各地から、ソメイヨシノ満開、の便りが聞こえてきて、あせる。(笑)
散る前に、今日は近隣の川沿いに、こたろうくんとお花見に行こうと思います。
昔は、桜の開花状況を見て田植えの準備をしたとか、桜には神が宿るとされたりして、日本人にとって心のふるさとのような存在になっていますが、そもそも染井吉野は、大島桜と江戸彼岸の交配種なのだそう。
ソメイヨシノは、江戸時代に、染井村、今の東京豊島区駒込で誕生した品種だそうで、職人の手でどんどん増やされていったらしいです。
また、奈良時代から平安時代に、寺院の建設ラッシュで沢山の木が切られた中、桜の木が数多く残ったとも言われてます。
建築にはふさわしくないのかな?
今のようなお花見が広まったのは、徳川吉宗の時代だそうです。
ソメイヨシノの開花に心が騒ぐのは、長くて寒い冬が過ぎて暖かくなり、田や畑の仕事が始まるという、昔の人々のわくわく感みたいなものが、引き継がれているのかもしれないですね。
これほどまでに待ち焦がれて咲き、見事に散っていく桜は、人それぞれ色々な想いを重ね合わせるものでもあるでしょう。
散る桜残る桜も散る桜という良寛さまの辞世の句もありますが、来年もこの景色を見れるのだろうか、という思いで生きている方もおられます。
死生観云々いう私は、何故かそんな思いで春を迎えたことはありません。
桜は春に花を咲かせ、満開になるまではどんなに大雨や強風が吹いてもその花を散らせることはない。(小鳥にちぎられるのは別として)
花は自ら散って落ち、木は葉を茂らせて夏を迎え、沢山の陽を受け取り、秋になれば赤く染まった葉を、ふるい落とす。
すでに、次の蕾を用意して。
私たちが見ているのは、桜の木のほんの一部。
その下にしっかりと張られた根っこは、誰にも見えない。
桜の木は何のために、そこに立って命を繋いでいるんだろう。
少なくとも、私たちを楽しませるのが目的ではない。
私たちは、ありのままの自然に心を躍らせ、そして感傷に浸る。
にんげんだもん。
みつこ
個人に対しての話じゃなくて、この先永遠にこんなソメイヨシノの春が来る保証はないようですが。
さて散る前に一人で桜散歩もしたいんだけど、とりあえず今日はこたろうくんと行ってきます。
なんやかや、彼を連れていると落ち着かないんですよね。基本散歩に積極的な子ではないので。
コロナ禍三度目のお花見。また感染者が増えているようなところもありますが、いつまで続くのか、4度目のワクチンの話まで出て。
もう、いやだ~~~あ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫