冥土院日本(MADE IN NIPPON)

神様の気持ち


■今日の富士(モノクロ撮影)

昨日、今日と関東地方は天気に恵まれて雪を被った富士山が美しかったこと・・・。思わず手を合わせてしまいました。別に何を祈る訳でもなく、習慣で神々しいものを見たときには無心で手を合わせてしまいます。

これから年末年始を迎え、神社仏閣を訪れる機会が増えますが、貴方はどのような祈りを神仏にしますか。現世の人々から祈られる側の神仏の気持ちとはどの様なものかと想像していたら、「小桜姫物語」に神として祭られている姫がその心情を語る一説を思い出しました。

小桜姫物語とは日本心霊学の父と呼ばれる浅野和三郎の遺稿となった著書です。解説は過去ログをご覧ください。

日本の霊界通信「小桜姫物語その1」
日本の霊界通信「小桜姫物語その2」

小桜姫とは浅野和三郎の細君の守護霊で鎌倉時代に実在した人物です。現在も三浦半島の油壷にある小さな神社のご祭神として祀られています。審神者(さにわ)としての類まれな能力を持つ浅野和三郎は、小桜姫から伺った霊界の話を著書にまとめました。以下の文章は、小桜姫が姫を慕う人々から神として祀られ、見習い神様となって人と上位の神様の橋渡しを甲斐甲斐しく行った話の一節です。


「霊界通信 小桜姫物語」より現代語訳を転載します。

■七十三、 「参拝者の種類」

 神社の参拝者と申しましても、その種類はなかなか沢山でございます。近年は敬神の念が薄らぎました故か、めっきり参拝者の数が減り、又熱心さも薄らいだように感じられますが、昔は大そう真剣な方が多かったものでございます。時勢の変化はこちらから観て居ると実によく判ります。神霊の有るか、無いかもあやふやな人達から、単に形式的に頭を低げてもらいましても、ドーにも致方がございませぬ。神詣でには矢張り真心一つが資本でございます。たとえ神社へは参詣せずとも、熱心に心で念じてくだされば、ちゃんとこちらへ通ずるのでございますから……。

 参拝者の中で一ばんに数も多く、又一ばんに美しいのは、矢張り何の註文もなしに、御礼に来らるる方々でございましょう。『毎日安泰に暮させていただきまして誠に難有うございます。何卒明日も無事息災に過せますよう……。』昔はこんなあっさりしたのが大そう多かったものでございます。殊に私が神に祀られました当座は、海嘯(つなみ)で助けられた御礼詣りの人々で賑いました。無論あの海嘯で相当沢山の人命が亡びたのでございますが、心掛の良い遺族は決して恨みがましいことを申さず、死ぬのも皆寿命であるとあきらめて、心から御礼を述べてくれるのでした。私として見れば、自分の力一つで助けた訳でもないのでございますから、そんな風に御礼を言われると却って気の毒でたまらず、一層身を入れてその人達を守護して上げたい気分になるのでした。

 こう言った御礼詣りについで多いのは病気平癒の祈願、就中(なかんずく)小供の病気平癒の祈願でございます。母性愛ばかりはこれは全く別で、あれほど純な、そしてあれほど力強いものはめったに他に見当りませぬ。それは実によく私の方に通じてまいります。――が、いかに依(たの)まれましても人間の寿命ばかりは何うにもなりませぬ。

 随分一心不乱になって神様に御縋り(おすがり)するのでございますが、死ぬものは矢張り死んで了います。そうした場合に平生心懸(こころがけ)のよいものは、『これも因縁だから致方(いたしかた)がございませぬ……。』と言って、立派にあきらめてくれますが、中には随分性質のよくないのがない訳でもございません。『あんな神様は駄目だ……幾ら依んだってちっとも利きはしない……。』そんな事を言って挨拶にも来ないのです。それが又よくこちらに通じますので……。矢張り人物の善悪は、うまく行った場合よりも拙く行った場合によく判るようでございます。

 次ぎに案外多いのは若い男女の祈願……つまり好いた同志が是非添わしてほしいと言ったような祈願でございます。そんなのは篤と産土神様に伺いまして、差支のないものにはできる丈話が纏まるように骨を折ってやりますが、ひょっとすると、妻子のある男と一緒になりたいとか、又人妻と添はしてくれとか、随分道ならぬ、無理な註文もございます。無論私としてはそんな祈願を受附けないばかりか、次第によれば神様に申上げて懲戒を下して戴きもします。もぐりの流行神なら知らぬこと、苟(いやしくも)正しい神としてそんな祈願に耳を傾けるものは絶対に無いと思えば宜しいかと存じます。

 その外には事業成功の祈願、災難除けの祈願等いろいろございます。これは何れの神社でも恐らく同様かと存じます。人間はどんなに偉くても随分と隙間だらけのものであり、又随分と気の弱いものでもあり、平生は大きなことを申して威張って居りましても、まさかの場合には手も足も出はしませぬ。無論神の援助にも限りはありますが、しかし神の援助があるのと無いのとでは、そこに大へんな相違ができます。もともと神霊界ありての人間界なのでございますから、今更人間が旋毛(つむじ)を曲げて神様を無視するにも及びますまい。神様の方ではいつもチャーンとお膳立をして待って居て下さるのでございます。

 それからもう一つ申上げて置きたいのは、あの願掛け……つまり念入りの祈願でございまして、これは大てい人の寝鎮まった真夜中のものと限って居ります。そうした場合には、むろん私の方でもよく注意してきいて上げ、夜中であるから良けないなどとは決して申しませぬ。現世でいうなら丁度急病人に呼び起されるお医者様と言ったところでございましょうか……。

 まだまだ細かく申したら際限もありませぬが、参拝者の種類はざっと以上のようなところでございましょう、これから二つ三つ私の手にかけた実例をお話して見ることに致しますが、その前にちょっと申上げて置きたいのは、それ等の祈願を聴く場合の私の気持でございます。ただぼんやりしていたのでは聴き漏しがありますので、私は朝になればいつも深い統一状態に入り、そしてそのまま御弊と一緒になって了うのでございます。その方が参拝者達の心がずっとよく判るからでございます。つまり私の二百年間のその日その日はいつも御弊と一体、夜分参拝者が途絶えた時分になって初めて自分に返って御弊から離れると言った塩梅なのでございます。

 ではこれからお約束の実例に移ります……。

■七十四、「命乞い」

 ここに私が神社に入ってから間もなく手にかけた事件がございますから、あまり珍らしくもありませぬが、それを一つお話しいたして見ましょう。それは水に溺れた五歳位の男の児の生命を助けたお話でございます。

 その小供は相当地位のある人……たしか旗本とか申す身分の人の悴(せがれ)でございまして、平生は江戸住いなのですが、お附きの女中と申すのが諸磯の漁師の娘なので、それに伴れられてこちらへ遊びに来ていたらしいのでございます。丁度夏のことでございましたから、小供は殆んど家の内部に居るようなことはなく、海岸へ出て砂いじりをしたり、小魚を捕えたりして遊びに夢中、一二度は女中と一緒に私の許へお詣りに来たこともありました。

 普通なら一々参拝者を気にとめることもないのですが、右の女中と申すのが珍らしく心掛のよい、信心の篤い娘でございましたから、自然私の方でも目を掛けることになったのでございます。現と幽とに分れて居りましても、人情にかわりはなく、先方で熱心ならこちらでもツイその真心にほだされるのでございます。

 すると或る日、この小供の身に飛んでもない災難が降って湧いたのでございます。御承知の方もありましょうが、三崎の西海岸には巌で囲まれた水溜があちこちに沢山ありまして、土地の漁師の小供達はよくそんなところで水泳ぎを致して居ります。真黒く日に焦けた躯を躍り狂わせて水くぐりをしているところはまるで河童のよう、よくあんなにもふざけられたものだと感心される位でございます。

 江戸から来ている小供はそれが羨しくて耐らなかったものでございましょう、自分では泳げもせぬのに、女中の不在の折に衣服を脱いで、深い水溜の一つに跳び込んだから耐りませぬ。忽ちブクブクと水底に沈んで了いました。しばらく過ぎてからその事が発見されて村中の大騒ぎとなりました。何にしろ附近に医師らしいものは居ない所なので、漁師達が寄ってたかって、水を吐かせたり、焚火で煖めたり、いろいろ手を尽しましたが、相当時刻が経っている為めに何うしても気息を吹き返さないのでした。

 いよいよ絶望と決まった時に、私の許へ夢中で駆けつけたのが、例のお附の女中でございました。その娘はまるで半狂乱、頭髪を振り乱して階段の下に伏しまろび、一生懸命泣き乍ら祈願するのでした。――

『小櫻姫様、どうぞ若様の生命を取りとめて下さいませ……。私の過失で大切の若様を死なせて了っては、ドーあってもこの世に生き永らえて居られませぬ。たとえ私の生命を縮めましても若様を生かしていただきます。小供の時分から信心して居る私でございます、今度ばかりは是非私の願いをお聴き入れ下さいませ……。』

 私の方でも心から気の毒に思いましたから、時を移さず一生懸命になって神様に命乞いの祈願をかけましたが、何分にも相当手遅れになって居りますので、神界から、一応は駄目であるとのお告でございました。しかし人間の至誠と申すものは、斯うした場合に大した働きをするものらしく、くしびな神の力が私から娘に、娘から小供へと一道の光となって注ぎかけ、とうとう死んだ筈の小供の生命がとりとめられたのでございました。全く人間はまごころ一つが肝要で、一心不乱になりますと、躯の内部から何やら一種の霊気と申すようなものが出て、普通ではとてもできない不思議な仕事をするらしいのでございます。

 とにかく死んだはずの小供が生き返ったのを見た時は私自身も心から嬉しゅうございました。まして当人はよほど有難かったらしく、早速さまざまのお供物を携えてお礼にまいったばかりでなく、その後も終生私の許へ参拝を欠かさないのでした。こんなのは善良な信者の標本と言っても宜しいのでございましょう。

(転載終了)

如何でしたか。
しかし忘己利他(もうこりた)一心での祈りは神をも動かし奇跡を起こすものなのですね。

小桜姫物語は絶版となっていましたが、現在現代語訳で出版されています。

小桜姫物語―霊界通信
浅野 和三郎
潮文社





■今日のミコトノリ
神様!
美味しい鰹節・・・もとい、この一年間主人家族共々無事息災に暮らせました。ありがとうございます。

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