アルツハイマー病における原因と結果は、10年以上もの時間の開きがあります。何故これ程の時間を要するのか、厳密な意味では解明されていません。このような長期におよぶ因果関係を実験科学の方法論で解明することは大変困難です。しかも、人間に固有の疾患です。このような理由から、アルツハイマー病気研究は、多くの状況証拠を積み上げながら、互いに矛盾しないコンセンサスを築き上げる努力によって進んできました。
さらに、徐々に出来上がってきたコンセンサスに対して何度も反論がぶつけられ、これに耐える仮説だけが生き残って、今日に至ります。これまでに10万報以上の論文が発表されていますが、これらは互いに事実と考察をぶつけ合いながら、本質的でないものを除外しつつ、最大公約数的必要十分条件を絞り込んできました。コンセンサスが形成される過程は通常の科学よりも考古学に近いかもしれません。
アルツハイマー病研究にもまして考古学に近い科学分野は沢山あります。前述で引き合いに出した近代宇宙物理学において、宇宙は約137億年前にビッグバンによってはじまったことになっていますが、実際に誰かが現場を見てきたわけではありません。宇宙が膨張し続ける事実が明らかになってから、何十年もかけた観測に基づいてこの仮説にたどり着いたのだと私は理解しています。この仮説が完全に証明されることは永遠にありえません。137億年前に戻ることが不可能だからです。
素人の私には宇宙が無からはじまったことを上手く理解することはできません。「無」とは何なのでしょうか。ビッグバンやインフレーション理論に言及する本はありますが、この点に関する議論はあまりなされていないように思います。エネルギー保存則との整合性に無理はないのでしょうか。あるいは、整合性を与えるためにさまざまの素粒子の存在が予測され、実証されてきたのでしょうか。いずれにしても、いかに宇宙が生れたのかについて必ず論理的に説明される時がくることを私は信じます。科学することの核心には「研究対象は必ず論理的に理解される」という信念があります。
冒頭で述べたように、アルツハイマー病研究の実体は1980年代頃までは「博物学」、「現象論」でした。そのための手法は、古典的病理生化学です。いずれも死後脳を用います。病理学では組織切片を化学薬品や抗体をもちいて染色します。代表的な化学染色は銀染色です。これによって細胞や細胞内構造物、そして異常蓄積物を可視化することが可能になりました。
銀染色は、ゴルジ体を発見したイタリア人科学者カミッロ・ゴルジによって開発された画期的な実験法です。一連の病理学的検討の結果、疾患の神経病理学的特徴として老人斑、神経原線維変化、神経変性(神経細胞死)が確立されました。前二者は銀染色によって異常蓄積物として発見されました。神経細胞死は大脳皮質(海馬や新皮質)の萎縮(あるいは脳室の拡大)として認められましたが、今ではMRIによって生きたまま観察することができます。
次に、老人斑と神経原線維変化の物質的実体を知るために、病理生化学による検討がなされました。病理生化学では、まず、凍結した死後脳を破砕し、遠心分離やクロマトグラファーと呼ばれる方法で異常蓄積物を精製します。さらに、蓄積物が何であるかについて生化学的分析を行い、その実体を同定します。その結果、いずれもタンパク質であり、前者がアミロイドβペプチド(Aβ)蓄積、後者がタウタンパク質蓄積であることがわかりました。80年代前半のことです。
神経原線維変化の主要構成成分がタウタンパク質であること世界に先駆けて報告したのは井原康夫博士(当時東京都老人総合研究所、その後東京大学医学部、その後同志社大学)です。井原博士は日本のアルツハイマー病研究史上初めて、世界の最先端よりも前に走った研究者です。その後、どちらのタンパク質が重要であるかについて90年代後半まで論争が続きました。どのように決着したかについては後述します。