日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

富崎墳墓群|富山県富山市 ~森の中に3基の「生よすみ」が佇む遺跡~

2021-07-24 21:38:49 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>⑤



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 王塚・千坊山遺跡群の代表的な古墳である王塚古墳と勅使塚古墳は見ましたが、周辺にはまだたくさんの遺跡があるため、もう少し調べてみます。

 でもその前にランチ。

 時刻は13時半です。

 あ、ローソンがある。

 明日は氷見市に泊まりますし、せっかくなので氷見うどんを食べよう!



 氷見うどんは、きしめんほどではないですが、平たいうどんなんですね。

 美味しかった。

 さて、手元の資料で見学が可能そうな遺跡を探してみますが、富崎墳墓群が良いかもしれません。

 ※位置は富山市考古資料館の展示パネルをご参照ください(図中の真ん中あたりにあります)。



 ナヴィに脳内を支配されながら走っていきますが、遺跡へ至る道はバスでは来れません。

 走っていると右手に説明板を確認できました。

 駐車場がないため路駐しますが、この道は牧場へ至る道で、関係者以外の車は牧場の入り口でどん詰まりのようです。

 というか、すごく良い景色!



 牧場方面です。



 気持ちの良い場所ですね。

 では、遺跡を見てみましょう。



 富崎墳墓群には、四隅突出型墳丘墓が3基存在するようです。



 四隅突出型墳丘墓については書いてある通りですが、省略して「よすみ」と呼ぶことも多いです。

 遺跡として有名なのは、島根県出雲市にある西谷墳墓群で、クラツーで何度かご案内したことがありますよ。


 ※西谷2号墓(2018年10月3日撮影)

 まあ、案内と言ってもここの場合はいつも現地の学芸員の坂本さんが案内してくださりますから、私はお客様と一緒に説明を聴いたりしています。

 ちなみの上の西谷2号墓は貼石まで復元した立派なものですが、説明板の裏にはこれの仲間が眠っているわけですね。

 富崎墳墓群の配置図はこのようになっています。



 なお、弥生時代に築造された墓ですので、「古墳」とは言わず、「墳丘墓」とか「墳墓」などと呼びます。

 ですから数字で呼ぶときも、「1号墳」ではなく、「1号墓」と呼ぶんですよ。

 こちらは3号墓から出土した遺物。



 では、よすみを見てみたいと思いますが、道路から見えている土盛りは墳丘ではなく、また周堤の類でもないため遺構ではないと思います。

 墳丘はその奥にありました。



 3号墓です。

 だけど、訪れた季節がよくないですね。

 完全に藪化しています。

 中に入っていくのも躊躇されますが、せっかく来ていますから、藪の薄い個所を見つけて、蜘蛛の巣を払いながら進んでみましょう。



 手元の資料によると、発掘調査を行った後埋め戻しているようですが、発掘時から道路側(南側)の突出部ははっきりしていなかったようで、現況は残っていません。



 上述の西谷墳墓群みたいにきれいに整備されている各地のよすみも、整備前はこんな感じだったんでしょうね。

 こういうのは、「生よすみ」と呼ばせてもらいますよ。

 北側に回ってみると、こちら側の突出部は形跡があります。



 図面を見ても北側の突出部は少し残っていますね。

 いいねえ。



 蚊の来襲はそれほどでもありません。



 1号墓と2号墓は少し離れたところにあるので、このまま森の中を突き進むのはやめます。



 戻りましょう。



 1号墓と2号墓がある方には農道が付いているので、そちらへ行ってみましょう。

 でもこれじゃよく分かりません。



 ※帰宅後に図面を見ていて思ったのですが、もう少し農道を進めば林の中に入れたかもしれません。

 あれ、なぜこんなところにこんな石が埋められてあるのでしょう。



 こんな丘の上に丸石があるのが不自然ですがよく分かりません。

 あ、遠くに何か説明板らしきものが見えます。



 西側の森ですが、呪力ズームを使って見てみます。

 富崎城跡!



 中世の城跡もあるんですね。

 しかし良い景色だ。



 ここは現況はこんな感じですが、一部のお客様には喜んでいただけるかもしれない。

 だけど普通車ならこれますが、既述した通りバスは無理ですねえ。

 クラツーのツアーで来るのは諦めます。

 というわけで、王塚・千坊山遺跡群ではもう一か所くらいは見ておきたいな。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅後、この記事を書くために写真の編集をしていました。

 私のデジイチはもう10年以上使っており、影のようなノイズが結構写るので、帰宅後はPhotoshopで一々消しており、意外と時間が掛かるため時間がもったいない気がしています。

 その作業中、上でも掲載していますが、こちらの写真の右上のほうに鳥の姿のようなものが写っているのに気づきました。



 ところが、拡大してみたところ、変なものが写っているんですよね。

 オリジナルサイズのままで問題の箇所をトリミングしたものがこちらです。



 もしかしてこれは!

 問題の箇所を300%拡大してみました。



 実はこの日の翌々日、石川県羽咋(はくい)市を探訪したのですが、羽咋市がUFOの目撃の多さで有名だということを現地に行ってから思い出しました。

 なお、写真を撮影した個所から北西に直線距離で40㎞のところに羽咋市役所があります(写真で奇妙な飛行物体が写っている方角がまさしく羽咋市方面)。

 その日は、羽咋市歴史民俗資料館に下見に行ったのですが、たまたま近くに「コスモアイル羽咋」があったため探訪しています。



 コスモアイル羽咋の探訪記事は後日書くかは分かりませんが、非常に楽しい施設で、私くらいの世代の人には特に面白く感じるかもしれません。





 名誉館長はあの矢追純一さんだ!



 ちなみに、博物館の前にあるこちらのお店のカレーは美味しいですよ。





 店内には、雑誌「ムー」の80年代のバックナンバーがあったり、UFOの写真が飾ってあったりして、UFOとか宇宙人とかに夢中になった小中学生の頃を思い出して楽しかった。

 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年

勅使塚古墳|富山県富山市 ~富山県内で2番目の規模を誇る前方後方墳~

2021-07-24 16:05:58 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>④



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 王塚古墳はなかなか好印象な古墳でしたが、問題はどこにバスを止めるかですね。

 でも周辺を調べたので作戦は思いつきました。

 つづいて、勅使塚古墳へ行ってみます。

 ここから歩くと遠いのは分かっていますので、いったん駐車場へ戻り、車で行きますよ。

 細い道を勅使塚古墳のほうへ向かっていると、東屋やトイレ、それに駐車場もある場所に出ました。

 池では釣りをしている人もいます。

 説明板らしきものが見えるので、車を止めて行ってみましょう。



 全体的な説明でしたね。

 一応、山の中に入っていく道はあります。



 でも、ここから勅使塚古墳は遠いですし、違う場所を探してみます。

 ・・・うーん、いい場所がないですね。

 結局は最初に車を停めた「富山市婦中ふるさと自然公園」の駐車場から歩いていくほかないですな。

 とりあえず自分で歩いてみて、ツアーで歩くことが可能が調べてみます。

 トボトボと歩き出すと、右手には各願寺へ向かう散策路があります。



 最初に見た「ウォーキングコース」の看板が示唆している通り、周辺には散策路が張り巡らされているのですが、最近は維持管理が追い付かないようで、歩ける箇所が少ないようです。

 ハス池だ!







 おっと・・・

 見たくないものが現れた・・・



 もう、これから山の中に入っていくのにこういう表示があると怖いじゃないの。

 では、山登りを始めますよ。



 少し歩いては上を見上げて、古墳はまだですかー、とつい口に出してしまいます。



 案内板はこうなってしまうとすでに案内の機能を喪失しているため、ただの「板」ですね。



 クマさんが出てきたら嫌なので、無駄に大声を張り上げながら登ります。

 いや、これが逆効果で、「うるせえなあ」と排除しようと思って近づいてきたらどうしよう?

 こ、古墳はまだかな・・・



 お、上のほうに説明板が見える!

 ありました!

 バーン!



 おや、これは後方部ですね。

 全体の写真を撮ろうとしてもこれ以上引けないので無理です。

 前方部側。



 5分も登っていないので大したことはないのですが、クマさんのプレッシャーがかかるので時間が長く感じる。

 説明板を読んでみます。



 説明板に書いてある通り、県内で2番目の大きさの前方後方墳で、墳丘長は先ほど訪れた王塚古墳よりも8m大きい66mです。

 ちなみに、富山県で最も大きい前方後方墳は、本日中に訪れる予定ですが、墳丘長107.5mを誇る氷見市の柳田布尾山古墳で前方後方墳としては北陸で最大となります。

 築造時期は、王塚古墳よりも古いですが、説明板に「県内最古」とあるのは、その後の調査の結果でさらに古い前方後方墳が見つかっています。

 富山市考古資料館に展示してあった編年図を再掲します。



 また、説明板の内容からすると、主体部の墓壙は掘り下げてはいるものの、「木棺が安置されていると推測される槨の痕跡がある」という歯がゆい表現になっているため、結局のところ主体部は不明ということでしょうか。

 確かなのは墓壙の大きさですね。

 墳丘図はこちら。



 こちらの図はトレンチの場所も書かれています。

 王塚古墳は段築がないようですが、勅使塚古墳の後方部は2段になっていますね。



 ただ、削られ方が不自然で、後世の改変が大きいんじゃないでしょうか。

 東側には富山平野が展開しているのですが、木々に遮られており眺望はきいていません。



 段築(?)の角度が急すぎて登れないのですが、反対側に回ると登れそうな場所がありました。



 後方部墳頂。





 後方部から前方部を見ます。









 王塚古墳と同様、葺石は確認できません。





 墳丘から降ります。



 ここも雪が降る前の冬場に来ればもっとはっきり形が分かるんだろうと思います。



 この古墳は到達するために5分程度の山登りがありますが、お客様には頑張って登ってもらおうと思います。

 つづいて、周囲にツアー向きの遺跡があるか、もう少し探索してみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年

王塚古墳および各願寺|富山県富山市 ~よく整備されていて真夏でも歩きやすい前方後方墳~

2021-07-24 14:21:14 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年7月20日(火) 北陸ツアー下見1日目<越中探訪>③



この日の探訪箇所
稚児塚古墳 → 富山市考古資料館 → 王塚古墳および各願寺 → 勅使塚古墳 → 富崎墳墓群 → 富崎千里古墳群 → 勝興寺(越中国府跡) → 柳田布尾山古墳および古墳館 → 桜谷古墳群 → 越中国分寺跡


 富山市考古資料館を見学した後は、いよいよ本格的な古墳めぐりを開始しますよ。

 王塚・千坊山遺跡へ向けて車を走らせていると、前方に多摩の横山のような丘陵が見えてきました。

 呉羽山丘陵です。

 ツアーでは王塚・千坊山遺跡群を銘打っていますが、広い遺跡群の中のどこを案内するか、実地踏査をしながら考えようと思います。

 もっとも魅力的なのは、王塚古墳と勅使塚古墳という2基の前方後方墳です。

 そのため、まずはその2基を訪れることを前提に周囲を調べてみますが、大型バスが停められる場所を探さなければなりません。

 やってきたのは「富山市婦中ふるさと自然公園」の駐車場です。

 駐車場への進入路は、道幅は大丈夫であるものの樹木が枝を道のほうに張っているため高さがちょっと心配ですが、他に止められそうな場所はありません。

 ひとまず周囲の看板を見て情報収集です。



 ここから王塚古墳は歩くとしたらちょっと遠い。

 先日、久留米に行った時も話が出ましたが「曲水の宴」をやったんですね。



 ウォーキングコースの看板も時には参考になります。



 王塚古墳に行くのは古墳にもっと近い停車場所を探す必要がありますが、せっかくですから各願寺に参拝してから行ってみましょう。



 各願寺は、北叡山と号する真言宗の寺院です。



 本堂はこちらで、本尊は薬師如来です。



 文化財の説明。



 縁起はこちらに書いてありました。



 不動堂。





 ところで、先ほど訪れた富山市考古資料館の展示パネルで遺跡全体と現在の場所を確認しておきましょう。

 遺跡群全体はこんなに広いんです。



 その中でも、これから歩こうと思っている王塚古墳や勅使塚古墳の周辺はこのようになっています。



 では、王塚古墳に近接するため、もう一段高い場所にある「ふれあい広場」の駐車場へ車で移動します。

 来てみると現地は今でも駐車スペースはありますが、進入路の枝も張り放題ですし、あまり積極的には利用されていないようです。

 でもとりあえず、ここから古墳へ歩いて行ってみます。

 東側には富山平野が見えますね。





 茶色い建物は「ふるさと創生館」ですが、古代史ツアーとは関係がないので訪れません。

 というか、人気が感じられません・・・

 道路には案内図があります。



 案内図に書いてあるかんぽの宿は現在はやっていません。



 さらに先へ行くと王塚古墳の看板が見えました。



 やはり、この辺では最高所に位置します。

 標柱発見!



 でも説明板のほうへ行ってみますよ。



 ここに書いてある通り、王塚古墳は墳丘長58mの前方後方墳で、前方後方墳としては北陸で4番目の大きさを誇ります。

 築造時期に関しては、このあと訪れる予定の勅使塚古墳よりも遅いとされており、そうなると4世紀前葉でしょうか。

 説明板には「約1700年前」とありますが、『王塚・千坊山遺跡群』(大野英子/著)でも具体的な築造年代は記されていません。

 墳丘図はご覧の通り。



 方位は図の左下のコンパスを見てください。

 説明板の場所から木の枝を避けつつ下草を踏みながら古墳へ近づくと、私が一番好きなアングルの場所に出ました。



 手前が前方部、奥が後方部ですよ。



 東側に回ってみます。



 真夏にしては歩きやすい方ですし、墳丘にも登りやすいです。

 前方部には段築は認められず、これは前方後方墳ではありがちです。



 後方部を見ると傾斜がストレートではないですが、これは段築があったあとではなく経年劣化だと思われ、墳丘図の等高線を見ても段築らしきものはありません。



 前方部の墳頂。



 後方部に登りますよ。



 中規模の古墳ですが、前方部を見下ろすと前期の古墳らしく結構な高低差があります。



 前方後方墳に登ったら絶対にチェックするべき箇所が、後方部のエッヂ部分ですよ!



 おー、角が決まってますね!

 王塚古墳は歩きやすくていい古墳です。



 周堀は全体にはめぐっておらず、西側には浅く堀状になっているためそれが周堀跡かもしれません。



 墳丘図を見ると後方部西側には造出様なちょっとした張り出しがあるでんすよね。



 王塚古墳の史的意味付けなどについては、王塚・千坊山遺跡群を全体的に訪れてから語ろうと思います。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『王塚・千坊山遺跡群』 大野英子/著 2007年


小泉大塚古墳|奈良県大和郡山市 ~地域最古の大型前方後円墳~

2021-07-18 00:31:51 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年6月21日(月)



この日の探訪箇所
六道山古墳 → 小泉大塚古墳 → 法起寺 → 中宮寺跡 → 法輪寺 → 仏塚古墳 → 藤ノ木古墳 → 斑鳩文化財センター → 法隆寺


 六道山古墳の周辺を無駄に徘徊したような感じですが、つづいて小泉大塚古墳を目指します。

 県道9号線を西へ、登り坂を登っていきます。

 振り返ると六道山古墳の森が見えますね。



 ここから上の方へ階段を上っていくと小泉大塚古墳が現れるはずですよ。



 南側の眺望。



 ありました!



 周堀の跡でしょうか。



 さて、この小泉大塚古墳もさきほどの六道山古墳と同様、今のところは「前方後円墳データベース」しか情報源がありません。

 それによると、墳丘長は88mで、後円部は2段築成、主体部も調査しているようで、石槨と割竹形木棺です。

 出土品は、中国産の内行花文鏡が1枚以上、画文帯神獣鏡が1枚、獣首鏡が1枚、国産の内行花文鏡、獣形鏡、長宜子孫内行花文鏡などが出ており、三角縁神獣鏡はありませんが、鏡が多いです。

 前方後円墳集成編年は2期(前期)ということで、この地域では最古の古墳になるでしょう。

 古墳の隣には人が住んでいない集合住宅が建っており、後円部しか残っていないように見えます。



 ※後日註:帰宅後に大和郡山市のHPを見たところ、小泉大塚古墳は昭和37年(1962)と平成8年(1996)に調査が行われており、前方部は古くから削られており、埴輪や葺石はなく、主体部は後円部の中央に墳丘の主軸と直交して設けられ、大きさは全長5.5m×幅1mです。

 小泉大塚古墳が造られた場所は、この辺では最高所と思われ、地域最古の古墳の立地として相応しいです。

 北側の眺望。



 では、先ほど歩いてきたのとは反対側へ行ってみましょう。

 ※後日註:帰宅後にWebを見ていたら説明板があったことが分かりましたが、現地では見た記憶がないんですよね・・・(葉っぱに埋もれていたのかも)。

 県道まで戻ってきて振り返ります。





 ここからさらに西へ向かいますが、下り坂になっており、既述した通りこの場所が最高所になっていて「峠」のようになっているのが確認できます。



 では、次は法起寺へ詣でます。

 (つづく)

六道山古墳|奈良県大和郡山市 ~皮肉にも破壊によって新たな知見が持たらされた大型前方後円墳~

2021-07-17 22:53:59 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年6月21日(月)



この日の探訪箇所
六道山古墳 → 小泉大塚古墳 → 法起寺 → 中宮寺跡 → 法輪寺 → 仏塚古墳 → 藤ノ木古墳 → 斑鳩文化財センター → 法隆寺


 今日は聖徳太子に会いに行きます。

 こんなアヅマエビスのおっさんがアポなしでいきなり行って果たして会ってくれるのでしょうか?

 というか、そもそもご存命なのでしょうか?

 そういう難しいことは考えず、ひとまず奈良へ向かいます。

 ちなみに私の頭の中では聖徳太子はこのイメージです。



 青いジャージを着用されている方が聖徳太子です。

 さて、今日に関しては仕事ではないため、ゆっくり無理のないように行こうと思い、新幹線で京都まで行き、奈良線に乗り換えて奈良に着いたときはもう10時を過ぎていました。

 宿泊は近鉄奈良駅近くの東横インですから、探訪が終わったあとまたここに戻ってくるので、コインロッカーに荷物を預けます。

 少し前まではコインロッカー代を捻出することが困難だったため、重い荷物を背負って一日歩いていましたが、いまは皆様のお陰で「コインロッカーを借りられる男」にスペックが上がりました。

 冗談抜きで皆様には本当に感謝しております。

 奈良からは関西本線に乗り換えです。

 ホームに行くと電車がいたので撮影。



 奈良から2つ目の大和小泉駅で下車しました。

 駅舎から歩く方向を見ます。



 今日の最大の目的は法隆寺ですが、法隆寺に向かう途中に出現する遺跡を見て行こうと思います。

 最初は、六道山古墳へ行ってみますよ。

 大和小泉駅。



 富雄川まで来ました。

 川を渡らずに北上しようかと思ったのですが・・・

 歩道が荒れている!



 こういうのは、奈良っぽいといえば奈良っぽい。

 まあいいや、渡河しましょう。

 富雄川の下流方向。



 そういえば、富雄川と言えば日本最大の円墳である富雄丸山古墳を想起させられると思いますが、ここから北のほうに直線距離で約4㎞のところにありますよ。

 住宅街の中をテクテク歩きます。

 お、「片桐城址」の石碑!



 片桐というのは地名なのか、はたまたあの片桐且元に関係があるのでしょうか。



 奈良って歩いていると結構城跡に出くわしますね。

 時間があればこういうのも丹念に見ていきたいですが、さすがに城跡に寄っている時間はないですな。

 ※後日註:帰宅後に調べてみたら且元の弟の貞隆が近世初頭に陣屋にしていた歴史があったんですね。

 大和小泉駅から歩きだして10分ちょっとで六道山古墳らしき森が見えてきました。



 さて、どうやって近接すればいいかな?

 ひとまず北側の県道9号線のほうに回ってみます。

 うーん、ありましたがフェンスで囲われており墳丘には入れないようですね。



 説明板らしきものもないようです。



 古墳の東側は富雄川のほうへ向けて地形が落ちています。



 でもこの場所は最高所ではなく、西の方はさらに地形が高くなっていますよ。



 このまま終わらせるのも癪なので、周辺を一周してみます。

 墳丘の周りは住宅街になっており、どこからも取り付けないですね。



 だめだこりゃ。

 関東の古墳めぐりをしているときは墳丘に登れないとガッカリしますが、奈良の場合は墳丘に立ち入れない古墳がむしろ当たり前なので諦めもつきます。

 なお、六道山古墳についての詳しいことは分かりませんが、奈良女子大学謹製のWebサイト「前方後円墳データベース」によると、元々は墳丘長100mの前方部の短い前方後円墳でしたが、現在は前方部は削平されているとのことです。

 では、続いて近くにある小泉大塚古墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             


 帰宅してから『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編・1992年)を読んだため、その記述をもとに述べます。

 まず最初に驚いたのは、該書の例言に、「調査は、宗教法人慈光院(中略)による墳丘裾部の無断・無届けによる破壊工事を受け、緊急に実施したものである」とあることで、これはただ事ではないと思って読み進めると、六道山古墳が破壊されているとの通報を受けた大和郡山市教育委員会の担当者が現場に急行し、工事をストップさせ、その後緊急発掘調査をしたとのことです。

 該書からは無届けによる文化財破壊への強い憤りを感じることができ、おそらくこの事実を知った多くの方が同じような気持ちになるでしょう。

 ただし、1974年刊行の『奈良県の主要古墳Ⅰ』にはすでに前方部が破壊されていると記されているため、上述の無届の破壊行為は後円部側の裾部分でのできごとです。

 なお、破壊されている前方部の位置は北側の県道側のほうで、写真を再掲しますが、この砂利の駐車場にもともと前方部がありました。



 さて、調査の結果ですが、葺石と埴輪は確認されず、後円部は2段築成の可能性がありますが、注目すべき記述として、後円部南東部に福岡県八女市の岩戸山古墳の「別区」のような張出部分が見られ、「こうした典型的別区と同様の施設であるかどうかは今後の詳しい検討を経なければ判明しないが、とりあえず注意を喚起しておきたい」とあります。

 該書は発掘調査報告書ですが、かなり攻めた記述でいいですね。

 ただし、岩戸山の別区は墳丘からの張り出しではなく、周堤に付属しています。

 古墳の位置には弥生時代の集落があったということで、複合遺跡となりますね。

 六道山古墳は、この調査が行われる前までは、前期末から中期前葉の築造と言われていましたが、ダイナミックに破壊された盛土の中からTK-47型式に属する須恵器が出たため、古墳築造の上限は5世紀末~6世紀初頭と考えられ、近辺の古墳を含めた編年は下記の通りに修正が迫られました。

 小泉大塚古墳 → 瓦塚1・2号墳 → (未知の古墳) → 六道山古墳 → 小泉東狐塚古墳 → 小泉狐塚古墳 → 笹尾古墳

 該書をお読みになりたい方は、下記リンクからどうぞ。

 

5.参考資料                           


・前方後円墳データベース
・『大和郡山市文化財調査概要23 六道山古墳Ⅰ 第2次緊急発掘調査報告書』(大和郡山市教育委員会/編) 1992年