世はバブルの真っ只中。
私は、社宅扱いで割といい「マンション」に住んでいました。
いろいろありまして、お金はあるがこころは砂漠。
ある夜、同じように一人暮らしで東京で働いていた弟と、行きつけのスナックに行きました。
弟とは5才も年が離れていて、私は高校から家をでていたので、弟が小学生の頃から、ほとんど関わることがなかったのですが、大人になってからは一緒に飲みに行くほど仲良しでした。
そこで働いていた女の子が、飼っている猫が赤ちゃんを産んだ話をしていました。
貰い手を探しているのだが、貰い手がない子は、三味線の皮に売る、などと言っています。
きょえ~~っ。
避妊手術を受けさせる気はないのか、三味線の皮のためにか??
私は、堪え切れず、そのうちの一匹をもらうことにしてしまいました。
してしまった、というのは、マンションはペット禁止だったからですが、管理人はいないしばれないだろうと。
実際にみて子猫たちの品定めをすることなく、私は色柄でもらう子を決めました。
一匹だけいた、まっくろの子。
彼はマイケル。
きたときは、真っ黒い毛糸玉のようでした。
しっぽが2センチくらいしかない子でした。
マイケルとの暮らしは、砂漠のオアシスでした。
詳しくは、拙著の中の「バブルとマイケルとわたし」の章でお楽しみください。
(笑)
そんなマイケルとの暮らしがあって、私はアメリカに留学しました。
マイケルは、実家に預けました。
その後、帰国、仕事、結婚。マイケルは実家の猫におさまりました。
父が大の猫好きだったのです。
そして、最期は難病にかかり、マイケルを一番愛してくれた父の目の前で、天国に召されました。
一昨日、蛍と猫のイメージが湧いてきて、一枚の絵を描きました。
描いた後で眺めていたら、マイケルを思い出しました。
マイケルが天国に行ったのは5月でしたが、私が絵を描いた日は6月16日。
確かマイケルの月命日だったような気がして、絵の中の黒いシルエットの猫は、マイケルかな、と感じました。
この猫は、しろでもチャトラでもなんでもよかったのです。シルエットだから。
飛んでいるのは、蛍でも星でもよかったのです。
見た人が感じるものだし。
描いたものから、自分の意識になかったものを感じたのです。
マイケルには、こんな長いしっぽはなかったけど、これはたぶんマイケルくんだなと。
ロッキーとマイケルが、満開の桜の木のしたを走る絵を描いた翌日、こたろうと出会った私ですが、
世の中には、不思議な事があるもので、人の意識の底、心の奥底は、その詮さえ開ければ、どこにでも繋がれるのではないかとか、そんなような、いまは言葉にできないものを感じました。
奇しくも、マイケルもロッキーも13才で天国に行きました。
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ただ単純に、蛍を捕まえようとする猫を描こうと思ったのですが、絵に解説が必要なのか、という以前から考えていたことを、改めて思った一枚です。
マイケルは、最後は私の事も忘れていたと思います。
でも、私が生きている限り、出会った人も動物もすべて、心の中で生きているのだな、と感じました。
記憶から消えてしまっても、過去は確かにあったのと同じように。
無、は有の対極に有る言葉ではない、ということも。
私が死んだら、私は誰かの中で生きるのでしょうか。
生きるって、なに。
訳わからん?
いつもの事じゃろう(自爆)
さて、今朝も早朝散歩に行きましたが、途中で具合が悪くなりそうでした。
こたろうを連れているときに具合が悪くなると、とても緊張します。
たぶん天気が下り坂のせいだと思うことにします。
こたろうくんは、またもや二度寝。
具合が悪いといいつつ、不要不急ではありますが、用事があるので30分ほど歩いて駅の方に行ってこようかな。
マスクが暑くて具合悪くなるような気もするので、外を歩いているときは外してもいいかな。
暑くて死ぬか、コロナに感染するか、究極の選択とは大袈裟ですが、なんともややこしいご時世です。
皆様も、状況をみてマスクを装着しましょう。
そうそう、今朝はお散歩中、ご高齢の方が、何十人も超密になってワイワイがやがやされていました。
後から後からさらに人が集まってきてました。
通りすぎる私たち越しに、大声で挨拶をされてて、走って逃げたい程でした。
ほとんどの方がノーマスクでしたし。
いまだに神経質過ぎる自分が馬鹿らしく思えてしまってはいけませんが、ホトホト・・・でした。
でも、私は今の神経を変えるつもりは、ぼけない限りありません。
ちょっと長くなってしまいましたが
今日もつつがなく過ぎますように
感謝をこめて
つる姫