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一霊四魂とは その1

古神道入門 ーー神ながらの伝統ーー 小林美元(著)より抜粋掲載

第4章神道霊学の理論
●「一霊四魂」とは

縄文期の超太古の昔から、我が国に一つの信仰形態として伝えられた言葉や作法、つまり行法というものがありますが、それはもちろん体系づけられたものではありません。そもそも古神道には、教祖も教義もなかったということは、前にも述べたとおりです。古代においては神道などという名目もありませんでした。神ながらなる大道として、おのづからなる命(みこと)が、極めておおらかに立っていたのであります。

しかし、古神道に理論的根拠のようなものがないということではなく、たとえば、言霊や一霊四魂という考えがあるように、古神道特有の宇宙観ないし生命観があるわけです。とくに江戸時代になると、神道を見直す気運がさかんになり、平田篤胤や本居宣長など多くの国学者が輩出してきます。そして幕末の頃から明治維新にかけて、神道霊学という言葉をさかんに唱えその再興のために活躍されたのが本田親徳(ちかあつ)翁というお方です。

本田親徳翁は、鹿児島県の加世田の地頭職のご子息として生まれ、若い頃から水戸に遊学して会沢正志斎に師事され、それから神伝霊学に志されて、四十余年間研鑽を積まれた後、静岡や東京など各地で神道霊学の講義を開設され、縄文の時代から伝わっている鎮魂法とか帰神法を伝えられたのです。

明治初年、東京や静岡県で講義をなさったときには、江戸の三舟のひとりと称された鉄舟こと山岡鉄太郎、後に外務大臣となった副島種臣、羽衣伝説で有名な三保の松原にある御穂神杜の宮司をしていた長沢雄楯(かつたて)翁なども、一緒に学んでいます。副島種臣は明治天皇の侍講を勤められたお方だし、長沢宮司は後に入門された出口王仁三郎に鎮魂法や帰神法を伝えておられる。とにかく本田親徳翁は、明治維新の前後に活躍した優れた人材に神道霊学を広め、それがまた次々と受け伝えられていったわけです。

出口王仁三郎は、大本開祖の出ロナオに認められて養子となり、やがて「大本の聖師」と言われるような人物ですが、その王仁三郎に四天王といわれるお弟子さんがいます。生長の家を興された谷口雅春、三五(あなない)教の中野与之助、熱海に本拠を構える岡田茂吉、神道天行居の友清歓真(よしざね)。この四天王といわれる方たちの力をえて、大本が天下に名を馳せたわけですが、鎮魂法や帰神法はこの方たちにも伝えられて、富士山の裾野のように全国的に拡がったわけです。

本田親徳翁はこういう経緯のある大人物ですが、翁の神道霊学が唱えることは、とにかく人間のみならず宇宙間のいっさいのものが霊的存在であるということです。自覚して知性でもって知る霊的対象物としての宇宙の認識、また、地球の自然万物生命に相対する人間としての生き方、そうしたことをすべて含めた学問を神道霊学と名付けて世に広められたわけです。

次回に続く



古神道入門―神ながらの伝統
小林 美元
評言社

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