本日は、
元治元年7月11日に
佐久間象山(西暦およそ1811-同1864)が
暗殺されて150年にあたる日である。
我が先祖も同じ真田家松代藩士で、実際
象山と多少の関わりもあったこともあり、
3年前のその生誕200年にも、
「千曲川恋歌/佐久間象山生誕200年」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/96cc5c3e51ba6fd6c91a5cddfaa5f768 )
を書き留めてる。
西暦およそ1854年、
"弟子"の吉田松陰が黒船に便乗して密航を期したものの拒否られて
自首したことで、"師"の佐久間象山も連座で伝馬町に入牢のはめとなった。
松陰は長州藩預かり、象山は松代藩預かりとされ、
それぞれ入獄、蟄居とされた。
松陰は翌年に獄を解かれて"松下村塾"を開いた。が、
西暦およそ1858年に勅許を得ずして幕府が
日米修好通商条約を結んだことに激怒して、
老中間部詮勝の暗殺を画策した。
この不穏な動きに不安を抱いた"塾生"が藩上層部にチクり、
松陰は再び獄に繋がれた。翌年、
別件で江戸に送致され、吟味の際、うっかり
幕府を挑発することになる老中暗殺計画を自白して、
死罪(3段階ある斬首刑のうちの真ん中)となった。つまり、
殉教者というアピールをしたのである。そうなると、
長州の"門弟"らは"仇成敗"をせざるを得なくなる。ちなみに、
この量刑だと遺体は引き取れないのだが、
桂小五郎(木戸孝允)と伊藤俊輔(博文)が飯田正伯と尾寺新之丞が
首と胴体に分かれた遺骸を牢役人に手を回して譲り受け、
いったん回向院に埋めた。
幕府の温情に働きかけ、頃合いを見計らって
世田谷の長州藩抱え屋敷
(幕府から下された上中下屋敷とは別の自腹の屋敷)の敷地に
改葬した。それが現在の松陰神社である。
いっぽう、
松陰が死んで5年後、西暦およそ1864年、蟄居を解かれてた象山は
禁裏御守衛総督徳川慶喜に呼ばれて京都に向かった。
慶喜に請われて朝廷に開国・公武合体を説いた。が、
それでなくても高慢不遜な象山は敵も多く、
憎まれキャラだったので、"天誅"の格好の餌食となった。
また、象山自身も虚勢を張って警護もつけず、悠然と馬で移動する、
といった、尊皇攘夷派への挑発をしてたのである。
現行西暦換算1864年8月12日昼、
公家に開港の説明に赴いた帰り、
京の町中(木屋町)で象山は待ち伏せしてた一味に殺害された。
寺町通りを上ってた象山が三条通りにさしかかると、
抜刀した2人組が立ちはだかった。象山は馬を走らせようとしたところ、
馬の脚を斬りつけられてしまった。それでも必死に
馬を駆ろうとしたが、前方にまた別の刺客が2人待ちかまえてたのである。
脚を斬られた馬が倒れると同時に象山は落馬し、
あっけなく斬られた。そして、
カエサルよりも多く斬り刻まれた。
こういう事件では被害者が死んでるので、
殺害者の証言しか当然残ってない。殺害者は
自分らに不都合な真実は話さないものである。おそらくは、
陰にもっと多くの"長州藩士""松下村塾生"が隠れてたことだろう。
ひょっとしたら、その全員が松陰の胴に一太刀ずつ入れてったかもしれない。
表向きは象山に暗殺に注意されよと親切顔で忠告してた
桂小五郎が影の首謀者だったともいわれてる。
象山の首は斬られ、三条河原に晒し者にされた。それにしても、
多勢に無勢とはいえ、敵に刀傷ひとつも負わせずに
むざむざと討ち果たされた象山は、
ただただ短気で傲慢なだけの、口ほどにもない、
剣術指南の倅としても情けない男だった。
松陰先生に海外に目を開かせておきながら
先生だけが非武士として無惨に斬首されたいっぽうで、
また朝廷をその舌で操ろうとしてることは
尊皇攘夷で凝り固まってる長州藩士には
武士として耐え難い屈辱だったのである。
すでに、尊皇攘夷思想などまったく意味がないばかりか
むしろ厄介となってた明治4年末(まだ旧暦)、
象山暗殺のヒットマンにして一番の手柄をたてたとされてる
河上彦斎(かわかみ・げんさい)は、明治新政府によって別件で
斬首された。口封じ……木戸孝允の意向だといわれてる。
元治元年7月11日に
佐久間象山(西暦およそ1811-同1864)が
暗殺されて150年にあたる日である。
我が先祖も同じ真田家松代藩士で、実際
象山と多少の関わりもあったこともあり、
3年前のその生誕200年にも、
「千曲川恋歌/佐久間象山生誕200年」
( http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/96cc5c3e51ba6fd6c91a5cddfaa5f768 )
を書き留めてる。
西暦およそ1854年、
"弟子"の吉田松陰が黒船に便乗して密航を期したものの拒否られて
自首したことで、"師"の佐久間象山も連座で伝馬町に入牢のはめとなった。
松陰は長州藩預かり、象山は松代藩預かりとされ、
それぞれ入獄、蟄居とされた。
松陰は翌年に獄を解かれて"松下村塾"を開いた。が、
西暦およそ1858年に勅許を得ずして幕府が
日米修好通商条約を結んだことに激怒して、
老中間部詮勝の暗殺を画策した。
この不穏な動きに不安を抱いた"塾生"が藩上層部にチクり、
松陰は再び獄に繋がれた。翌年、
別件で江戸に送致され、吟味の際、うっかり
幕府を挑発することになる老中暗殺計画を自白して、
死罪(3段階ある斬首刑のうちの真ん中)となった。つまり、
殉教者というアピールをしたのである。そうなると、
長州の"門弟"らは"仇成敗"をせざるを得なくなる。ちなみに、
この量刑だと遺体は引き取れないのだが、
桂小五郎(木戸孝允)と伊藤俊輔(博文)が飯田正伯と尾寺新之丞が
首と胴体に分かれた遺骸を牢役人に手を回して譲り受け、
いったん回向院に埋めた。
幕府の温情に働きかけ、頃合いを見計らって
世田谷の長州藩抱え屋敷
(幕府から下された上中下屋敷とは別の自腹の屋敷)の敷地に
改葬した。それが現在の松陰神社である。
いっぽう、
松陰が死んで5年後、西暦およそ1864年、蟄居を解かれてた象山は
禁裏御守衛総督徳川慶喜に呼ばれて京都に向かった。
慶喜に請われて朝廷に開国・公武合体を説いた。が、
それでなくても高慢不遜な象山は敵も多く、
憎まれキャラだったので、"天誅"の格好の餌食となった。
また、象山自身も虚勢を張って警護もつけず、悠然と馬で移動する、
といった、尊皇攘夷派への挑発をしてたのである。
現行西暦換算1864年8月12日昼、
公家に開港の説明に赴いた帰り、
京の町中(木屋町)で象山は待ち伏せしてた一味に殺害された。
寺町通りを上ってた象山が三条通りにさしかかると、
抜刀した2人組が立ちはだかった。象山は馬を走らせようとしたところ、
馬の脚を斬りつけられてしまった。それでも必死に
馬を駆ろうとしたが、前方にまた別の刺客が2人待ちかまえてたのである。
脚を斬られた馬が倒れると同時に象山は落馬し、
あっけなく斬られた。そして、
カエサルよりも多く斬り刻まれた。
こういう事件では被害者が死んでるので、
殺害者の証言しか当然残ってない。殺害者は
自分らに不都合な真実は話さないものである。おそらくは、
陰にもっと多くの"長州藩士""松下村塾生"が隠れてたことだろう。
ひょっとしたら、その全員が松陰の胴に一太刀ずつ入れてったかもしれない。
表向きは象山に暗殺に注意されよと親切顔で忠告してた
桂小五郎が影の首謀者だったともいわれてる。
象山の首は斬られ、三条河原に晒し者にされた。それにしても、
多勢に無勢とはいえ、敵に刀傷ひとつも負わせずに
むざむざと討ち果たされた象山は、
ただただ短気で傲慢なだけの、口ほどにもない、
剣術指南の倅としても情けない男だった。
松陰先生に海外に目を開かせておきながら
先生だけが非武士として無惨に斬首されたいっぽうで、
また朝廷をその舌で操ろうとしてることは
尊皇攘夷で凝り固まってる長州藩士には
武士として耐え難い屈辱だったのである。
すでに、尊皇攘夷思想などまったく意味がないばかりか
むしろ厄介となってた明治4年末(まだ旧暦)、
象山暗殺のヒットマンにして一番の手柄をたてたとされてる
河上彦斎(かわかみ・げんさい)は、明治新政府によって別件で
斬首された。口封じ……木戸孝允の意向だといわれてる。
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