石見の伝説と歴史の物語−198(厳島の戦い)
61.戦国の石見−4(続き−8)61.4. 尼子・毛利の対決(続き−4)61.4.9.厳島の戦い概要 新宮党事件のあった天文20年(155
厳島合戦関連 ③
厳島合戦の絵図で当ブログ主が確認したものは画像の8点であるが何れも江戸期に描かれたもの...
厳島合戦関連 ②
厳島合戦で陶晴賢が敗死した場所については定かでない。瀬川英男文学博士は高安ガ原の実地調査と房顕覚書、陰徳太平記等の諸書の説を広義に解釈して自刃の場所を高安ガ原と
厳島合戦関連 ①
昨日、厳島合戦で敗死した陶晴賢墓碑を紹介したが、厳島合戦で毛利元就勢が包ケ浦に上陸したとの説で毛利元就上陸之跡碑が包ケ浦自然公園入口に建立されている。碑裏面には
陶晴賢墓碑
昨日紹介した洞雲寺の絵葉書上に陶晴賢首塚がみられ、同首塚は洞雲寺の西側墓地にある。陶晴賢は弘治元年(1555)の厳島合戦で敗死し、毛利元就は桜尾城で首実検をして
厳島合戦関連石碑
厳島合戦図宮島でみられる厳島合戦に関する石碑を紹介しよう。上画像は包ケ浦自然公園入口に建立されている「毛利元就上陸之跡」碑で昭和16
陶晴賢公一族郎党戦死者碑
大聖院登山道の仁王門前から奥の院に向かい奥の院大師に久しぶりにお参りした。奥の院境内には明治44年(1911)6月13日に建立された「陶晴賢公一族郎党戦死者」碑
要害山の今伊勢神社
昨日紹介した宮尾城跡(要害山)に祀られている今伊勢神社で来歴については定かでないが、厳島図会によると「毛利家より米25石を附けられて、毎年湯立の神事を行はる。こ
宮尾城跡(要害山)
宮島桟橋広場前にある商店街の後方の山が厳島合戦の際の毛利方の拠点であった宮尾城跡(要害山)である。現在要害山と称されてい
包ケ浦毛利元就上陸之跡碑
孫達が宮島の包ケ浦自然公園でのキャンプに出掛け公園入口に建立されている毛利元就上陸之跡碑の画像を送ってくれた。この碑は広島陸軍兵器補給廠長岡
井尻又右衛門
広島市安佐北区深川(ふかわ)にある我が家から一番近い戦国時代の山城といえば、今は亀崎...
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