昨日語り損ねた映画のお話です。
2016年
アメリカ
遠藤周作さん原作の江戸時代のキリシタン迫害を扱った映画です。
お恥ずかしい話ですが、私はキリシタン迫害については、「踏み絵」の事くらいしか知りませんでしたし、それ以上知ろうとも思った事はありませんでした。
幼い頃、近所にキリスト教のお宅があって、週末とかに子どもを集めて色々な行事をしてくださいました。
私はお菓子がもらえたり、みんなと遊べるのが嬉しくて通っていましたが、キリストのこともよくは理解できず、ただ単にキリスト教って楽しいものだ、と思っていました。
クリスマスなどは本当に楽しくて、ほっぺたを真っ赤にして賛美歌を歌ったものです。
そんな私が東京に出てきて、とあるアパートに住んだ時、住人にクリスチャンがおられました。
顔を合わせて挨拶しているうち、話をするようになり、牧師を目指しているというようなお話も聞き、教会にも誘われました。
その頃の私は、夢を持って一人で頑張る!と思っていた時期でした。
自分を信じて頑張るのみ、神様には興味がないとはっきりとお断りした時に、
「果たして、自分というものは、どこまで信じられるものだろうか・・・」と天を仰いでその方はおっしゃいました。
その時の私は、それを見て、内心「変な人」と思いました。
その後何年もたって、たまにその言葉を思い出すようになりました。
自分を信じる事がいかに難しい事かという事に気づいてしまった。
その方が今どこで何をなさっているか知りません。牧師さんになられて幸せに暮らしておられるとよいです。
私はあの頃のように、自分を信じて頑張る人になりたい。いまだからこそ、そういう自分になりたい、戻りたい。
話が私事になりましたが、この映画を観て、少し勉強してみました。
映画は史実に基づいたもののようではありますが、切支丹に対するあまりにも残酷な迫害を中心に描いたもの。
しかしながら、この映画では触れていませんが、背景には、植民地化や貿易などの利害関係の絡みもあったようですし、あのザビエルは西洋の帝国主義に日本を売り渡す役割を演じ、アルメイダという宣教師は何十人もの日本の娘を火薬と引き換えに売り渡し、娘たちは商売に使われ、果ては奴隷へと転売された、、というような事もあったような事も書かれていました。
どこがどこまで真実なのかは、よく研究していないので知りませんが、そんな事も全く知りませんでした。
ザビエルといえば、あのハゲたおじさんの肖像画しか思いつきません。(ごめんなさい)
そこまで迫害されながらも、なぜに人々はキリストを信じ、救いを求め、日本の国でこの宗教を守り根付かせたのか。
そこまで勉強する時間がなかったので、またゆっくりと紐解いてみたいと思いますが、他にも知りたいことが沢山あるのでいつのことになるやら、です。
仏教とキリスト教の違い、というようなものがあるとは思いますが、結局神も仏も自分のこころの中にある、という思いに戻ったわけで。
祈りは、結局自分の心との対話で、神も仏も答えてはくれないのではないかと。
それは、決して信仰を否定する事ではありません。
どんな理不尽な事にも意味があると捉えて生きていく方が、理不尽だ不公平だ、と怒りを抱くよりは楽だと思うけれど、辛い時には誰かに助けてほしい、と思ってしまう。
その時に、心の軸があるかないか、そこに神や仏に対する信仰があるかないか。それによって救われるかそうでないか、決まるのでは、とも思います。
この映画を観て、ただ切支丹迫害の残酷な歴史を知るだけでなく、どんな時代のどんな歴史にも、コインの裏表みたいなことがあったのだろうな、という事を感じました。もちろん、迫害は酷いし、容認できることではないですが、日本側には日本側で、守りたいものがあったという事なのでしょう。ただ、国を守るというより、自分たちの立場を守りたい、という気持ちが大きいのだろうとも思いますが。
今の日本国のトップは、奥様を守るのに必死のようですし。
★★★★
沢山の気付きをいただいた映画でした。
信じるものは救われる。
その対象があるという事は、それだけで大変幸せな事ではないでしょうか。
清流で遊びたいですね。
水の事故には気を付けて。
感謝をこめて
つる姫
(ブログ開設から2542日)