*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県前橋市総社町総社1607
2.諸元
3.探訪レポート
2015年5月4日(月)
この日の探訪箇所
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 光巌寺 → 宝塔山古墳 → 蛇穴山古墳 → 総社城跡 → 遠見山古墳 → 山王廃寺跡 → 上野国分尼寺跡 → 上野国分寺跡 → 妙見寺および妙見社 → 上野国府跡 → 蒼海城跡 → 宮鍋神社 → 大友神社 → 総社神社 → 石倉城跡 → 王山古墳 → 前橋城跡 → 前橋八幡
⇒光巌寺の前に訪れた総社愛宕山古墳はこちら
愛宕山古墳を後にして、天狗岩用水に架かる秋元橋を渡ります。
ここ総社の地には、秋元長朝が慶長6年(1601)に関ヶ原の戦功によって6千石(のちに1万)を賜り入部し、子の泰朝が寛永10年(1633)に甲斐国都留郡谷村に1万8千石で栄転するまで秋元氏2代の支配下にありました。
秋元氏はそのおりに天狗岩用水を掘削し、それによりこの周辺の農業生産率は上がり、現在でも総社町民は秋元氏の善政を偲んでいるようです。
きれいに澄んだ水が流れていますね。
長朝は越中守を称していたので、天狗岩用水は別名を越中堀といいます。
天狗岩用水は秋元氏がこの地を離れた後、代官伊奈忠次によってさらに延長され、領内2万7千石を潤わせました。
あぜ道を通ります。
お寺の本堂の屋根らしきものが見えました。
目的地としている光巌寺の屋根でしょう。
おや、神社がありますね。
説明板によると、この御霊神社は、光巌寺の鬼門に位置し、かつては天台宗の守護神である日枝神社がありましたが、明治元年(1868)の神仏分離令により新田町の熊谷稲荷に移転しました。
そして昭和27(1952)に、さきの大戦の戦死者の霊210柱を祀り御霊神社とし、社殿は戦前まで蛇穴山古墳の墳頂に建っていた泰安殿を解体移築したものです。
しかもこの土盛は古墳で、紅葉山(もみじやま)古墳と呼ばれています。
現在は四角く成形されていますが、元々は円墳だそうです。
境内の横っちょから入ってきてしまったので、鳥居から抜けます。
お、光巌寺(こうがんじ)が見えました。
立派な楼門です。
天台宗寺院、秋元山江月院光巌寺は、慶長12年(1607)に藩主秋元長朝により開基され、この楼門は文化年間(1804~1818)の建立です。
その左側には宝塔山古墳が見えますよ。
墳丘に取り付きたい気持ちを制して、まずは光巌寺の境内を散策してみましょう。
本堂。
山号は字の通り開基者秋元氏の名字から取り、江月院は長朝の院号から、寺号は長朝の母光巌院殿からとりました。
境内にはその秋元氏の廟所があります。
元三大師堂。
元三大師堂と薬師堂が並んでいます。
鐘楼。
プラプラと何となく建築物を見ていますが、元三大師堂・薬師堂・鐘楼は明和9年(1772)の建立ということで、大変貴重な建築物です。
あー、でも古墳が気になるよん。
それじゃあ、境内散策はこの辺で切り上げ、墳頂に登ってみましょう。
4.補足
秋葉山古墳について 2020年4月3日
総社古墳群と言うと大きな古墳ばかり思い浮かべますが、紅葉山古墳のような小円墳が周辺に多数存在したのか気になる所です。
2017年に刊行された『群馬県 古墳総覧』の分布図を見てみると、この限られたエリア内(総社古墳群の北支群)には、このときに探訪した著名な遠見山、二子山、宝塔山、蛇穴山、愛宕山以外には、湮滅してしまった稲荷山古墳(径33mの円墳)とこちらも湮滅した総社町7号古墳(径53尺の円墳)しかプロットされていません。
そのため、もしかすると秋葉山古墳は古墳である確証が得られていない可能性があり、このエリアは普通の群集墳が築造されるようなエリアではなく、上野国造家の特別に神聖な墓域であった可能性が高いです。
5.参考資料
・現地説明板
・『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
・『群馬県 古墳総覧』 群馬県教育委員会/編 2017年