日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

総社愛宕山古墳/総社古墳群|群馬県前橋市 ~総社古墳群の勢力が上毛野内でナンバーワンの地位に台頭してきたことを如実に示す古墳~

2020-08-29 11:10:49 | 歴史探訪


 

 総社愛宕山古墳は、総社古墳群最後の前方後円墳・二子山古墳の次に築造された一辺が60mの大型方墳で、家形石棺の採用などヤマト王権との強い結びつきを感じさせる古墳です。

到達容易
墳丘登頂可能
石室入室可能
本物の石棺を触れる
説明板あり

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県前橋市総社町植野351-1



現況


墳丘登頂可能
石室侵入可能(ちょっと頑張れば)

史跡指定


国指定史跡
史跡名:愛宕山古墳
指定日:昭和9年5月1日

出土遺物が見られる場所


総社歴史資料館にてパネル展示が見られる

 

2.諸元                             


築造時期


7世紀前半

墳丘


形状:方墳
墳丘長:一辺60m、高さ8.5m
段築:2段
葺石:
埴輪:

主体部


羨道と玄室からなる両袖型の2室構造で、玄室の長さは6.9m、幅は2.94m、高さは2.91m(現地説明板)
凝灰岩製刳抜式家形石棺

出土遺物



周堀


幅18m余

 

3.探訪レポート                         


2015年5月4日(月)



この日の探訪箇所
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 光巌寺 → 宝塔山古墳 → 蛇穴山古墳 → 総社城跡 → 遠見山古墳 → 山王廃寺跡 → 上野国分尼寺跡 → 上野国分寺跡 → 妙見寺および妙見社 → 上野国府跡 → 蒼海城跡 → 宮鍋神社 → 大友神社 → 総社神社 → 石倉城跡 → 王山古墳 → 前橋城跡 → 前橋八幡


 ⇒総社愛宕山古墳の前に訪れた総社二子山古墳はこちら

 さきほど総社二子山古墳の墳頂から見えた森が総社愛宕山古墳だと思いますので、そちらの方向に歩いてみます。

 ここですね。

 まずは北の方からの眺め。


 
 うーん、どちら側から回り込もうか。

 とりあえず東側に流れている天狗岩用水の方へ行ってみよう。

 坂を下り、すぐに橋を渡ります。

 あ、鯉のぼり!



 そうか、今日はもう5月4日ですね。

 少し用水沿いを歩き、階段で段丘を上がり、また橋を渡って南側に回り込みます。

 おっと、標柱を発見!



 古墳を見たところ、雑木林のようになっていて、ところどころに墓石が建っています。

 とりあえず墳頂を目指してみましょう。

 少し登るとひっそりと説明板が立っていました。



 もうちょっと目立つ場所に立てても良いような気がしますが、これはある意味、勇気を振り絞って墳丘に取りついた者だけが読めるプレミアムな説明板なのかもしれません。

 総社愛宕山古墳は、従来は径60mの円墳と考えられており、1971年に刊行された『前橋市史 第一巻』でもそう書かれているのですが、方墳との説が出てきて、『群馬県史』を編さんするに当たり、測量調査が実施されました。

 すると、一辺が約60m(説明板では56m)の大型方墳であることが分かったのです。

 群馬県内では首長級の方墳は珍しく、他に同じ総社古墳群でこれから訪ねようとしている宝塔山古墳と蛇穴山古墳、それに太田市の巖穴山古墳しかありません。

 6世紀の第3~4四半期に、さきほど訪れた二子山古墳墳が築造された頃は、まだ総社古墳群の勢力は他の周辺勢力から抜きに出る力はなかったのですが、その頃この地域の盟主であった綿貫観音山古墳の勢力は、その後威勢が急落し、7世紀に入った頃には、ここ総社古墳群の勢力が一気に力を増します。

 7世紀に入った段階では、畿内の有力支配者層はすでに方墳に移行しており、上野国内においては、結果的には総社古墳群の勢力のみ方墳を3代に渡り構築できたという事実もあり、律令国家が地方支配を進めて行く上で、上毛野地域においてはとくに総社古墳群の勢力がその中心となるようにヤマトから認められたことが良く分かります。

 ただし、よく上毛野の王というと、群馬県内のみならず、関東一円に勢力を張っていたと思われがちですが、考古学的にはそれを裏付けることはできず、5世紀に太田市に太田天神山古墳という東国ナンバーワンの巨大古墳が築かれた時でさえその力は関東一円に及んだわけではなく、一時的に上毛野内の諸氏からリーダーが推戴されただけであり、その後またすぐに上毛野地域は分裂状態になります。

 したがって、古墳時代はほぼずっと、群雄割拠な状態が続いたわけですが、7世紀に入りいよいよヤマトは地方政策の一環として、総社古墳群の勢力をとくに上毛野のリーダーとして選んで、権威付けや技術者の派遣などを通じて、それを推し進めて行きます。

 つまり、それをもってようやく上毛野は統合に向かい、なおかつ関東一円にもその威勢を示すことになるのです。

 さて、次に石室の開口部にやってきましたが・・・

 しまった!

 懐中電灯を忘れた!

 暗くて全然中が見えません。

 デジカメでフラッシュを焚いてなんとか石室内を撮影。 



 愛宕山古墳の石室は、全長9.3mで、うち玄室(棺を納める部屋)の長さは7m、幅は3m、高さは2.6mあります。

 といってもあまりピンと来ないかもしれませんが、群馬県内でも有数の大型石室なのです。

 そして設計には一尺が35cmの高麗尺が使用されています。

 石室内には凝灰岩でできた刳抜式の家形石棺が安置されたままになっています。

 家形石棺は、ヤマトの有力豪族層に採用されていることが多く、東国では大変珍しくて、関東と東北では群馬県をのぞくと栃木県に一例あるのみです。

 それだけこの総社古墳群の勢力はヤマトと密接な関係を持っていたということになりますね。

 『前橋市史 第一巻』によると、この石棺は凝灰岩でできていますが、愛宕山古墳の後に造られた宝塔山古墳の石棺はより硬い安山岩でできています。

 凝灰岩の方がはるかに加工がしやすく、当地方で築造されたより古い竪穴式石室を持つ古墳の石棺はほとんど凝灰岩製です。

 それと、石棺のこちら面に見える大穴は、盗掘の際に開けられてしまいました。

 それでは、同じく方墳の宝塔山古墳へ行ってみましょう。

2019年2月14日(木)


 クラブツーリズムにて総社古墳群を案内してきました。

 時期が真冬だったため、最初に訪れたときのように石室入口が雑草に覆われていることもなく、しゃがんで行けばなんとか石室内に入ることができたため、チャレンジングなお客様と共に内部を見てきました。

 石室内から振り返って入口を見ると、現在は入口がだいぶ狭くなってしまっているのが分かると思います。



 石棺です。



 中に入ると結構広くて、玄室の高さは2.6mということもあり、大人でも十分に立っていられます。



 『東国の雄 総社古墳群』によると、愛宕山古墳の石室の大きさは、残存値で全長が9.28m、玄室長は7.1mです。

 壁面の石は自然石を積み上げていますが、ある程度加工してから積み上げているようです。



 石室から出るときは、母の胎内から生まれ出る感覚を得られますよ。



 私は生まれ出た!

 この古墳に限らず、横穴式石室に入ったり墳丘の上に登ったりしたい場合は、冬に行くことをお勧めします。

 ただし、外観を楽しむのであれば、古墳によりけりですが、花の時期も良いですし、新緑の時期もまた良いですね。

 古墳はいつ行ってもその時期ならではの楽しみ方があるのです。

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『前橋市史 第一巻』 前橋市史編さん委員会/編 1976年
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『東国の雄 総社古墳群』 前橋市教育委員会/編 2017年
・「国指定文化財等データベース」 文化庁


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