創世記42章 2021-02-18 12:30:00 | 日記 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。・・・そして彼らの中からシメオンを捕らえて、彼らの目の前で彼を縛った。悔い改めている人を目の前にして、すぐに赦せる人はどれだけいるだろうか?「ごめん」と言われても、すぐに怒りがおさまらず「その一言だけで傷ついた心はすぐには癒えない」と、なじったり(夫婦喧嘩の事です・・・😉)「ごめん」と言われても、すぐに怒りがおさまらずくどくどと繰り言を続けたり(夫婦喧嘩の事です😅)その事一つ取っても、イエス様には到底頭が上がりません。
創世記41章 2021-02-17 11:28:00 | 日記 私ではありません。神がファラオを繁栄を知らせてくださるのです。クリスチャンは月のようだと教わったことがあります。月の表面はデコボコしていて褒められたものではないのに、太陽の光を反射すると、途端に美しく輝く。自分には良いものがなくても神の栄光を表すことで素晴らしい働きをすることができると。私は私を誇ろうとしていないだろうか?自分の得意とするところ自慢できるところを探していないだろうか?このままの自分を主がどのように用いてくださるのかそれをへりくだって待つものでありたい。
創世記40章 2021-02-13 12:49:00 | 日記 あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。「人は心に計画を持つ」と、箴言で語られている。こうしてこうしたら、こうなるはずこれをしたら、きっとこうなる・・・ところが理屈は通っているのに、思わぬアクシデントが起きると、せっかく立てた自分の計画がモロモロと崩れ落ちる。私にも若い頃、計画や目論みが随分とあったのですが、今残っているものはただ主の恵みだけ。けれどその主からの恵みが、歳を経るに従ってどんどんと大きく、又、価値のあるものに変わっていった。あれで良かったんだこうなるべきだったんだと、やっと最近になって気付かされている。主の御言葉は、ずっと先を見通すことのできるサーチライトではなくすぐそこの足元を照らす灯。今この時を、主と共に歩めることができるように、そのことに集中できますように。