ぼくぽてちん忘備録

a chainless soul
ずーっと夏休み

遁走記㊹(桜井ヒモ人)

2023-11-08 06:19:00 | 日記
ヒモ人「ヒモなんだよ」
社員「社長は違いますよ。ゆっくりやっていきましょうよ」
先月、1週間休みをもらう前の社員との会話。
この人は、私の書記みたいな人


【1週間の日記】

7月1日 徳山駅に到着
この日は宿までタクシー
運転手はどうやら、明治維新の歴史が好きみたい。
運「おれはね、どっちかというと吉田松陰のような頭脳派よりも高杉晋作のような行動派が好きなんだよね」
ヒ「どっちもどっちじゃないですか?」
運「坂本龍馬なんてのは武士とは言えないよ」
ヒ「武器商人ですからね」
運「高杉みたいに豪傑に遊ぶような、京都でも豪遊するような人間がいいね」
ヒ「人の金でしょ?島津斉彬とかの」
運「あれ?歴史好きなの?因みに君は歴史上誰が好きなの?」
ヒ「同時期で言えば会澤正志斎、少し後なら金井延、その後は高橋是清です」
ここからは沈黙。。。


7月2日 回天記念館(大津島)
 どこ調べても史実は出てくるから割愛する

 衝撃的だったことを、前後してしまうが明々後日に予定している特攻と、回天、政府(帝軍)にも許可を得ていない回天に携わった人々、とを比較する。

 特攻は元々予科練等で飛行機訓練の習得者は一定数確保できていた。
 その『既存の機体』の、左翼に片道燃料、右翼に爆薬を搭載する。

 回天は違う。殊更に経済効率を考え、魚雷(潜水艦ではなくミサイルそのもの)に人間という「操縦資源」を搭載する。
 その為の新規開発事業。
 及び新規実践計画。

 何故なら圧倒的なサプライロスにより鉄資源が不足し、廃線路の鉄を剥がして付け回すような事態に突入していたから。
 軍人が一番余っていたのだろう。
 インパールの悲運や失政はもとより、その証明である。

 割愛したうえで印象的だったのは、生き残りの人たちの証言である。
 皆口を揃え、
   ”楽しかった
 という感想を持ち合わせている。
 大津島には当時のそのまま(史跡)が残っている。
 連休にも拘らず、訪れる人は10人程度
 徳山周辺の地元の人々に聞いても、
「あー行ったことないね」
 運転手も海水浴にしか行ったことないと言っていた
※大津島は南側に回天関連史跡、北側は海水浴場(美しい砂浜)からなる南北に細長い島
 史跡を経て、記念館に入っても誰もいない。
 入館後しばらくして後ろからおじさんが来て
 「あれ?入館料もらったっけ」

 証言映像を見た後、一通り記念館を拝観後、もう一度史跡を歩く。
 映像では、生き残りの人が史跡を訪れるシーンがある。
「そのままだねぇ。ここに屋根とクレーンがあって修理なんかやってたんだよね。」
 淡々と懐かしんでいる。別の方は、
「その後、高度成長期や色々あったけど、あの時が一番楽しかった」
 『地獄の階段』と名付けられた階段があり、訓練の時に使ったかなりしんどい階段だということは事前知識で知っていた。
 私が現物を観た素直な感想は、
”いやいやおれら(柔道部)の春合宿の階段の方が全然きついわ”
 別の証言にも
「ほとんど日中は座学をして、18時頃終わると、”1時間”くらい運動してました」
「ラグビーやったり走ったりしてました」
 そうなんだよね、回天に肉体の鍛錬など重要ではない。
 人類史上後にも先にもない、ミサイルに人を載せ、望遠のみで潜航するという愚かな開発と技術。
 戦争末期日本人はこの開発と操舵技術の両方を同時並行しながら、実装まで辿り着いた。
 開発者は恐らくとんでもない天才だろう。そのような工夫の労苦を記した記述がある。ヒトを部品とした効用の最大化のための開発。
 その完成に、他国を出し抜いたことに、その艦に搭乗できることに若者たちは歓喜し、近づく死期を自覚することなく、
『座学』
に真摯に取り組んで、その時を迎えたのだと思う。
 私はそれらを見聞きし、何度も歩き、曰く
”そのまま残されている施設”
 長いトンネル(これもその時のまま)を抜けた先にある、”それ”を前になんとも言えない、若い彼らの憧憬を見た気がした。

 それが後述するリアルタイムにマスコミに晒された特攻隊、特攻施設とも違う、
 回天の物語、そのまま静かに残る戦争史跡群

回天:昭和19年7月~昭和20年5月


7月3日 海軍司令部豪
 これもありふれた事実は割愛する
 私にとっては銘苅さんというタクシーの運転手さんとの物語だった。

 海軍が何故あのような豪で3000人逃げたのか。
 そのような壕の中、大田實海軍中将が何故あのような電報を打ったのか。
 米軍は昭和20年3月26日慶良間諸島(本島の南西沖)を占領し、南東沖で陽動を開始する。その間も九州各所から特攻機が突っ込む。
 そうして米軍は同年4月1日に読谷村に本格的な上陸を開始する。
 米軍は一気に日本軍人の無力化を図る。
 このさらに明々後日に行くことになる原爆平和資料館でわかることだが、負け確定の中での戦い。
 今回の旅で、一番絶望したのは、琉球王国の残酷な歴史である。
 この戦いで沖縄本島の方々の多くの命が失われた。
 特攻も、司令豪で命を落とした軍人は何れも、
内地、若しくは朝鮮人である。
 沖縄本島の人たちは、内地の政府の判断により残酷な目にあわされたのだ。

 1609年に遡る。
 沖縄は400年続く琉球王国だった。
 今帰仁から始まり、勝連が常勝する中、朱里との戦いに敗れ、朱里が琉球王国を統一した歴史を持つ、
対外輸出入が盛んな豊かな王国だった。
 その王国に薩摩藩が侵略戦争を仕掛け勝った。
 その目的は、奄美大島を薩摩藩とし、沖縄本島及び以西の八重島諸島の独立を許したふりして属国化すること。
 搾取による搾取であることは間違いない。
 経済史を学んでいると必ずぶつかる”人頭税”これを強いた琉球王国を馬鹿にする節があるがこれは薩摩藩が琉球の八重山諸島に強いた搾取である。
 さぞ屈辱であっただろう。
 令和のどこぞの島国に似ている。

 話しを戻す。
 その内地の都合に付き合わされた、挙句たくさんの惨劇を背負う沖縄の方々に送られた太田海軍中将の電報はそのようなことに思うところがあったのだろう。
 ここからが酷い。
 一方内地では、
沖縄県人総スパイ説
が浮上していた。
は?何言ってんだ?目の前に書いてある字面に絶望を覚えた。
 私は歌舞伎町にいる。
 この時の愚民日本人の様相は、残念ながら想像に容易い。
 令和日本人なんてこっちの方がマジョリティなのではないかと。
 どうせ後世ばかにされるなら一回くたばれよ日本人。
 お供してやるから。
 『大田實海軍中将』
 彼が司令官に就任したのは、昭和20年1月、
4月に米軍が上陸、
6月の電報に至り、自害するまで、心苦しかっただろう。

 そんな気持ちで駐車場で待つタクシーに戻る。
 銘苅さんはずっと笑顔、下らない世間話や身の上話をした。
 BGMが程よく古く心地よかった
”よく知ってるねぇ(沖縄イントネーション)”
 なんて言っていた時に、
『You are so beatiful(Joe Cocker)』が始まって
 ヒ「これカリートの道の主題歌だねぇ」
なんて言ったら喜んでいた。
 比較的昭和全般の経済史に強い私は67歳の銘苅さんの時代の経済の話は盛り上り史実の話に切り込む。
ヒ「沖縄、独立すればいいじゃん。あんな増税メガネに任せたらろくなことないよ」
そしたら急に振り返って
銘「沖縄はね。元々は琉球王国だったんねぇ」
優しい顔のまま真剣に言う
ヒ「知ってるよ。だから独立しちゃった方が良いよ。日本なんかやめなよ」
 そうしたら、否定も肯定もせず、優しく、丁寧に琉球王国、沖縄(県)、戦後沖縄の転機の話をしてくれた。
銘「桜井さんはおもしろいねぇおもしろいねぇ」
って言ってくれながらたくさんお話しした。
 ようやく理解できた。
 琉球民族は、アメリカでも中国でもない。日本が大嫌いなんだ。
 但しそれも、世代やネットの波及により薄れてきている。
 そんな様子を日本人みたいにわちゃわちゃ騒ぐこともなく黙ってみているのだろう。
 心中、情念はかなり強いものを感じた。
 本当に豊かな2日間だった
ヒ「また来てもいい?」
銘「あたりまえさぁ。うれしいねぇ」

大田實、海軍司令部豪:昭和20年1月~6月





7月5日 知覧特攻平和会館
 これも一般的な史実はよい。
 何故、ここまで現代の内外共に知られていて、文書が遺されているか。
 それは、出撃前に予定されていて、英雄とすることが統制することに便利だったからに他ならない。
 政策を以ってして喧伝したのだ。
 遺書を読む中で、その存在そのものの違和感により気が付いた。

『四宮徹:享年23』
 彼は、空軍の戦績及びその地位により特攻前より有名人だった。
 そうして、特攻任務が決定した日。
 なんとマスコミがインタビューしにきたらしい。
 「少佐!いよいよ出撃ですね!」
 こんなもんバカ甚だしいだろう。
 潔い回答をしたことが、男らしいらしい。

『藤井一:享年29』
 17~23歳が主要の特攻に於いて、彼がこの歳に選ばれたのは、何度も志願したが、陸軍所属であったため何度も選考から漏れた。
 彼には妻子(娘2人)があったが、なんと彼が勤めに集中するためと近所の川で3人で心中したそう。その事情を斟酌した空軍が、彼を情状により抜擢し、望み通り特攻を果たした。
その遺書にも違和感を覚えた。

『卓庚鉉 :享年24』
 彼は朝鮮人でありながら、京都薬科大の学生だった。
 特攻後期の指令により駆り出された学徒動員の一人。
 彼の史実をみると、日本人が朝鮮に対し、相当過酷な侵略をしてきたことに辿り着く。有名なアリランを歌うエピソードはそのほんの一部である。

『大西瀧治郎海軍中将:享年54』
 彼は、終戦まで特攻指令を出していた、乃至は肯定していた一人であることは間違いない
 昭和20年8月16日に割腹自決している。
 当然玉音放送を聞いたうえでのことだろう。
 遺書の言葉の節々にそのことが伺える。
 彼については遺書を読んだだけなので、特段言い切ることは出来ない。
 ただ遺書を読んだ素直な感想は、
 ”死ぬなんていう楽な免罪はこの世にはない”
ということ

 以上のように、冒頭2つの戦争史跡と違うのは、
”焦る日本政府とマスコミが日本国民統一のために喧伝しすぎたため、残ってしまった” 遺産である。
 藤井くんの妻子だってここまで”特攻を祭り上げ”なければ、と不謹慎なことを思ってしまう
 よって現代まで、より明確に差異を以って、色濃く、語り継がれる。

特別攻撃隊:昭和19年10月~昭和20年8月


7月6日 広島平和記念資料館(原爆史跡)
 資料館に疑義が残る。
 悲惨がそこら中に広がっている。
 私たちはこれらを見て、何を思うべきなのか。
 この旅の終わりにきて、えも言えぬ複雑な感情を抱き始めていた。
 館は、大きく二つに分かれている。
 語弊を恐れずに前半がメインなのだろう。
 そこは薄暗く、被災者の一人一人を、クローズアップする形で、その罹災状況、その人そのものの人生にまで介入させ説明が施されていた。
 私たちはこの旅に於いて、全ての史跡を、そこにある文を、映像を全て逃さず、しらみつぶしに時間をかけ、あたってきた。
 もう一度、この人たちの、この説明をどう受け取れればいいのか。
 これまでの3つの史跡との違いは、明らかな受動的な、
 (とはいえ、全てが個々には受動的ともいえるが、だからこそ)
被害者のこと、背景が書かれているし表現されている。
 無条件に悲惨なことである。
 であるからこそ、苦言を呈したい。
”被害者の方々、この人生や人格にまで抵触するのは良いが、そのパーソナルまですべて無条件に肯定させるこのやり方は正しいのか”
ということである。
 無条件に被害者であることの借用権利の博覧会にはなっていないか。
 私たちは、今回の旅路で様々な悲惨を見てきた。
 いずれの館にも必ず
 ・戦争の年表が書かれていて、
 ・国際協力の現在
で締めくくられている
 見落としていることはないか?

 そんな疑問を持ちながら、館の前半を終えて、
 後半もこの2点を予測していた
 渡り廊下を渡過し、後半の棟に入ったところの最初のパネルにはこう書かれていた
昭和17年、アメリカは原爆製造計画に莫大な経費を投じて着手、完成させました。(研究開始は昭和14年から)』
また、
昭和13年、ドイツは原子の核分裂を発見しました。(科学者オットーハーンによる)』
以上

広島原爆投下:昭和20年8月6日

 なにやってんの?日本
 はなから勝てねーじゃん
 ヒトラーとムッソリーニと連れションして喜んで
 相手にすらされてないじゃん
長崎原爆投下:昭和20年8月9日
日本敗戦:昭和20年8月15日
 もし、昭和19年、原子力爆弾を持っていたらどうしてた?日本人
  特攻隊だけじゃない
回天、
海龍、振洋、マルレ艇、伏龍、刺突爆雷、他にもあるんじゃないのか?
どうだよ原子力爆弾あったらどうつかってた?
 あれあれ?もし、昭和20年4月に原子力爆弾の開発に成功してたら?
 まさか?
 米軍艦隊に囲まれる、
 曰く『総スパイ沖縄』に、
 歴史ある琉球王国に。。。
 
 どうやって報道してた?日本人
 特攻礼賛して沖縄につっこましてたんだろ?

そして、今ホストくんの個人の人格や人生まで、なぜ否定できる?
出稼ぎちゃんを"可哀想"と何故言い切れる?

特攻?英霊?先人?
ふざけるなあの子らまだガキのままだろう
その子らをおれらが殺し続けてんだよ
今も尚





 日本の都合に付き合わされ、翻弄され続けている琉球王国の方々
 そんなもんじゃない
 ドメスティックに民族侵略に遭い、内地の代理戦争に晒され、今なお継続され続ける被侵略国、琉球王国とその方々、内地で原爆?それどころじゃなかっただろう。もうここ(琉球)で特攻実践もやめてくれ、だろう。
琉球王国薩摩侵略:1609年
琉球王国明治政府侵略:1879年
 私は、少し前沖縄旅行に行ったとき、中国軍が来たらやだなぁと素直に思った。
 好きな人と一緒だったから。
 今思う。
 内地で日本のために死ぬくらいなら、逆に琉球から差別されても良い。転籍しても良い。
 琉球王国で琉球の人たちと一緒に戦って死ぬわ。
【日記おしまい】



【もとい】
 私は、
 ・兎に角口が悪い
 ・理屈が過ぎる
 ・言葉に厳密すぎる
 ・会話に遊びがない
 ・すぐ怒って大声を出す
 ・罵倒する言葉に品がなさすぎる
 ・活舌が悪すぎる
 ふとした全ての言葉をこの人にはずっと伝えてきた
 寧ろこの人に全てを報告してきた
 その上に今日の会社があり、哲学があると自負している
 この人がいなければ成立しえなかっただろう

 私は、自慢しようにも理解してもらえない幾つかの功績がある。
 その自負だけが、活動の糧になっている。
 リースリービルもその一つ。
 収入を倍以上にして、他の歌舞伎町のビルよりも確信と共に単価を上げ、
 未収もなく、空室もない。
 最繁栄期を築けたと思っている。
 周りの大家も私を追従する形で、単価を上げてきた。
 他のビルの大家から滞納回収の相談まで私のところにきていた。
 私が牽引しているという奢りすらあった。
 但しこの栄華には冒頭の書記さんと呼ぶには失礼な、内勤の責任者の存在があった。

 そして、コロナが明けた今、歌舞伎町は更に栄華を加速させている。
 これにはやっぱり違和感を覚えるんだよね。

 私は、
 周りの大家が単価を上げる中、一切値上げをせずに、
 寧ろ、率先して、空室を作り続けている。
 今だって他のビルより単価を上げることは簡単だろう。
 ただ、喜べないんだよね。

 GDPが一定な中、歌舞伎町だけが好景気なのは、よその所得を奪っているからに他ならず、その町の所得構成は圧倒的にホストクラブでありそれにぶら下がる2次産業まで好景気になっている。
 ホストくんがかっこよくなったのか?サービスが向上したのか?
 供給サイドじゃない。
 需要サイドなんだよね。
 じゃあ女性の賃金だけが上昇しているのか?
 賃金じゃない。
 性風俗産業従事者が爆増しただけなのよ。

 そうなんだよね私たちは"ヒモ"なのです。

 歌舞伎町が酷いんじゃない。東京を中心とした女の子たちが日本中のおっさんたちから、彼らの所得を奪い、歌舞伎町に持って帰ってきているだけ。
 歌舞伎が酷いんじゃない。
 歌舞伎以外が醜いんだよ。
 そんなこともつゆ知らず、大家どもは調子に乗って家賃を吊り上げる。
 冒頭の書記さんに
ヒ「おれもう歌舞伎町のビル大家って言いたくないよ。恥ずかしすぎるわ。」
と、空室についての理由も話した時の会話の一端だった。
 この会話『桜井ヒモ人論』も残してくれるだろう。

17~23歳の特攻隊に取材した記者も日本の中年かもしれない。
てめーで買春しておいて、
一斉に叩く、ネットでえらそーに寸評する。
陰謀めいた明後日の仮説に明け暮れながら。
”内地に押し付けられた琉球民”のように。

日本は本当に若者に酷い。
老害では済まされない。

今だって彼ら彼女らは見捨てられ、前線に立たされ、酷いことを押し付けられながら、その中で謳歌している。
”大津島の彼ら”のように。

ホストは悪者、風俗嬢は被害者
幼稚な評価を押し付ける
支援団体のやつは、聞いてみろよ
「被害者?うざっ」っていわれるよ
彼ら彼女らはてめーらといるより謳歌してるよ
リースリービルは数日で55歳。
穏やかに終息を労る。

リースリービル誕生:昭和43年11月15日

リースリービル打ち止め判断:令和5年11月
蓋し、これが私の最高傑作だよ。



余談、文中『伏龍』の訓練場は野比海岸!なのね
そこはそう久里浜医療センターなんだよね
戦後78年、
週末は猿島、久里浜医療センターに行こう
久里浜医療センター:平成31年〜令和元年
大家さん:平成22年~令和4年
ヒモ:令和5年~現在
ヒモ人、あきヒモどっちでもいいよ






















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