骨からの骨、肉からの肉

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創世記33章

2019-03-18 18:23:34 | 聖書
彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロへ・イスラエルと呼んだ




ヤコブは冷たいなぁ



兄エサウと和解し、なだめの贈り物を渡したら、
あとはもう、さよなら、ですか?



それは、まだエサウを疑っていて、急に襲われるかもしれないと思ったからですか?




いえいえ



ヤコブは悟っていたのでしょう




祖父の神、父の神、そして今は自分の神である神と、

兄が奉じる神々とは


決して相容れないものであることを。




赤いレンズ豆と引き換えに得た

長子の権利と神からの祝福が


どれほど2人に大きな隔たりをもたらせたかを。






最初この章を読んだ時は、


ヤコブの疑心暗鬼を責めたり、エサウの人の良さに同情したりしたのですが、


この2人の関係に信仰の違いを絡ませたら、



ヤコブのやるせない気持ちと、神と共に歩む覚悟を垣間見ることができるのです。




神に出会い、神に導かれたら、

兄とはもう別の道になる。




互いに行き来することのないように、

自分と自分の家族の信仰を守るためにとった決意のあらわれ。




私の家族は神からのもの。
持っている全てのものは神からのもの。



そう証言し、

そしてヨルダン川を渡ったのではないでしょうか。




そしてその後、


「イスラエル(私)の神である神」

と、高らかに賛美し、祭壇を築いたのではないでしょうか。















創世記32章

2019-03-14 12:18:37 | 聖書
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」・・・その場で彼を祝福した。




昔、嘘をついたらエンマ様から舌を引っこ抜かれると教わりました。


また、芥川龍之介の小説では、カンダタは1つの良い行いのゆえに、極楽から蜘蛛の糸を垂らしてもらったと語られました。


かつて、


人は、現世の行いによって死後の暮らしの良し悪しが決まるものだ、と

そう信じていました。



そしてクリスチャンになった今でも、

「自分のしてきた行い」について、やたらとふりまわされ、

不安になったり、傲慢になったりします。




けれど、私と神様との関係において、


-行いは1つの教材-

のように思うのです。



良い行いをいっぱいして

「神様、私って良いしもべですよね」
と言ってたしなめられたり


悪いとわかっていてもやめられない事に

自分の罪の深さと神様の赦しの大きさを教わったり



神様のために良かれと思って頑張ってしていたことが

実は自分の自己満足のためだったと気付いた時に
神と共に歩むことの大切さを諭されたり。




そんなこんなの行いで、神様はいろいろなことを私に教えてくださっているのです。






神様の祝福は、断じて行いの良し悪しではなく、

単に


それを神様に求めているかどうかで決まるのではないでしょうか?






ヤコブは、いつも神様に祝福を求めて、求めて、取りすがって願って


「『あなたはわたしを幸せにする』と言いましたよね」



と言って(私にはちょっと神様を脅しているようにも思えるのですが)念押しまでして


「私にはそんな資格はないのですがそれでも守って祝福してください」

と、手放しで望む姿に


彼の祝福の秘訣を見たように思うのです。






私はヤコブのように、こんなに夢中で神様に祈り求めているでしょうか?


神様は私のためにたくさんの祝福を用意してくださっているはず。




私はその全てを求めても良いのではないでしょうか。






創世記31章

2019-03-02 12:33:23 | 聖書
あなたが生まれた、あなたの父たちの国へ帰りなさい。・・・彼は自分のものをすべて持って逃げた。




「逃げた」って・・・。


ヤコブのなかでは「帰る」のではなく、「去る」のでもなく、


「逃げた」




「帰りなさい」と言われたのに「逃げた」ヤコブに対して、

神さまはあくまでも寛容でいられます。

なぜなら、ラバンの夢に現れて、ヤコブと事の善悪を論じないように釘を刺してくださいましたから。



つまり

言われた事さえ守るのなら、多少の「ズレ」は許してもらえるのでしょうか?






それにひきかえ、


ラバンの大切にしていたテラフィムは、多少の「ズレ」ではないようです。



彼自身、アブラムの神、ナホルの神、彼らの父祖の神を主と言っていたのに、

いつからか、テラフィムも彼の神の中に入ってしまっています。


調べると、そのテラフィムはゼカリヤ書にまで受け継がれ、偶像の神としてイスラエルの民を混乱させています。





この時点で、人間の側からすると大きな「ズレ」ではないのかもしれないけれど、神様側からしたら、それは全く別の道になってしまっているのでしょう。



多少ズレてもいい事と、絶対ズレてはいけない事。




日々の生活の中で、私には時々見極めがつかない事があります。


明らかに「オカシイ」とわかれば避けることはできるのだけれど、



御言葉に
ちょっと「足してみる」とか、
ちょっと「省いてみる」とか、

そういうことの怖さに、もっと敏感にならなければ


そのことにいつも聖霊様に見張っていてもらいたいです。





創世記30章

2018-09-11 15:47:28 | 聖書
私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。それは、私の行く先で主があなたを祝福されたからです。



私は神様に愛されているので、私のおこぼれがあなたのところにもいってるのですよ。ですから私にちょっとは感謝してくださいね。


とか




私は財力を増やす才能があるのであなたは豊かになったのですよ。ですから私に感謝してくださいね。



とか




私って幸運が付いているので私が行くところはどこでもうまく行くんですよ。ですから私に良くしておいた方が得ですよ。




とか



いつでも自分が主語にならないように。




祝福は神様からなのだということを、いつも心に覚えていることができますように。




ヤコブは策士で抜け目なくて、計算高いイメージがあるのだけれど、押さえておかなければいけないところをちゃんと押さえているんだなぁ




見習いたいです。




創世記29章

2018-07-23 15:43:14 | 聖書
彼女はまたみごもって、男の子を産み、「今度は主をほめたたえよう。」と言った。



レアの気持ちを思うと、胸がしめつけられる。

子供の数で勝っても、夫からの愛の奪い合いで負けては何になろう。

その思いが彼女の耳元でいつも囁き続けている。





ではラケルは?


夫に愛されていたラケルは幸せだった?



姉のために盛大な結婚式があげられ、
その後次々と息子を産んでいくのをそばで見ていて


心が穏やかなわけがない。





今夫に死なれては、自分の立場はどうなる?







自分の努力ではどうにもならないことに

幸せの基準をおいてしまうと、



人生は


不安と失望とイライラに支配されてしまう。




ただ1つ。





神様との関係1本に絞ることができたら。




主と共に歩む平凡な1日1日に価値を置くことができたら。






人生の終盤に差し掛かり、
ふと振り返った時に、





主がどれだけのことを私にしてくださったか


人生がどんなに主の祝福にあふれたものだったか





そのことだけが記憶の中で

キラキラときらめいているのではないだろうか。





そうありたいと思う。