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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−198(厳島の戦い)

61.戦国の石見−4(続き−8)

61.4. 尼子・毛利の対決(続き−4)

61.4.9.厳島の戦い概要 

新宮党事件のあった天文20年(1551年)の9月、陶晴賢は大内義隆を山口に急襲し、長門の深川、大寧寺で大内義隆を自決させた。

さらに陶晴賢は、天文23年(1554年)の3月義隆の姉婿で津和野三本松城の吉見正頼を攻めた。

吉見正頼は三本松城に籠城し半年以上持ちこたえ講和が成立した。

この間毛利元就は、陶晴賢の出陣要請を拒み、逆に安芸の陶晴賢に属する諸城を落し、その勢力を拡大している。

天文23年5月12日、毛利元就は、隆元・元春・隆景とその三千騎を率いて郡山城を発し、銀山城、己斐城、草津城を投降させ、石道・五日市の大内兵を撃破し、さらに桜尾城、仁保島城を陥とし厳島を占領した。

元就は厳島の宮ノ尾城を普請し防御力を強化し、来る陶軍に備えた。

宮ノ尾城は厳島の戦いを前に戦時急造の雑な城と一般的には考えられていたが、「棚守房顕覚書」によると天文23年4月11日(1554年5月12日)で、毛利軍に占拠されたとの記載があり、それ以前に大内氏によって城郭が築かれていた事が推測される。

この状況を見た陶晴賢は毛利討伐を優先させるため、吉見正頼と和睦する。

同月上旬、家臣の宮川房長に兵三千を与えて先行させた。

途中で兵四千が合流し、9月14日には桜尾城を望む折敷畑山に合計七千の軍勢が布陣した。

これに対して毛利軍は、三千の兵を4つに分け、北・南・東(2つ)三方から囲むように奇襲攻撃し、陶方を壊滅させた。

 

毛利の勢力拡大を懸念した、陶晴賢は毛利討伐に動き出す。

その様子が陰徳太平記に記述されている。

憎き毛利元就を1ヶ月の間に打ち破って見せる。

もし元就が吉田郡山城に立て籠もったとしても、百日以内には、これを討ち滅ぼしてみせる。

と勇ましく、陶晴賢は、大内義長に語っている。

陰徳太平記 第25巻 「陶入道厳島渡海之評定之事」

陶尾張守晴賢入道全薑(ぜんきょう)は大内左京兆(左京大夫)義長の前に出て、元就去年以来芸州味方の城共、佐藤の銀山を始めとして数か所陥れ終に芸州一ヵ国を奪い取って候こそ無念に候へ。
然らば義長公は暫く御当地に扣(ひか)へさせ給い候へ。
入道、防長豊筑の勢いを催し芸州へ攻め上がり防州境の城共一々に攻め落とし其れより吉田(郡山城)へ攻め入り、悪(にく)き元就を一ヵ月が間に打ち取り候ひなんず(してしまうだろう)
去年宮川(房長)が罷り上がり候ひつる時も、この入道が出陣也。
手詰の勝負を決すべしとて、元就父子四人、折敷畑へ攻め来ると承る。
今度も某(それがし)攻め上がりたりと聞くならば、定めて廿日市の櫻尾辺りまで打出で、彼の地を本陣として、小潟、大竹辺りへ出張仕り候べし。
(かれ)が勢いに国人等相従ひ候共、五千には過ぎ候はじ。
入道大軍を以て撃ち候はんに、石を以て卵に投ずるより易く候ひなん。
若し、元就吉田に立て籠もり、地の利に拠りて戦い候はば、少々月数をも経申すべき乎。
何れの道に出で候共、百日の内外には、彼の一門悉く根葉を断って、安芸一ヵ国を切り返し候べしと申されければ、義長如何様にも謀の宜しきを執り申さるべし。

・・・以下略 ・・・

天文24年(1555年)9月21日、陶晴賢は、総勢2万余りの大軍で岩国を出陣し、玖珂郡に用意していた500艘の船団で出航した。

10月1日、毛利元就は陶晴賢を厳島におびき寄せ、これを急襲し、陶晴賢は自害せしめた。

この「厳島の戦い」は「河越城の戦い」「桶狭間の戦い」と並んで戦国時代の「日本三大奇襲戦」のひとつに数えられている。

この戦の勝利を機に毛利は防長の攻略に着手することになる。

 

61.4.10.毛利元就の計略

晴賢との決戦を決意した元就は、尼子新宮党を自滅させて晴久の積極的芸備進出を阻止し得た現在、益田藤兼を制して吉見の行動を自由にし、晴賢軍の後方撹乱に役立てようと考えた。

或いは近い将来やってくると思われる、大内・陶軍との戦中に山陰側から侵攻を受けないように考えたのかもしれない。

弘治元年(1555年)2月、吉川元春所属の別動隊二千人を安芸山県郡吉和方面から石見に侵入させ、敵対する勢力の抑圧を図った。

この計画の実施に当っては福屋・佐波らに対して事前の交渉が行われていたと思われる。

福屋・佐波らが、大内・尼子の旧勢力を離れて毛利という新勢力に結びついていったのはおそらくこの頃であったと思われる。

吉川元春所属の別動隊は行く先々で益田勢の抵抗を排して、2月11日、益田藤兼の管する三隅の高木要害を襲撃する。

この時、三隅隆信・永安兼徳らが益田軍の中堅となって戦っている。

かくてこの別動隊は益田を牽制するとともに佐波・福屋に声援を送り、小笠原の行動を抑圧しようとした。

この別動隊の行動こそ元就が石見征服への第一歩となっているのである。

<島根懸史より>
去月十一日、石州三隅内高木要害動之時、狩倉新右衛門尉頭討捕由、粉骨之次第所令感悦之状如件。
天文廿四年三月三日 
        花押(大内義長)
永安式部少輔殿

去月十一日、高木城固屋口防戦之時、太刀討殊頸一(狩倉新右衛門尉)被討捕之由隆信注進遂披露候、神妙由被成御書訖、彌可被抽忠儀旨依仰執達如件

天文廿四年三月三日  
        備中守(判)、右衛門太夫(判)、越後守(判)、石見守(判)
永安式部少輔殿

前述したように、この年の3月、佐波興連・小笠原長雄の両軍が邑智郡吾郷の竹にて戦い、4月、福屋隆兼と小笠原長雄の両軍が那賀郡都治にて戦っている。

これらの戦いの情況からみて、当時すでに佐波・福屋は毛利の元に連合して小笠原に対抗していたようである。

<川本町誌より>
去る三日、竹表に敵相働きし処、よく矢を射、殊に手を尽され候、神妙に候、仍って感悦状すること件の如し 
(天文二四・三・三〇、 佐波興連より尾原弥兵衛へ

去る十六日、都治表に至り動きの時、 坂根三郎兵衛僕従矢を被りし、三郎兵衛忠儀に候、弥々心がけ肝要の由、 申し与ふべく なり
(天文二四・四・二、長雄より三河守へ)

11月、吉川元春の別動隊は、福屋隆兼を支援する。これにより福屋隆兼は吉川の旧領那賀郡永安を元春に返還した。

このようにして毛利元就は、四囲の情勢を有利に整えたうえで、いよいよ直接陶晴賢の陣営に裏工作を始め、戦力の削減に乗り出したのである。

元就は巧みに間者を放ち、または敵方の間者を逆用して、主従を離間し、あるいは厚録を与えて有力な 敵将を懐柔内応させることにつとめた。

陶晴賢との決戦を前にした毛利元就は、陶晴賢側の重臣江良房栄を寝返らせようと画策するが、実現しなかった。

しかし、毛利元就はそのあとも「江良房栄に謀反の疑いあり」と言う噂を陶晴賢の周辺に流し続けた。

この工作は成功する。

自らも主君を裏切った過去の有る陶晴賢は、家臣を信じ切れずに、この噂を信じたのである。

ついに、陶晴賢は、江良房栄を殺害し、厳島の戦いを前に大切な戦力を自らの手で切り捨ててしまったのである。

当時、毛利の本営は佐東銀山城にあり、大内の部将弘中隆兼は岩国に屯営していた。 

元就は廿日市と岩国との間に於いて寡兵よく大敵を粉砕し得る要地として厳島に目をつけ、晴賢の大軍をこの島に誘致することに全力を傾けた。 

元就は四月以来厳島の北岸有の浦の地に宮ノ尾城を普請し防備を厳にして、6月には己斐豊後守・新里宮内少輔を城将とし、吉川・小早川らの将兵を籠めた。

7月、晴賢の部将白井賢胤はこれを攻めて敗れ、ついで三浦房清は仁保島を襲ったが城将香川光景に退けられた。

この頃、元就は盛んに晴賢軍の厳島占領は毛利を軍略的窮地に陥れるものだと宣伝させた。

 

61.4.11.陶晴賢の出陣

陶晴賢は、大内義長を山口に留め、内藤隆世を佐波郡右田が嶽に、嫡子長房を都濃郡富田若山城に、椙杜隆康を玖珂郡蓮華山に、杉隆泰を同郡鞍掛山に配した後、9月、防長豊筑の兵二万をもって山口を発向、岩国の永興寺に着陣する。

ここで、弘中・三浦らと軍議、弘中の「大軍をもって陸路直ちに安芸に入り、桜尾・草津の諸城を攻略、猛進して吉田に入るべし」という意見を退け、「毛利の水軍は不備にして海戦に習わず」として厳島渡航を決した。

<天文24年(1555年)9月21日>

陶晴賢は、周防・長門だけでなく豊前・筑前からも兵を招集したことで総勢2万余りの大軍となった。

毛利を相手に各国から兵を招集したのは、大内家内での威厳を示すためのものとも考えられた。

岩国を出陣した陶晴賢は、玖珂郡に用意していた500艘の船団で 厳島に向けて出航した。

陶軍の船団は、厳島の沖合で夜を越すと日が昇るのを待って上陸を開始。

先陣は家臣の大和興武と三浦房清がつとめ、本陣は宮ノ尾城を見渡せる塔の丘に本陣を置いた。

陶軍2万は、 宮島の大聖院や弥山などに広く分布することになり、海側も杉ノ浦から須屋浦まで船団で埋め尽くされ、毛利元就の予想通りに身動きが困難な状態となっていた。

上陸を完了した陶軍は、宮ノ尾城の攻撃を開始。

宮尾城は砦のような城であったため、守備を固めていても瞬く間に窮地に陥ることとなった。

 

61.4.12.毛利元就の 厳島上陸

<9月24日>

厳島への上陸と宮尾城攻撃の報せを受けた毛利元就は、直ぐに家臣を集めて行動に出た。

吉川元春、安芸国の国人衆らと佐東銀山城を出陣して、渡海するため水軍の基地・草津城に着陣した。

また、小早川隆景も毛利水軍として合流したことで、総勢4千の兵と130艘の船団で構成され、別動隊として因島村上水軍も毛利方に加勢した。

<9月26日>

毛利元就は、家臣・熊谷信直に60艘の船を与えると宮尾城の救援に向かわせた。

さらに村上水軍の援軍要請をしたが、直ぐに対応が出来ないため小早川の水軍だけで対応することとした。

<9月28日>

草津城を出陣した毛利元就は、全軍を地卸前に進めた。

翌日には因島村上水軍も到着し、9月30日に 厳島に向けて渡海を決行。

毛利元就、毛利隆元、吉川元春らの毛利本隊を第一軍、小早川隆景の率いる毛利水軍を第二軍、因島村上水軍を中心とする水軍を第三軍とした。

夕方になると海の天候が荒れ始め暴風雨となるが、毛利元就はそれを「吉」と捉え、日が沈むと夜の海へと出陣した。

毛利本隊は敵に気づかれないように船の篝火を最小限にして、 厳島の東へ回り込むと包ヶ浦に上陸した。

本隊の上陸が完了すると、家臣の児玉就方に全ての船を安芸に戻すように命じて、この戦いを背水の陣で挑むことを兵たちに示した。

上陸した本隊は、博奕尾を山越えした先にある陶本陣を目指して進軍を開始した。

第二軍・三軍は、 厳島の西を迂回すると厳島神社の大鳥居近くまで進んだ。

神社沖に辿り着いた第二軍の小早川隆景隊は、漆黒の闇に乗じて岸に近づくと、夜間警備の兵に「筑前から加勢に来たので上陸許可を願う。」と称して上陸に成功した。

第三軍の因島村上水軍は、神社の沖合で待機して開戦に備えた。

 

61.4.13.厳島の戦い

<10月1日> 

夜明けと同時に毛利軍による奇襲攻撃が開始された。

夜通しで足場の悪い博奕尾を越えてきた毛利本隊は、鬨の声を合図に陶軍本隊の背後へと駆け下りた。

これに呼応するように筑前からの援軍と称して上陸に成功した小早川隆景隊と宮尾城の籠城兵も陶本陣に向けて駆け上がった。

沖合で待機していた因島村上水軍は、港に停泊していた陶水軍の船を次々と焼き払い始めた。

一方、陶軍は昨夜の暴風雨で油断していたため、戦わずして総崩れ状態となった。

毛利の挟撃を受けた陶軍の兵は、我先に島を脱出しようと味方同士で船を奪い合ったため沈没や溺死する者が続出した。

それでも陶晴賢の重臣・弘中隆包、三浦房清、大和興武らが手勢を率いて防戦に努めるが、もはや総崩れとなった陶軍を立て直すことは困難であった。

総大将の陶晴賢は、島外への脱出を図ろうとするも吉川元春隊の追撃が迫ってきた。

それを阻止するために弘中隆包の軍勢が 厳島神社の南側に立ちはだかり、吉川元春隊と激しくぶつかり合うも一時的に優勢となったが、吉川隊に熊谷信直らの援軍が合流したことで、大聖院方面への退却を余儀なくされた。

この時、追撃を避けようとした弘中隆包らが周囲に火を放ったため、吉川元春は追撃を止めて懸命な消火活動にあたった。

陶晴賢らは、最初に上陸した大元浦に辿り着くが、脱出できそうな船は残っていなかった。

そこに小早川隆景の手勢が追いついてきたため、重臣・三浦房清が殿を務めて時間を稼いだ。

三浦房清らは手勢に手傷を負わせるまで追い込んだが、消火活動を終えて合流してきた吉川元春隊によって攻め込まれ討ち死にした。

陶晴賢と近習は、島の西方にある大江浦まで辿り着くが、そこにも脱出できる船は見つからなかった。

これ以上の逃亡を諦めた陶晴賢は、近習・伊香賀房明の介錯で自刃し、近習も次々と自害した。

重臣・大和興武は捕虜にされたが、1ヶ月後に毛利元就の命によって殺害された。

陶軍を壊滅させた毛利元就だったが、島内の敗戦兵を掃討するために山狩りを命じた。

一方、大聖院方面に退却していた弘中隆包の軍勢は、手勢3百を率いて龍ヶ馬場と呼ばれる岩場に立て籠もった。

その後、吉川元春隊に包囲され一斉攻撃を受けるも激しく抵抗したが、3日後には全滅した。

<10月5日>

陶晴賢の首級を確認した毛利元就は、全軍を厳島から引き揚げ桜尾城で凱旋した。

陶晴賢の首は、洞雲寺で丁重に葬られた。

この戦いによって陶軍の兵は5千人が討ち死、捕虜は3千余人に及んだ。

毛利元就は、厳島は島全体が信仰の対象で厳島神社の神域であることから、戦で亡くなった者を対岸の大野へ運び、 厳島で戦いのあった全ての場所を洗い流して清めた。

また、合戦翌日から7日間をかけて神楽を奉納し、万部読経を行って死者を弔った。

この戦いによって毛利元就は、戦国の世に名を知らしめることになった。

 

<続く>

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