横綱白鵬が大関把瑠都の全勝を阻むために
頑張ルト想定したとおりに寄り切った。その
把瑠都関が初優勝を決めた金曜日、東京では雪が降った。
「古雪印や。明治乳業は遠く、なりにけり」
「中まで腐ったオレ(au lait)」という配合で私が
その川柳を詠んでから、
はや12年。社長が一睡もしてない間に、
干支はひとまわりしてしまった。
「古い雪印や。ほとぼりさましに、メグミルク」
俳人中村草田男のモトネタはもちろん、
[降る雪や。明治は遠く、なりにけり]
である。この句は、大学生になった同人が
昭和6年(1931年)に母校の青南小学校で詠んだものだという。
大学生といっても草田男は当時すでに30歳。
薹が立った大学生だった。といっても、草田男は
松山バレエ団に通ってバレリーナを目指したわけではない。ともあれ、
昭和の頃までの同校は公立の小学校としては進学の名門で、
ことに明治の官僚の師弟が多く通ってた。同校出身の著名人には、
海軍士官の倅山本義正、
東京帝大医科卒の精神科医・歌人の倅で昨年他界した北杜夫、
陸軍獣医官の倅で今年92歳になる安岡章太郎、
茶道遠州流12世で昨年亡くなった小堀宗慶、
大蔵官僚の倅で作詞家の松本隆、
などがいる。が、あくまで公立校なので、中には
仲代達矢のような超貧乏人の倅もいる。それはともかくも、
20年ぶりに母校を訪れた中村草田男は、
雪の校庭にマントを着てズボン姿で出てきた生徒らを見て、
着物だった自分の頃との隔世の感を禁じ得なかったのである。
私にとって今昔を意識するもののひとつは、
国技館である。国技館といっても現在の両国国技館でなく、
蔵前国技館に強い郷愁を覚える。
対北の湖、対長谷川、対増位山、対貴ノ花、対旭國、対若三杉など、
組み合って長い(それがおもしろいのだが)相撲になることが
多かった魁傑が今や日本相撲協会の理事長、
という時代である。ところで、
魁傑はガチンコ力士だったが、おなじくガチンコで
相撲史上最強といわれる雷電為右衛門と、今場所、初優勝した
把瑠都の体格は、ほぼ同じだという。
「百里をも、おどろかすべき、雷電の、手形をもって、通る関と里(セキトリ)」
蜀山人が狂歌に詠ったように、
為右衛門の体は相当に大きかったらしい。ちなみに、
相撲の「関取」という呼称は、関所の「関」が由来であるのと、
為右衛門の本名「関」に掛けてるのである。
江戸時代は広島浅野家の中屋敷だった赤坂TBS社屋の敷地の
すぐ近くのあのハットするほど急な傾斜の三分坂坂下の報土寺には
為右衛門の墓のひとつがある。
雷電為右衛門(らいでん・ためえもん、本名=関)は、
明和4年(およそ西暦1767年)、
信濃国小県郡大石村(現在の長野県東御市滋野)で、
豪農の家に生まれた。真田家が治めてた江戸時代初期まで
上田藩領、寛永以降は小諸藩領となった村である。
東御市滋野はその在所の名が示すとおり、
真田氏の祖である滋野氏の地盤である。が、
為右衛門の名字は「関」なので、私見では、
藤原秀郷の血を引くと称する結城氏の一門、
関氏なのではないかと推定する。為右衛門は、
松江松平家の風流大名松平不昧に、
古豪の雷電(為五郎)や柏戸の後釜として青田買いされた。
松江松平家は、家康の次男で結城家に養子として入った
秀康の一門である。そういった縁で、
不昧は為右衛門を召抱えたのかもしれない。加えて、
松江松平家は松江以前には同じく信濃国の松本を領した、
という「信州コネクション」ともいうべき因縁がある。
為右衛門の現役は、
寛政元年(およそ西暦1789年)から文化8年(同1811年)なので、
写楽の活動期(寛政6年(同1794年)年5月から翌年1月)を含む。
実際に、寛政6年11月両国回向院での勧進相撲に
土俵入りだけに出場した7歳の怪童を写した
「大童山土俵入り」に、控え力士として添えられた
東西それぞれ5力士ずつ計10人のひとりとして
為右衛門も描かれてる。ときに、この
「大童山土俵入り」に描かれてる控え力士10人の中で、
他の9力士の白い皮膚または薄土色から隔離するかのごとくに、
為右衛門だけが褐色の肌に色づけされてるのである。
一見左右対称なように見える画は、その"色分け"によって、その
対称性が崩されてるのである。が、
その理由は、エストニアとラトヴィアとリトアニア、に加えて、
外木場と安仁屋の区別がつかない脳タリンな私には、
想像だにできない。ちなみに、
為右衛門は、大正時代の栃木山、昭和時代の双葉山、柏戸、大鵬、
平成時代の朝青龍や、麻丘めぐみ女史の彼などと同様に、
左利きだった。また、
右四つ左上手投げを得意としたウルフ千代の富士、
左四つ黄金の左下手投げをここ一番の決め手とした輪島、
のように強豪横綱には左腕が利く者がおそろしく多い
(為右衛門は横綱ではない)。
為右衛門は現役引退後も松江藩に仕えてた。が、
文化11年(およそ西暦1814年)に、その8年前の
文化の大火で焼失した赤坂の報土寺の鐘楼と釣鐘を
再建したが、規定違反のかどで幕府に捕らえられた。
為右衛門と小野川が四つに組んだフォルムの竜頭、
自身の姿が浮き彫りにされた鐘身で、しかも、
為右衛門の臍の部分が撞座になってて、さらには、
駒の爪には16俵の土俵が巡らされてる、という
斬新なデザインが、所轄の寺社奉行に咎められたのである。
鐘楼と釣鐘は取り壊され、為右衛門は江戸処払いとなった。
成田巡業のおりに途中立ち寄った下総佐倉藩領臼井宿の
甘酒茶屋で見初めた店の娘八重と夫婦になってた
為右衛門は、その臼井に居を移した。が、
ところが、である。為右衛門はそれでもなお、
松江松平家の相撲頭取職のままだった。
為右衛門は現役時代から巡業でまわった土地や人などを
"日記"として詳細に既述してた。さらに、それをまとめて
"報告書"を作成し、「萬御用覚帳」として藩に提出してた。
引退後も文政2年(西暦およそ1819年)にその
相撲頭取職を解かれるまでも出し続けてたのである。
巡業で各地をまわることができ、インテリでもあった為右衛門は、
紀行のために徘徊できる俳人だった芭蕉のように、不昧によって
エイジェントとしても見込まれてたのかもしれない。
「百里をも、おどろかすべき、雷電の、手形をもって、通る関と里」
幕臣大田直次郎の狂歌はさらに意味深である。
頑張ルト想定したとおりに寄り切った。その
把瑠都関が初優勝を決めた金曜日、東京では雪が降った。
「古雪印や。明治乳業は遠く、なりにけり」
「中まで腐ったオレ(au lait)」という配合で私が
その川柳を詠んでから、
はや12年。社長が一睡もしてない間に、
干支はひとまわりしてしまった。
「古い雪印や。ほとぼりさましに、メグミルク」
俳人中村草田男のモトネタはもちろん、
[降る雪や。明治は遠く、なりにけり]
である。この句は、大学生になった同人が
昭和6年(1931年)に母校の青南小学校で詠んだものだという。
大学生といっても草田男は当時すでに30歳。
薹が立った大学生だった。といっても、草田男は
松山バレエ団に通ってバレリーナを目指したわけではない。ともあれ、
昭和の頃までの同校は公立の小学校としては進学の名門で、
ことに明治の官僚の師弟が多く通ってた。同校出身の著名人には、
海軍士官の倅山本義正、
東京帝大医科卒の精神科医・歌人の倅で昨年他界した北杜夫、
陸軍獣医官の倅で今年92歳になる安岡章太郎、
茶道遠州流12世で昨年亡くなった小堀宗慶、
大蔵官僚の倅で作詞家の松本隆、
などがいる。が、あくまで公立校なので、中には
仲代達矢のような超貧乏人の倅もいる。それはともかくも、
20年ぶりに母校を訪れた中村草田男は、
雪の校庭にマントを着てズボン姿で出てきた生徒らを見て、
着物だった自分の頃との隔世の感を禁じ得なかったのである。
私にとって今昔を意識するもののひとつは、
国技館である。国技館といっても現在の両国国技館でなく、
蔵前国技館に強い郷愁を覚える。
対北の湖、対長谷川、対増位山、対貴ノ花、対旭國、対若三杉など、
組み合って長い(それがおもしろいのだが)相撲になることが
多かった魁傑が今や日本相撲協会の理事長、
という時代である。ところで、
魁傑はガチンコ力士だったが、おなじくガチンコで
相撲史上最強といわれる雷電為右衛門と、今場所、初優勝した
把瑠都の体格は、ほぼ同じだという。
「百里をも、おどろかすべき、雷電の、手形をもって、通る関と里(セキトリ)」
蜀山人が狂歌に詠ったように、
為右衛門の体は相当に大きかったらしい。ちなみに、
相撲の「関取」という呼称は、関所の「関」が由来であるのと、
為右衛門の本名「関」に掛けてるのである。
江戸時代は広島浅野家の中屋敷だった赤坂TBS社屋の敷地の
すぐ近くのあのハットするほど急な傾斜の三分坂坂下の報土寺には
為右衛門の墓のひとつがある。
雷電為右衛門(らいでん・ためえもん、本名=関)は、
明和4年(およそ西暦1767年)、
信濃国小県郡大石村(現在の長野県東御市滋野)で、
豪農の家に生まれた。真田家が治めてた江戸時代初期まで
上田藩領、寛永以降は小諸藩領となった村である。
東御市滋野はその在所の名が示すとおり、
真田氏の祖である滋野氏の地盤である。が、
為右衛門の名字は「関」なので、私見では、
藤原秀郷の血を引くと称する結城氏の一門、
関氏なのではないかと推定する。為右衛門は、
松江松平家の風流大名松平不昧に、
古豪の雷電(為五郎)や柏戸の後釜として青田買いされた。
松江松平家は、家康の次男で結城家に養子として入った
秀康の一門である。そういった縁で、
不昧は為右衛門を召抱えたのかもしれない。加えて、
松江松平家は松江以前には同じく信濃国の松本を領した、
という「信州コネクション」ともいうべき因縁がある。
為右衛門の現役は、
寛政元年(およそ西暦1789年)から文化8年(同1811年)なので、
写楽の活動期(寛政6年(同1794年)年5月から翌年1月)を含む。
実際に、寛政6年11月両国回向院での勧進相撲に
土俵入りだけに出場した7歳の怪童を写した
「大童山土俵入り」に、控え力士として添えられた
東西それぞれ5力士ずつ計10人のひとりとして
為右衛門も描かれてる。ときに、この
「大童山土俵入り」に描かれてる控え力士10人の中で、
他の9力士の白い皮膚または薄土色から隔離するかのごとくに、
為右衛門だけが褐色の肌に色づけされてるのである。
一見左右対称なように見える画は、その"色分け"によって、その
対称性が崩されてるのである。が、
その理由は、エストニアとラトヴィアとリトアニア、に加えて、
外木場と安仁屋の区別がつかない脳タリンな私には、
想像だにできない。ちなみに、
為右衛門は、大正時代の栃木山、昭和時代の双葉山、柏戸、大鵬、
平成時代の朝青龍や、麻丘めぐみ女史の彼などと同様に、
左利きだった。また、
右四つ左上手投げを得意としたウルフ千代の富士、
左四つ黄金の左下手投げをここ一番の決め手とした輪島、
のように強豪横綱には左腕が利く者がおそろしく多い
(為右衛門は横綱ではない)。
為右衛門は現役引退後も松江藩に仕えてた。が、
文化11年(およそ西暦1814年)に、その8年前の
文化の大火で焼失した赤坂の報土寺の鐘楼と釣鐘を
再建したが、規定違反のかどで幕府に捕らえられた。
為右衛門と小野川が四つに組んだフォルムの竜頭、
自身の姿が浮き彫りにされた鐘身で、しかも、
為右衛門の臍の部分が撞座になってて、さらには、
駒の爪には16俵の土俵が巡らされてる、という
斬新なデザインが、所轄の寺社奉行に咎められたのである。
鐘楼と釣鐘は取り壊され、為右衛門は江戸処払いとなった。
成田巡業のおりに途中立ち寄った下総佐倉藩領臼井宿の
甘酒茶屋で見初めた店の娘八重と夫婦になってた
為右衛門は、その臼井に居を移した。が、
ところが、である。為右衛門はそれでもなお、
松江松平家の相撲頭取職のままだった。
為右衛門は現役時代から巡業でまわった土地や人などを
"日記"として詳細に既述してた。さらに、それをまとめて
"報告書"を作成し、「萬御用覚帳」として藩に提出してた。
引退後も文政2年(西暦およそ1819年)にその
相撲頭取職を解かれるまでも出し続けてたのである。
巡業で各地をまわることができ、インテリでもあった為右衛門は、
紀行のために徘徊できる俳人だった芭蕉のように、不昧によって
エイジェントとしても見込まれてたのかもしれない。
「百里をも、おどろかすべき、雷電の、手形をもって、通る関と里」
幕臣大田直次郎の狂歌はさらに意味深である。
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