骨からの骨、肉からの肉

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創世記38章

2019-09-11 11:33:58 | 聖書
あの女は私よりも正しい。




神さまの言われる「正しさ」がわからないことがよくある。



ユダの長男がどれ程悪い者で

主に殺されたのかわからない。


けれど、



少なくとも次男の罪が

神の目に、死に値するとは、

私の価値観では到底考えられない。





にもかかわらず、

タマルのした事は主の目にかなっていたようである。


遊女を装って、

妻の喪があけたばかりの舅を床に誘って
子供をもうけた・・・



そしてその子が

私の主
私の救い主キリストの先祖になる




タマルのした事が

神の祝福

私達の救いと希望へとつながっていく。




神様の正義がわからない。





けれど

自分の正義や価値観が絶対的に正しい訳ではない

ということだけでも

心に留めておきたい。









創世記37章

2019-07-26 13:07:19 | 聖書
さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。



自分のいたらなさのゆえに、どれだけ多くの人を傷つけてきただろう。


悪気があって言ったつもりはなくても、


さぞかしたくさんの相手を大きく傷つけたり

嫌な思いをさせていたに違いない。





人はそれぞれ、

自分を中心に物事を感じ、考えている。





その事に気付くのは、私は人よりもずっと遅かったと思う。



いや、

本当のところ、


もっと知るべき事があるのに、

まだわからない事が山ほどある。





主は愛をもって、忍耐しながら私を育ててくださっている。



今までを振り返ってみて、


もちろん、いい事ばかりではなかったけれど




だけど

無駄に辛かったことは何1つない。




1つ1つが、


私を成長させるために神が与えてくれた

「課題」だったのだと確信している。



そしてこれからも


たくさん学ばなければいけないのだろう。




イエス様の愛を感じながら、学んでいきたいと思う。












創世記36章

2019-07-06 10:50:33 | 聖書
これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。



エサウの子孫たちの名前が、1人1人丁寧に記されている。


イスラエルに敵対し

長年にわたって困らせた種族なのに

主は1人1人の名を覚えておられる。






私の祖先たちは、この当時どこに住んでいたのだろう。





とるに足らない種族の

とるに足らない家系の

とるに足らない末端の私が



本当に本当に




ただ

主の恵みによって



こうして




聖書が与えられ

福音を聞き

罪赦され

神の愛のうちに生きている。




主と私と、

個人的につながっている。





なんという恵み!

なんという奇跡!














創世記35章

2019-07-05 11:33:58 | 聖書
私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。





時々ふと思うことがあります。



もし、高校時代に戻ることができたら

小学校時代の自分に声をかけることができたら


子育てをもう一度最初からやり直すことができたら






でも過去は変えられない。


どんなにそれを願ったとしても。





けれど、神様との関係はいつでもすぐに、元の場所に戻れるのです。



たとえ私が、すっかり神様のことを忘れてしまっている生活を送っていたとしても。





何十年も前もの、救われた時の喜びと感謝と驚きは、今でも瞬時に鮮明によみがえります。





そしてその証しを人にする時には、

その時と同じ、いえ、それ以上の喜びと感謝と驚きに心満たされます。






高校時代に戻って、勉強熱心な真面目な生徒になる事も出来ないし

小学生の私に、神様はあなたを愛しておられるのだよとささやくことはできない


子育て中の私に、もっともっともっともっと子供のために祈りなさいと忠告する事も出来ない



けれど、



私たちの内なる人は、日々新たにされていることは間違えありません。

いつでも神に出会ったその日に立ち帰る事が出来るのです。


本当に感謝な事だと思います。







創世記34章

2019-03-26 15:52:23 | 聖書
シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥辱となることを行ったからである。このようなことは、してはならないことである。




ディナはヤコブに愛され、兄たちに愛され、その土地の族長の息子にも愛され、

それでも幸せだっただろうか。



そもそも、自分を凌辱した若者を愛せるだろうか?

凌辱された事実を知りながら、沈黙を通した父を信頼できるだろうか?

復讐だといって、その町の男を根こそぎ殺し、略奪した兄たちに感謝しただろうか?


誰一人、ディナの心に沿った愛し方をしてくれた人がいないではないか。




男たちにはそれぞれの理屈もあったし、多分、自分こそディナを大切に思っていると確信していたに違いない。



けれど、人間の愛は、自分を含めて、かようなほど不完全なものであり、自分勝手なものなのだと、情け無い思いだ。



夫を愛しているのに、些細なことでイラつくし、

子供達を愛しているのに、自分の価値観を押し付けようとする。

親を愛しているのに、その至らなさに腹を立てて、


愛おしくてたまらない犬でさえ、思わぬイタズラに、「所詮は・・・」と興ざめする。




金銭より愛が大事、

出世より家庭が大事と、

世の中では声高に叫ばれているけれど、


かくも不確かな人の愛だけでは、



黙って登場し、黙って消えたディナのような人が増えるばかりだ。



本当の愛は神からのものでしかないのだから。

人間の愛は、かくも不完全なものなのだから。