東芝が東京都港区芝浦の本社機能を、神奈川県川崎市幸区堀川町の
JR川崎駅西口にこの秋に移転させるという。
「東芝」という社名は「東京芝浦電気」の略がもとだから、
本店移転にともなって商号変更も行われるとしたら、
「川堀(かわほり)」になってしまうのかもしれない。冗談はともかく、
東芝といえば昨年夏に、中国産のレアアースであるジスプロシウムを使わない、
モーター用高鉄濃度サマリウム・コバルト磁石を開発した。ときに、
川崎といえば、大分の臼杵出身ながら、慶大出だからか、
川崎に住んでた映画監督の塩屋俊が先日、公演先の
仙台市東北電力ホールの楽屋で倒れて、
急性大動脈解離のために56歳で死んでしまった。
俳優時代の細かった頃と比べてここ数年の小太りな感じは
やっぱりヤバかったなという感じである。惜しい死だった。
本日、2013年6月13日は、
江戸時代初期の徳川家の重臣、
大久保長安(おおくぼ・ながやす、西暦およそ1545-同1613)
の没後400年にあたる日である。室町時代末期に、
猿楽師大蔵信安(金春喜然こんぱる・よしなり)の倅として生まれた。
父が信玄の猿楽師として雇われたため、甲斐に移住した。が、
長安は武士として取り立てられ、武田家臣の土屋氏の配下となった。
その出自からも判るとおり、
ユダヤ系渡来人東漢氏(やまとのあやうじ)の子孫である。いっぽう、
甲斐という国名は、韓国人が現在の韓国人にしたがってる
朱蒙で知られる扶余系高句麗および百済のユダヤ系王族解氏が
高句麗滅亡時に渡来して宛がわれた地、というのが由来である。
東扶余の初代王は解夫婁という。高句麗の読みでヘブルである。
ヘブライなのである。それはともかくも、
秦氏である長安の家系はもともと甲斐に繋がってたのである。
甲斐武田といえば金山衆であり、作事(土木建築)である。
それらを支えたのがユダヤ系渡来人秦一族だった。
甲斐の巨摩(こま)という地名も、甲斐から武蔵につながる
多摩(たま)という地名や、埼玉(さいたま)のもととなった
忍(行田)の埼玉(さきたま)なども関わりがある。また、
甲斐の丹波(たば)との地名的関わりもある。
甲斐から八王子にかけては、秦氏の得意分野のひとつである
養蚕が飛鳥時代から盛んだった。そういえば、
甲府とその周辺の人には、鼻が長く高めで、
深い二重まぶたのプチ・ユダヤみたいな人が多いと経験的に感じる。
ともあれ、
武田家崩壊後、長安は家康に拾われた。そこでは、
大久保忠隣の配下に組み込まれた。その縁から長安は、
大久保を名乗ることになる。おもしろいことに、
家康の関東入国とともに忠隣は武蔵国羽生に2万石を与えられ、
小田原城主となったのちもその領主を兼任してた。
羽生という地名は埴生、羽丹生などとも表記されたとおり、
丹(に)=辰砂(シンシャ)=HgS=硫化第二水銀)の産出地だったと思われる。
鉱石から金銀を取り出すには、金属なのに(常温1気圧前後で)液体、
というへそ曲がりものな性質の水銀を使った
アマルガム法が採られてたのである、と
丹波哲郎が霊界から舞い戻って説明するまでもなく、
長安つながりなのである。それはともかくも、
長安の金銀採掘のノウハウや土木建築の技術は、
徳川幕府の基礎を築くことに多大な貢献をした。
そのひとつが甲斐路警護を目的とする
「八王子千人同心」(のもと)の創設提案とその統括である。
これによって現在の八王子市の基礎が形作られたのである。
ちなみに、
昭和の末期に都心にあった大学が、
広いキャンパスを求めて安価な八王子に移転してった。が、
都心から離れててうら寂しい土地に、
東京の大学に行けると期待してきた地方の若者は落胆した。
そうして、いわゆる偏差値はどんどん下がってしまった。
中央大学などは、移転前の千代田区時代には、
司法試験合格者数は東大に次ぐ優秀校だったのが、
平成になると京大や慶大だけでなく、
早大にさえ及ばなくなってしまった。ところが、
法科大学院制度が創設されて、中大の法科大学院キャンパスが
都心の新宿区(市ヶ谷)になると、合格者数は復活したのである。
その新宿の現在は三丁目交差点は、かつては、
新宿追分といった。そこはまた、
甲州街道の一里塚が建てられてた場所でもあった。
徳川政権が整備した諸街道とその一里塚も、
長安によって設置指揮されたものである。
が、
そうした家康からの信任と実績と蓄財は、
戦や作事でない分野で仕える者の妬みをかった。
本多正信・正純父子である。長安は
大坂の陣が始まる前の慶長18年に病死する。
生前にはその力を恐れて事を起こせなかった本多正信は
満を持したかのごとく策略にとりかかった。
長安の不正を捏造して家康に吹き込んだのである。
讒言を信じたわけではなかったが、
ノウハウを物大久保に譲歩して蓄財させてたことは事実で、
"有事(対豊臣)"のための資金が必要だった家康は、
死せる長安の遺体を掘り起こさせ、
安倍川河原に晒した。その倅らすべてを死罪に処し、
関係諸氏にも咎めを及ぼした。このため、身元保証人的
大久保忠隣も箱根の関所という重要拠点を守る
小田原領主を改易され、近江の彦根家預かりとされた。が、
このことが父家康には逆らえない秀忠の
辛抱と深謀を生む要因となった。忠隣は、
家康の跡継ぎとして秀忠を強く推した
数少ない重臣だった。また、秀吉の秀次排除のさいにも、
忠隣は秀忠を救ってるのである。
家康の7回忌(本多正信も家康と同年に死亡)の年にあたる
元和8年、冤罪を訴えるという井伊直孝の取りなしを断って
亡き家康に忠義を貫いて未だお預けの身でいる忠隣に対して、
秀忠は本多正純をいわゆる宇都宮釣天井事件で改易して、
報いたのである。
日本橋から八王子新町の竹の鼻まで11里。私の世代にとっては、
家具は村内、八王子。である。
JR川崎駅西口にこの秋に移転させるという。
「東芝」という社名は「東京芝浦電気」の略がもとだから、
本店移転にともなって商号変更も行われるとしたら、
「川堀(かわほり)」になってしまうのかもしれない。冗談はともかく、
東芝といえば昨年夏に、中国産のレアアースであるジスプロシウムを使わない、
モーター用高鉄濃度サマリウム・コバルト磁石を開発した。ときに、
川崎といえば、大分の臼杵出身ながら、慶大出だからか、
川崎に住んでた映画監督の塩屋俊が先日、公演先の
仙台市東北電力ホールの楽屋で倒れて、
急性大動脈解離のために56歳で死んでしまった。
俳優時代の細かった頃と比べてここ数年の小太りな感じは
やっぱりヤバかったなという感じである。惜しい死だった。
本日、2013年6月13日は、
江戸時代初期の徳川家の重臣、
大久保長安(おおくぼ・ながやす、西暦およそ1545-同1613)
の没後400年にあたる日である。室町時代末期に、
猿楽師大蔵信安(金春喜然こんぱる・よしなり)の倅として生まれた。
父が信玄の猿楽師として雇われたため、甲斐に移住した。が、
長安は武士として取り立てられ、武田家臣の土屋氏の配下となった。
その出自からも判るとおり、
ユダヤ系渡来人東漢氏(やまとのあやうじ)の子孫である。いっぽう、
甲斐という国名は、韓国人が現在の韓国人にしたがってる
朱蒙で知られる扶余系高句麗および百済のユダヤ系王族解氏が
高句麗滅亡時に渡来して宛がわれた地、というのが由来である。
東扶余の初代王は解夫婁という。高句麗の読みでヘブルである。
ヘブライなのである。それはともかくも、
秦氏である長安の家系はもともと甲斐に繋がってたのである。
甲斐武田といえば金山衆であり、作事(土木建築)である。
それらを支えたのがユダヤ系渡来人秦一族だった。
甲斐の巨摩(こま)という地名も、甲斐から武蔵につながる
多摩(たま)という地名や、埼玉(さいたま)のもととなった
忍(行田)の埼玉(さきたま)なども関わりがある。また、
甲斐の丹波(たば)との地名的関わりもある。
甲斐から八王子にかけては、秦氏の得意分野のひとつである
養蚕が飛鳥時代から盛んだった。そういえば、
甲府とその周辺の人には、鼻が長く高めで、
深い二重まぶたのプチ・ユダヤみたいな人が多いと経験的に感じる。
ともあれ、
武田家崩壊後、長安は家康に拾われた。そこでは、
大久保忠隣の配下に組み込まれた。その縁から長安は、
大久保を名乗ることになる。おもしろいことに、
家康の関東入国とともに忠隣は武蔵国羽生に2万石を与えられ、
小田原城主となったのちもその領主を兼任してた。
羽生という地名は埴生、羽丹生などとも表記されたとおり、
丹(に)=辰砂(シンシャ)=HgS=硫化第二水銀)の産出地だったと思われる。
鉱石から金銀を取り出すには、金属なのに(常温1気圧前後で)液体、
というへそ曲がりものな性質の水銀を使った
アマルガム法が採られてたのである、と
丹波哲郎が霊界から舞い戻って説明するまでもなく、
長安つながりなのである。それはともかくも、
長安の金銀採掘のノウハウや土木建築の技術は、
徳川幕府の基礎を築くことに多大な貢献をした。
そのひとつが甲斐路警護を目的とする
「八王子千人同心」(のもと)の創設提案とその統括である。
これによって現在の八王子市の基礎が形作られたのである。
ちなみに、
昭和の末期に都心にあった大学が、
広いキャンパスを求めて安価な八王子に移転してった。が、
都心から離れててうら寂しい土地に、
東京の大学に行けると期待してきた地方の若者は落胆した。
そうして、いわゆる偏差値はどんどん下がってしまった。
中央大学などは、移転前の千代田区時代には、
司法試験合格者数は東大に次ぐ優秀校だったのが、
平成になると京大や慶大だけでなく、
早大にさえ及ばなくなってしまった。ところが、
法科大学院制度が創設されて、中大の法科大学院キャンパスが
都心の新宿区(市ヶ谷)になると、合格者数は復活したのである。
その新宿の現在は三丁目交差点は、かつては、
新宿追分といった。そこはまた、
甲州街道の一里塚が建てられてた場所でもあった。
徳川政権が整備した諸街道とその一里塚も、
長安によって設置指揮されたものである。
が、
そうした家康からの信任と実績と蓄財は、
戦や作事でない分野で仕える者の妬みをかった。
本多正信・正純父子である。長安は
大坂の陣が始まる前の慶長18年に病死する。
生前にはその力を恐れて事を起こせなかった本多正信は
満を持したかのごとく策略にとりかかった。
長安の不正を捏造して家康に吹き込んだのである。
讒言を信じたわけではなかったが、
ノウハウを物大久保に譲歩して蓄財させてたことは事実で、
"有事(対豊臣)"のための資金が必要だった家康は、
死せる長安の遺体を掘り起こさせ、
安倍川河原に晒した。その倅らすべてを死罪に処し、
関係諸氏にも咎めを及ぼした。このため、身元保証人的
大久保忠隣も箱根の関所という重要拠点を守る
小田原領主を改易され、近江の彦根家預かりとされた。が、
このことが父家康には逆らえない秀忠の
辛抱と深謀を生む要因となった。忠隣は、
家康の跡継ぎとして秀忠を強く推した
数少ない重臣だった。また、秀吉の秀次排除のさいにも、
忠隣は秀忠を救ってるのである。
家康の7回忌(本多正信も家康と同年に死亡)の年にあたる
元和8年、冤罪を訴えるという井伊直孝の取りなしを断って
亡き家康に忠義を貫いて未だお預けの身でいる忠隣に対して、
秀忠は本多正純をいわゆる宇都宮釣天井事件で改易して、
報いたのである。
日本橋から八王子新町の竹の鼻まで11里。私の世代にとっては、
家具は村内、八王子。である。
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