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「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・番外編「橘樹神社」「中里遺跡」

2024-08-13 15:48:32 | 日記

前回の投稿から時間が掛かってしまった。幾つかの文獻にあたり、資料をさがして読んでいるうちに遅くなってしまった。また、良好とはいえない体調も、遅れの一因なのでご容赦願いたい。気長にお付き合いください。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・最終回「白鳥神社」 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

 

富士山と矢倉岳の頂上を結ぶ線を延長していくと、横須賀の走水があり、浦賀水道を超えて千葉県に入ると鹿野山の「白鳥神社」に至ることを前回に書いた。これは単なる偶然だろうか。そこには日本武尊の東征を象徴的に位置づける意図が隠されているように思える。特に弟橘比売命の悲劇は、昔から多くの人の心を掴んだだろう。なおさら、その様に位置付けられても不思議ではない。

だからこそ、我が地にも弟橘比売命を祀りたいという思いが立ち上ってくることもあり得る。本当は所縁もないが、祭神として日本武尊・弟橘比売命が祀られることもあろうかと思う。

橘樹神社(川崎市)

上の画像は川崎市高津区子母口に位置する橘樹神社(以下リンク先)。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・周辺資料7 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

実はここを訪れた際に気になってしまった記述を、碑文(下画像)の中にみつけた。

読みにくいので、以下に書き起こしてみた。

 

 橘樹神社修復記念碑
祭神 日本武尊
   弟橘媛

 日本武尊が御東征のみぎり 当地方から房
総半島方面(渡航せんとした際 海神の怒り
か海が大いに荒れたため 御妃の弟橘媛がそ
の怒りを鎮めようと 尊の身代りとして海中
に身を投じられた
 媛のこの崇高な行為により荒れ狂っていた
波浪も忽ち静かとなり 尊の御一行は無時に
渡海することができた 後日 媛の装身具の
一部がこの地に漂着し 村人は媛を憐れんでそ
れをこの地に埋めて祀った 
 尊は御東征の帰途 再び此の地に立寄り媛
を慰霊するため一社を建立したのか当社の創
建と伝えられている 

 当社は嘗て橘樹郡総社として崇敬され 江
戸名所図絵にも掲載された由緒ある神社であ
り 現在の社殿は当時の氏子の熱意により現
在から百三十七年前に改建されたものである
 しかし、歳月の経過と共に各所が老朽化し
放置できない状態となったため 遠い時代よ
り祖先が崇敬し維持してきた神社を修復し 
次の世代に引継ぐことは現在の者の責務であ
るとし 平成と改元された記念事業として多
数の有志の浄財によりこの■事を実施した

 平成二年十月吉日
          橘樹神社修復委員会

注:■は判読不可。アンダーラインは筆者。

 

東征に関わる記述として定型的な内容だと思う。だが、この橘樹神社の立地条件(現在の標高17m程)を考えると、果たしてこの近辺に装身具の一部が漂着するようなことがありえたのだろうか、という疑問が生じた。確かに近くには子母口貝塚があることから、縄文時代の海岸線はこの近辺だったと思われる。だが、東征の時代は縄文海進の頃程には波打ち際は近くなかった筈だ。

また、現在の東京湾の波打ち際は時代によって大きく異なることは言うまでもない。簡単な資料を見ている限りでは、その年代ごとの変遷を追うことが難しいのは、専門家でも定説が定まらないのかもしれない。ただ、素人の私がイメージするのは、江戸城築城の頃は湿地帯だったといわれることから、大昔はまだ縄文海進の影響が幾らか残っていた地形だったのではと思う。

その様にイメージすると、この橘樹神社の近くは湿地帯のような有様だったかもしれない。

様々な根拠の薄い想像が、この碑文を読みながら巡ったのだった。

ではいったい、この流れ着いた装身具とは(本当に漂着したならば)、何処に流れ着いたというのだろうか。

 

その疑問に直接的ではないが示唆を与えてくれたのが、二宮町の吾嬬社だった。以下のリンク先に〈由来に関しては不明確。ただ、グーグルマップのクチコミによれば、かつて吾妻神社(同じ二宮町吾妻山公園内神社)の宮司だった方が建てられたのではないか、と書かれている〉ということだ。

「富士山~矢倉岳ミステリー(仮題)」・・・神奈川神社庁リストに掲載されていない「吾嬬社(二宮町)」 - ムラカミの公開制作的ブログ (goo.ne.jp)

信仰は、場の必然を超えることがある。祠や社は彼方此方に建立されていくだろう。はじまりは個人的な小さな祈りの場であっても、それがやがて広がっていくこともある。私はそのようにして建てられたのが、この橘樹神社なのではないかと、素人発想だが考えもした。

だが、もう少し専門的な方の意見はどの様になっているのかを知りたくなった。

 

先ず、私の比較的近隣の遺跡の資料を探した。「令和4年度特別展 弥生の大集落 中里遺跡-くらしを変えた東西の出会い- 小田原市立郷土文化館」の図録を参照してみた。すると〈縄文時代の小田原は、中期(約5,500年前から4,400年前)には市内の広い範囲で遺跡が確認できます。見晴らしの良い丘陵上に集落を営み・・・ところが後期に入る約4,400年前から集落の数が減少し、晩期には住居跡がほとんど確認できなくなります。/この状況は小田原市内だけでなく、神奈川県内さらには関東・中部地方でも共通する現象で、気候の寒冷化が影響していると考えられています。〉という記述(p.10)がある。

続いて次の頁、小田原市国府津からやや二宮寄りに位置する「前川向原遺跡第一地点」の記述(P.11)には、〈相模湾に隣接する標高16mの砂丘上に位置します・・・土杭や柱穴が検出されましたが、遺物は出土せず、遺構外から縄文時代晩期から弥生時代前期の土器が出土しました〉とある。この標高16mは気になる点だった。冒頭に書いた橘樹神社の立地条件は標高17m程である。勿論、地盤は不変ではないが、だいたい弥生時代前期の波打ち際の後退を感覚的に捉えられそうな気がした。

因みに「前川向原遺跡」は、ネット上の資料にあった住所から推定すると、国道1号線の北側にある「小田原市立前羽小学校」「前川第二公園」「ダイヤモンドライフ湘南」の位置と思われる。

ここで一度、中里遺跡跡を訪ねてみた。

現在の中里遺跡は、「ダイナシティ ウエスト」という大きなショッピングモールになっている。その敷地の一角に、「中里遺跡ポケットパーク」が設けられていた。下画像のように東海道新幹線の線路脇に位置する。

小さな憩いの場となっており、時折腰を下ろしている方の姿を見かける。背景のコンクリート製の壁には、遺跡の説明がされている(画像では読み辛いので書きだす)

中里遺跡ポケットパーク
 中里遺跡は、1952年に大同毛織小田原工場建設の時に遺跡の一部が発見され、その後再開発事業のため1991年から3地点において本格的な発掘調査が行われれました。
 その結果、この地区には今から約2150年前頃(弥生時代中期前半)の東日本では最も古い本格的なコメ作りの集落があったことがわかりました。

 右図のように第I地点では多くの住居や倉庫、井戸などのある集落、第II地点では水田、第III地点では方形周溝墓と呼ばれる墓の跡が発見されています。

 こうした集落・水田・墓地がまとまって発掘されたことにより、弥生時代の集落の全体を知ることの出来る貴重な遺跡といえます。

 また出土した瀬戸内海地方の土器などから、遠く400キロも離れた瀬戸内地方の人々との交流によって、進んだ稲作技術を東日本で最も早い時期に取り入れた人々の集落遺跡であることが明らかになりました。

 中里遺跡はこのように学術的に大変貴重であり、小田原の歴史を知るための代表的な遺産でもあるところから、発掘された住居の一つを再現し、中里遺跡ポケットパークとして市民の皆さんに弥生文化に親しんでいただこうとするものです。

2000年9月
株式会社ダイドーリミテッド
小田原市教育委員会

 


中里遺跡のあらまし
 発掘調査の結果、第I地点で確認された集落は、当時の浅い川(自然流路)によって区画され、その範囲はおよそ30,000平方メートル以上にも及ぶ大規模なものと推定されます。

 集落内からは、竪穴住居跡97軒、掘立柱建物跡(高床倉庫)68棟、土坑(ゴミ捨て穴ほか)824ヶ所、井戸跡6ヶ所などが発見されました。これらの建物跡には多いもので3回の建て替えが認められるものがあり、数世代に亘って集落が継続したものと考えられます。

 この集落は、数十年間続いた後消滅しますが、再び3世紀の弥生時代末になると、調査区の南西の地区に周囲を溝で囲った環濠集落が出現します。

 出土した遺物は、縄文時代の伝統を受け継ぐ中里式(須和田式)土器の他に、既に稲作時代を迎えていた瀬戸内海地方東部(兵庫県神戸市周辺)で作られた土器である「瀬戸内系土器」も多く含まれていました。

 また、稲作と共に日本に伝えられた「大陸系磨製石器」と呼ばれる。農工具などを製作するためのオノやノミ、稲を摘み取る石包丁、土を耕すための石鍬、木鍬や籠類など稲作に関係する一連の遺物も発見されました。

 さらに、炭化米(籾が炭状になったもの)、鹿や鳥の骨、桃や瓜科の種子など、食料の一部も多く出土しました。

 こうした出土遺物は、中里遺跡の人々の豊かな暮らしぶりを知るとともに、この集落に稲作を中心とした新しい技術や文化が導入されたことを物語っています。

中里遺跡が私達に伝えるもの

 中里遺跡は東日本の本格的な弥生時代集落としては最大のものといえます。
 弥生時代は日本で本格的に稲作を始めた時代で、紀元前4世紀頃に、中国大陸や朝鮮半島の部kkなの影響を受けて北九州地方に誕生した文化が次第に日本列島に広まったものと考えられています。
 東日本へはやや遅れて弥生文化が伝わってきますが、人々は台地の上に住んで、縄文時代の伝統の強い木の実の採集や狩猟による暮らしを続けながら細々と稲作を行う状態が、しばらくは続いたものと考えられてきました。
 しかし中里遺跡での発見は、こうした考え方を大きく改めることになりました。これまで考えられていたよりも、およそ50年ほど早い時期に人々は進んだ技術により低地を切り開き、灌漑による本格的な水田耕作を行う大きな集落を築いていたことが明らかにされたからです。
 また、集落の様子を見ると、中央に集落の中核施設として、大型の倉庫や神殿などと推定される棟持ちの掘立柱建物が経ち、周囲に井戸が掘られており、西日本の弥生の集落と大変よく似た姿をしていたことが分かりました。
 集落から100メートルほど離れたところに築かれた墓地も、方形周溝墓という、当時西日本から全国に広まりつつあった新しい種類の墓が選ばれました。こうした東日本では大変めずらしい集落は、瀬戸内頭部の弥生土器が多量に出土したことから、この遠くはなれた地方の人たちと小田原地方に住む人たちの交流が行われたことにより誕生したものと考えられます。
 瀬戸内海東部の土器は、愛知県や静岡県などの太平洋沿岸で認められていないことから、瀬戸内東部地方の人々が海路により直接小田原へもたらしたのではないかと思われます。
 彼らは新たな天地を求めて東を目指し、中里の地を選んで小田原の人たちと共に故郷の集落にも負けない立派な村を築いて、灌漑による最新の技術をはじめとする西日本の文化を伝えたのでした。
 中里遺跡は、こうした弥生文化が東日本に広まっていく姿を集落と水田、墓の全てで知ることが出来る大変貴重な遺跡なのです。

住居跡がイメージされているポケットパーク、現在の標高は13mである。この中里遺跡は、富士山と矢倉岳を結んだ線の延長上よりやや南に位置する。それでも東征時の風景の雰囲気をイメージする手がかりの一つになるような気がした。

 

さて、橘樹神社の位置するあたりに弟橘比売命の装身具が漂着したのだろうか。もう一つ考えられることは、この橘樹神社のある川崎市高津区子母口の地域は、今では丘陵地の住宅街となっている。だが、太古はこの地域の中心だったかもしれない。大きな街だったならば、そのシンボル的な意味合いもあって、弟橘比売命伝説が記録されることもあり得るのではないか。

これはなにか適当な資料を探さなければならない。私は素人だけに、専門的過ぎても歯が立たない。

そして「川崎・たちばなの古代史-寺院・郡衙・古墳から探る 村田文夫 著 有隣新書」という本を見つけたので購入した。

 

川崎・たちばなの古代史|有隣堂の出版物

村田文夫|8世紀初め、律令国家の成立に伴い、現在の川崎市一帯は武蔵国橘樹郡に編成された。橘樹郡の郡衙(役所)の...

有隣堂

 

実に私の疑問は、この本一冊で解決した。p.98から始まる「四、郡衙周辺に神社的な遺構・遺物を探る」から、疑問を解決する記述が始まる。

まず郡衙とは役所の意だ。つまりこの地域の中心地だったということ。そして江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』では、〈立花社 村の西に寄てあり〉という記述があるらしい。そして規模の大きな遺跡が発掘調査されているのでこの本が著されている。かつて橘樹神社は大きな街の中にあったには違いないだろう。ただし、江戸後期よりも以前は少々位置が異なるようではある。

そしてこの様な記述があった。〈つまり『古事記』にある、海辺に漂着した弟橘姫の櫛をとりあげ、『江戸名所図会』(近世後期)にもある御陵を造って治め置いたという部分から、御陵・古墳をつくりあげ、橘樹神社の二神信仰をたくみに定着させたのであろう。ちなみに現在の考古学・地質学の通説では、奈良時代の海岸線は、今の川崎駅の周辺とされる。〉

もとい、それは一説ではあるが、私の疑問に納得出来る内容であった。