日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

万行遺跡|石川県七尾市 ~「越の王」のために造られた施設か~ 【北陸古代史探訪 2日目⑦】

2021-08-09 17:58:04 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月21日(水)



この日の探訪箇所
真脇遺跡 → 須曽蝦夷穴古墳 → のと里山里海ミュージアム → 能登国分寺展示館 → 能登国分寺跡 → 能登国総社 → 万行遺跡

 あとは氷見のホテルに戻るだけです。

 でももう一か所だけ七尾で気になる場所があるので行ってみたいと思います。

 古墳時代前期の建物跡が見つかったという万行遺跡で、しかもその建物が「普通」じゃないらしいのです。

 着きました。

 駐車場はないため、邪魔にならない場所に路駐して行ってみます。

 ここから入ります。



 見渡す限りの野原。

 説明板がありました。



 縄文から中世までの複合遺跡ですが、問題はここに書いてある通り、3世紀後半から4世紀初頭の大型建物が6棟見つかっており、しかも軸を南北の線でとって造られていることですね。



 現代の私たちは軸を正方位に合わせるのは何とも思わないですが、実は古墳時代前期においては、非常に珍しいのです。



 有名なところだと奈良県桜井市の纒向遺跡では、3棟の建物が東西の軸を合わせて造られているというケースがあって、「卑弥呼の館だ!」とすぐに飛びついた愚かしい方もおられます。

 ここの建物の床面積は約150~320平米ということで、かなり大きい。

 3世紀後半から4世紀初頭と、年代の幅は大きいですが、ヤマト王権が発足したのと同じか少し後です。

 その時期のこの地方の古墳を見ると、まだあまりヤマト王権の力が浸透してきていないように見えるため、私的にはヤマト王権の出先機関ではなく、「越の王」のための施設と考えたい。



 考えたいの。



 でも今日、急にこんなすごい遺跡を知ってしまってまだ頭の中は混乱状態ですから、これからゆっくり考察してみたいと思います。



 万行遺跡は七尾湾がすぐ近くです。



 すぐに海に出られるということは非常に重要で、こういう立地からするとヤマト王権の「屯倉」の前身的な施設と考える人もいると思いますが、私は「越の王」の自立性に拘りたい。

 向こうの方にも説明板らしきものがあるので行ってみましょう。



 遺跡と関係ありませんでした。



 しかしこの遺跡はかなりヤバいです。



 北陸って本当に面白いなあ。

 あ、でもこの遺跡はツアー向きではありませんから、クラツーでは行きませんよ。

 というわけで氷見に向かいましょう。

 今日のお宿は「ルートイングランティア氷見 和蔵の宿」です。

 ここはクラツーのツアーの際にも使わせていただく予定です。

 いつものルートインの部屋で落ち着きます。





 窓から外を見ると海も見えます。



 ここは温泉もあるのですが、まずは夕飯の買い出しに行きますよ。

 ホテルの隣には大きめのスーパーが。



 こういう入ったことのないスーパーに入るのって楽しいですよね。

 場所柄、まっさきに鮮魚コーナーに向かいます。

 「氷見港」というシールが貼ってある刺身が何種類かありますが、聴いたことのないこの魚にする!



 氷見港、ひみこう、ひみこ・・・

 氷見の子だから卑弥呼。

 邪馬台国は氷見にあった!

 とかどうでしょうか。

 ・・・買いすぎた。



 どれも美味しいです!

 (つづく)

高向神社(高向宮跡)|福井県坂井市 ~継体天皇母・振媛の宮跡と伝わる式内社~【北陸古代史探訪 4日目⑦】

2021-08-09 13:14:46 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月23日(金)



この日の探訪箇所
吉光の一里塚 → 和田山古墳群および和田山城跡 → 能美ふるさとミュージアム → 寺井山古墳群 → 末寺山古墳群 → 秋常山古墳群 → 高向神社(高向宮跡) → 六呂瀬山古墳群 → 足羽神社 → 山頂古墳(継体天皇像)

 能美の古墳が見ごたえがありすぎて、12時を過ぎてしまいました。

 今日は夕方には富山駅まで戻らないとなりませんが、富山とは反対方向の福井県の遺跡を少しだけめぐってみます。

 当初の予定では三國神社に参拝したかったのですが、時間がないためにめぐる場所を絞り、まずは坂井市にある高向神社へ向かいます。

 高速道路を走り、石川県から福井県へ県境を超えました。

 祝・初福井県!

 高速を降りて下道を進んでいくと、左手の大きな看板に「継体天皇」や「ふりひめ」の文字が見えました。

 確認しないと気が済まないので、Uターンして見に行きます。

 これですね。



 継体の母・振媛の説明板があります。



 ここは振媛の生誕地ですが、振媛は地元では親しまれているんですね。



 こういうのを知るとなんだか嬉しい。

 看板を確認後再出発してすぐ、13時半に高向神社に到着しました。

 でも駐車場がないですね。

 神社の裏手が大きな道路になっており、バス停の近くに路駐できるスペースがあるため、そこに停めてササッと参拝をしてこようと思います。

 これが振媛の見た景色か・・・







 細かいことは抜きにしてこの景色でいいのだ。

 通り側に向いて説明板があります。



 神社の境内へは少し迂回して行かないとなりません。

 おっと、ここにも!



 地元では「ふーちゃん」なんですね。

 境内に到着。



 由来が刻されていますがちょっと読みづらい・・・



 社殿。



 扁額。



 境内社と「高向の宮跡」の石碑があります。



 さきほどのと同じような内容ですが、ちゃんと説明板もありますよ。



 しかし、振媛は美人ですね。

 細かいことは抜きにしてこの想像画でいいのだ。

 今日こうして初めて越前に来たわけですが、その中で最初に訪れたのはこの高向の宮です。

 継体天皇にはいつも大変お世話になっていますから、その母である振媛にご挨拶に伺うのは当然のことですね。

 でも先ほども言った通り、振媛が地元で愛されているのを知って嬉しかったです。

 由緒書きかと思っていただいてきた紙は、歌詞カードでした。



 作曲者のところが空欄になっていますが、まだ曲は付いていないのでしょうか?

 私でよければ曲を付けますがいかがでしょうか。

 その代わり、テクノになってしまいますが。

 クラブ向けの音頭。

 ただ、この歌詞の量だと140BPM程度で普通に作ったら1分半くらいの曲になってしまうので、わざと間延びさせたり、インスト部分を多くしたりして曲全体の時間を長くして、踊れるナンバーに仕上げないとなりません。

 おっと、そんなことより古墳へ行かないと。

 ⇒この続きはこちら


六呂瀬山古墳群|福井県坂井市 ~比高差140mの山上にある墳丘長140mを誇る北陸最大級の前方後円墳~【北陸古代史探訪 4日目⑧】

2021-08-09 10:19:57 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月23日(金)



この日の探訪箇所
吉光の一里塚 → 和田山古墳群および和田山城跡 → 能美ふるさとミュージアム → 寺井山古墳群 → 末寺山古墳群 → 秋常山古墳群 → 高向神社(高向宮跡) → 六呂瀬山古墳群 → 足羽神社 → 山頂古墳(継体天皇像)

 午前中の能美の古墳が見どころが多すぎて、越前探訪に使える時間はわずかになってしまいました。

 でも、せっかく遠くまで来ていますから、せめて越前の古墳も一つは見たいです。

 どこへ行こうか迷いましたが、位置的に見ても六呂瀬山古墳群がベストでしょう。

 ナヴィに脳内を支配されながら古墳へ向かいます。

 「上久米田」交差点を過ぎると、なんか普通の山越えの道になってきましたよ。

 随分登りますね。

 まだ、古墳は出てきません。

 確か古墳はトンネルの上にあったはず・・・

 ようやくそのトンネルが現れました。

 短いトンネルを抜けると右手に駐車場が見え、説明板もあります。

 着きました!

 しかし、私は列島各地の古墳をめぐっていますが、これだけ比高差のある古墳は珍しいのではないでしょうか。

 ※帰宅後に調べたところ、麓の上久米田交差点の標高は約44mで、1号墳の場所は約190mですから、比高差は約146mあり、もし麓から歩いて登山するとしたら道が整備されていたとしても30~40分かかると思います(ちなみに、長野県千曲市の森将軍塚古墳の比高差は約130mです)。

 さきほどくぐったトンネル。



 全く分かりませんが、トンネルの真上は3号墳です。

 そして反対方向はこんな感じ。



 道路の向こうには麓が見えますが、おおむね西の方角です。



 では、説明板を読んでみましょう。



 写真を見るとずいぶん立派な葺石が葺かれていたようですが、川原石の場合はここまで持ってくるのが大変です。

 縄文人のストーンサークルづくりにも負けていませんよ。

 この墳丘図だとちょっと分かりづらいですね。



 私はいまこれらの古墳の北側(図の上側)にいます。

 お、リーフレット入ってるかな?



 残念!



 もうひとつ説明板があります。



 前期の終わりから中期にかけて、2基の前方後円墳と2基の方墳が築造されました。

 それらのうち、1号墳は墳丘長140mの前方後円墳で、越前最大の前方後円墳となります。

 説明板には北陸地方最大とありますが、先ほど見てきた能美の秋常山1号墳の基壇部分を墳丘と捉えた場合は140mとなるため、両者とも「北陸地方最大」となります。

 このイラストは分かりやすい。



 ただし、今いる場所はこの絵でいうところの向こう側になります。

 またも墳丘図。



 こちらの方が分かりやすいですね。

 では、古墳へ行ってみましょう。



 と、思ったら今度はオブジェが現れました。



 オブジェではなくモニュメントでしたね。



 タイムカプセルも埋めてあるようです。



 またもや説明板がありますが、これは歩く道を気を付けてくださいという注意喚起ですね。



 「滑りやすい」ゾーンが2か所あるようです。

 ここまでの感じだと、地元の方々の古墳への愛を非常に感じることができて、「ウェルカム度」もとても高いです。

 ただし、リーフレットの補充もままならないわけですから、もしかしたら今では人手も不足して管理するのが大変になっているのかもしれません。

 全国的に見られる傾向ですが、なかなか難しい問題ですね。

 では、遊歩道に入ります。



 ここから先が説明板にあった滑りやすい場所です。



 今日は幸いコンディションが良いので滑りづらいですが、勾配は急ですから、戻るときは要注意ですね。



 つまりはもう1号墳の後円部に登っているわけです。

 足元には葺石が落ちています。



 結構あるな。



 前方が開けました。



 ここは1号墳の後円部墳頂のはずです。

 ここからの眺望はきいていません。



 3号墳の前方部方向も見えますが、完全に藪化していますからショートカットはできません。

 後円部の東側の張り出しと、その先には方墳である2号墳があるはずですが草ぼうぼうで分かりませんね。





 1号墳の前方部の方へ行ってみましょう。



 南側の眺望が少し開けています。





 前方部先端から見る後円部。





 後円部に戻ります。

 改めて後円部墳頂。



 もう一度前方部方向を見ますが、140mあるだけあって、墳頂のストレートラインは結構長いです。



 1号墳の見学はそんなに大変ではありませんでしたが、つづいて3号墳へ行ってみます。

 先ほど登った「滑りやすいゾーン」を慎重に降ります。

 おっと、3号墳方面はデンジャラスっぽいですぞ。



 まあでもここまで来て引き返すわけにはいきません。

 繁茂ゾーンを抜けると普通に道がありました。



 進んでいきます。



 あー、ここがもう一つの「滑りやすいゾーン」ですね。



 確かにここは地面が濡れていたら私でも引き返します。

 山城跡を歩いている方はこの状況を見ていただいて想像できると思いますが、これは慣れていない方は連れてくることはできませんね。



 慣れていない方は滑落して谷底に真っ逆さまになる恐れがありますから、お客様をお連れするのはやめます。

 あ、「真っ逆さま」は大袈裟で、実際には滑り落ちたとしてもすぐに樹木でストップされるので大したケガはしないと思いますが、でもダメです。

 デンジャラスゾーンを通過したら、3号墳の前方部に到達です。



 先ほど登った1号墳の後円部を見上げます。



 3号墳の墳頂は1号墳と違って藪がひどいですが、歩けないことはないです。

 足元には何がいるかわからないため、長いものには注意した方が良いことは分かっていても、敢えて見ないことにしています。

 後円部に到達。



 後円部墳頂。



 3号墳は、85mの前方後円墳です。

 後円部から前方部を見ます。



 それでは退却!

 というかなんで私は一人で探検ごっこみたいなことをしているんでしょうか。

 駐車場まで戻ってくると一安心。

 ここまで20分くらいしか使っていませんので、実は大したことはないのですが、来るのなら今日みたいな真夏はお勧めできません。

 それと、地面が濡れていた場合は上級者であっても歩くのが危険なため、もし六呂瀬山古墳群に来るときは、天候には十分気を付けたほうがいいと思います。

 でも六呂瀬山古墳群の被葬者は継体ママの振媛の先祖の可能性がありますから、継体天皇ファンあるいは振媛ファンだったら頑張って来る価値があると思いますよ。

 おっと、初めに見た説明板の裏にも説明があった。



 これは結構気づかない人も多いんじゃないでしょうか。



 やはり地元では振媛はアイドルですね。



 オオドは天皇にスカウトされたとき、初めは断ったのですが、旧知の仲である渡来系の荒籠が使者としてやってきたらOKを出しました。

 荒籠は単なる渡来人ではなく馬の生産で重要な役割をしていた人物で、出典は忘れましたが、「現代で言えばトヨタ自動車の社長」と例えていた方がいるように、かなりの力を持った人物です。



 こういう素晴らしい説明板はもっと目立つように設置したほうが良かったのではないかと思います。

 では、次はいよいよ継体天皇に会いに行きますよ。

 (つづく)

原口古墳|福岡県筑紫野市 ~三角縁神獣鏡が3面出土した九州最古級の前方後円墳の一つ~

2021-08-08 21:50:50 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月2日(金)磐井ツアー下見1日目①



この日の探訪箇所
原口古墳 → 筑紫野市歴史博物館 → 津古1号墳 → 津古永前遺跡 → 横隈山古墳 → 小郡市埋蔵文化財センター → 花立山穴観音古墳 → 焼ノ峠古墳 → 久留米市埋蔵文化財センター

 お、今日の飛行機は、エアバスA350-900ですぞ!

 最新鋭の飛行機じゃないですか!

 シートに付いている目の前のモニターをいじっていると、飛行機の前方の様子をリアルタイムで監視できるようになっています。

 こういうのって大好き。

 飛行機は順調に飛び、やがて福岡空港に近づきました。

 モニターを見てみましょう。

 前脚を出したらちょっと邪魔ですが仕方がない。



 福岡空港へアプローチするときは、海の方からやってきて、滑走路の軸線上に入るために少し旋回します。

 眼下には福岡の街が近づいてきました。



 福岡空港はもろに街中にあるため22時を過ぎたら飛行機は飛ばないのです。

 何年か前にクラツーのツアーの帰りに私たちが乗るはずだった飛行機で機材トラブルが発生して、代替機が22時に間に合わず、帰れなくなったことがありました。

 板付遺跡が見れるかなと思いましたが、位置がちょっと違いますね。



 フライトシミュレーターをやっているみたいで楽しい。



 まあ、私が操縦したら地面に激突ですが。



 何度も激突して、しかるのちに上達する!

 それはゲームだけの話です。

 ちゃんとした人が操縦しているため無事に到着。

 福岡空港ではまずは朝飯ですな。

 吉牛です。



 美味い。

 いつものニッポンレンタカーへ行き車を借り、本日の探訪を開始します。

 まず最初に向かうのは原口古墳です。

 北部九州の前期古墳の中でも有名なので、以前から行ってみたいと思っていたのですが、ようやく今日念願が叶います。

 以前、太宰府に行った時に、西鉄の朝倉街道駅からJRの天拝山駅まで歩いて乗り換えたことがあったのですが、天拝山駅から原口古墳までは歩いても20分で来れる距離だったんですね。

 そのときは気づきませんでした。

 さて、近くに到着しましたが、車を停める場所がありません。

 墳丘の西側の邪魔にならない場所に路駐して行ってみましょう。

 古墳へはどこから入るんでしょうか?



 ここが入口っぽいな。



 でも墳丘に取りつく前に周りの様子も見てみたい。

 東側の県道のほうに出てみました。



 「ウエスト」の焼肉ヴァージョンの店がありますね。

 ウエストのうどんはめちゃ美味いですよ。

 南側から見ると山が削られているように見えますが、古墳があるようには見えません。



 では、先ほど見つけた入口っぽい場所から入ってみます。

 すぐに墳丘らしきものが見えてきました。



 注意深く警戒しながら歩きますが、形状は大きく改変されているようです。







 登ってきた道を振り返ります。



 道はまだ続く。



 木々の間から県道方面にあるドンキのペンギンが見えます。



 標柱がありました。



 ここは後円部墳丘の途中の場所のようです。



 墳頂にはお堂があるようです。





 原口観音堂の由緒が刻されています。



 後円部からの眺望はゼロ。



 後円部墳頂の様子。



 ここまでの道は決して歩きづらいわけではありませんが、きれいな墳丘を見ることはできません。

 筑紫野市博物館発行の「ちくしの散歩」によると、弥生時代の甕棺墓の上に古墳が造られており、墳丘長80mの前方後円墳で、後円部中央では粘土や朱が多量に見つかったため、埋葬主体部は粘土槨であったと推定されています。

 出土遺物で注目されるのは、三角縁神獣鏡が3面出ていることで、あとで訪ねる筑紫野市歴史博物館にはそのうちの2面のレプリカと1面の実物が展示してあります。

 築造時期に関しては、九州最古級の古墳で3世紀代にさかのぼると考える研究者もいる一方で、『古墳の黎明 津古古墳群とその周辺』(小郡市埋蔵文化財調査センター/編・2013年)に掲載されている編年によると、築造時期は4世紀初めで、焼ノ峠古墳と同じ時期としています。

 原口古墳の南には、やはり九州最古級の古墳を擁する津古古墳群があり、この地域は筑紫における古墳発祥の地の一つであることは間違いないですし、弥生時代からかなり大きな勢力がいたことも遺跡から見れば確実です。

 筑紫野市周辺が邪馬台国であったかは分かりませんが、伊都国や奴国などと並ぶ重要な国があったのは確かだと私は考えています。

 では戻りましょう。







 通常、このように土が削れている場所で多量の石が見られる場合は葺石なのですが、原口古墳はどうなんでしょうか。



 今後はこの地域の古墳についてもよく調べていきたいと思います。



 実はここも今度のクラツーの「磐井ツアー」の探訪候補地だったのですが、事前にWebで調べたところツアー向きじゃないと判断して外しました。

 実際に来てみるとその通りでした。



 古墳の森から出てきました。

 東側に見えるあの綺麗な山容は何の山でしょうか。



 原口古墳のある森。



 あの立派なお屋敷の裏山、というか一体化していますね。

 では、つづいて筑紫野市博物館へ行ってみましょう。

 (つづく)



岩清水遺跡|山梨県甲府市 ~5世紀代に築造されたこれらの墓は古墳ではないのか?~

2021-07-30 12:08:28 | 歴史探訪


発見容易
登頂可能
説明板あり
駐車場あり
トイレあり

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地


山梨県甲府市下曽根町



現況


低墳丘墓群

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


5世紀第2四半期~第3四半期

墳丘


形状:円墳

主体部



出土遺物



周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その11



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 おや、あちらにも墳丘らしきものが見えますよ。


※3号墓


※2号墓


※1号墓



 おー、円形周溝墓!



 「周溝墓」というのは弥生時代以降の墓制で、方形と円形があり、数基から数十基群集して造られることが多いです。

 一般的には群集する中では方形周溝墓の方が多く造られる傾向があり、円形は少数派です。

 ですから、円形周溝墓という表記を見てかなり興味を持ったのですが、どうも5世紀の墓ということで、ちょっと周溝墓のイメージと違います。

 そこで、『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書 第182集 岩清水遺跡』(大塚初重/著)を読んでみると、大塚先生は岩清水遺跡の3基の円形周溝墓のことを「円形低墳墓」と呼んでいます。

 周溝墓ではないとしても、5世紀という古墳時代中期に、古墳以外の墳墓が見つかるのは、珍しいことじゃないでしょうか。

 該書をもとに各低墳墓について簡単に記すと、県立考古博物館に近い側(東側)から1号、2号、3号と呼び、1号と2号は周溝の一部が切りあっており、1号の方が早く築造されています。

 1号低墳墓は径約18mで、5世紀第2四半期の終わり頃から第3四半期の中頃の築造、周溝にはおおよそ北、西、東にブリッジが存在しています。

 2号低墳丘墓は径約23mで、1号低墳丘墓よりも後ではあるものの 5世紀第3四半世紀の範囲に収まると考えられています。

 3号低墳丘墓は、上の説明板では弥生時代の周溝墓のように書かれていますが、2001年に著された上述書では、5世紀第3四半期に築造された可能性を示唆しています。

 大きさは東西の径が9.2m、南北の径が11.2mで3基の中ではもっとも小さいです。

 これら3基の低墳丘墓と、先ほど見たかんかん塚古墳との関係ですが、上述書では、かんかん塚古墳には石室があり、類い稀な副葬品を持っていることから、かんかん塚古墳被葬者の下にこれら低墳墓群の被葬者が位置する関係であると推測しています。

 また、かんかん塚古墳以降は、この地には後続する高塚古墳が見られないのと同じく、低墳墓もこれら3基以降はこの地には築造されず、銚子塚古墳に始まった中道地域のこの墓域も終焉を迎えます。

*     *     *


 以下の4枚は2019年3月21日に撮影したものです。

 1号墓。



 1号墓の奥(西側)に2号墓が見えます。



 さらにその奥には丸山塚古墳。



 手前から1号墓、2号墓、丸山塚古墳。



 つづいて、以下の9枚は2021年5月28日に撮影したものです。

 今回は緑色ですね。



 1号墓にはブリッジが北・西・東の3か所にありますが、これは東側のブリッジ。
 




 西側から見た2号墓と奥には1号墓。





 この可愛らしいのが3号墓。



 一丁前に周溝があってブリッジまであるのがいじらしい。



 奥には丸山塚が見えます。



 1号墓側から見た2号墓。



*     *     *


 駐車場まで戻ってきました。

 駐車場の近くには古代の広場というのがあります。



 石室。





 竪穴式住居。





 お、敷石住居もある。

 でもちょっと見た目は・・・





 博物館も古墳も楽しかった。

 あ、もう15時だ。

 冬なのでそろそろ時間が無くなってきましたよ。

 急いで花鳥山遺跡へ向かいます。

 ⇒この続きはこちら