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四魂論から見た死

●四魂論から見た死

一霊四魂から死を見るとどういうことになるだろうか?
人が死ぬと、直日霊(なおひのみたま)と奇魂・幸魂が抜け、和魂と荒魂が遺される。荒魂とは肉体をつかさどるもので、土葬なら肉体の腐敗によって、火葬なら焼却によって崩壊する。ちなみに死体と荒魂の崩壊によって発生する「負」の異常エネルギーが「死のケガレ」である。

また、和魂も崩壊の過程をたどるが、しばらく時間がかかる場合がある。和魂の一部は、この世にとどまって現界と幽界の間の交信の拠り所となる。だから、普通の場合の祖先祭は「和魂」を祭っているのであり、お位牌に憑く霊も、この和魂なのである。

大国主命は、死後に「己れ命の和魂を八咫鏡(やたのかかがみ)に取り託けて倭大物主櫛嚢玉命(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)の名を称へて、大御和(おおみわ)の神奈備に坐せ」と命じたと『出雲国造神賀詞(かむよごと)』にあるように、死霊の祭り方として和魂を祭ることが記されている。

また山蔭神道の古文の葬祭祝詞には、「骸は荒金の元津大地(もとつおおつち)に還しまつり、和魂は永く此の世に留まり給ひ、奇魂・幸魂は、幽世(かくりょ)の高き坐(みくら)に参上しまつらんと・・・」という言い方がある。

交通事故などによる不慮の死の場合では、その場所に死者の荒魂・和魂の一部がとどまって、死者の執着や怨みの念を宿しており、霊媒体質の人が近づくと活性化することがある。心霊研究者はこれを「地縛霊」と呼ぶが、これは、ほとんどの場合、霊魂の本体ではなく、あえて言えば「残気」と言えるものなのだが、強く動くと幽霊の出現という現象を表わす。それはしかるべき手続きによって、祓い浄めればよい。

通常の場合、直日霊と奇魂・幸魂は、幽世に赴くのであるが、一気に高い神界に行けるわけではない。絶対清明にして汚れることなき直日霊は、性質としては瞬時のうちに神界に帰天できるのだが、それに付着している奇魂・幸魂は濁っているので、いわば途中までの浮力しかない。

奇魂は思索力や統制力の作用であるから、知恵ないし理性そのものである。したがって知識・思考の浄化がなければ軽快な清明さを獲得できない。また幸魂は感情や愛情の作用であるから、経験による情緒の浄化なくしては、やはり清明さを獲得できない。それが直日霊を引き下ろす重りになる。したがって中間の世界で自己浄化の修行を積み、理性と感情の浄化ができて、初めて高い霊界に上昇できるのである。

死亡の直後は、霊魂はまだ現世の近くにおり、家の中で家族の様子を見ていたり、外出して知人の家を訪ねたり、神社仏閣に詣でたりしている。まだ、はっきりとした死の自覚はない場合も多い。まだ和魂の一部を保持していて、半物質的な体を持ち、音を立てることができる場合もあり、霊感の多少ある人には見えることもある。普通の場合、ある程度の期間(いわゆる「四十九日」)をこのような境涯(仏教ではこれを「中有」と呼ぶ)で過ごすと、死を自覚し、「幽界」に本格的に移行する。こうなるど、よほど高い能力を持っている者でないとその姿を見ることはできなくなる。

■『神道の神秘 古神道の思想と行法』 山蔭基央(やまかげもとひさ)著
「第6章 古神道の他界観」より抜粋掲載

続く

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