得て妙である。
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