占星術への道-誕生史、星見の作法

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<18> 4章 ギリシャ、ローマおよびヘレニズム文化期エジプトにおける占星術 (紀元前600-紀元200 年頃)/ギリシャ

2021-03-14 08:46:01 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

ギリシャ人

 紀元前6世紀、多数の有名な哲学者であり科学者でもある人たちが現れるとともに、ギリシャ「哲学」(知恵への愛)が興った。ターレス(紀元前625年-547年)とアナクシマンドロス(紀元前610年-547年)はともにミレトスの出身で、ピタゴラス(紀元前580年-500年)のように天文学と論理学を研究し始めた。有名な哲学者としては、ソクラテス(紀元前469年-399年)、プラトン(紀元前427年-347年)、アリストテレス(紀元前384年-322年)がいた。コス島のヒポクラテス(紀元前460年-380年)は医学の父であり、ユークリッド(およそ紀元前295年頃)は偉大な数学者でした。紀元前5世紀と4世紀はギリシャの黄金時代で、アテネがその中心であった。

 だが、紀元前350年頃には、ギリシャの諸都市は衰退してしまった。アレクサンドロス大王は、アレキサンドリアやアンティオキアのような都市にギリシャ文化を広げることに成功した。ギリシャ人の居留地と周辺地域とのネットワークによって共通の文化が発達したことで、ギリシャ的な外観や生活様式を持つヘレニズム文化が作られた。ヘレニズム文化の時代はアレグサンダー大王の死(前323年)から、紀元前2世紀にローマが台頭してきて、ギリシャの自治が終わりを迎えた頃までである。だが、ギリシャのスコラ哲学は途絶えることはなく、ギリシャ人たちがバビロニア文化を同化したのと同じように、ローマ帝国に受け継がれていった。

 

ギリシャ神話

 惑星がギリシャ神話のなかに組み込まれていった。マイアの息子ヘルメスは神々の使者であると同時に、商売、悪知恵および発明の神だった。その家は、軌道速度が最も速い惑星の水星とされた。ゼウスとタイタン・ディオーネーの娘であるアフロディテは美と愛の女神だった。彼女の住処は金星であった。ゼウスとヘラの息子、アレスは戦争の神であり、彼の住処は火星であった。ギリシャ人は5番目の惑星(木星、ジュピター)にゼウスにちなんだ名前をつけた。6番目の惑星の土星はクロノスと結びつけられ、年老いた神として象徴的に表されていた(この惑星は遠方にあるので、ゆっくりと動き、冷たく見えたから)。セレネは月の女神であった。アポロは太陽、詩、音楽および美の神であった。ギリシャ人は数多くの神々や女神の冒険に関する無数の物語と詩を持ち込んだ。物語は、時代や都市、さらに作者の想像によって、修正が加えられたり、生き生きとしたものとなった。

 

ギリシャの哲学者兼科学者

 紀元前6世紀くらいの昔に、地球は丸いと考えられていた。ピタゴラス(紀元前580年-500年)は、地球は丸く、しかも地球も惑星も静止している太陽のまわりを回転している、と言った。ピタゴラスはイタリア南部のクロトンで宗教、神秘学、哲学を扱う学派(学校?)を立ちあげた。この学派は次の世紀も生き残り、数学と天文学に関し革新的な考えを打ち出していた。その中に入っていたのがピタゴラスの定理であった。地球は球体とされた。それは宇宙の中心ではなく、他の天体同様、円軌道を動く天体と考えられていた。「天球のハーモニー」が存在していた。そのためのエネルギーはゼウスがもたらしてくれた。この神性はプラトンも認めていたし、ある意味ではアリストテレスも、またプトレマイオスを始めとする後世の科学者たちも認めていた。

 シチリア島の町アクラガスに生まれたエンペドクレス(紀元前493年-433年)は、シュメール人が考え出した地、水、火、風という「要素・エレメント」を改めて取り入れた。アナクサゴラスAnaxagorus(紀元前500年-428年)は、エンペドクレスとは対照的に、エレメントは火、地、風、水ではなく、小さな粒子の集合体とし、太陽の大きさはペロポンネソス(南ギリシャ)より少し大きな火のような岩だ、と言った。この話がもとで彼は訴追され、アテネから放逐された。

 プラトンは、対話集ティマイオスで、宇宙についてティマイオスに論議させ、火・地・風・水の4つの基本的なエレメントというエンペドクレスの考えをくりかえし述べさせている。諸天体には生きている知的な魂が付与されていて、様々な円上をあるものは速く、またあるものはゆっくりと移動する。宇宙には4種類の生き物が住んでおり、これらは宇宙の中で認識されている4つの基本要素に対応している。つまり、火に相当する天界の神聖なある種のもの、空気に相当する翼のあるもの、水に相当する水の種、そして地に相当する砂漠の創造物である。

 初期のギリシャには、この考えとは違って、原子論派とも言うべき学派があった。この学派は紀元前5世紀にレウキッポスによって始めたもので、その後デモクリトス(紀元前460年)に引き継がれた。それは現代の原子論の先駆をなすものであるが、プラトン等は徹底的にこれを嫌った。話によると、プラトンは入手できたデモクリトスの著作をすべて焼き払おうとしたが、二人のピタゴラス派学者がとどめた、ということだ。

 アリストテレス(紀元前384年-322年)はアテネにあった学派から分れて、リュケイオンLyceumという新しい学派を打ち立てた。彼はエンペドクレスの4つの「エケメント」を受け入れ、天を作っているという5つ目のエレメント「エーテル」をこれに加えたが、原子論は否定した。リュケイオンの概念や考えの多くは、その後ヘレニズム文化の終末期にアレキサンドリアの博物館へもたらされた。そして、アリストテレスはプラトンが唱えた天体の神性説を補強した。

 プラトンの学園のメンバーであるクニドスのエウドクソス(紀元前400-347)は数理天文学を形あるものにした最初のギリシャの天文学者だった。彼は、ギリシャとバビロニアの天文学を統合した最初の天文学者のうちの1人だった。キケロはエウドクソスについて、「誕生日に基づくいて人の人生について予測したり、断言したりしているカルデア人の占星術師を信じるべきではない」と書いたのはエウドクソスだ、と言っている。

 サモスのアリスタルコス(紀元前310-230)は、一時、アレキサンドリアに住んでいたが、地球から月や太陽までの距離を計算し、太陽は地球より何倍も大きいという結果を得た。こうして、太陽が地球のまわりを回っているのではなく、地球と惑星が太陽を巡っていると考える方が合理的だとわかった。この異端的な学説に対して、ストア派のクレアンテスは「彼は不信仰罪で起訴されるべきだ」と言明した。

 ヒッパルコス(紀元前190-126)は星々を明るさで分類し、最初の大規模な星(850星)のカタログを作成し、太陽と月の大きさと距離を決定するための実用的方法を初めて考案した。さらに、彼は春分点が移動していくという歳差運動があることを明らかにした。ヒッパルコスは、また、太陽を含む諸天体がすべて地球のまわりを回転しているという天動説を構築し、プトレマイオスのために舞台を整えた。この間違いは長いこと糾されることはなかった。ヒッパルコスの著作は初期の論文「エウドクソスとアラートスの自然についての注釈」以外ほとんど何も残っておらず、ヒッパルコスについて私たちが知っていることのほとんどはプトレマイオスによるものである。

 

ギリシャの占星術師

 およそ紀元前5世紀からプトレマイオス(西暦紀元150年頃)の時代にかけて、占星術の内容はバビロニア人からギリシャ人に伝えられ、ホロスコープ占星術は拡張し、改良された。残念ながら、現在まで残っている記録は粘土板やパピルス、そしてプリニウスとかプルタルコスのような歴史家が書いたコメントなどの断片的なものだけである。

 前に述べたキディヌKiddinu、ベロッソスBerossus、スディネスSudinesなどのカルデア人に加え、ヘレニズム時代の占星術の革新者としてはクリトデムスCritodemus(紀元前250年頃)、ミンダスMyndusのアポロニウス(紀元前220年頃)やビザンティウムのエピゲネスEpigenes (紀元前220年頃)などがいる。「ペトシリスPetosiris/ネケプソNechepso」(紀元前150前頃)という名前は、おそらく架空の王/聖職者のことで、文書によく出てくる(星占い師は文献では陰の人物として現われることが多く、その時代は多くの場合あまり信頼できない)。よく現われるもう一つの名前はヘルメス・トリスメギストスで、時にはヘルメティカHermeticaと呼ばれることもあるが、おそらく実在しないギリシャ人であろう(その実際の意味は「3倍偉大な水星」)。その両方とも、哲学や宗教が、紀元1世紀から3世紀にかけて、あちこちに拡散した結果を示しているように思われる。

 ポシドニウスPoseidonius(紀元前135-51)はギリシャの哲学者であり科学者であり、散文家でもあって、正確に太陽の大きさを計算し、星占いの普及を図った。作家としての才能があり、ローマの指導者たちと親しかったため、古代ローマ時代とその後の占星術の伝播や普及に大きな働きをした。

福島憲人・有吉かおり

 



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