関東もついに梅雨に突入しましたね。
梅雨の季節は外を歩くのには適していないと思われがちですが、決してそうとは言い切れません。
雨がしとしと降る中を歩くのも、歩く場所によっては風情がありますし、もし曇りで収まれば、気温も高くなく意外と快適に歩けるものです。
昨日(6月9日)の「歴史を歩こう協会」の「歩く日」は、最後の最後に雨に降られましたが、運よく曇り模様のもと快適に歩くことができました。
参加者は、
・安斉さん
・池上さん
・板垣さん
・稲用
・S源寺さん
・オーメンさん
・大森さん
・金子さん
・小林さん
の9名。
皆さん、ご参加ありがとうございました!
本日はそのときの様子を簡単にご報告します。
本日の集合駅は、東武東上線の柳瀬川駅です。
埼玉県の志木市と富士見市を歩きますよ。
一応、こんな感じに候補地をプロットしてみましたが、すべて探訪することは無理であることは最初から分かっています。

最低限、
・柏の城跡
・志木市立郷土資料館
・水子貝塚
・難波田城跡
は探訪するつもりです。
ところでこの周辺は16年前に友人と歩いていますが、ただその時は友人が車に乗せて連れて行ってくれたので細やかには見ていません。
今回はじっくりと歩きますので、いつものように予想していない面白いものが見つかる事でしょう。
9時ジャスト、全員集合しました。
それでは、柳瀬川駅の東口からスタートしますよ。
まずは柳瀬川の土手に上がります。

柳瀬川は新河岸川の支流ですが、今日は新河岸川についても詳しく見ていきたいと思っています。
少し土手を歩いたあと、住宅地の中を進んでいくと、前方の地形が少し高くなっているのが分かりました。

台地の上に柏の城があったわけです。
16年前の記憶を頼りに、長勝院というお寺があった場所へやってきました。
あー、ここだ。


柏の城についての説明板もありますよ。

柏の城の城主はここに書いてある通り大石氏です。
関東の戦国時代は1455年に「古河公方足利成氏 vs 関東管領山内上杉房顕」という構図で始まったのですが(「享徳の乱」)、山内上杉氏の宿老として活躍したのが大石氏です。
大石氏についての研究は、昔から「木曾大石系図」という家系図を元に進められてきたのですが、近年ではその家系図の信ぴょう性の低さに気づいた何名かの研究者がきちんとした史料(古文書など)を元に実証的な研究を続けてきました。
そういった成果は、黒田基樹氏の編著により『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(岩田書院・2010年)としてまとめられており、それによると大石氏は主として「遠江守家」、「石見守家」、「駿河守家」の3つの系統があり、その中で「遠江守家」が本家筋にあたります。

※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載
その遠江守家の定重のときに本城だったのがここ柏の城です。
遠江守家は、戦国時代後半に北条氏照が養子に入ったことにより後北条氏に取り込まれました。
石見守家と駿河守家は、文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」の際には景春に与同したのですが、乱後は山内上杉家に帰参しました。
その折に下総国葛西城に拠った石見守家は、天文7年(1538)に北条氏綱によって葛西城を落とされた後は岩槻城の岩付太田氏を頼ったようで、永禄4年(1561)に史料上に現れた以降の動向は不明となります(上の系図で3代続いている岩見守の最後)。
もう一方の駿河守家は、黒田氏の推測によると、憲重が遠江守家の道俊の養子となり、名を綱周と改め(「綱」は北条氏綱からの偏諱)たとしています。
なお、前回の「歩く日」で訪れたあきる野市の二宮城(二宮神社)に居していたのは石見守家の道伯ですね。
では、志木第3小の南側道路へ移動してみましょう。
こちらには標柱もありますね。

さらには説明板。

ここに書いありますが、聖護院の門跡である道興は武蔵へやってきて「大石信濃守といへる武士の館」に泊まっています。
その館がどこなのかは長年にわたって論争がされており、決着はついていません。
八王子市の高月城と考える人が多いのですが、黒田氏はここ柏の城としています。
柏の城には定重が住していましたが、次の道俊の代になると、本城を八王子市の椚田城(初沢城)へ移します。
下の図は大石氏の最盛期の支配地域を示したものですが、この図を見ればわかる通り、大石の支配範囲が南へ伸びたことによって、柏の城の位置では不都合だということもあったのでしょう。

※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載
上の系図と照らし合わせると、道俊が椚田城へ拠点を移した後、道俊の弟の信濃守が柏の城を引き継ぎ、そこへ道興がやってきたということになります。
また、上の説明板には何名かの大石家の名前が見えますが、上述の系図と合致しませんね。
これはさきにお話しした通り、「木曾大石系図」を研究の基本史料としていた頃の名残です。
大石氏自体が後北条氏とともに滅亡してしまった一族ですので、その歴史を調べるのはなかなか難しく、かつ関連する滝山城や高月城などの歴史も不明な点が満載ですので、大石の研究はそれら関連城郭の研究と共に、今後さらなる活発化が必要となっています。
さきほどお話しした、黒田氏の本が本当の意味でのスタート地点ではないかと思っています。
さて、先日この辺りを下見してくれたオーメンさんによると、他の箇所にも説明板はあるということなので、そちらへ行って見ましょう。
おー、この説明板は私は知らなかった。

きちんと発掘しているんですね。
というか、平成25年に設置したものなので16年前に見ていなくて当然ですね。
周辺を見ていた池上さんが、不思議な建物を指摘しました。

仰る通り、社殿ではないのに屋根が流れ造りになっていますね。
立派な松も横にあるし・・・

何だろうと皆で話していると、近所の方らしきご婦人が通りかかったので、この地域のことについてお尋ねしてみます。
この地域の発掘では銅印が見つかり、近くの郷土資料館にあるはずだということです。
ただ、そこは平日しかオープンしていないそうで、そもそも私はそんな施設があることを知りませんでした。
残念、今日は日曜日!
皆さん、歯噛みして悔しがります。
詳しいことが分からないので何とも言えませんが、銅印ということで、もしかすると古代か?
いや、中世だとすると大石氏が使っていた物か?
興味ありますねえ。
※あとで志木市のHPを見てみたところ、銅印としては県内唯一の出土例で、9世紀の終わりから10世紀の始め頃の住居跡から出土した「冨」と刻された個人所有の私印ですが、持ち主は一般人ではなく役人か有力者と考えられるそうです。
さきほどの長勝院については、私は明治の廃仏毀釈で廃寺になったのかなと思っていたのですが、昭和の時代までお寺はあったそうです。
ただその方の記憶では、最後の方は廃屋になっていて、子供たちの遊び場になっていたそうです。
また、現在の志木第3小の校舎は昔は志木中学校の校舎として使われており、なんと、3階建ての校舎をそのまま100mほど移動させてしまったそうです。
最近では弘前城の天守閣を引いた話がありましたが、あんなでかい校舎も引けるんですね。
いろいろと熱心に教えてくだり、とてもありがたい。
こういう偶然出会った地元の方の話をじっくり聴きながら歩くのもこの会の特徴です。
私たちはあまり時間は気にしません。
いやー、楽しかった。
その方とお別れし、もう一度大堀があった方へ向かいます。
説明板の図をもう一度見てみます。

※このあと訪れた郷土資料館にも柏の城についてのパネル展示がありましたのでご紹介します。


歩いていると、皆さんが怪しい地形に着目しました。

さすが皆さん、よくこれに気づきましたね!
先ほどの説明板に堀跡が見つかったと書いてありましたが、これがその形跡である可能性が高いです。
※あとで郷土資料館の方に聴いてみたところ、推測通り堀の名残だということでした。
こちらには細長い敷地の小さな公園がありますが、「城ふれあい公園」という名前がいいですね。

「〇×城」とかではなく、単に「城」というのが面白いですが、そういえば先ほどの方がこの辺りの地域の呼び名として「城(しろ)」と言っていたので、「城」というのはこの辺の小字なのでしょう。
発掘調査が行われたあたりは老人ホームの敷地内となっており、さすがに敷地内に入るのは憚られるので遠くから観察してみますが、駐車場の横に少しだけ杜が残っており、社のようなものも見えます。

木はかなり立派ですね。
開発せずにここだけわざと残してあるような風情ですが、もしわざと残しているのであれば理由を知りたいですね。
※帰宅後、城の図面などと突き合わせてみると、上の写真の杜は土塁跡ではないかと思いました。
16年前に来た時もこの辺を歩いていますが、今日はより詳しく見ることができて楽しいです。
ただ、歩いてみて疑問点もいろいろと浮かんできたので、時間があれば調べてみたいと思います。
⇒この続きはこちら
梅雨の季節は外を歩くのには適していないと思われがちですが、決してそうとは言い切れません。
雨がしとしと降る中を歩くのも、歩く場所によっては風情がありますし、もし曇りで収まれば、気温も高くなく意外と快適に歩けるものです。
昨日(6月9日)の「歴史を歩こう協会」の「歩く日」は、最後の最後に雨に降られましたが、運よく曇り模様のもと快適に歩くことができました。
参加者は、
・安斉さん
・池上さん
・板垣さん
・稲用
・S源寺さん
・オーメンさん
・大森さん
・金子さん
・小林さん
の9名。
皆さん、ご参加ありがとうございました!
本日はそのときの様子を簡単にご報告します。
* * *
本日の集合駅は、東武東上線の柳瀬川駅です。
埼玉県の志木市と富士見市を歩きますよ。
一応、こんな感じに候補地をプロットしてみましたが、すべて探訪することは無理であることは最初から分かっています。

最低限、
・柏の城跡
・志木市立郷土資料館
・水子貝塚
・難波田城跡
は探訪するつもりです。
ところでこの周辺は16年前に友人と歩いていますが、ただその時は友人が車に乗せて連れて行ってくれたので細やかには見ていません。
今回はじっくりと歩きますので、いつものように予想していない面白いものが見つかる事でしょう。
9時ジャスト、全員集合しました。
それでは、柳瀬川駅の東口からスタートしますよ。
まずは柳瀬川の土手に上がります。

柳瀬川は新河岸川の支流ですが、今日は新河岸川についても詳しく見ていきたいと思っています。
少し土手を歩いたあと、住宅地の中を進んでいくと、前方の地形が少し高くなっているのが分かりました。

台地の上に柏の城があったわけです。
16年前の記憶を頼りに、長勝院というお寺があった場所へやってきました。
あー、ここだ。


柏の城についての説明板もありますよ。

柏の城の城主はここに書いてある通り大石氏です。
関東の戦国時代は1455年に「古河公方足利成氏 vs 関東管領山内上杉房顕」という構図で始まったのですが(「享徳の乱」)、山内上杉氏の宿老として活躍したのが大石氏です。
大石氏についての研究は、昔から「木曾大石系図」という家系図を元に進められてきたのですが、近年ではその家系図の信ぴょう性の低さに気づいた何名かの研究者がきちんとした史料(古文書など)を元に実証的な研究を続けてきました。
そういった成果は、黒田基樹氏の編著により『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(岩田書院・2010年)としてまとめられており、それによると大石氏は主として「遠江守家」、「石見守家」、「駿河守家」の3つの系統があり、その中で「遠江守家」が本家筋にあたります。

※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載
その遠江守家の定重のときに本城だったのがここ柏の城です。
遠江守家は、戦国時代後半に北条氏照が養子に入ったことにより後北条氏に取り込まれました。
石見守家と駿河守家は、文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」の際には景春に与同したのですが、乱後は山内上杉家に帰参しました。
その折に下総国葛西城に拠った石見守家は、天文7年(1538)に北条氏綱によって葛西城を落とされた後は岩槻城の岩付太田氏を頼ったようで、永禄4年(1561)に史料上に現れた以降の動向は不明となります(上の系図で3代続いている岩見守の最後)。
もう一方の駿河守家は、黒田氏の推測によると、憲重が遠江守家の道俊の養子となり、名を綱周と改め(「綱」は北条氏綱からの偏諱)たとしています。
なお、前回の「歩く日」で訪れたあきる野市の二宮城(二宮神社)に居していたのは石見守家の道伯ですね。
では、志木第3小の南側道路へ移動してみましょう。
こちらには標柱もありますね。

さらには説明板。

ここに書いありますが、聖護院の門跡である道興は武蔵へやってきて「大石信濃守といへる武士の館」に泊まっています。
その館がどこなのかは長年にわたって論争がされており、決着はついていません。
八王子市の高月城と考える人が多いのですが、黒田氏はここ柏の城としています。
柏の城には定重が住していましたが、次の道俊の代になると、本城を八王子市の椚田城(初沢城)へ移します。
下の図は大石氏の最盛期の支配地域を示したものですが、この図を見ればわかる通り、大石の支配範囲が南へ伸びたことによって、柏の城の位置では不都合だということもあったのでしょう。

※『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』(黒田基樹/編)より転載
上の系図と照らし合わせると、道俊が椚田城へ拠点を移した後、道俊の弟の信濃守が柏の城を引き継ぎ、そこへ道興がやってきたということになります。
また、上の説明板には何名かの大石家の名前が見えますが、上述の系図と合致しませんね。
これはさきにお話しした通り、「木曾大石系図」を研究の基本史料としていた頃の名残です。
大石氏自体が後北条氏とともに滅亡してしまった一族ですので、その歴史を調べるのはなかなか難しく、かつ関連する滝山城や高月城などの歴史も不明な点が満載ですので、大石の研究はそれら関連城郭の研究と共に、今後さらなる活発化が必要となっています。
さきほどお話しした、黒田氏の本が本当の意味でのスタート地点ではないかと思っています。
![]() | 論集戦国大名と国衆 1 武蔵大石氏 |
黒田 基樹 | |
岩田書院 |
さて、先日この辺りを下見してくれたオーメンさんによると、他の箇所にも説明板はあるということなので、そちらへ行って見ましょう。
おー、この説明板は私は知らなかった。

きちんと発掘しているんですね。
というか、平成25年に設置したものなので16年前に見ていなくて当然ですね。
周辺を見ていた池上さんが、不思議な建物を指摘しました。

仰る通り、社殿ではないのに屋根が流れ造りになっていますね。
立派な松も横にあるし・・・

何だろうと皆で話していると、近所の方らしきご婦人が通りかかったので、この地域のことについてお尋ねしてみます。
この地域の発掘では銅印が見つかり、近くの郷土資料館にあるはずだということです。
ただ、そこは平日しかオープンしていないそうで、そもそも私はそんな施設があることを知りませんでした。
残念、今日は日曜日!
皆さん、歯噛みして悔しがります。
詳しいことが分からないので何とも言えませんが、銅印ということで、もしかすると古代か?
いや、中世だとすると大石氏が使っていた物か?
興味ありますねえ。
※あとで志木市のHPを見てみたところ、銅印としては県内唯一の出土例で、9世紀の終わりから10世紀の始め頃の住居跡から出土した「冨」と刻された個人所有の私印ですが、持ち主は一般人ではなく役人か有力者と考えられるそうです。
さきほどの長勝院については、私は明治の廃仏毀釈で廃寺になったのかなと思っていたのですが、昭和の時代までお寺はあったそうです。
ただその方の記憶では、最後の方は廃屋になっていて、子供たちの遊び場になっていたそうです。
また、現在の志木第3小の校舎は昔は志木中学校の校舎として使われており、なんと、3階建ての校舎をそのまま100mほど移動させてしまったそうです。
最近では弘前城の天守閣を引いた話がありましたが、あんなでかい校舎も引けるんですね。
いろいろと熱心に教えてくだり、とてもありがたい。
こういう偶然出会った地元の方の話をじっくり聴きながら歩くのもこの会の特徴です。
私たちはあまり時間は気にしません。
いやー、楽しかった。
その方とお別れし、もう一度大堀があった方へ向かいます。
説明板の図をもう一度見てみます。

※このあと訪れた郷土資料館にも柏の城についてのパネル展示がありましたのでご紹介します。


歩いていると、皆さんが怪しい地形に着目しました。

さすが皆さん、よくこれに気づきましたね!
先ほどの説明板に堀跡が見つかったと書いてありましたが、これがその形跡である可能性が高いです。
※あとで郷土資料館の方に聴いてみたところ、推測通り堀の名残だということでした。
こちらには細長い敷地の小さな公園がありますが、「城ふれあい公園」という名前がいいですね。

「〇×城」とかではなく、単に「城」というのが面白いですが、そういえば先ほどの方がこの辺りの地域の呼び名として「城(しろ)」と言っていたので、「城」というのはこの辺の小字なのでしょう。
発掘調査が行われたあたりは老人ホームの敷地内となっており、さすがに敷地内に入るのは憚られるので遠くから観察してみますが、駐車場の横に少しだけ杜が残っており、社のようなものも見えます。

木はかなり立派ですね。
開発せずにここだけわざと残してあるような風情ですが、もしわざと残しているのであれば理由を知りたいですね。
※帰宅後、城の図面などと突き合わせてみると、上の写真の杜は土塁跡ではないかと思いました。
16年前に来た時もこの辺を歩いていますが、今日はより詳しく見ることができて楽しいです。
ただ、歩いてみて疑問点もいろいろと浮かんできたので、時間があれば調べてみたいと思います。
⇒この続きはこちら
で今回また用事で行ったんですよね。笑えるのがあまり行った事ない吉良さんの関係ある場所からかなり遠くの葛西城近くまで同日移動していた事実もちょっと寒気しますよ。そう雨もどうにかもったんですよね。同じ日なら更に笑えますけど。青と赤と両方繋いだようにも思うんですよね。
討入りの大石さんと関係あるかは調べていませんので単純な偶然かもしれませんが。
でも葛西城は当時も気になりましたよ。で冨だけでも嬉しいのですが銅ってまた完璧なんですよ、個人的にも。
そんな事実あるんですね。9〜10世紀なら源氏さんの関係もありそうですよね。この辺りからおう少し東の方までどうも源氏さんは関東にもかなり関わっているんですよ、どうも。東京もとっても面白くなりそうです。少なくてもアノウという名字の戸籍にも関わりそうな一族関係していそうですから聖徳太子に時代穴穂部とも接点ありそうですしね。
それから最近富が付く坂とか塚とかくじとかそんな所ばかりに行ってるんですよね。祖母の関係で追ってる一族ともどう関係してるんですよ。あと現世では富やm冨が付くと助けたくなってしまうんですよね、なんでだか。中臣って中富って文字だったりして?鎌足養子に行ってそうだし、藤原藤太もどうも富と連動しちゃうんですよね。で千葉の柏かな?と思ったらまさかの埼玉ってのもかなりありそうで興味深いです。
私が行けない所の情報が入ってくるのは本当にありがたいんですよ、個人的に同時に経験出来る体験は一つですから。あと品川方面でお祭りがありましてそちらもまた鳥越も行きたかったんですけどどうも繋がっていそうに思いますね。富本銭って銅ですかね?
私の時代の歴史では和同開珎でしたけど、それよりもはやいまた製作途中のまで出ているんですよね。一回作る体験したんですけど、あれやっぱり銅の扱いのようにも思いましたよ。
この辺りと秩父と繋いでみますね。道が出てくるかも?そしてそこから葛西城も、本当個人的にありがたい情報です。地域の博物館には、実は国家的にも凄い物普通にあるんじゃないかな?
稲用さん本当凄いですね。
で道灌さんで言えば葛西城よりも東では千葉市川の真間がまた関連すると思います。手児奈さんと日蓮さん関係も面白くなりそうですよ。
銅印、超凄い情報です。
また藤太と将門もまた源氏と平氏も相当関わるようです。新しい歴史が関東で見えてくると思いますね。
世の中都合悪い事実は、無かった事にと文書では空白を作る事は出来ますよね。古代からの癖でしょうか?その癖はもう通用しなくならないと未来にも影響が出ます。
けど考古学はそれは無理ですよ、だって違う地の物がそこから出てきたらそれはありのままに解釈するしかないですから。オーパーツも複数あったら想定外とは言えないでしょうね。
この前ちょうど銅の屋根の修理やっていましたけどピンクゴールドでした。金としてもいいかも?でそれが緑のような青のような銅らしい色に変化していきます。
銅印もこれからあったものが無くなったりしないように守らないといけないでしょうし、万が一無くなったら都合悪いんだろうと深読みも出来るわけです。
志木市から出た事実は変わらない、本当にありがたい情報ですね。銅の加工技術にたけた民族がいた事は確かで素材がないとその技術が育つわけもないんです。
卑弥呼の貰った金印も銅印だったりして?ピンクゴールドならですけど、どこから貰ったのか?も素材があり技術がある所でしか作れないはず。自前で作ってたら笑えますよね。親魏倭王って魏と親しい倭の王として自国で作ってたと解釈する方が簡単に思ってしまいますよ。エリアは九州近畿でなくても日本だったらこの辺りも関係しますよね、きっと。
個人的には講演会でお話聞いて魏は当時日本と親しかったように思うんですよね、むしろリスペクトもされているし、日本から助けを求めたような事なかったっけ?五王の頃?
絹も日本産があったみたいですし、印鑑も日本製だったらみんなズッコケちゃいますね。
不都合な真実って実は超ヒントになりそうですね。
真実ならありのまま今から想定して準備したいものです。歴史も先入観祓っておいたらいい情報も入ってきそうですよね、今後楽しみです。