日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

かんかん塚古墳/さかづき塚|山梨県甲府市 【甲信古代史探訪 その8】

2021-07-30 11:20:32 | 歴史探訪


 

3.探訪レポート                         


2018年11月7日(水)甲信古代史探訪 その8



この日の探訪箇所
川柳将軍塚古墳 → 姫塚古墳 → 長野県立歴史館 → 千曲市森将軍塚古墳館 → 森将軍塚古墳 → 弘法山古墳 → 松本市立考古博物館 → 山梨県立考古博物館 → かんかん塚古墳 → さかづき塚 → 丸山塚古墳 → 甲斐銚子塚古墳 → 岩清水遺跡 → 岡銚子塚古墳 → 盃塚古墳 → 花鳥山遺跡 → 釈迦堂博物館

 ⇒前回の記事はこちら

 山梨県立考古博物館は面白かったー。

 博物館内では縄文土器を堪能しましたが、今度は古墳を見ます。

 博物館に隣接して、4世紀の時点では東日本で最大規模の銚子塚古墳という大型前方後円墳があるのです。

 なお、「銚子塚」という名前の古墳は全国にいくつかあるので、こちらのものは「甲斐銚子塚」と呼ばれることがあります。

 おや、いきなり古墳のようなものがありますよ。



 右側は「かんかん塚」という5世紀後半の円墳ですが、左側は「さかづき塚」という中世の塚だそうです。



 説明板に書いてある通り、かんかん塚古墳は5世紀後半に築造された円墳で、径26mの大きさです。

 注目すべきは、県内の古墳から見つかった馬具としては最古のものが見つかっていることですね。


※2019年3月21日のCTのツアーの際に撮影

 さかづき塚も説明板に書いてある通りです。


※2019年3月21日のCTのツアーの際に撮影

 それでは当初の予定に戻り、銚子塚古墳を目指しましょう。

 ⇒この続きはこちら

*     *     *


 2021年5月28に山梨県立考古博物館を訪れましたが、企画展で県内の古墳について詳しく解説していました。

 職員の方々の展示にかける強い意気込みが感じられるとても面白い展示でした。

 かんかん塚に関する写真を以下に示します。





 この被葬者は普段から乗馬をしていたということが伺えて面白いです。

 5世紀は国内に馬が一気に普及した時代ですが、甲斐ではそれ以前から馬が飼われていたのではないでしょうか。



 この日のかんかん塚とさかづき塚は、緑のもしゃ子ちゃんでした。





 大型円墳の丸山塚古墳が築造されたのが4世紀半ばで、それをもってこの中道地域の大型墳の築造は終わりを告げます。

 その後、約100年くらい経ってかんかん塚が築造されるのですが、かんかん塚と同じ頃か少し前には、考古博物館の裏山にある大丸山古墳のさらに裏手に、東南山遺跡に属する東山南1号・2号墳(あるいは墓)という、低墳丘墓が築造されます。

 ただし、そちらは『山梨県埋蔵文化財センター調査報告 第64集 東山南(B)遺跡』(山梨県教育委員会/編・1991年)によると、石室が造られた形跡もない土着性の強い集団の築造で、畿内色の強いかんかん塚とは異なる系譜の人びとの古墳だと考えられるといいます。

 ですから、かんかん塚は規模はかなり小さくなってしまいましたが、実際の血縁関係があるかないかは別として、もしかするとこの地で古墳時代前期に繫栄した「甲斐の王」の系譜をひく人物の墓なのかもしれません。

富山市考古資料館|富山県富山市 ~縄文・弥生・古墳時代を中心に素晴らしい遺物展示と丁寧な解説が嬉しい資料館~

2021-07-27 23:54:00 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火)



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 稚児塚古墳を見に少し東へ行ってしまったので、西に戻って富山市考古資料館で、市内の遺物をチェックしてから本格的な下見活動を始めようと思います。

 ※註:本レポートは少し長いので気合を入れて読んでください。

 到着しました。

 この佇まいは期待できそうです。



 経験上、こういう雰囲気の「昔ながらの郷土資料館」みたいなところは面白い場所が多いのです。

 ちなみに「富山市民俗民芸村」といういくつかの施設が集まった中に「考古資料館」があり、私的には今日は考古資料館一本に絞って来ています。

 考古資料館のみの見学であれば、入館料は100円です。

 旧石器時代から順番に解説されるオーソドックスな展示方法のようですね。



 最近の新しい博物館などは演出に凝った施設もあってそれはそれで楽しいのですが、こういう展示が一番落ち着きます。

 富山市の地形ジオラマが壁にあります。



 こういうの大好き。

 かつての潟湖の名残である富山新港と、富山湾にそそぐ神通川、それに神通川右岸に発達した富山市街と北東方向に延びた呉羽丘陵があります。



 神通川とその東には、常願寺川と白岩川。



 先ほど訪れた稚児塚古墳は右下のほうです。

 そしてこれから行く予定の王塚・千坊山遺跡群とその北側周辺。



 つづいて各時代の地形の展示がありますが、古墳時代の海岸線はこの通りです。



 先ほどのジオラマでも出てきた富山新港の周辺には大きな潟湖がありますが、こういうのは古代人が好きな地形で、古代から栄えていたことが想像できます。

 では、旧石器時代の遺物展示を見ましょう。

 おっと、いきなり凄いものが!



 杉谷G遺跡出土のチョッパーですが、チッパーと呼ばれる石器は非常に古くて、私たちホモサピエンスではなく、違うホモ属(ホモハイデルベルゲンシスなど)の系統の石器と考えられないことはないでしょうか?

 これは帰宅してから調べないと。

 局部磨製石斧も古い石器です。



 詳しい知識はありませんが、石の雰囲気が今まで関東などで散々見てきたものと違います。

 続いて縄文時代に行きますよ。

 土偶ちゃん大集合!



 この中から未来の土偶界を担うスターを探してみましょう。

 古沢遺跡からは多くの土偶ちゃんに来ていただいています。



 それ以外の遺跡からも各遺跡から選抜されてきた精鋭が揃っていますよ。



 お、古沢遺跡から来たあなたいいですね。



 寄り目がちなところがとてもチャーミングで、かつ文身の模様がドラえもんのひげのようになっていて素敵ですね。

 鏡坂Ⅰ遺跡のキミも可愛いね。



 古沢遺跡のキミはちょっと狂暴そうだ。



 こちらも古沢遺跡から来てくれましたが、クマちゃんみたいな顔でいいよ。



 というか、むしろコアラさん?

 耳には穴が開いているのかな?

 あなたは亀ヶ岡文化の影響をもろに受けちゃっていますね。



 流行に敏感なのはいいですが、迎合するよりオリジナルで行こうよ。

 なお、水橋館町地内出土ということですがレプリカです。

 土偶ちゃんは以上ですが、富山の土偶ちゃんたちも充分に全国で活躍できるポテンシャルを持っていると感じました。

 おや、こういうのは秋田でも見ましたよ。



 「三角とう形土製品」といって、杉谷遺跡出土です。

 日本海側ではこういったものを使う文化圏が形成されていたのでしょうか。

 こちらは笛状土製品ということで、穴が開いているのが確認できますが実際に音が鳴るんでしょうか?



 古沢遺跡は土偶の出土も多そうですが、こういった物も出ているということは、古沢遺跡ではマジカルな「祭祀ワールド」が展開していたのかもしれません。



 そしてお待ちかねの土器です。

 開ヶ丘狐谷Ⅲ遺跡出土の中期の深鉢。



 下半分が見つかっていないのでしょうか?



 蜆ヶ森(しじみがもり)貝塚の土器群。



 小さくても縄文が丁寧に施されています。



 小竹貝塚。



 こちらも小さいですが、植物で編んで造った容器をイメージしているのでしょうか。



 お、またもや古沢遺跡ですね。



 大きく広がったシャープな感じの口縁部がカッコいい。



 小竹貝塚の遺物としては、レプリカですが人骨ちゃんもあります。



 なんでも「ちゃん」を付ければ可愛くなるとでも思っているのか。

 というか、頭蓋骨ちゃんだな。

 展示してあるのは1号人骨ですが、28号人骨を復顔するとこの通り。



 なかなか素敵な男性ですが、こんな感じの友達が昔いたような気がする。

 縄文人の復顔を見るとなんとなくどの顔も似ているような気がしますがどうでしょうか。

 小竹貝塚は、日本海側最大の貝塚と言われ、木製の盾が出土したことでも有名です。

 つづいて弥生時代に入りました。

 千石町遺跡出土の弥生時代の甕。



 おー、方形周溝墓をこういうふうに見せている場所は初めてかもしれません。



 杉谷A遺跡の方形周溝墓ですが、この方形周溝墓の場合は、土壙は地下にあるタイプですね。

 周溝に収められた土器も再現されています。

 底部穿孔土器です。



 刷毛目がタテ、ヨコ、そして斜めにも入っておりいいですねえ。

 墓に供える土器はわざを底に穴をあけることがあって、古墳にも初めの頃は埴輪ではなく底部穿孔土器が並べられたケースもあります。



 素環頭鉄刀。



 素環頭鉄刀について熱く語っているところが良い!





 富山市考古資料館のいいところは、各遺跡ごとにこのような詳しい解説があるところです。



 説明文は変にビギナー向けにへりくだっておらず、マニアが喜びそうな内容になっています。

 ビギナーであっても是非ともこれくらいの内容は理解できるようになっていただければ、遺物鑑賞や遺跡めぐりはさらに楽しくなりますよ。

 素晴らしい朱塗りの長頸壺。



 江代割(えいだいわり)遺跡出土の器台。





 器台や高坏は正直、私は外見的な面白味を感じないのですが、この地域のものは装飾が凝っていて美しい。

 丸い穴を多く開けるのもポイントですね。





 これも朱塗り。



 色が褪せている感じの部分が本物のパーツですよ。



 あと、この地方は丸いボタンみたいのを付けるのも好きみたいです。



 押すと何かの機能が発動するかもしれませんよ。



 杉谷4号墓(四隅突出型墳丘墓)の模型。



 突出部が「しゃもじ形」とか「イチジク形」と呼ばれる形になっているのが特徴で、出雲のものよりふわっとした感じに仕上がっています。

 越中のよすみは「ふんわり仕上げ」ですよ。

 今回のツアーに関連する遺跡の説明が出てきました。



 千坊山遺跡でもよい遺物が出ていますね。



 畿内をはじめとする西日本の弥生時代の土器には面白味を感じることは少ないのですがが、富山は立派な「東日本世界」ということもあり、弥生土器も素晴らしい。



 六治古塚墳墓も今回のツアーに関係する王塚・千坊山遺跡群を構成する遺跡の一つです。





 鏡坂墳墓群出土の土器。



 富崎墳墓群も、王塚・千坊山遺跡群に入っています。





 これは、パップラドンカルメではありません。



 これまた王塚・千坊山遺跡群の勅使塚古墳へはこのあと行きますよ。



 古沢塚山古墳の説明ですが、こうやって見学者の好奇心を刺激するような説明の仕方も上手ですね。



 太平洋側の前方後円墳の北限ということで、岩手県奥州市の角塚古墳と角塚と同時代の豪族居館跡が見つかった中半入(なかはんにゅう)遺跡が紹介されているのが嬉しい。




※角塚古墳(2019年4月28日撮影)


※中半入遺跡(2018年4月14日撮影)

 おっと、ここでもう一つの展示ブースを見つけましたよ。

 中に入ってみると、地元の研究家の方々が集めた考古遺物を展示してあります。

 このような感じで郷土の考古学の発展に寄与した方々のプロフィールとコレクションが展示してあります。





 ここでも出てきました。



 そしてキノコ形土製品もあります。



 いよいよもって北東北日本海側とのつながりが濃厚になってきましたね。

 そしてこの栗山邦二さんのコレクションは圧巻の内容です。



 まだ私は訪れたことのない飛騨の土偶。



 似た系統の土偶ですが、いいですねえ。



 これと飛騨のを比べると、飛騨のは身体の下の方をもいでいるようですが、もいだ断面も赤っぽくなっているため、もいだあとにも朱を塗るということもあったのでしょうか。

 両手の造形はもともとこうなのでしょう。

 顔らしい顔があったのかどうかなど、こちらの土偶は今まで調べたことが無いので今度調べてみます。

 これはいい御物石器です。



 なお、御物石器に関しては、別の場所にこのような役に立つ説明がありました。



 三角石斧・・・



 なんかこれいいなあ。

 私にとっては新鮮だ。

 これはなんと申して良いのやら。



 いい具合ですが、それよりも「おいねずみ」って何ですか?

 しかし良いものが揃っていますねえ。



 石刀の模様や磨き具合も素晴らしい。

 鏡坂Ⅰ遺跡出土の深鉢。







 そして、個人的にはとんでもないものを見つけてしまいました!



 こちらの土製品ですが、土版と呼ばれるものだと思います。



 表面に丸く小さな穴が並んでいるのですが、その数を数えてみるとこのようになります。



 これはまさかの!?

 そうです。

 秋田県鹿角市の大湯環状列石の隣にある大湯ストーンサークル館に行ったことがある方は、これを見たことがあると思います。



 地元では、「どばんくん」と呼ばれています。

 この遺物も表面に穴が開いていますが、穴の集まりを見ていくと、口みたいなのが「1」、目みたいなのが「2」というふうに、3、4、5とあり、裏側に6つの穴があるため、地元では「子供に数の数え方を教えるための知育玩具」説があるのです。

 私もそういう発想は好きなのでその説はそれでいいと思いますが、これと同じものは日本中探しても無いと思っており、大湯ストーンサークル館の方と話しても同様に考えているようでした。

 ところがいみじくも、今日は富山で類似品を見つけてしまったのです!

 類似品というと怒られそうなのでやめた方がいいですが、もしかすると三角とう形土製品やキノコ形土製品も秋田と富山は共通しますから、東日本の日本海側各地の遺物を探せばもっと出てくるかもしれません。

 これは凄い発見かもよ!

 素晴らしい遺物展示はまだまだあります。







 打出遺跡出土のこの三連壺も面白いですね。



 もともとは赤彩されていました。

 この古墳の編年表は便利だ。



 というわけで、展示の見学が終わりました。

 ザーッと見学して40分かかりましたが、丹念に見るなら1時間は欲しいですし、遺物を見て話しだしたらもっと時間が必要です。

 ところで、ここは今度催行するクラツーのツアーには入れていないんですよね。

 入れておけばよかった・・・

 だけどツアーの場合は探訪箇所はある程度絞っておかないといけませんから仕方がないです。

 もし個人的にどなたかをお連れすることがあれば、ここは絶対に案内したいです。

 さて、今回解説してくださった「バン爺」です。


※註:これは人形というか置き物なので「解説してくださった」というのは真に受けないでください。

 この方は凄い方なんですよ。



 土人形は向かいの「とやま土人形工房」で販売しているとのことです。



 富山考古資料館では、資料の販売もありますよ。

 非常に充実した見学になりました。

 つづいて、ツアーで訪れる予定の遺跡へ行きます。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


稚児塚古墳|富山県中新川郡立山町 ~径46mを誇る富山県最大の円墳~

2021-07-27 15:48:02 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>①



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 最近は北陸新幹線に立て続けに乗っています。

 北陸新幹線は、今までは全然なじみが無かったのですが、最近急に北陸新幹線の沿線と縁ができてきたようです。

 今日は「かがやき501号」にて富山を目指しますよ。

 遊びじゃなくて仕事です。

 「かがやき501号」が大宮を出るのは6時41分ですから、家を出る時刻は少し早いですが、それでも乗り継ぎがよくて意外と楽に来れます。

 新幹線に乗り込むと、車内はガラガラ。

 車内で今回の下見の予習をしていると、あっという間に軽井沢を通過し、長野に到着しました。

 かがやき号は大宮の次は長野に停まり、つづいて富山、そして終点の金沢です。

 長野を出てしばらくすると、右側車窓に海が見えてきました。

 私の席は山側ですが、お客さんがほとんど乗っていないので窓側の席に移動して海を眺めます。

 ときたま撮影。



 夏の日本海はすごく綺麗。

 8時半に富山に到着しました。

 かがやき号に乗れば、大宮から1時間50分ほどで富山に来れちゃうのだ。

 すごいね。

 お、路面電車!





 普段見慣れないものを見られるのは嬉しい。





 タウンワークには私も昔よくお世話になりました。



 ちなみに、ご高齢の方のアルバイトは、男性の定番が警備員で女性の定番が清掃員ですが、男性であっても清掃の仕事をお勧めしたいです。

 清掃の仕事は1日中手を動かして作業をしていますから、時間が経つのが早くて、それなりの充実感を得られますよ。



 あ、路面電車を見てはしゃいでいる場合じゃないですね。

 レンタカー屋さんに行かなければ。

 さて、本日は富山県内をめぐりますが、その一発目は稚児塚古墳です。

 主たる目的地は富山駅から西の方なんですが、稚児塚は反対の側にあります。

 でも、車ならそんなに遠くないので寄ってみましょう。

 まったく土地勘がない場所を走るのも楽しいですね。

 ダスキンの時は毎日のように車を運転していましたが、いまはこういった時しか運転できないため、運転も楽しむようにしています。

 常願寺川を渡り、しばらく車を走らせていると右手前方の住宅の向こうに古墳の杜らしきものが見えてきました。

 右折して直進すると・・・



 あれですね。



 古墳へ向けて突進していきます。

 ・・・あれ、なんだこの踏切は!

 異様に幅が狭い。

 自動車通行禁止の標識があります。

 「小特は除く」と書いてありますが、こういう標識は見たことがない。

 仕方ないですね。

 古墳側から見た踏切。



 この幅は普通の車は無理ですね。

 ナヴィはこの踏切を渡るように指示してきましたが、こういう罠がいきなり現れますから、古墳めぐりは一時も油断できません。

 でも南側から線路沿いに普通に来れますからご安心ください。



 ご安心くださいって、誰に言っているのでしょうか。

 墳丘の周りは周堀の跡がはっきり分かります。





 説明板がありました。



 これによると、稚児塚は、径46.8mのやや大型の円墳で、県内で唯一葺石が葺かれた古墳だそうです。

 先ほど見たのは周堀に間違いないようで、四角形が優勢な北陸地方においては特殊な存在、というかもろにヤマト王権の影響を受けた古墳といえるのではないでしょうか。

 墳頂には階段がついてます。



 お、こちらの説明板はすごい文章量!



 渾身というか入魂の説明です。

 ※註:おそらくこれを書いた方は多くの方に読んでいただきたいと思っているはずなので、読みやすいように分割して写真を掲載します(著作権の関係などで問題がありましたらご連絡ください)。



 付近には多くの古墳があるようで、そのなかでも稚児塚がメインとなるようなことが書かれており、また近辺では条里制の名残も見られるようです。

 では続き。



 武内宿禰の伝承がこの地にあるのも面白いですし、宿禰の子の藤津という人物が出てくるのも興味深いです。

 坪井庄(ママ)五郎先生の名前も登場しました。

 最終ブロック。



 気合一発で一気に書き上げた雰囲気を持っていますね。

 ここまで長文の説明板は珍しく、探訪する側からするととてもありがたいです。

 では、墳丘に登りましょう。

 墳頂にはフェンスで囲まれたものがありますが、こういうのって大抵石棺とかそういう・・・



 切り株だった!



 説明板に書いてあった老杉ですね。

 墳頂。





 登ってきた階段を見下ろします。



 2段築成になっているように見えますよ。





 やたらに角のとれた石が転がっていますが、葺石かな?



 では、墳丘を降ります。

 少し離れて古墳を撮影。



 古墳の前には、富山地方鉄道立山線の線路があるので、電車来ないかなあ?と期待しているのですが、なかなか来ませんねえ。

 それにしても良い天気だ。

 今日も気持ちよく遺跡めぐりができそうだぞ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅後に『稚児塚古墳 第1次発掘調査報告』(立山町教育委員会/編・1994年)を読みましたが、それによると、墳丘の大きさは以前から言われている通り、径46mで変わらないようです。

 段築に関しては私は現場で2段だと思ったのですが、3段の可能性が高く、全山盛り土で造られ、周堀の幅は約17mあります。

 築造時期に関しては決定材料となる遺物が見つかっていないため断定はできませんが、構造を見ると5世紀中葉から後葉としています。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『稚児塚古墳 第1次発掘調査報告』 立山町教育委員会/編 1994年


柳田布尾山古墳および古墳館|富山県氷見市 ~日本海側最大の前方後方墳~

2021-07-25 10:58:38 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑧



【1日目の探訪箇所】
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡
【2日目の探訪箇所】
真脇遺跡縄文館 → 真脇遺跡 → 須曽蝦夷穴古墳  → のと里山里海ミュージアム → 能登国分寺展示館 → 能登国分寺跡 → 能登国総社 → 万行遺跡
【3日目の探訪箇所】
氷見市博物館 → 朝日貝塚 → 朝日長山古墳 → 雨の宮古墳群および雨の宮能登王墓の館 → 羽咋市立歴史民俗資料館 → コスモアイル羽咋 → 吉崎・次場遺跡 → 内灘町歴史民俗資料館
【4日目の探訪箇所】
吉光の一里塚 → 能美ふるさとミュージアム → 能美古墳群 → 高向神社 → 六呂瀬山古墳群 → 足羽神社および継体天皇像


 つづいて柳田布尾山古墳へ向かいますが、公園内にある古墳館は16時に閉まるので急ぎます。

 15時50分に駐車場に到着。

 駐車場には公園の全体図を示す案内板が立っています。



 まずは古墳館だな。

 階段を上ると、右手に柳田布尾山古墳があり、左手には山と海を背景に従えた古墳館の建物が佇立していました。



 入館料は無料です。





 残念ながら遺物の展示はなく、パネル展示で構成されていますが、柳田布尾山古墳をはじめとした氷見市の古墳について分かりやすく解説しています。

 このあと見学する柳田布尾山古墳のジオラマ。



 今日は本当に前方後方墳祭りですな。

 北陸の「四角い墳丘の世界」は非常に興味深いです。

 柳田布尾山古墳はこの図が示すように日本海側を代表する大型前方後方墳で、墳丘長は107.5mあり、前方後方墳としては日本海側最大規模を誇ります。



 また、日本海側ではこの古墳より東側には100m以上の古墳は存在しません。

 ところで、100mという単位は現代のもので、古代はメートルなんで単位はなかったわけですが、不思議なことに100mってひとつの基準に思えて、古代人的にも同じような感覚があったような気がします。

 なお、この図には記されていませんが、島根県松江市にある前方後方墳の山代二子塚古墳は島根県最大の古墳で、墳丘長は92mあるので、おそらく日本海側の前方後方墳としては2位になると思います。


 ※2018年10月4日撮影

 ただし、山代二子塚は6世紀に築造されているため、一般的な古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀後半まで)に築造された前方後方墳と歴史背景を同じに考えてはいけません。

 その話はまたどこかですると思いますが、今日は柳田布尾山古墳ですね。

 古墳の立地はとても大事です。



 海に臨む古墳では、海からの眺望を気にして造られていることが多く、この古墳の場合は、さらに二上山丘陵というのがキーになっているようですね。

 主体部の説明。



 副葬品は盗掘のためほとんど残っていなかったような記述ですが、一般的には前方後方墳は前方後円墳と比べて副葬品が貧弱です。

 ただし、愛知県犬山市の東之宮古墳(墳丘長72m)のように例外もありますから、柳田布尾山古墳の規模からして立派な副葬品が収められていたかもしれませんね。


 ※2020年12月25日撮影

 氷見市は結構古墳が多いです。



 古墳館の最上階は展望ルームになっています。



 各方角ごとに眺望の説明があっていいですね。

 例えば北側の眺望の説明。



 こういうのって特に私のような外から来た人にとっては重宝するのです。



 柳田布尾山古墳も見えますよ。



 ところで、古墳館はエアコンがないため今の季節(夏)は暑いです。

 ハチが入ってくるために窓が開けられないそうで、夏はそんなに長く滞在できませんのでそのつもりで来るといいですね。

 なお、受付では氷見市博物館で刊行している各種図録などの資料類が販売されているので、氷見市博物館に行く予定がない方はここで購入するといいでしょう。

 では、古墳へ行きますよ!

 あー、外が涼しく感じる。

 墳丘に取りつく前に、説明板などを見ていきましょうか。

 まずは、ジオラマ!



 こういうのはいいですねえ。

 今はありませんが、古墳時代には布勢水海があり、その後は十二町潟と呼ばれます。

 日本海側には今でもラグーンやその形跡が多く残っていますが、弥生時代や古墳時代にはもっとたくさんあって、その時代の人たちは船での移動を多用していましたから、こういう地形は大好きだったと思います。

 古代において日本海側が太平洋側と比べて文化の移入に有利だったのは、こういう地形が多くあったことが原因の一つです。

 角度を変えてみます。



 古墳の主軸のラインで後方部の先にある少し高く表現されている山が二上(ふたがみ)丘陵で、高岡市と氷見市にまたがっており、最高峰の二上山は標高274mです。

 つづいて説明板。



 平成10年に発見されたということで、結構最近デビューした古墳なんですね。

 デビュー早々、その高いポテンシャルによって一躍日本海側を代表する前方後方墳に躍り出たというわけです。

 測量図を見ると、後方部は2段築成になっているのが分かり、後方部墳頂にはかなり大きな盗掘孔がありますね。



 でもそれ以外はかなり原型が残っているのではないでしょうか。

 あとは、後方部の東側には円墳か方墳のようなものもあります。

 墳丘の立体模型もありますよ。



 カッコいいねえ。

 地域の古墳。



 これらのうち、今日は稚児塚、王塚、勅使塚を探訪しました。

 このあとは桜谷1号墳へ行きますよ。

 ※後日註:この2日後には朝日長山古墳を探しに行き玉砕しました。

 では、いよいよ古墳ちゃんに登ります。



 季節柄、「モシャ子ちゃん」になっているので美容室に行った方がいいかもしれませんが、墳丘登頂用の階段がありますので心配はいりません。

 ※註:墳丘に下草が生えてモシャモシャになっている古墳のことを「モシャ子ちゃん」と称し、下草刈りが終わると「美容室に行った来た」と称す。

 西側。



 前方部底辺を進みます。



 砂利が敷いてある箇所は周堀の跡を示しています。





 では、前方部に登ってみましょう。



 海が見える古墳っていいですねえ。



 夏は古墳めぐりには向いていませんが、海の青さと山の緑色を古墳と同時に楽しむには一番いい季節かもしれません。



 前方部から後方部を見ます。



 樹木が遮っていますが、奥には二上丘陵が見えます。

 海側にちょっとパン。



 モシャ子ちゃんなので、くびれ部分のエッヂは確認できません。



 後方部から前方部を見ます。



 主体部の表示。



 説明板。



 粘土槨は2.5m下から見つかったということですが、通常より深いのではないでしょうか。

 今まで気にしたことがありませんが、もしかして前方後方墳は前方後円墳よりも主体部を深い場所に造るのかな?

 それとも北陸の地域性か?

 これからは気にするようにします。

 後方部からの眺望。










 お隣の古墳ちゃんが見下ろせますね。





 行ってみましょう。

 柳田布尾山古墳とかなり近接しており、これだと周堀が切りあいそうです。



 先ほど古墳館で見たジオラマを確認してみましょう。



 これだと柳田布尾山古墳の周堀は一周していませんが、もう少し詳しく知りたい。

 私の知る限りでは関東の古墳は畿内の古墳ほどしっかりとした周堀を造らず、意外と形状も深さもラフなのですが、北陸もそうなのでしょうか。



 説明板を読んでみましょう。



 方墳かと思いましたが、意外に円墳でした。

 でも主体部は調査していないということなので詳しいことは分かりませんが、柳田布尾山古墳との関係が気になりますね。

 柳田布尾山古墳の築造は、3世紀末から4世紀前半頃ということですが、円墳だったらこれよりも後になるのではないでしょうか。

 ※後日註:四角形が優勢な地域なので円墳のほうが後だと考えたのですが、この2日後に訪れた石川県中能登町の雨の宮古墳群では、大型墳としては古墳群最古の1号墳(墳丘長64mの前方後方墳)のとなりに円墳があり、円墳のほうが古いと言われているため、柳田布尾山古墳の場合も前後関係は保留しておきます(ただし、雨の宮1号墳の築造は4世紀後半なので柳田布尾山古墳の築造時期とは歴史背景が違います)。

 ということで、柳田布尾山古墳は姿も美しく、周囲の景色もこれまた美しい古墳で、こちらに来たときは絶対に訪れるべき古墳ですね。

 さて、つづいては桜谷古墳群へ行ってみましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板


富崎千里古墳群|富山県富山市 ~前方後方墳をはじめとして17基の古墳からなる四角形が優勢な古墳群~

2021-07-24 22:26:38 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑥



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 富崎墳墓群では、「生よすみ」を見ることができますが、バスで行くことができません。

 できれば王塚古墳と勅使塚古墳以外にも、もう一か所はどこかへ案内したいので、ダメもとで富崎千里(とみさきちさと)古墳群を確認しに行きます。

 富崎千里って人の名前みたいですが、手元のガイドマップを見ると駐車場もあるようなのでバスで行けるかもしれません。

 さて、現地に着きましたが駐車場は閉鎖されています。

 今日は王塚・千坊山遺跡群をさまよっていますが、一度はかなり整備をした形跡が見られるものの、その後それを維持することが難しくなったようで、いろいろな場所で残念な光景を見ます。

 しかしこういう状況はここに限ったことではなく、全国的に見られることですから仕方がないですね。

 駐車場の隅に説明板が見えます。



 駐車場には入れないので、空き地に車を停めて行ってみます。



 説明板が葉っぱちゃんに覆われそうになっていますが、富崎千里古墳群は、北群と南群に分かれ、北群には3基の方墳があり、南群には前方後方墳が1基、円墳が1基、方墳が12基の計14基があるということです。

 やはり、四角形が優勢なんですね。



 12号墳がないですが、もしかしたら後になって古墳ではないことが分かったのでしょうか?

 なお、富山市考古資料館の展示によると、富崎千里9号墳の築造時期は、先ほど訪れた勅使塚古墳よりも古く、富山県で最古の古墳になるようです。

 しかしここは、完全に侵入不能ですね。



 季節を選べばもしかしたら行けるかもしれませんが、何とも言えません。

 この場所もツアーで来ることはできませんね。

 以上で王塚・千坊山遺跡群めぐりを終えますが、この成果をもとにツアー本番の行程を考えることにします。

 つづいて氷見市方面へ向かいますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             


 2021年7月20日の探訪では、王塚・千坊山遺跡群の遺跡のうち、王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群の4か所を訪れました。

 実は昼休憩をとったローソンの近くに弥生時代の集落跡である千坊山遺跡があったため、近辺まで歩いて行ったのですが、何も見つけられず戻りました。

 帰宅してからWebを見たところ、説明板が設置してあるようで、それを見られず残念でした。

 では、何度も使わせていただいていますが、富山市考古資料館の展示パネルで遺跡を確認してみましょう。



 「国指定史跡 王塚・千坊山遺跡群」に含まれているのは、私が訪れた王塚古墳、勅使塚古墳、富崎墳墓群、富崎千里古墳群、千坊山遺跡(説明板を見つけられなかった)、それに今回訪れなかった六治古塚墳墓(四隅突出型墳丘墓)と、向野塚墳墓(前方後方形墳丘墓)です。

 Webで確認したところ、六治古塚墳墓は墳丘が残っているようですが、向野塚墳墓の墳丘は隠滅しているようです。

 『王塚・千坊山遺跡群』(大野英子/著)によると、旧石器時代から中世に至る複合遺跡である千坊山遺跡では弥生時代終末期の集落跡(当該期では県内最大規模の集落跡)が見つかっており、六治古塚墳墓、それと向野塚墳墓がこの集落に対応した墳墓となります。

 時期的に見ると、富崎墳墓群の3基の四隅突出型墳丘墓も後期から終末期にかけて築造されていますが、その中でも私が現地で確認した3号墓が最も古い弥生時代後期後葉の築造となり、富山県内で最古の四隅突出型墳丘墓となります。

 なお、有名な島根県出雲市の西谷墳墓群が築造され始めたのも後期後葉で、伝播の経路を考慮すると、西谷墳墓群で最古の西谷3号墓につづいて福井県福井市の小羽山30号墓(北陸最古の四隅突出型墳丘墓で突出部を加えた墳丘サイズは28×33m)が築造され、そのあとに富崎3号墓が築造されたと考えてよいでしょう。

 富山市のあたりは四隅突出型墳丘墓の東限ですが、『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』によると、福島県喜多方市(旧塩川町)の舘ノ内遺跡の1号及び2号方形周溝墓は、四隅突出型墳丘墓の影響を受けての造営が推測され、東北地方最古段階の周溝墓(墳墓)と考えられています。

 出雲の王墓と言われる四隅突出型墳丘墓と同様の形態の墳墓が王塚・千坊山遺跡群にあるということは、普通に考えてこの地(越=古志=コシ)の首長と出雲の王は関係がありますね。

 時期的には北部九州で伊都国や奴国が中心となって大きな政治連合が結成されていた頃、出雲は出雲で独自の動きをしており、出雲は日本海沿いに東側に調略の手を伸ばしていたようです。

 出雲から古志へ海岸沿いに向かうと、その途中には丹後半島があります。

 丹後(丹波=タニハ)には台状墓という形態の墳墓が見られるため、独自の王権が存在したと考えられ、近年では丹後半島でも四隅突出型墳丘墓の発見があったものの丹後半島には出雲の力は及びづらかったようです。

 では、古志の王が出雲の王の支配下にあったかというとそうとも言えず、古志の王は出雲の王の強力なパートナーとして存在し、ヤマト王権が畿内に発足して北陸に触手を伸ばしてきた後も、出雲と同様、そう簡単にはヤマトには屈しなかったと考えます。

 

5.参考資料                           


・『塩川町埋蔵文化財調査報告4 舘ノ内遺跡』 塩川町教育委員会/編 1998年
・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年
・『出雲弥生の森博物館 展示ガイド』 出雲弥生の森博物館/編 2010年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓』 渡辺貞幸/著 2018年