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北方領土の問題とロシアの目論見と日本の認識

北方領土、解決策は「2島返還」 鈴木宗男元衆院議員が講演
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2019012401001885.html

社説 北方領土交渉 動じず、押し込まれず
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2019012402000115.html

ロシアは北方領土を返還する様な素振りをして、インフラや産業や経済的な開発を日本に要求しますが返還する積もりはありません。
数年前より択捉島と国後島の島民から、かつて日本が提出した資金で整備した、インフラが古くなり不調が続き不満が出ていますが、当島は漁業が主な産業で経済的に苦しく、島自体の価値は殆どなく、今回もロシアは日本に北方領土の返還を仄めかして、インフラ整備の費用を負担させるのが目論見なのです。
そもそも、北方領土が「第二次大戦でロシア領になった」というロシアの主張は大間違いです。
領土問題の前進と、平和条約締結を目指した日本とロシアの交渉において、歴史認識の問題が改めて取り上げられています。
第二次世界大戦中の1941年4月、日本とソ連は「日ソ中立条約」を締結し、両国は互いに中立を保ちました。
第二次大戦における日ソは友好国でこそあれ、互いに交戦国ではありませんでした。
第二次大戦を通じて日本とソ連は戦火を交えてはいません。

当時の歴史的な流れを掻い摘んで見ると、
日ソ間には「日ソ中立条約」があり、独ソ戦が始まってからも、日独の同盟関係から日本がソ連と交戦するということはありませんでした。
だが、広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告しました。
この計画は遡ること、日本の敗戦が濃くなる情勢を知って、1945年2月頃と言われています。
1945年の8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し(連合国側への通告は14日)、陸海軍の無条件降伏を行った、つまり日本としては第二次大戦が終わったと認識した後で、ソ連は南樺太と千島の占領という軍事作戦を敢行しました。
(満州方面では8月9日より戦闘開始)これは日本側からみれば、第二次大戦の一部とは見なせない、一方的に侵略し占領する戦闘行為であったと言えます。
8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島へ侵略し占領の作戦も続いて決行しました。
ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島と色丹島に達し、さらに9月3日には歯舞群島にまで及び、9月5日までにことごとく占領しました。

1945年(昭和20年)日本がポツダム宣言を受諾した後、ソ連軍(第2極東軍)が進撃、千島列島から領土を開始し9月5日までに択捉、国後、歯舞群島を不当に侵略し占拠しました。
この史実から日本としては、日ソ中立条約が有効であるにも関わらず、一方的に破棄して行われた戦闘行為であり、それによって発生した対立という考え方を取っています。
一方のロシア側は、「第二次世界大戦で北方領土は合法的に自国領になった」と、主張し現在に至リます。
日本では、8月15日を「終戦記念日」としています。
国際法上の太平洋戦争の終結は、日本が降伏文書に調印した日、1945年9月2日ということになります。
8月15日と9月2日、このふたつの終戦日のずれが、現在に至る北方領土問題の複雑な原因を生み出します。

歯舞群島や色丹島に関しては、日本が降伏文書に調印した9月2日の後も、5日まで侵略し攻撃して占領したのです。
ソ連、現在のロシアにすると内心では、国後島と択捉島は戦争で勝ち取ったものだ。
しかし、歯舞群島と色丹島は戦争が終わった後で不法に占拠したもの。
国際法上は、日本に返さなくてはならないという思いを持っているのです。
1945年の9月2日に国際法上では戦争が終結しているのにも拘わらず、ソ連は歯舞と色丹に不法で強引にも侵略し占領したという負い目があります。
日本が正式に降伏するまでの空白の期間に乗じて狡猾にも、北方領土はソ連軍によって不法にも占領されてしまいました。
日本としては、国後、択捉、歯舞、色丹の4島に関しては、そもそも1855年の「日露通好条約」で、日本の領土(主権)だと決まっています。
日本政府は、この条約を根拠に「北方領土はこの時に日本固有の領となった」とする立場と、方針を取って来たことになっています。

1875年、日本はロシアと樺太千島交換条約を締結し、日本は樺太島の領有権を放棄するかわり、千島列島をロシアから譲り受けた。
この条約を根拠に、日本政府は現在に至るまで「歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は、千島列島に含まない」としている。
1951年、調印に先立つサンフランシスコ講和会議では、日本全権だった吉田茂首相が「歯舞、色丹が北海道の一部で、千島に属しない」と述べた。
しかし、択捉島、国後島については「昔から日本領土だった」と言及するに留まった。
1951年、国会の質疑応答で「千島列島にどこまで含まれるか」という問いに「歯舞、色丹は千島に含んでいない(すなわち国後、択捉は千島列島に含まれる)」と、答弁に立った政府の幹部が(何を勘違いをしたのか)不用意にも言ってしまった。

1960年、日本とソ連の関係を引き離す出来事として、日米の軍事同盟がより強化された日米安全保障条約の改定が締結されて、ソ連は態度を硬化させます。
返還後には択捉島か国後島に米軍基地を建設される懸念が浮上します。
2016年の択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島における日本とロシアによる、共同経済活動に関する協議で平和条約の締結に向けた交渉があって、日本は返還を条件にインフラ整備の費用を負担しました。
1986年7月2日付けの日ソ間の合意に基づいて実施されている、先祖の墓を訪問するための日本人の元住民の往来に関するテーマが触れられた。
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