幸いにも、宅建の試験の合格通知は確かに届いた。
めでたし。
年末は、お付き合いの飲み会の嵐。
明けたお正月には、社員旅行でハワイに行った。
社員と言っても、社長の友達の3人のおじさんと私。
せっかくのハワイだったが、一人で時間を持て余してしまった。
おじさん達はゴルフだ。
年末の肝臓胃腸の酷使でか
珍しく風邪をひいた挙句の旅行で、体調もあまりよくなかった。
ディナークルージングでは、船酔いで
せっかく食べた物を。
新しい年が来ても
北風が吹きぬける、同じ都会の通勤路。
たったひとつ違ったのは
公園のベンチのホームレスを
寒い冬のある朝から、二度と見かけなくなった。
そしてまた、春が来て
草花が、新しい芽を出した。
ある日、簿記の試験を受けようと思った。
立ち読みでめくる求人広告に
「簿記2級以上」の文字を見かける事が多かったから、という理由だけだ。
私は恩をあだにして、転職を考えていた。
苦手分野なので、仕事が終わってから学校に通う事にした。
転職を企てる事務員。
なのでこれは、自腹である。
何度も勉強したくないので、いきなり2級からのスタートだ。
夜のスクールの生徒は、年配の方が多かった。
教師は、鉄仮面のように表情の変わらないヤマダ先生。(仮名)
たまに、ジョークを試みるも、ことごとくすべる。
また、人を褒めると言う事をしない先生だった。
大人も、褒めて伸ばそう。
話は変るが
私には弟がいて、彼も実家を離れて東京で働いていた。
ある晩、スクールが終わった後
久しぶりに弟と待ち合わせして、彼の行きつけのスナックで飲んでいる時に
スナックのアルバイトの女の子が飼っている猫が
5匹の赤ちゃんを産んだ話を聞いた。
もらい手がなかったら、三味線になるというのだ。
結構いい値段で売れるとか。
汗をかいたグラスの中の氷が、ピキッと音を立てる。
胃袋に流れ落ちようとしていたウイスキーの水割りが
喉に引っ掛かった。
全部は救済できないが、その中の一匹をもらう事にした。
ミケ、シマ、ブチ、茶トラ、黒、どれがいい?と聞かれ、私は考えた。
その頃の私が着るものは、ほとんどが黒。
一方部屋は、ピンクの物であふれていた。
ピンクの部屋に、黒猫と長い黒髪の黒い服の女。
一枚の絵画を想像してみたら、絵の中の女が笑顔だった。
だから「黒」と答えた。
引き渡しの日までに
ペットショップで色んなものを買い集めた。
ごはん、首輪、トイレ、トイレの砂、爪とぎ、おもちゃ。
父譲りか、私は猫が大好きで
勤め帰りに、商店街にあるこのペットショップで、お気に入りの猫を見るため
日課のように足を運んでいたのだ。
当時人気だった、アメリカン・ショートヘア。
数匹いる中の一番かわいい子。
欲しくてたまらなかったが、何万もする。
それに、生き物を飼うと言う事は
大きな責任を背負うことにもなる。
マンションで飼うのも禁止だ。
あきらめていた所に、三味線にされそうな猫の話だったのだ。
さて、いよいよ引き渡しの日。
スナックの女の子は、羊羹の紙袋ではなく
ルイ・ヴィトンの小さなボストンバッグに子猫を入れて
待ちあわせの駅前にやってきた。
その場でちらりと、中を見せてくれる。
街灯の灯りの下
バッグの闇の中で、金色に輝くまん丸な目がおびえている。
にゃあと鳴くと、小さくて尖ったまっ白い歯が、煌と光を放つ。
駅から10分のマンションに、彼女を招き入れる。
ルイ・ヴィトンバッグのファスナーを開けると
くしゃくしゃの黒い毛玉のような子猫が飛び出してきた。
子猫は臆する様子もなく
さっそく、ペット禁止の部屋の中を探検し始める。
彼女に缶ビールを勧めると、
時間がないからいただいていくわ、と
先ほどまで子猫が入っていたバッグに、缶ビールをしまう。
子猫は、帰ろうとする彼女を、玄関まで追いかけたが
扉が閉まってしまうと、特に未練もない様子で、また部屋の探検に戻る。
ドアを出て行く彼女を見送る事に慣れっこだったのだろう。
一人と一匹になっても、
そこにいる初対面の私に、警戒心など全くないどころか
存在さえ意識していないように見える。
私は、家具の一部のように動かないで、子猫を眺めていた。
寝ないで考えた彼の名前を呼ぶまでに、しばらくの時が流れた。
そろそろ呼んでみようかな。
愛を告白するような勇気を振り絞り
「・・・・まいける・・」と喉を開く。
何故か恥ずかしくて鳥肌が立った。
それが自分に向かって発せられた音とは知らず
彼は、まだ部屋を歩き回っている。
マイケルがやってきた。
つづく
今日もご訪問くださり、ありがとうございます。
感謝をこめて つる姫