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創世記32章

2019-03-14 12:18:37 | 聖書
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」・・・その場で彼を祝福した。




昔、嘘をついたらエンマ様から舌を引っこ抜かれると教わりました。


また、芥川龍之介の小説では、カンダタは1つの良い行いのゆえに、極楽から蜘蛛の糸を垂らしてもらったと語られました。


かつて、


人は、現世の行いによって死後の暮らしの良し悪しが決まるものだ、と

そう信じていました。



そしてクリスチャンになった今でも、

「自分のしてきた行い」について、やたらとふりまわされ、

不安になったり、傲慢になったりします。




けれど、私と神様との関係において、


-行いは1つの教材-

のように思うのです。



良い行いをいっぱいして

「神様、私って良いしもべですよね」
と言ってたしなめられたり


悪いとわかっていてもやめられない事に

自分の罪の深さと神様の赦しの大きさを教わったり



神様のために良かれと思って頑張ってしていたことが

実は自分の自己満足のためだったと気付いた時に
神と共に歩むことの大切さを諭されたり。




そんなこんなの行いで、神様はいろいろなことを私に教えてくださっているのです。






神様の祝福は、断じて行いの良し悪しではなく、

単に


それを神様に求めているかどうかで決まるのではないでしょうか?






ヤコブは、いつも神様に祝福を求めて、求めて、取りすがって願って


「『あなたはわたしを幸せにする』と言いましたよね」



と言って(私にはちょっと神様を脅しているようにも思えるのですが)念押しまでして


「私にはそんな資格はないのですがそれでも守って祝福してください」

と、手放しで望む姿に


彼の祝福の秘訣を見たように思うのです。






私はヤコブのように、こんなに夢中で神様に祈り求めているでしょうか?


神様は私のためにたくさんの祝福を用意してくださっているはず。




私はその全てを求めても良いのではないでしょうか。






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