日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

室宮山古墳|奈良県御所市 ~ソツヒコの墓か?~

2021-06-29 22:58:27 | 歴史探訪
 一言主神社では、図らずも一言主と対話をしている雄略天皇の様子を伺うことができてとても嬉しくなりましたが、本日の探訪の最後は当地域最大の前方後円墳である、室宮山古墳へ向かいます。

 古墳は墳丘麓の八幡神社から登って行けるそうですが、神社には駐車場はないということで、少し離れた場所に車を止め、歩いて古墳へ向かいます。

 古墳の森を見上げながら歩いていると、広場のようなものがあり、少し離れた場所に説明板が立っているのが見えました。

 念のため確認しに行きます。

 なんだ、公園の看板か。



 あちらが室宮山古墳の後円部ですね。



 こちらが前方部。



 大きすぎて写真に収まらないです。

 池がありますが、これがさきほどの看板に書いてあった桜田池ですね。



 八幡神社に着きました。



 墳頂への案内図もありますね。

 説明板もあります。



 孝安天皇の宮跡!

 標柱もある!



 いいねえ、欠史八代。

 ちなみに私は欠史八代は実在したと考えており、クラツーの日本書紀講座では、欠史八代について90分かけて講義させていただいたこともあります。

 こちらが拝殿。



 まずは神様にご挨拶ですね。

 本殿。



 神武天皇遙拝所でもあります!



 欠史八代は実在で間違いないですが、実は神武天皇に関しては人造されたのではないかと考えております。

 ただし、この考えは昨年から考え始めたため、以前の日本書紀講座では欠史八代と同様、実在の人物と仮定して話しました。

 もっともそのときは、ニニギノミコトから3代も実在と「仮定」して話したのですが・・・

 この鳥居をくぐって墳頂へ登るようです。



 この古墳は、ウェルカム度が高いですよ。



 登り始めると段築になっているのが分かります。



 本殿。



 墳頂に登りました。

 おお!

 ありましたよ!

 竪穴式石室が開いています!



 天井石が1枚分だけ外されており、長持形石棺が見えています。

 いいねえ。



 短辺側にも縄掛突起が2つあり、さらに突起がもう2つあるのが確認できます。



 説明板を読んでみましょう。



 そうですよねえ、石室に入ったままの本物の長持形石棺が見られる場所なんてほかにはありませんよね。

 素晴らしすぎる。

 そして、その横にはレプリカの靭形埴輪が佇立しています。





 外されている天井石かなと思いましたが、説明板を読むと北側の主体部の天井石でしょうか。





 そういえば、今年の4月には、福岡県久留米市の浦山古墳にて横口式家形石棺に入りました。







 石棺の中に入ったのは浦山古墳を含めてまだ2基しかありませんが、この室宮山古墳は横口式ではないため、石棺に入ることはできません。

 ただし、浦山古墳は家形石棺で、こちらはさらにランクが上の長持形石棺ですよ。

 石棺の中には入れませんが、石室の中には降りることができます。

 本物の竪穴式石室に入れるだけでも興奮してきます。

 石棺の壁面には穴が開いており、盗掘口でしょうか?







 私が石棺の撮影をしているところは客観的にみると不審者だ。



 後円部は古墳好きにはたまらないワンダーランドになっていますが、この墳頂以外は完全に藪化しています。



 前方部のほうまで綺麗になっていたらもっと素敵ですが、現状のままでも充分に素晴らしいと思います。

 後円部墳頂全景。



 皆様もご満悦のようで良かったです。

 ※後日、お客様に撮っていただいた写真を見たら奇妙なものが写っていました。

 これはまあ普通でしょう。



 ※一緒に写っているMさんからはブログ掲載の許可をいただいていないため、モザイクをかけさせていただきました。

 問題はこちらです。

 この土気色した変な人形のようなおっさんはいったい誰でしょうか?



 普段から埴輪になりたくて努力しているので、その成果が出たのかもしれません。

 このまま墳丘に樹立されたい。

 ところで、橿原考古学研究所附属博物館は長らく休館中ですが、順調にいけば今年の11月ごろには再開するそうです。

 この長期の休館になる前に室宮山古墳の展示の写真を撮っていました。

 後円部墳頂の大型埴輪が大集合!



 南側主体部の様子はジオラマで再現されていました。









 橿原考古学研究所附属博物館の再開が待ち遠しいです。

 では、ひとしきり遊んだので、名残惜しいですが帰りましょう。

 おや、古墳の説明板がありましたよ。





 せっかくなので、先ほどとは反対側を歩いて墳丘を眺めながら車に戻りますよ。

 後円部側。



 前方部側。



 少し歩いて振り返ります。



 いやあ、素晴らしい古墳でしたね。

 では奈良に帰るとしましょう。

 JR奈良駅前のホテル日航まで戻り、ディナーはホテル内にある「よしの」です。



















 ラーメンとかなら感想を述べることもできますが、このような豪勢な食事だと、「美味しい」の一言しか言えないです。

 今日は一言主神社に詣でたことですし、「本当に皆さまありがとうございます」の一言につきます。

 では、明日も葛城探訪をしますよ。

 ※こうして改めてお料理の写真を見ると、とても美しいです。

 料理の写真を撮るのはマナー的に良くないのかもしれませんが、写真を撮っておけば食べた後も職人さんの技を目で見て楽しむこともできるため、撮っておくことはよいことかもしれません。

 (つづく)


恵解山古墳/乙訓古墳群|京都府長岡京市 ~古墳の学習に最適な綺麗に整備された大型前方後円墳~

2021-06-13 20:06:06 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月8日(木)



この日の探訪箇所
勝竜寺城跡 → 恵解山古墳 → 長岡京跡 → 北山遺跡 → 元稲荷古墳 → 向日市文化資料館 → 物集女車塚古墳

 勝龍寺城跡では昔夢中になったゲーム「天下統一」を思い出しましたが、ここからが本日の本題である古代史探訪となります。

 当初の目的通り、恵解山古墳へ向かいます。

 恵解山通りを西へ向かってテクテク歩いていくと左手に古墳らしきものがありました。



 ここですね。



 なるほど、有名な古墳ですが駐車場もトイレも無いんですね。

 どうやら後円部側に来たようですが、墳丘に登ろうとすると前面には普通の墓地が展開しています。



 普通の墓地なので見学するような場所ではないですね。

 左側に向かう道があるので、そっちへ行ってみましょう。

 後円部のテラス部分です。



 造出の形状が分かりるように芝が張ってあります。



 振り返ると、墳丘に説明板が埋め込まれていました。



 こういうエンベデッドな説明板はときに見過ごすことがありますので注意です。



 埴輪列についての説明ですが、恵解山古墳は中期の築造なので円筒埴輪は墳丘の縁の部分に隙間なくビシーッと立て並べます。

 墳丘長は128mもあり、しかも3段築成ということで1800本はあったと推定されていますが、規模の割には少ないと感じます。

 ここが東側造出。



 説明板を読んでみましょう。



 不整形というのが面白いですね。

 水鳥形埴輪が見つかっていることから、いわゆる「水辺の祭祀」を行っていたのでしょう。

 水を張った周堀の際で祭祀を行ったらしい形跡は、前期末から中期初頭に急に盛行するような印象があります。

 例えば、奈良県藤井寺市の津堂城山古墳や、同じく奈良県広陵町の巣山古墳などです。

 こちらが石列の表現。



 では、再び墳丘へ登ります。

 まずは3段築成の1段目のテラス。



 つづいて2段目のテラス。



 円筒埴輪が並んでいる様子は壮観です。

 前方部墳頂に上がりました。

 ここも埴輪列が並んでいますが、ここにはテラス上とは違って蓋形埴輪があります。



 何か主体部のようなものがありますよ。







 ここは遺体を収める場所ではなく、武器専用の埋納スペースだったんですね。



 貴重品である鉄製品を700点も納めていたというのは凄いですね。



 恵解山古墳の被葬者は「鉄の王」だな。



 お、山崎合戦の説明があった。



 思い返せば、小学校高学年の時に戦国時代に興味を持って、あの頃は明智光秀は信長を殺した「嫌な奴」という印象でしたが、あれから三十数年経ち、私も大人になりましたので、事態はそう単純なものではないということは察しています。



 こうして天王山を見るのは感慨深い。



 しかも古墳の上からですからね。

 中学生の時の修学旅行で京都に来ましたが、あのときバスが高速道路を走っているときに、トンネルの中でバスガイドさんが「ここが天王山で」と説明したのを覚えています。

 古墳も良いですが、元々戦国マニアである私からすると、天下分け目の合戦があった現場近くに大人になってから初めて来ているということも感慨無量です。

 さて、今度は主軸方向。



 前方部はおおむね南東方向を向いています。

 ※帰宅後に地図を見たところ、単なる偶然だと思いますが、恵解山古墳の前方部は椿井大塚山古墳にぶち当たります。

 葺石についての説明。



 ここでも大きめの石を並べて一定の区画のようなものを作ったということが書いてあり、一説にはそれが一人の作業者の作業範囲であるとされますが、こういうやり方は列島各地で認められます。

 こういうことからもヤマト王権の力が列島各地に及んでいたことが分かると思います。





 前方部側から墳丘全体を写真に収めたいな。

 公園の敷地の関係で引けるのはここまで。



 ガチでキャッチボールしていますから、遊びというより練習でしょう。

 お、乙訓古墳群のジオラマ!





 こういう編年図は便利ですね。



 この周辺は古墳が多いですね。



 今日はこのあと、どの古墳を見に行こうかしら。





 凡例。



 今度は恵解山古墳の模型。





 さきほど、埴輪の数が少ないと思ったのは、周堀が一重で、外堤も無いからですね。

 もし堤があり、そこにも埴輪を隙間なく並べたら1800本では足りないでしょう。



 東側の造出は不整形でしたが、西側はきっちりとしています。

 やっぱり前方後円墳はこのアングルで見るのが一番だな。



 西側はピヨピヨ軍団に占拠されています。



 造出を見に行きたい。



 ピヨピヨ軍団に「ごめんねー、ちょっと写真撮らせてー」と交渉すると、説明板に張り付いていた子たちが退去しました。



 一人の女の子が「こういうのを掘る仕事してるの?」と聴いてきました。

 「掘る仕事じゃなくて説明する仕事をしてるんだよ」と答えましたが、この年齢で発掘の仕事に興味があるのは、親御さんの影響かもしれませんね。

 もしかしたらこの子は大人になったら考古学の仕事をするかもしれません。

 以前、某埋蔵文化財調査センターに行ったときに知ったのですが、そこで発掘をしている職員の方々、確か6~7名でしたが、全員、小学生の頃から歴史が好きだった方々でした。

 でもこの子は小学生以前だから凄いな。

 後円部へ行きます。





 これで恵解山古墳の全体を見ることができました。

 乙訓古墳群を訪れるのは初めてですし、恵解山古墳についての考察はこれからしようと思いますが、恵解山古墳は説明板が豊富に設置してあって、古墳の勉強をするには最適ですね。

 それでは、阪急の西山天王山駅へ向かいましょう。

 おっと、歩道橋チャンス!

 ちょっと高いところから恵解山古墳を見ます。



 何と歩道橋にも説明板があった!





 恵解山古墳、良かった。



 よし、では駅へ向かう!

 (つづく)

 

4.補足                             


 久しぶりにシンセサイザーを使った多重録音で曲を作ってみました。



 歌詞も一部できましたが、歌は入れておらず、シンセで仮メロを弾いています。

 こういうのっていつまた作業を再開するか分からないので、キリのいいところまで作っておきました。

 で、何で恵解山古墳の歌を作りたくなったのかはよく分かりませんし、50歳を目前にいまだにこういう80年代のような曲を作ってしまう理由も良く分かりません。

 映像はシンセベースを弾いているところです。

 

5.参考資料                           


・現地説明板

孝霊神社・笹鋒山1号墳・同4号墳|奈良県磯城郡田原本町 ~見事な馬形埴輪と馬曳人埴輪のコンビが2セット出土した前方後円墳~

2021-06-11 23:04:02 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 ⇒前回の記事はこちら

 黒田大塚古墳の次は、笹鋒山1号墳へ行きたいと思いますが、その前に孝霊神社が気になるので参拝して行きます。

 こちらですね。



 「廬戸神社」とあります。



 由緒書がありますので読んでみましょう。



 主祭神は、神社の名前から分かる通り孝霊天皇です。

 祭神には、吉備津彦もいらっしゃいますが、ちゃんとカッコ書きで「桃太郎噺のモデル」と書いてあるところがチャーミングですね。

 でも個人的には「他三神」が気になります・・・

 そして、さきほど黒田駅に降り立った時に話した太子道の続きがこの神社の前の道です。

 では、境内にお邪魔します。



 もう一つ説明板がありました。



 こちらが拝殿です。



 欠史八代の問題を解くのはなかなか難しいと思いますが、この黒田の地が少しの期間であっても「都」であったことを想像するのが古代史のロマンであります。

 ただその場合は、まだ倭国の都ではなく、奈良盆地内に群雄割拠していた、一方の雄の本拠地と考えると無難かもしれません。

 無難になると急に萎えますでしょうか?

 では、当初の予定通り、笹鋒山1号墳を目指しますよ。

 笹鋒山1号墳は、孝霊神社からは約1㎞の距離にあります。

 本当にこの周辺の道は条里チックだ。

 まっすぐ延びる道を東へ向かって歩いて行きます。

 あ、近鉄だ!



 私は鉄道マニアではありませんが、鉄道は大好きであります。



 おっと、電車に気を取られていて危うく見過ごすところでしたが、これは古墳じゃないでしょうか?



 ※帰宅後調べてみたら、笹鋒山4号墳という円墳でした。

 遠くに見えるあの森がおそらく笹鋒山1号墳でしょう。



 また電車。



 実は先ほどデジイチの電池が切れて、もうサブ機のコンデジしか使えなくなったのですが、コンデジだといつもの「呪力ズーム」が使えるため、かなり遠くのものまで写せる利点があります。

 あの駅は石見駅で、今日は唐古・鍵遺跡まで行った後は、石見駅まで戻ってきて電車で帰ります。



 あ、帰ると言っても家に帰るのではなく、大和八木駅のカンデオホテルに帰りますよ。

 明日から2日間、クラツーの奈良ツアーの案内をしますからね。



 笹鋒山1号墳の北側にも古墳があったようですが、それらしきものは見えません。



 笹鋒山1号墳は、墳丘長約50mの前方後円墳ということですが、あんまりよく分かりませんね。



 中軸は東西方向ですが、さきほどの黒田大塚古墳と反対に、前方部は東を向いています。



 後円部側からは墳丘に侵入できないようなので、前方部側に回ってみましょう。

 稲荷神社がありました。





 結局、墳丘の形も良く分からないまま鳥居をくぐって境内に登ってしまいましたが、うーん、良く分かりません。



 説明板もありませんし、古墳としての気配を消しているな。

 こういう古墳を稲用語(いなようご)で「ステルス墳」といいます。

 では、降ります。

 道が丸くなっており紛らわしいですが、こちらは前方部側です。



 ※後日註:帰宅してから、『笹鋒山古墳群 ー第1~5次発掘調査概報ー』(田原本町教育委員会/編・2005年)を読んでみたら、鳥居が立っているあたりは前方部の真ん中あたりで、なんと、二重堀を備えた古墳でした。

 さて、笹鋒山1号墳から出土した遺物で有名なのが、馬形埴輪と馬曳人埴輪のセットで、しかも2セットあるのです。

 こちらは顔に入れ墨がある方。



 こちらは入れ墨が無い方。



 お馬さんがポッチャリしていて可愛らしいのですが、何で馬曳人の顔に入れ墨があるのとないのがあるのでしょうか。

 これは気を付けていただきたいのですが、博物館などで馬曳人埴輪を見る機会があったら、ぜひ顔をよく見てください。

 馬曳人の顔は、上のように入れ墨をしていたり、作りが異様に醜かったりして、普通の人物埴輪の顔をしていないことが良くあります。

 そういうのも古墳時代の社会を探る上での重要な手がかりになるでしょう。

 それでは、さらに東に進んで唐古・鍵遺跡を目指しますが、その前に有名な石見遺跡を見ておきたいのだ。

 (つづく)

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『笹鋒山古墳群 ー第1~5次発掘調査概報ー』 田原本町教育委員会/編 2005年
・『消えた古墳』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2011年

黒田大塚古墳/三宅古墳群|奈良県磯城郡田原本町 ~低地に残存した貴重な大型前方後円墳~

2021-06-11 21:57:14 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 ⇒前回の記事はこちら

 それでは、さきほど見えていた黒田大塚古墳へ行ってみましょう。

 バーン!



 ポッチャリ系の可愛らしい古墳ですね。

 古墳の周囲は公園のようになっており綺麗に整備されています。

 黒田大塚古墳の主軸はほぼ東西方向で前方部が西側を向いていますから、右手が前方部ですよ。

 敷地内にはトイレもあって、建物の壁に説明板があります。



 珍しく、古墳築造後の変遷が書いてありますね。

 この説明の通り、黒田大塚古墳は低地に築造された古墳で、最近では奈良盆地でも低地に古墳が思いのほかたくさんあったことが分かってきました。

 でも多くは「古墳跡」で、この黒田大塚古墳のように多少削られてしまってはいても墳丘がちゃんと残っているのはレアケースなのです。

 前方後円墳だけを見たら、田原本町では黒田大塚古墳と、このあと行く予定の笹鋒山1号墳しかないのです。

 後円部側から見ます。



 周堀の跡が分かるようになっています。

 後円部から前方部方向を見ると周堀の形跡が良く分かりますね。



 後円部側はもう分からなくなっています。



 それでは、墳丘に登りましょう。

 ちょっと急だ。

 鞍部から後円部墳頂を見ます。



 前方部墳頂。



 前方部墳頂からだいたい南西方向の眺望。



 前方部墳頂から見た後円部。



 後円部側は段築のようになっているのが分かります。



 周辺の景色を見ても、低地部に築造されているのが分かると思います。



 さきほど訪れた法楽寺の森。



 黒田大塚古墳が破壊されずに現代にまで残っている理由は、単に大きいからではなく、黒田大塚古墳よりも大きい古墳がどんどん破壊されて跡形もなくなってしまっています。

 法楽寺は古代の後半から中世にかけてかなり勢威があり、黒田大塚古墳はその境内にあったため破壊を免れたと考えることができます。

 全国的に見ても、古墳がお寺や神社によって守られてきたというケースはとても多いです。

 少し遠くを見ると一際高い高架の道路が見えますが、あれを造るときにこの辺の発掘も進んだようです。



 もちろん道路を造るのが目的ですから、遺跡は調査した後に無くなっちゃうわけですが・・・



 登ってきたのと反対側の南側の方から降ります。

 おっと、こっちにも説明板があった。



 三宅古墳群というと、133点もの車輪石や石釧や鍬形石が出土した墳丘長200mの島の山古墳が有名です。

 島の山古墳と結構距離があるように思えますが、同じ古墳群として研究者は考えているんですね。

 ※地図で確認したら、直線距離で2㎞もないです。

 墳丘長は70mということで、現状はそれより少し小さいように思えます。

 前方部の底辺はカットされている感じがしましたし。

 ※『消えた古墳』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2011年)では、墳丘長を85mとしています。

 築造時期は6世紀初頭ですね。

 最後に書いてある羽子田1号墳出土の牛形埴輪には、唐古・鍵考古学ミュージアムに行くと会えます。



 これは珍しいのでミュージアムに行ったときは必ず見てくださいね。

 馬形埴輪は列島各地で普通に出てきますが、牛形埴輪は全国でも9例しか見つかっていない大変貴重な物なのです。

 黒田大塚古墳の説明板にわざわざ書いてあるというのは、読む人にそのすごさに気づいて欲しいからだと思います。

 おっと、黒田大塚古墳に来ているのに最後の〆が羽子田1号墳の牛形埴輪の話だと、黒田大塚古墳の被葬者が残念がりそうだ。

 いやいや、あなたは大きさでは羽子田1号墳よりも全然大きい!



 しかし良い古墳に出会えてよかったです。

 つづいて、笹鉾山1号墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『消えた古墳』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2011年

黒田廬戸宮伝承地および法楽寺|奈良県磯城郡田原本町 ~大人になればあなたも分かるそのうちに~

2021-06-11 17:14:06 | 歴史探訪
 

3.探訪レポート                         


2021年4月9日(金)



この日の探訪箇所
三吉石塚古墳 → 新木山古墳 → 讃岐神社 → 巣山古墳 → ナガレ山古墳 → 乙女山古墳 → 黒田廬戸宮伝承地(法楽寺) → 黒田大塚古墳 → 孝霊神社 → 笹鋒山4号墳 → 笹鋒山1号墳 → 石見遺跡 → 唐古・鍵遺跡

 馬見丘陵上の古墳の下見を終えて近鉄の池部駅までやってきました。



 こちらは河合町役場の入口。



 この門構えから推測するに、河合町の職員さんたちは羽織袴で職務に就いている蓋然性が極めて高い。

 ここからは黒田駅まで電車で移動です。

 お、ちょうど電車が来たから写真撮ろうっと。



 ところで、私が乗る電車はいつ来るんだ?

 しまった、さっきのだった!

 次のはしばらく来ませんよ。
 
 まあでも、急ぐ旅ではありませんから、ベンチに座ってジュースでも飲んでます。

 近くに座った地元の方らしき二人のご婦人の世間話に耳を傾けていると電車が来ました。

 池部駅から3駅乗って黒田駅に到着。



 田原本町には、「楼閣と桃太郎生誕のまち」というキャッチがあったんですね。



 楼閣は唐古・鍵遺跡の復元楼閣(というか、その元になった絵画土器)のことを指しているのは分かりますが、かの有名な桃太郎氏はここで生まれたんですね。

 説明板の前に「駐車禁止」の看板が覆いかぶさっている。



 なかなかシュールな設置位置ですが、これは多分、大事な説明板を保護する意味もあって建てたのでしょう。

 まさか説明板の存在を無視しているなんて、田原本町に限ってそんなことはないはずです。

 では、説明板を駐車禁止の看板の横から覗いてみましょう。
 
 ほー、太子道の説明でしたか!



 ここに書いてある通りですが、聖徳太子が斑鳩の宮と飛鳥を往復した道で、斜行しているのが特徴です。

 遺跡として飛鳥時代に造られた斜行の道が確認できるとしたら、飛鳥時代に道を作るというのは大変な権力がないとできない事業ですから、やはり斑鳩の宮にいた厩戸皇子は蘇我政権内でかなりの力を持っていたと考えられます。

 ちょうどいま、クラツーのオンライン講座の作業が一時停止中なのですが、再開したら日本書紀講座の次の回は聖徳太子について語ります。

 そのせいか、「引き寄せられの法則」に従って、最近は太子関係のものに引き寄せられるようになっています。

 太子道の北方面。



 ※後日註:北方面への道はほぼ真北へ向かっているため、往時の太子道とは道筋が違います。

 太子道の南方面。



 ※後日註:南方面への道はやや東へ振れた斜め方向の道になっているため、こちらは往時の太子道と重なると考えられます。

 ところで、何で黒田駅で降りたのかというと、黒田大塚古墳を見ることと、法楽寺を拝するためです。

 法楽寺は、第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)跡と言われているため、「欠史八代マニア」としては、以前からずっと来てみたいと思っていました。

 ではいったん踏切を渡って北側から法楽寺へ回り込もうと思います。



 あ、黒田大塚古墳が見えますよ。



 古墳にはあとで行きます。



 法楽寺に着きました。

 説明板があります。



 聖徳太子開基伝承を持つお寺って「法」が付くお寺が多いですね。

 それは、聖徳太子が自身のコア・コンセプトとして法(仏法)を学ぶことを最も尊重したからだという説があります。

 立派な伽藍や美しい仏様を造立しなくても、心の中にしっかりと信仰を持っていれば仏の道に邁進することができます。

 私はそう思います。

 つづいて桃太郎伝説について。



 そういえば、吉備津彦は孝霊天皇の子ですが、吉備津彦が西道を討ったのは、日本書紀だと第10代の崇神天皇の御代なのに古事記だと孝霊天皇の時なんですよね。

 日本書紀と古事記の記述でこのような違いがあるのは、いわゆる「欠史八代」について探る上には大きなヒントになるでしょう。

 この説明板には鳥取県日野地方という地名が出てきますが、その近くには孝霊山という山があって、妻木晩田遺跡からもよく見えます。

 以前から伯耆の国における孝霊天皇は気になっているんですよねえ。

 本堂でしょうか?



 あれ、扁額には子安地蔵とありますよ。



 そうか、説明板に書かれていた通り、往時は25宇を数えたものが現在はこのお堂のみとなってしまったんですね。





 桃太郎の看板がまたありました。



 しかし、さきほどはかぐや姫の伝承を楽しみましたが、今度は桃太郎ということで、奈良は「リアル昔話ワールド」が展開していて面白いですね。

 人によっては、桃太郎とか孝霊天皇とか、そういったものは絵本だけのお話だと考える方もおられると思いますが、ウインクこそはしないものの、大人になればきっと分かると思います。

 往時の伽藍配置。



 ではつづいて、先ほども見えていた黒田大塚古墳へ行ってみますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足(2021年6月11日)                    


 上述の踏切から南方向を向いて撮った写真を再掲します。



 奥の方が少し左に曲がっていますが、太子道はその場所から一直線に飛鳥まで向かっていました。

 帰宅してから知ったのですが、黒田駅からこの道を5分も歩かずに黒田池に到達し、その南側には保津・宮古遺跡があります。

 『太子道の巷を掘る』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編・2006年)によると、1995年の保津・宮古遺跡第14次調査の際に、幅3mほどの溝が検出され、これが真北から西に約22度傾いた太子道の地割と一致したため、その遺構を太子道西側の側溝跡と考え、これをもって太子道は考古学的に証明されたとしています。

 また、その近辺では「保津・阪手道」と仮称される東西の道も見つかっており、その辺りは飛鳥時代から交通の要衝であったことが分かったのです。

 道と道が交差する場所を「衢(ちまた)」と呼びますが、そういう場所には市が立っていた可能性があり、悪い霊が集まる可能性もあるため、神を祀って呪術的に防御していた可能性もあります。

 事実、飛鳥時代の土馬や、奈良時代の斎串が出土しています。

 さらに、飛鳥時代から奈良時代にかけての官衙的な建物跡も見つかっており、古墳時代後期の黒田大塚古墳の存在も含め、黒田駅の南側は非常に注目すべき地域であると言えましょう。
 
 現代の道路地図で太子道を追いかけていくと、黒田駅を中心に南北約3.2㎞くらいの道の形跡は、現代の道路で追うことができますが、それ以外はほぼすべて不明です。

 「今昔マップ」で明治時代の地図を見てみましたが、すでにそのころには現代と変わらないくらいに斜向の道筋は無くなっています。

 太子道の南北の起点がどこか調べてみると、南側に関しては現在分かる道筋を飛鳥まで延長していくとちょうど向原寺に当たります。

 向原寺は我が国初の尼寺と伝えられ、太子とともに政治を執った蘇我馬子の父であり、かつ太子の曽祖父にあたる蘇我稲目の邸宅だった場所です。

 太子が生きた時代は向原寺の裏の甘樫丘は蘇我氏の本拠地となっており、大雑把に言って、太子道の飛鳥側の起点は甘樫丘や向原寺であったと考えられます。

 反対の北側の起点は、そのまま線を引いて行くと斑鳩町高安付近になり、ちょうどそこから富雄川を渡って西へ進めばすぐに法隆寺にたどり着きます。

 ただし、太子道の北側は大和川の支流が集まる場所を縦断していますから、無理に一直線の道として考えずに、自然堤防上をある程度ウネウネと進んだ可能性もあるのではないでしょうか。

 なお、太子道の性格ですが、よく「太子の通勤路」と言われることがありますが、普通考えたら道路を作る最大の目的は軍事利用です。

 当時の豪族はそれぞれ自身の軍事力を保持しており、当然太子の一家も軍事力を保持しており、「いざ鎌倉」ではないですが、飛鳥に何かあったときは斑鳩の軍勢を即座に動かす意図のもとに太子道を作ったのではないかと考えます。

 そう考えると、飛鳥時代はいつも平和だったわけではなく、日本書紀にも蘇我氏と物部氏との軍事衝突などが記載されている通り、意外と不穏な空気が流れることも多かったのではないかと考えます。

 こういった飛鳥時代の貴族同士の軍事的関係については、今後詳しく調べて行こうと思います。

 余談ですが、私は太子に対して武勇に優れた青年貴族のイメージを持っており、子供の頃は結構「腕白」で、ケンカの強さで若者たちから認められていた少年貴族だったんじゃないかと想像しています(あくまでも個人的な想像です)。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『太子道の巷を掘る』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2006年