蛇穴山(じゃけつざん)古墳は一辺が40mの方墳で、石室は両側壁面・奥壁・天井石の4面をそれぞれ巨大な1枚岩で造った精巧な物で、総社古墳群で最後の盟主墳として後世に「上毛野」の王の存在を伝えています。
到達容易
墳丘登頂可能
石室入室可能
簡単な説明板あり
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
群馬県前橋市総社町総社1549
現況
墳丘登頂可能
石室侵入可能
史跡指定
国指定史跡
史跡名:蛇穴山古墳
指定日:昭和49年12月23日
出土遺物が見られる場所
総社歴史資料館にてパネル展示が見られる
2.諸元
築造時期
7世紀後半
墳丘
形状:方墳
墳丘長:一辺40m、高さ12m
段築:3段
葺石:
埴輪:
主体部
出土遺物
周堀
3.探訪レポート
2015年5月4日(月)
この日の探訪箇所
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 光巌寺 → 宝塔山古墳 → 蛇穴山古墳 → 総社城跡 → 遠見山古墳 → 山王廃寺跡 → 上野国分尼寺跡 → 上野国分寺跡 → 妙見寺および妙見社 → 上野国府跡 → 蒼海城跡 → 宮鍋神社 → 大友神社 → 総社神社 → 石倉城跡 → 王山古墳 → 前橋城跡 → 前橋八幡
⇒蛇穴山古墳の前に訪れた宝塔山古墳はこちら
蛇穴山古墳は宝塔山古墳のすぐ隣のような位置なので、とくに迷うことなく向かうことができますが、路傍のスペースに「鐘楼旧跡」という石碑が立っているのを見つけました。
光巌寺の鐘楼は元々ここにあったということなんでしょうね。
ということは、どこもそうですが、光巌寺の往時の寺域はもっと広大だったということが分かります。
そしてすぐに蛇穴山古墳が。
南側に回ります。
おっと、期待できそうな石室開口部だ!
ここにも例の簡単な説明板があります。
イラストは素晴らしいのでもっと文字数を増やしてスペックを書いてくれれば完璧なんだけどな。
周溝跡。
といっても何も見えません。
それでは石室をのぞきます。
先ほど見た宝塔山古墳の石室は、羨道・前室・玄室の3部屋から構成されていましたが、こちらは家でいえば玄関外側にあたる前庭部分から中に入ると、羨道の代わりのようないたって短い通路があって、その奥はもう玄室です。
言ってみれば、ワンルームみたいなものです。
でも写真の通り、玄室の壁や天井は1枚岩なんですね。
左右の壁面は長さが3mもあります。
『群馬県史 資料編3 原始古代3』では、県内でもっとも精巧な石室と評しており、小さいながらもゴージャスな石室と言えます。
なお、玄室の奥に安置してあるのは石棺ではなく、棺を置く棺台です。
さて、石室から出ます。
古墳の東から南にかけては細い水路がめぐっているのですが、これは五千石用水と呼ばれています。
慶長12年(1607)に、天狗岩用水から引水され、領内の5000石に相当する範囲をカヴァーしたことからその名がついたとされていますが、実は天狗岩用水ができる前からすでに存在し、総社城の水堀に水を引く役目を担っていたともいわれています。
ところで、蛇穴山古墳は現地説明板の絵では基壇のようなものの上に単純に1段の墳丘があるように描かれていますが、実際の墳丘は北側がこのように2段になっています。
しかし、『群馬県史 資料編3 原始古代3』によると発掘調査の結果、少なくとも南側の石室開口部は3段築成だったことが分かっており、現在見られる墳丘の形はだいぶ改変されてしまっているようです。
総社古墳群はこの蛇穴山古墳の築造を最後に造営が終わります。
時代はすでに日本初の都城である藤原京が稼働するかしないかの時期で、律令国家はその初期ヴァージョンとしては完成していますから、そういう時期にこれだけの大きくて石室の立派な古墳を築いたということに驚きを禁じ得ません。
蛇穴山古墳を北から見ます。
すぐ隣には宝塔山古墳が見えます。
宝塔山は高さが12mありますから、やはりこう見ても高さがありますね。
そして2基の距離はこんなに近いのです。
さて、総社の古代に思いを馳せている状態から次は一気に時代を1000年近く進めて、近世の総社城跡を探りますよ。
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『戦国武将合戦事典』 峰岸純夫・片桐昭彦/編 2005年
・『東国の雄 総社古墳群』 前橋市教育委員会/編 2017年
・『群馬の古墳物語 上巻』 右島和夫/著 2018年
・「国指定文化財等データベース」 文化庁