のち
今日は雨が上がり、洗濯できたのはいいけれど、とにかく蒸し暑かったです。特に何もしていないのにヘトヘトになりました。
さて、昨日ちょっと報告した通り、最寄りのシネコンでX-MENシリーズ最新作にして20世紀FOX製作として最終作になると言われている『X-MEN: ダーク・フェニックス』を観て来ました。
以下、ネヤバレ全開の感想。かなりネガティブな内容なのでご注意ください。
少し前、舞台(主にミュージカルやいわゆる2.5次元)ファンの間で「虚無舞台」なる言葉が話題になりました。
正確な定義は自分にもよく解りませんが、「嫌い」とも少し違う。好きな役者さんも出ている。にも関わらず、観終えた後には「虚無」しか残らない。そんな作品を指すようです。
舞台作品、特に好きな役者さん主演だと点が甘くなるわたくしですが、最近観たものだと『ラブ・ネバー・ダイ』がそれに相当するかとも思います。
で、昨日もちょっと言及しましたが、『X-MEN: ダーク・フェニックス』(以下DP)は、自分にとってまさに「虚無映画」でした。
いや、やりたかったことは解るんです。2006年の映画『X-MEN: ファイナル ディシジョン』(以下FD)を仕切り直し、ジーン・グレイと彼女が変容したダーク・フェニックスの物語を、今度こそちゃんと作りたかったのですよね?あれは、製作日数や脚本変更に監督の交代、出演者のスケジュール、そしてキャラクター解釈等々問題続出で、完成した作品にもそれが如実に反映され、カンヌ映画祭のオープニングまで飾ったと言うのに、多くのファンや観客を失望させたものでした。
しかし——
このたびのDPも、結局その轍を踏んでしまったと言わざるを得ません。
思えばFDのあれこれについては、ブライアン・シンガー監督が2014年の『X-MEN: フューチャー&パスト』(以下F&P)で、これ以上ないくらい見事に供養してくれたではありませんか。今更FDと同じようなシーンを繰り返して何になるのでしょうか。
そしてDPのラストでは、F&Pで描かれた「未来」とはまったく異なる世界が現出していました。F&Pに於けるローガン=ウルヴァリンの尽力は「無かったこと」にされたのです。まったくF&Pのラストで流した滂沱の涙をどうしてくれるんでしょうか。今となっては、FDも言われるほどヒドい作品ではなかったのでは?とさえ思えます。
個々のキャラクターの、新シリーズになってからの描かれ方と比しても齟齬をきたした性格や言動、設定の矛盾についてはいちいち触れません。
ただ一つ、既に多くの人が指摘していますが、レイブンの扱いがあんまり過ぎました。ちょっと伏せ→それについてもFDを踏襲してしまった感がありますが、このたびは更にひどいことに、大した必然性もなくただもう「殺されるために殺された」としか思えません。新シリーズに於いて事実上ヒロインだった彼女の退場の仕方があれですか?悲しいと言うよりただ呆れ果てました。
FOX製作X-MENの掉尾を飾る作品がこれで本当に良かったのでしょうか?はっきり言って、『ダーク・フェニックス』は作られる必要のない映画でした。
周知のことだと思いますが、スピンオフ作品『LOGAN/ローガン』で退場したローガン=ウルヴァリンはDPには登場しません。しかし、鑑賞中「ああ、ここにローガンがいればなぁ…」と何度思ったことか。ええ、いろいろな意味に於て。その分スコットが頑張ってくれていたから良しとすべきなんでしょうか。DPの数少ない良い所が、スコット=サイクロプスがちゃんと活躍していたことでした。
様々な設定の矛盾や齟齬、前三部作やウルヴァリン主人公のスピンオフをも含めての各作の繋がりのゆるさ、有り体に言えば雑さは、映画X-MENシリーズに於いては今更目くじら立てるようなことではないかもしれません。ファンにとってはむしろそこを突つく楽しみもあり、正直全作品をパラレルと捉えてもおかしくないくらいです。
しかし、そこに一つの解を与えたのが、前述LOGANでした。もちろんあの作品自体パラレル世界の一つと考えてかまわないのですが、それだけでは済まされない、シリーズの他作品とは一線を画するものがありました。
端的に言えば、作中へのメタフィクショナルな視点の導入により、パラレルどころか、これまでのシリーズ作品はすべてローラが読んだ「お話」の中の出来事で、あの悲惨な未来へ到る道こそが正史であると捉えることを可能にしてしまったのです。それでも納得できてしまうほど、作品として完成度が高い映画でした。
というわけで、実はDPについては「世界に受け入れられヒーローとなったX-MENとそのことに満足するチャールズ」を見た時点で、ああこれもローラが読んでいた「お話」の一つね……ということで、自分の中では開始早々終了してしまいました。
まさかLOGANに心救われることになろうとは……いえ、実は薄々そんな予感はしていました。それでも、そこからの展開に胸躍るものがあれば良かったのですが、最初に述べた通り、後は「虚無」あるのみ——
マイノリティへの差別や偏見のメタファーとして「ミュータント」を描いてきたX-MEN前三部作。それが一段落し、中心人物であるプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアと、マグニートーことエリック・レーンシャーの若き日の出会いに戻ってリブートされた新シリーズ。その第1作だった『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』には大いに衝撃を受け、触発され、当ブログでも何回かに分けて感想を投稿するほど熱狂したものでした。
しかし、新シリーズの4作品を振り返って思うことは、ジェームズ・マカヴォイのチャールズとマイケル・ファスベンダーのエリックは、あくまでも「チャールスとエリック」であり、自分にとっては最後まで「プロフェッサーXとマグニートー」にはなり得ませんでした。
これは批判ではありません。チャールズとエリックの関係性そのものは大好きです。ただ、新旧それぞれの俳優さんの役に対するアプローチや演技が、それだけ違うものだったということです。
それでも——見事にスタイリッシュなヴィラン演技に徹したサー・イアン・マッケランのマグニートーが、今はただ懐かしいです。
『X-MEN: ダーク・フェニックス』公式サイト
今日は雨が上がり、洗濯できたのはいいけれど、とにかく蒸し暑かったです。特に何もしていないのにヘトヘトになりました。
さて、昨日ちょっと報告した通り、最寄りのシネコンでX-MENシリーズ最新作にして20世紀FOX製作として最終作になると言われている『X-MEN: ダーク・フェニックス』を観て来ました。
以下、ネヤバレ全開の感想。かなりネガティブな内容なのでご注意ください。
少し前、舞台(主にミュージカルやいわゆる2.5次元)ファンの間で「虚無舞台」なる言葉が話題になりました。
正確な定義は自分にもよく解りませんが、「嫌い」とも少し違う。好きな役者さんも出ている。にも関わらず、観終えた後には「虚無」しか残らない。そんな作品を指すようです。
舞台作品、特に好きな役者さん主演だと点が甘くなるわたくしですが、最近観たものだと『ラブ・ネバー・ダイ』がそれに相当するかとも思います。
で、昨日もちょっと言及しましたが、『X-MEN: ダーク・フェニックス』(以下DP)は、自分にとってまさに「虚無映画」でした。
いや、やりたかったことは解るんです。2006年の映画『X-MEN: ファイナル ディシジョン』(以下FD)を仕切り直し、ジーン・グレイと彼女が変容したダーク・フェニックスの物語を、今度こそちゃんと作りたかったのですよね?あれは、製作日数や脚本変更に監督の交代、出演者のスケジュール、そしてキャラクター解釈等々問題続出で、完成した作品にもそれが如実に反映され、カンヌ映画祭のオープニングまで飾ったと言うのに、多くのファンや観客を失望させたものでした。
しかし——
このたびのDPも、結局その轍を踏んでしまったと言わざるを得ません。
思えばFDのあれこれについては、ブライアン・シンガー監督が2014年の『X-MEN: フューチャー&パスト』(以下F&P)で、これ以上ないくらい見事に供養してくれたではありませんか。今更FDと同じようなシーンを繰り返して何になるのでしょうか。
そしてDPのラストでは、F&Pで描かれた「未来」とはまったく異なる世界が現出していました。F&Pに於けるローガン=ウルヴァリンの尽力は「無かったこと」にされたのです。まったくF&Pのラストで流した滂沱の涙をどうしてくれるんでしょうか。今となっては、FDも言われるほどヒドい作品ではなかったのでは?とさえ思えます。
個々のキャラクターの、新シリーズになってからの描かれ方と比しても齟齬をきたした性格や言動、設定の矛盾についてはいちいち触れません。
ただ一つ、既に多くの人が指摘していますが、レイブンの扱いがあんまり過ぎました。ちょっと伏せ→それについてもFDを踏襲してしまった感がありますが、このたびは更にひどいことに、大した必然性もなくただもう「殺されるために殺された」としか思えません。新シリーズに於いて事実上ヒロインだった彼女の退場の仕方があれですか?悲しいと言うよりただ呆れ果てました。
FOX製作X-MENの掉尾を飾る作品がこれで本当に良かったのでしょうか?はっきり言って、『ダーク・フェニックス』は作られる必要のない映画でした。
周知のことだと思いますが、スピンオフ作品『LOGAN/ローガン』で退場したローガン=ウルヴァリンはDPには登場しません。しかし、鑑賞中「ああ、ここにローガンがいればなぁ…」と何度思ったことか。ええ、いろいろな意味に於て。その分スコットが頑張ってくれていたから良しとすべきなんでしょうか。DPの数少ない良い所が、スコット=サイクロプスがちゃんと活躍していたことでした。
様々な設定の矛盾や齟齬、前三部作やウルヴァリン主人公のスピンオフをも含めての各作の繋がりのゆるさ、有り体に言えば雑さは、映画X-MENシリーズに於いては今更目くじら立てるようなことではないかもしれません。ファンにとってはむしろそこを突つく楽しみもあり、正直全作品をパラレルと捉えてもおかしくないくらいです。
しかし、そこに一つの解を与えたのが、前述LOGANでした。もちろんあの作品自体パラレル世界の一つと考えてかまわないのですが、それだけでは済まされない、シリーズの他作品とは一線を画するものがありました。
端的に言えば、作中へのメタフィクショナルな視点の導入により、パラレルどころか、これまでのシリーズ作品はすべてローラが読んだ「お話」の中の出来事で、あの悲惨な未来へ到る道こそが正史であると捉えることを可能にしてしまったのです。それでも納得できてしまうほど、作品として完成度が高い映画でした。
というわけで、実はDPについては「世界に受け入れられヒーローとなったX-MENとそのことに満足するチャールズ」を見た時点で、ああこれもローラが読んでいた「お話」の一つね……ということで、自分の中では開始早々終了してしまいました。
まさかLOGANに心救われることになろうとは……いえ、実は薄々そんな予感はしていました。それでも、そこからの展開に胸躍るものがあれば良かったのですが、最初に述べた通り、後は「虚無」あるのみ——
マイノリティへの差別や偏見のメタファーとして「ミュータント」を描いてきたX-MEN前三部作。それが一段落し、中心人物であるプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアと、マグニートーことエリック・レーンシャーの若き日の出会いに戻ってリブートされた新シリーズ。その第1作だった『X-MEN: ファースト・ジェネレーション』には大いに衝撃を受け、触発され、当ブログでも何回かに分けて感想を投稿するほど熱狂したものでした。
しかし、新シリーズの4作品を振り返って思うことは、ジェームズ・マカヴォイのチャールズとマイケル・ファスベンダーのエリックは、あくまでも「チャールスとエリック」であり、自分にとっては最後まで「プロフェッサーXとマグニートー」にはなり得ませんでした。
これは批判ではありません。チャールズとエリックの関係性そのものは大好きです。ただ、新旧それぞれの俳優さんの役に対するアプローチや演技が、それだけ違うものだったということです。
それでも——見事にスタイリッシュなヴィラン演技に徹したサー・イアン・マッケランのマグニートーが、今はただ懐かしいです。
『X-MEN: ダーク・フェニックス』公式サイト