⇒前回の記事はこちら
思いのほか柏の城を詳しく知ることができ、つづいて名前が気になる舘氷川神社へ向かいます。
「舘」と付いているので、柏の城に関係する神社でしょうか。
神社の境内には裏から入らせていただきます。
立派な拝殿。

この説明板には名字について面白いことが書かれていますよ。

ここに書かれている通り、江戸時代の多くの一般人も名字があったのですが、意外とこれを知らない人が多いような気がします。
そもそも、今から1300年も前に戸籍を整備した際に、支配者層ではない国民全員に名字の元となった姓は付けられているのです。
そのとき姓を持てなかったのはおそらく奴隷身分の方々だけです。
安斉さんが稲荷神社のとなりにコノハナサクヤヒメの碑を見つけました。

氷川神社自体は縁結びの神様ではありませんが、コノハナサクヤヒメがいらっしゃれば良縁に恵まれるかもしれませんね。
境内の裏から入ってしまったので、出るときは表からちゃんと出ます。

お、道沿いに説明板がある。
図像の板碑があるんですね。

板碑はだいたい文字だけで(梵字も含む)、仏様が描かれているのは珍しいですよ。
神仏混交の話も書いてあって面白い。
由緒も詳しく書いてあります。

なるほど、柏の城の城域には含まれませんが、城門と街道との間に位置していたわけですね。
つづいて法幢寺(ほうどうじ)へ向かいますが、舘氷川神社の前の道は古そうな雰囲気ですよ。
そんなことを安斉さんと話しながら歩いていると、目の前に巨大な馬頭観音が現れました。

でか!
皆さん、こんな大きな馬頭観音は見たことが無いと驚きます。
普通に写真を撮るだけでは大きさが伝わらないので、ここはS源寺さんの出番ですね。
はい、お願いします!

普段、S源寺さんには板碑の大きさを示すために並んでいただくのですが、今回はついに馬頭観音への進出も果たしました。
私たちの会では、度量衡の単位として、ものの長さに関してはS源寺さんが基準となっています。

高さが2.04メートルで市内一とありますが、私の記憶ではこれくらい大きいものはほとんど思い浮かびません。
引又宿から大和田へ向かう街道沿いと書いてありますが、舘氷川神社からつづくこの道はやはり古い道だったんですね。
では、宝幢寺へ向かいます。

長屋門みたいなものが見えてきましたよ。

門に時計が掲げられているのを板垣さんが気づきました。
近所の方々は、もし現在時刻が知りたくなったらここへ来れば良いわけですね。
しかし考えてみれば、本来は目に見えないはずの「時」が目に見える時計という機械は、画期的な装置ですよね。
もしタイムマシンができて古代の王に会いに行くときは、時計をお土産に持っていくと喜ばれそうです。
境内に入ると、おや、カッパさんのお出迎えです。

水が豊富なところにはカッパの伝承が多いようですね。
私の祖母も昔、「川で馬を洗っていたらカッパに馬の脚を引っ張られた」というような話をしていました。
実際には事故で馬が溺れたことをそう表現したのかもしれませんが、祖母の話だと、戦後すぐのころにサルが異常に繁殖して、サルがやったことをカッパの仕業と言ったというようなことも言っていました。
河童の横は文殊堂。

おー、高い木ですね。

S源寺さんが「ヒマラヤ杉」と教えてくれました。
私は植物は全然知らないのですが、高い木は好きですね。
近世の遺物もありますよ。


そういえば、16年前に友人とこの辺をめぐった際も、友人は尾張藩の話をしていましたなあ。
本堂。

摩尼?

マニ教じゃないですよ。
宝幢寺は地王山地蔵院と号する新義真言宗智山派の寺院です。
元々は真義真言宗でも醍醐三宝院を本山としていましたが、明治27年から京都智積院を本山として現在に至ります。
創建年代は不詳で、志木市によると、元々は現在の敷島神社付近にあったものが、のちにこの場所へ移転して来たらしく、この場所は柏の城の城主大石信濃守の子息四郎の屋敷跡といわれることから、柏の城が廃城となった近世以降にこの地に建立または移転された可能性が高いです。

昔やっていた「奥州城壁癖」というホームページの記事を読み返すと、当時私は宝幢寺の寺域も柏の城の城域に含められるかもしれないと考察していますが、今日歩いてみた感覚では、城のメインの部分は、今日これまで読んできた説明板の通りで、舘氷川神社や宝幢寺は城外になると思いました。
ただ、宝幢寺の場所が四郎の屋敷跡と伝わっていることから、宝幢寺のある台地も敵の攻撃に耐えられるような造りになっていた可能性が高いです。
※あとで気づいたのですが、さきほどの馬頭観音のところから境内へ向かうと山門をくぐって境内に入れました。
つづいて、東へ向かい、県道113号線を渡ります。
県道113号線が走っているこの場所は浅い谷となっており、四郎屋敷を防御するとしたら、この浅い谷を利用すと良さそうです。
県道を渡ると上り坂になっており、段丘を一段上がると左手に墓地が現れ、小さなお堂が見えました。

ここが東明寺です。
本堂。

石仏が並んでいます。



さて、次は今回探訪予定ではなかった場所へ行ってみます。
先日、オーメンさんがこの地へ来て、志木市立郷土資料館の方と話したところ、富士塚を非常にお勧めされたということで、ここからさほど遠い場所にはないので、寄ってみようかと思います。
⇒この続きはこちら
⇒前回の記事はこちら
思いのほか柏の城を詳しく知ることができ、つづいて名前が気になる舘氷川神社へ向かいます。
「舘」と付いているので、柏の城に関係する神社でしょうか。
神社の境内には裏から入らせていただきます。
立派な拝殿。

この説明板には名字について面白いことが書かれていますよ。

ここに書かれている通り、江戸時代の多くの一般人も名字があったのですが、意外とこれを知らない人が多いような気がします。
そもそも、今から1300年も前に戸籍を整備した際に、支配者層ではない国民全員に名字の元となった姓は付けられているのです。
そのとき姓を持てなかったのはおそらく奴隷身分の方々だけです。
安斉さんが稲荷神社のとなりにコノハナサクヤヒメの碑を見つけました。

氷川神社自体は縁結びの神様ではありませんが、コノハナサクヤヒメがいらっしゃれば良縁に恵まれるかもしれませんね。
境内の裏から入ってしまったので、出るときは表からちゃんと出ます。

お、道沿いに説明板がある。
図像の板碑があるんですね。

板碑はだいたい文字だけで(梵字も含む)、仏様が描かれているのは珍しいですよ。
神仏混交の話も書いてあって面白い。
由緒も詳しく書いてあります。

なるほど、柏の城の城域には含まれませんが、城門と街道との間に位置していたわけですね。
つづいて法幢寺(ほうどうじ)へ向かいますが、舘氷川神社の前の道は古そうな雰囲気ですよ。
そんなことを安斉さんと話しながら歩いていると、目の前に巨大な馬頭観音が現れました。

でか!
皆さん、こんな大きな馬頭観音は見たことが無いと驚きます。
普通に写真を撮るだけでは大きさが伝わらないので、ここはS源寺さんの出番ですね。
はい、お願いします!

普段、S源寺さんには板碑の大きさを示すために並んでいただくのですが、今回はついに馬頭観音への進出も果たしました。
私たちの会では、度量衡の単位として、ものの長さに関してはS源寺さんが基準となっています。

高さが2.04メートルで市内一とありますが、私の記憶ではこれくらい大きいものはほとんど思い浮かびません。
引又宿から大和田へ向かう街道沿いと書いてありますが、舘氷川神社からつづくこの道はやはり古い道だったんですね。
では、宝幢寺へ向かいます。

長屋門みたいなものが見えてきましたよ。

門に時計が掲げられているのを板垣さんが気づきました。
近所の方々は、もし現在時刻が知りたくなったらここへ来れば良いわけですね。
しかし考えてみれば、本来は目に見えないはずの「時」が目に見える時計という機械は、画期的な装置ですよね。
もしタイムマシンができて古代の王に会いに行くときは、時計をお土産に持っていくと喜ばれそうです。
境内に入ると、おや、カッパさんのお出迎えです。

水が豊富なところにはカッパの伝承が多いようですね。
私の祖母も昔、「川で馬を洗っていたらカッパに馬の脚を引っ張られた」というような話をしていました。
実際には事故で馬が溺れたことをそう表現したのかもしれませんが、祖母の話だと、戦後すぐのころにサルが異常に繁殖して、サルがやったことをカッパの仕業と言ったというようなことも言っていました。
河童の横は文殊堂。

おー、高い木ですね。

S源寺さんが「ヒマラヤ杉」と教えてくれました。
私は植物は全然知らないのですが、高い木は好きですね。
近世の遺物もありますよ。


そういえば、16年前に友人とこの辺をめぐった際も、友人は尾張藩の話をしていましたなあ。
本堂。

摩尼?

マニ教じゃないですよ。
宝幢寺は地王山地蔵院と号する新義真言宗智山派の寺院です。
元々は真義真言宗でも醍醐三宝院を本山としていましたが、明治27年から京都智積院を本山として現在に至ります。
創建年代は不詳で、志木市によると、元々は現在の敷島神社付近にあったものが、のちにこの場所へ移転して来たらしく、この場所は柏の城の城主大石信濃守の子息四郎の屋敷跡といわれることから、柏の城が廃城となった近世以降にこの地に建立または移転された可能性が高いです。

昔やっていた「奥州城壁癖」というホームページの記事を読み返すと、当時私は宝幢寺の寺域も柏の城の城域に含められるかもしれないと考察していますが、今日歩いてみた感覚では、城のメインの部分は、今日これまで読んできた説明板の通りで、舘氷川神社や宝幢寺は城外になると思いました。
ただ、宝幢寺の場所が四郎の屋敷跡と伝わっていることから、宝幢寺のある台地も敵の攻撃に耐えられるような造りになっていた可能性が高いです。
※あとで気づいたのですが、さきほどの馬頭観音のところから境内へ向かうと山門をくぐって境内に入れました。
つづいて、東へ向かい、県道113号線を渡ります。
県道113号線が走っているこの場所は浅い谷となっており、四郎屋敷を防御するとしたら、この浅い谷を利用すと良さそうです。
県道を渡ると上り坂になっており、段丘を一段上がると左手に墓地が現れ、小さなお堂が見えました。

ここが東明寺です。
本堂。

石仏が並んでいます。



さて、次は今回探訪予定ではなかった場所へ行ってみます。
先日、オーメンさんがこの地へ来て、志木市立郷土資料館の方と話したところ、富士塚を非常にお勧めされたということで、ここからさほど遠い場所にはないので、寄ってみようかと思います。
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まじ連動してますよ。氷川とはびっくりです。
私氷川苦手だったんですけど最近合う所が出来てきましたよ。で舘氷川の説明の中にも日付が23日って書いてあったんで庚申は気になってましたよ。で八幡も堀切あたりと同じ流れ感じますね。そして私の大好きな馬頭観音も超大きいってまた凄い!超嬉しいです。
それと敷島ってのもかなりいい一族っぽいんですよね。パン屋さんのお名前でもあり別件でも妄想膨らましてます。その神社の場所が元っていうのもかなり気になりましたよ。磯城嶋って文字も音は一緒なので奈良とも連動するかもしれないなあと思ってます。
この先もワクワクしますね。貝塚もあるし、この辺り私にも完璧に行きたい場所です。
でちょっと思うのが松平さんの影がない事がびっくり。なんか理由がありそうですね。