本日2013年7月25日は、文久3年6月10日に
緒方洪庵(おがた・こうあん、西暦およそ1810-同1863)
が、幕命により頭取をしてた西洋医学所の
役宅(現在の秋葉原駅のそば)で
結核による喀血で器官を詰まらせて窒息死して
150年の日にあたる。洪庵は、
秀吉の正妻ねねの兄木下家定(小早川秀秋の実父)が、
関ヶ原の合戦で西軍に与しなかったことで
備中国足守(あしもり)に2万5千石を与えられた
いわゆる足守藩という小藩の下級武士
(33俵4人扶持。現在の年収150万円程度で)
の家に生まれた。ちなみに、
福澤諭吉の家は13石2人扶持だったので、
洪庵の家の3分の1程度だが、主君は
10万石奥平家なので、さらに貧乏といえる。また、
足守藩の江戸屋敷は現在の木下坂を挟んで
有栖川宮記念公園の向かい、モルモン教の
管理本部の建物になってるところにあった。ともあれ、
父が藩の大阪蔵屋敷の物件探しの命を受けて上阪し、
その功績で大阪留守居役を仰せつかったために
洪庵も大阪住まいとなった。やがて、
中天游(なか・てんゆう)の「思々斎塾(シシサイジュク)」で
医学などを学び、医師を志した。その後、
江戸や長崎に学び、大坂で
「適々斎塾(テキテキサイジュク)」を開いた。その門人のひとりが、
福澤諭吉である。また、
この塾がやがて阪大医学部の母体となった。ちなみに、
晩年に勤めた幕府西洋医学所は東大医学部の前身である。
この西洋医学所の基は安政5年(西暦およそ1858年)に設立された
お玉ケ池種痘所であり、洪庵もその設立に関わってる。
種痘は同人が考案したわけではないが、
大坂ではいちはやく取りあげて
「感染予防」に尽力したのである。晩年は、
上記のごとく西洋医学所頭取と幕府奥医師を拝命し、
その多忙が労咳の悪化をはやめたと言われてるらしい。
種痘を人々に行うときも、
幕命で要職に就いたときも、
洪庵は身銭を切って世のため人のために尽くした。
日本の武士というものは、家禄が低くとも、このように
高潔だったのである。
ベルリン大学教授Chrstoph Wilhelm Hufeland
(クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント、1762-1836)の著書の巻末の指針から
同人が48歳のときに訳して要約した
「扶氏医戒乃略(フシイカイのリャク)」(扶氏=フーフェラント氏)の
十二戒には、医師たる者の姿勢が書かれてる。
「我が身のためではなく人のために働くのが医者である」
「患者を貴賤で差別してはならない」
「患者は実験台ではない」
「売名行為は医師としてもっとも恥ずべきことである」
「夜間は昼間の臨床結果を顧みて記録しなさい」
「詳細に問診することを心がけよ」
「予後の見込みがない病気の患者でも少しでも苦しみを和らげ
一日でも長く生きれるようにするのが医者の務めである」
「患者の金銭負担はなるべく軽くするように。たとえ
命を救っても高額な医療費を請求されたら生きてけない」
「恥ずかしいことも話さなければならない患者にとって
慕われる医者になれ。どれほど医療技術が高くても
尊大では嫌われる。患者に誠実で親切であれ。
守秘義務を怠らず、酒・賭け事・女・金儲けに手をだすな」
「医者はそれぞれに信じる道にしたがって医療を行ってるのだから
他の医師の悪口を言ってはいけない」
「たとえ患者の病気をよくしようとする目的でも
その病状についてあまり多くの医師に相談すべきではない
(現在の患者は二の次のただぐだぐだ言い合うカンファレンスへの警鐘)」
「患者が別の医者を見限って自分の診察・治療を求めてきても
前の医者の了解がない限り、安易に受けてはならない。ただし、
医療方針が明らかに誤ってるときはその限りではない
(現在のセカンドオピニオン、名医本流行りへの警鐘)」
「好きな言葉は思い上がりです」
「好きな言葉は向上心という名のキャリアアップです」
「好きな言葉はブラックカードです」
などというのは問題外としても、
勤務が大変で医療裁判を起こされやすいから
産科医にはならなかったり、
大都市の病院だけしか行く気がなかったり、
ということがあたりまえになってる。
国民の税金で医師になれたことを
ほんの少しも考えたら、
医者でございますとTVになんかに
タレントとして出てられないはずである。それに加え、
医療行政もまたしかりである。
緊急病院に夜間、対応できる医者がいないから、あるいは、
居住地区が隣の自治体だからと、
救急搬送を受けつけなかったり、
受けつけといて経験不足の少人数の医師に対応させたり、
夜間診察に時間外特別料金を取ったり、
土日の外来を休診にしたりなど、
よくできるものである。
病院は商店ではないのである。
少なくとも大病院は時間帯や曜日に関係なく、
24時間通常どおりに開いててしかるべきである。
[医の世に生活するは人の為のみ、
おのれがためにあらずということを其業の本旨とす]
という医者ばかりの医学界であってほしいものである。
緒方洪庵(おがた・こうあん、西暦およそ1810-同1863)
が、幕命により頭取をしてた西洋医学所の
役宅(現在の秋葉原駅のそば)で
結核による喀血で器官を詰まらせて窒息死して
150年の日にあたる。洪庵は、
秀吉の正妻ねねの兄木下家定(小早川秀秋の実父)が、
関ヶ原の合戦で西軍に与しなかったことで
備中国足守(あしもり)に2万5千石を与えられた
いわゆる足守藩という小藩の下級武士
(33俵4人扶持。現在の年収150万円程度で)
の家に生まれた。ちなみに、
福澤諭吉の家は13石2人扶持だったので、
洪庵の家の3分の1程度だが、主君は
10万石奥平家なので、さらに貧乏といえる。また、
足守藩の江戸屋敷は現在の木下坂を挟んで
有栖川宮記念公園の向かい、モルモン教の
管理本部の建物になってるところにあった。ともあれ、
父が藩の大阪蔵屋敷の物件探しの命を受けて上阪し、
その功績で大阪留守居役を仰せつかったために
洪庵も大阪住まいとなった。やがて、
中天游(なか・てんゆう)の「思々斎塾(シシサイジュク)」で
医学などを学び、医師を志した。その後、
江戸や長崎に学び、大坂で
「適々斎塾(テキテキサイジュク)」を開いた。その門人のひとりが、
福澤諭吉である。また、
この塾がやがて阪大医学部の母体となった。ちなみに、
晩年に勤めた幕府西洋医学所は東大医学部の前身である。
この西洋医学所の基は安政5年(西暦およそ1858年)に設立された
お玉ケ池種痘所であり、洪庵もその設立に関わってる。
種痘は同人が考案したわけではないが、
大坂ではいちはやく取りあげて
「感染予防」に尽力したのである。晩年は、
上記のごとく西洋医学所頭取と幕府奥医師を拝命し、
その多忙が労咳の悪化をはやめたと言われてるらしい。
種痘を人々に行うときも、
幕命で要職に就いたときも、
洪庵は身銭を切って世のため人のために尽くした。
日本の武士というものは、家禄が低くとも、このように
高潔だったのである。
ベルリン大学教授Chrstoph Wilhelm Hufeland
(クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント、1762-1836)の著書の巻末の指針から
同人が48歳のときに訳して要約した
「扶氏医戒乃略(フシイカイのリャク)」(扶氏=フーフェラント氏)の
十二戒には、医師たる者の姿勢が書かれてる。
「我が身のためではなく人のために働くのが医者である」
「患者を貴賤で差別してはならない」
「患者は実験台ではない」
「売名行為は医師としてもっとも恥ずべきことである」
「夜間は昼間の臨床結果を顧みて記録しなさい」
「詳細に問診することを心がけよ」
「予後の見込みがない病気の患者でも少しでも苦しみを和らげ
一日でも長く生きれるようにするのが医者の務めである」
「患者の金銭負担はなるべく軽くするように。たとえ
命を救っても高額な医療費を請求されたら生きてけない」
「恥ずかしいことも話さなければならない患者にとって
慕われる医者になれ。どれほど医療技術が高くても
尊大では嫌われる。患者に誠実で親切であれ。
守秘義務を怠らず、酒・賭け事・女・金儲けに手をだすな」
「医者はそれぞれに信じる道にしたがって医療を行ってるのだから
他の医師の悪口を言ってはいけない」
「たとえ患者の病気をよくしようとする目的でも
その病状についてあまり多くの医師に相談すべきではない
(現在の患者は二の次のただぐだぐだ言い合うカンファレンスへの警鐘)」
「患者が別の医者を見限って自分の診察・治療を求めてきても
前の医者の了解がない限り、安易に受けてはならない。ただし、
医療方針が明らかに誤ってるときはその限りではない
(現在のセカンドオピニオン、名医本流行りへの警鐘)」
「好きな言葉は思い上がりです」
「好きな言葉は向上心という名のキャリアアップです」
「好きな言葉はブラックカードです」
などというのは問題外としても、
勤務が大変で医療裁判を起こされやすいから
産科医にはならなかったり、
大都市の病院だけしか行く気がなかったり、
ということがあたりまえになってる。
国民の税金で医師になれたことを
ほんの少しも考えたら、
医者でございますとTVになんかに
タレントとして出てられないはずである。それに加え、
医療行政もまたしかりである。
緊急病院に夜間、対応できる医者がいないから、あるいは、
居住地区が隣の自治体だからと、
救急搬送を受けつけなかったり、
受けつけといて経験不足の少人数の医師に対応させたり、
夜間診察に時間外特別料金を取ったり、
土日の外来を休診にしたりなど、
よくできるものである。
病院は商店ではないのである。
少なくとも大病院は時間帯や曜日に関係なく、
24時間通常どおりに開いててしかるべきである。
[医の世に生活するは人の為のみ、
おのれがためにあらずということを其業の本旨とす]
という医者ばかりの医学界であってほしいものである。
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